3-⑦ 宇宙的真理に素直に驚きなさい
<宇宙的真理に素直に驚きなさい>
一切を更新することのできるあるものを人が受けとろうとするとき、いったい何がとれを咀止するのであろうか?根本的な原因は誤ったアイデンティティの感覚である。なぜなら人は、おれは善いおれは賢いという想像された自己像に生きている。それゆえ彼は、それらのまやかしを揺さぶる他人を誰かまわず怒って拒否する。ソクラテスは、彼の声を聞く人々について述懐している1人々からかれらの愛する愚劣さを奪いとってやると、いつもかれらは怒って噛みついてきたものだ。
人がその宇宙的求道に寒くのは、彼が彼自身に邪魔して、彼が求めるところの宇宙的な絶対真理の受容を不可能にしてしまうからである。彼は、真理をあるがままに受容するのでなく、真理の方で彼の条件づけられたアイディアに合致すべきだと主張する。まるで、花が青くなく赤いからといって蜜を採ることを拒む蜂のようなものである。
われわれは自己分裂のゆえに、真理を求め、かつ真理を嫌う。
オランダのコレルーという牧師が同国の無神論者バルーク・スピノザの逞しい思想に接するようになった。しかし、スピノザ哲学が自分の考えとは真向から対立するため、スピノザの著作もスピノザその人をも恐れ、敬遠した。にもかかわらず、その強烈な思想そのものに魅惑された牧師は、スピノザの伝記を書いた。混乱しているこの牧師は、スピノザのような世間の習俗や常識を外れた人間が私的生活ではどうしてあのような高貴な人生を送れるのか、どうしても理解できなかった。
人は〃クンダリニ"とよぶ彼の心のおかしな特性のために、高貴な生から彼自身をシャットアウトする。クンダリニ(kundalini)という語は古代サンスクリット語からきたもので、「幻想的想像力で思考する」つまり自分を購く意味だ。しかし"クンダリニ"は偽りの力である。いやそもそも力などではまったくない。ックンダリニ"の奴隷になっていた人が、自分こそ主人であると目覚めれば、
"クンダリニ"は無害のまま消えてしまう。
あなた自身を改革するための新しいアイディアを拒否したい気持が湧いたら、「わたしのいまのアハディアはどうなんだろう?りっぱに効力があるかしら?」と問うてみることだ。とれは一種のショック療法で、これであなたは新鮮な真理へのドアを開くことができるようになる。
あなたが”オドロキ島”とよばれる遠い楽園から、ことに住まないかと招きをうけたとしよう。あなたはこのアイディアがひどく気に入って、渡航の準備をする。その小さな島がどんなところだか知らないから、とにかくあなたは快適で安定した生活のために必要と思う、あらゆるものを用意する。
衣類、家具類、さらに自動車まで船に積んで出航する。
ところが着いてみると、ッオドロキ島”は文字どおりオドロキであった。道路はない、ただ美しい
椰子の木の並んだ小径がいくつかあるだけで、自動車などはいらないのだ。空気は澄んで香わしく新鮮そのものである。衣類は薄一枚で足りる。あなたは用意した持物一切が無用だと分る。この小島の現実はあなたの空想したビジョンとはまるで違っている。あなたは招待状をもう一度見ると、読み落としていた一行が眼についた。そのままの姿でいらっいかいと書いてある。
これがわれわれの問題である。われわれはあるがままの姿では行かず、こうでなければならぬと思う姿で行く。不注意にもそれが事実だとわれかれの思う無用のアイディア群で、われわれ自身をしばりあげる。
リアリティを新しい驚異たらしめるのではなく、リアリティがわれわれの習慣的な考え方に合致すべきだとわれわれは言い張る、かくて一切を台なしにしてしまうのである。
あなたと私はこうした誤ちは犯したくない。われわれは受容性を欲するのだ。われわれは、在るがままになりたいのだ。理論、立場、権力、虚栄、空想、幻想などはなしでいきたいのだ。一切を所有せずにいきたいのだ。それが一切をよろこばしい驚きにしてくれる。
ここにあなたが直ちに受容できる、従ってすぐに行動へ移れる、珠玉のアイディアを掲げておこうー
宇宙的理解の眼をとおして見るならば、あなたの過去に起こったどんな不幸も、まったく起こらなかったと同じことである。
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