11-⑧ 自己関心を無くす方法
<自己関心を無くす方法>(P278〜)
あなたは何事をも決定しない
自分に起こることについてまったくなにも気にしないとき、あなたは自由である。あなたは日常の出来事に乗って静かに運ばれている。それらがあなたにどういう影響をもつかなどについて一切の個人的関心がない。なにものもあなたを預わさない。好きだ嫌いだという境地ではない、抵抗する承認するという心境ではない。それはただ自然のままに流れる生き方である。
スーパーマインドの極意を把握している人、たぶんオランダの神秘思想家バルーク・スピノザのような人なら、こう指摘するであろう、「生きようとしてあがけばあがくほど、乏しくしか生きられないのだ。何をしているかが確かでなければという執心は薬てよ。あなたの内にあるリアルなものに身を委せよ。あなたの内のリアルなもの、それだけが確かなのだ。星が地上よりは遙かに高くまたたいているように、あなたはあなたを悩ませ苦しませるあらゆるものを超えて存在しているのだ。だがあなたはまずこのことに気づかなければならない。目を覚ますのだ!」あなたのために何が善いか何が悪いか、すべて何が正しいか何が間違っているかの最終判断は、条件づけられた心ではなされ得ない。習慣になずんだ心はそれ自体の混乱以外のなにものをも発見することができない。こうした心はいつも、刺激的興奮、エゴの満足感にもとづいてしか決断ができない。ということはそこではあらゆる決定が誤っているというととである。目覚めていなければ、何がよいかを決めるととができないし決める必要もない、なぜならどだいほんとうには知っていないのだから。それゆえ、われわれはただ、われわれが自分のやり方だと思いこんでいる方法から脱けでるだけでいい、そして最終判断は、常に狂いなく正しいところのスーパーマインドに委せればよい。
あなたはなにごとをも決定しないという理を悟るようになさい。いつも決定をくだすのは、その瞬間のはずみの、そのときたまたま支配的な欲望なのであって、それはけっしてトータルなあなたではないのだ。これで、あまりにしばしば聞かされる、「いまの瞬間わたしはこれが欲しい、だが次の瞬間にはあれが欲しいのです」という告白の謎が明らかになる。
あなた自身をどういたらいいかなど知らなくてもよい!としたらなんと幸福な人生であろうか!
このことをよく考えて欲しい。
生からのチャレンジに直面したとき、「わたしはどうしたらよいか分らない」という言葉には二つの全くニュアンスの違った言い方がある。一つは無益であり、他は平和である。
無益な言い方は、二つあるいは二つ以上の相矛盾する欲望の板挟みになったときの、「わたしはどうしたらよいか分らない」という言い訳である。この本当の意味は、「わたしは幾つかの選択に迷いどう決めてよいか分らない」ということである。しかし自由な人が「わたしがどうしたらよいか分らない」というとき、彼には苦しみや葛藤はない、もともと相矛盾する欲望というものがないからである。彼はどうしてよいか分る必要はない、なぜなら分るべきなにものもないからである。彼はすでに平和である。知らないということは彼には悩みではない、なぜなら起こることは何ごとであれ、すべてはよろしいと彼は悟っているからである。
われわれは、漂う後のような欲望をあれこれとつくることでではなく、すべての教えこまれた欲望を散らし、それを超えて泳ぐことによって、心から混乱を一掃するのである。こうして力泳すれば、秘教の導師たちが、「あなたは何も知らないときにあらゆるものを知っている」という言い方で暗示したすばらしい岸へ行き着くことができる。だから、ひたすらに力泳を続けるのだ、一つの勝利から次の勝利へと。もし求道の途中で出会う不快なものへ敢えて立向かっていくならば、その新しい岸辺には、敢えて立向かわなかったものたちの知り得ない、別の種類の快適さが発見できる。
それゆえ、ある霊的なもしくは心理的な真理に出会ったら、それを解釈しようとしてはいけない。
コメントはせず、新しい種類の花に出会ったときなんだかんだとは言わずただ黙って観察するようにただそれを観察する。ひとつの真囲に、あなたの判断に従っておまえはこうであろうと告げてはならない。真理をしてあなたに、それが何であるかを告げしめるべきだ、真理にのみ委せて、真理は、ものいわぬ自己の内にみいだされるのである。
目覚めはだんだん進んでいくと、電燈をスイッチひとつでせるように混乱を無くせる境地へまで達することができる。混乱は霊的な睡眠のひとつの産物にすぎないのだから、眠りを断ちさえすれば、自由はやってくる。
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