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訳者あとがき

訳者あとがき(P297〜)

スーパーマインドとはまた壮大な用語を造ったものである。マインド(心)といえば、何千年も使いなれている語だから誰にも分る。だが突きつめて考えてみるとやはり分らない。難問を凝縮したような客体であり主体である。哲学・科学・宗教が必死になって探究しているが、まだまだほんとうの正体は掴めていない。その分らないマインド(心)に、スーパーをつけたら尚分らなくなるではないか。だが著者はこの心なるものはどうしても宇宙的観念から見なければ悩むことができないとして、これを使ったという。との心なるもの、確かにコズミックのなかに入っている。これだけは疑うことができない。コズミックというと、この小さな惑星の人間どもを無限の遠くから、また顕微鏡的に直かに、見降し見詰めている絶対者の感じがする。われわれは、太陽を仰ぎ星を眺め、月に涙して、コズミックなものに憧れている。人間的存在のエッセンスである心は、通常の用語では充分象徴的にかつ直観的に表現できない。言葉を使うとすれば、スーパーマインドと叫んで直指するより他はないのだ。半年との本と取組んで、私はそう思った。

ふと玄関へいってみると、日めくりカレンダーがかかっている。「賞めよ讃えよ、神性が発揮される」と大きく書かれている。これだと私は膝を叩いた。スーパーマインドとは神性なのだ。ハワードはヴェーダンタ哲学の文献から引用して、それを巧みに、寓意的に表現しているー

同じ木に二羽の鳥がとまっている。一羽はいちばん高い枝に、他は下校にいる。上の鳥はあたりの様子を静かに平和に眺めながら停まっている。その黄金の羽根のとおりに、彼は荘厳華麗な姿で憩っている。

下の鳥は神経質に校から枝へとび移り、木の実の味みをしている。甘い実に出会うと興奮してにぎやかに尊るが、酸っぱい実にぶつかるとがっかりして沈みこんでしまう。この鳥はときどき見あげ、上の鳥の堂々たる態度に、漠然とではあるが感心する。神経症の鳥は上の鳥の不思議な静謐さの秘訣を知りたいと憧れるけれども、新しい実が目にとまるとすぐにそれへ注意をそらされて、静かさへの渇仰を忘れてしまう。

下の鳥は前後左右へ、上から下、下から上へと数分ごとに飛び移り、甘い実から酸っぱい実へ変わるたびに、上機嫌から失望へ、笑顔から泣き顔となる。甘い実だけを求めているうちに、彼は甘さの後では必ず普さがくると悟るようになる。彼がどう努めようと、っぱさは甘さにつづいてくる。彼は上を見上げ、平和そのものの鳥へ憧憬の眼をむけるが、すぐにまた強迫的にその狂気のような探求にもどってしまう。

しかしついに、彼は日一杯にひどく渋い実を食べて、もうとれ以上我慢できなくなるときが来る。危機が来たのだ。彼はいままでとはまったく違ったなにかを選ぶか、でなければ正気を失うしかない。で彼はおずおずと上へ上へと移り、平和な鳥のそばへそばへと近づいていく。

意腐なアプローチをつづけるうちに、ある時点で育費が起こる。下の鳥は、彼自身がるとからその上の鳥なのだと悟るのだ!彼にはただ分らなかっただけなのだ。幻想に曇らされて、彼は別々の二羽の鳥があると思っていたのだ。しかしいまは違う。一羽しかいないのだ、彼の統一された自己自身しかないのだと彼はいまにして知る。

その死にものぐるいの枝務りが催眠的幻想の中のものだといまにして分った、そして彼自身があの王者のような鳥だと知った彼は、いま興奮と悲欺を抜けだしている。彼はもはや彼自身の外には幸福を探さない。彼の真の自己が幸福そのものなのだ!

われわれの人生の目的はスーパーマインドを通して宇宙と一となることなのだ。ハワードも、読者のあなたも、訳者のわたしも、みなスーパーマインドをもっている。スーパーマインドは一即多的実体なのだ。これらの交流が愛である。百万人がもつ千億万億の悩みも不安も、スーパーマインドがいっとき隠れていて、われわれはそれに気づかず、偽りの、限定された自己像に捉われ、ときに動物的本能にのみ駆使されているからである。なんとすばらしい肌えではないか。汗牛充様も只ならぎる人生書も宗教書も、すべてことをめざして説いているのではないのか。われわれ人間努力の一切が、あらゆる文明文化が、スーパーマインドの実現への努力ではないのか。

最後に、出版事情により、三章を割愛してこのページ数にするしかなかった。原著者および読者のご諒承を得たい。先に掲げた、ハワードのヴェーダンタ哲学の引用は、この割愛ページから拾った珠玉である。

(一九八〇・十ー・十ー 川口正吉記)