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10-③ 安心と満足に至る道

<安心と満足に至る道>(P243〜✔︎)

-代替物にだまされる人が多すぎる

偽りの観念がどれほどダメージを与え得るとしても、われわれは決してそれらを恐れてはならない。

既にお分りのように、偽りの観念は不安の沃野(よくや)に繁茂(はんも)する。そこに為りの観念が人間の心を捉えてしまう仕掛けがある。それらはあなたを脅かして従わせようとする。だが、拒否するのだ、勇敢に。それらの網を切り開いていくのだ、一歩また一歩と。スーフィ教の神秘思想と共にこう宜言するのだ、「おれは偽りの衣をかぶって千里を行く、それはただこの旅の最後の一歩のところで真理を発見するためなのだ」と。

われわれは、われわれに降って湧いたものの奴隷にはならない。われわれが、われわれ自身のネガティブな反応の言うがままになるのは、われわれ自身にそれを許すときだけである。許す必要はない。他の人たちがどんなにひどくあなたを扱ったとしても、決して彼らへ注意を払ってはならない。

そうではなく、彼らの言ったこと、したことへのあなた自身の反応をよく調べるのだ、なんといってもそれはあなたの問題なのだから。虐待とは、あなたが虐待というレッテルをあるものに貼った瞬間から存在するのだ。そのため、あなたは、偽りの自分がつくりだすありたけの苦痛にみちた感情でこれに反応するのだ。

ここで第9章でのべた、人は何百という異なった自己から成り立っているというわれわれの発見を想いだすとよい。あるものは恩恵を施こすが、他は破壊的だ。だがこういう無数の自己のなかに、ひとつだけ特別の自己がある。それは、あらゆる出来事を、あたかもそれが起こることを望んでいたかのように、受けとる。この自己がスーパーマインドなのだ。このものは、どんなことにも驚かない、動転しない。あなたの目標は、この自己に栄養を与えて、より強いものに育てていくことだ。これが決まれば、あらゆるステップは燦々と陽のかがやく旅となる。

安心と満足をみいだす一つの方法は、安心と満足でないものはすべて、一貫してやり過ごしてしまうことだ。綿密に観察すれば、純粋の安心と満足は、われわれが以前にそう思っていたものではないことが発見される。それは自己満足ではなく、威力でも、刺激的興奮でも、肉体的活動でも、世俗的成功でもないことが分ってくる。贋物(にせもの)を棄てて本物が得られる。紛失したダイヤの指輪を庭に探すようなものだ。指輪のかたちをした細枝をみつけても、まさか本物のダイヤの指輪とは思わないだろう。キラキラしたガラスの破片をみつけても、探しているものだとは思わないだろう。で、結局、たったひとつのもの、実際のダイヤの指輪をみつけるまでは探しつづけるだろう。代替物でだまされる人が多すぎる。自分が代用品を受けいれているか否かはすぐに分る。自分が本当に幸福かどうか、自分に訊いてみればよい。

オリジナルな自己という庭のなかで、純粋そのものを探すのだ。もろもろの誤った、贋物のアイデイアという雑草のなかに、そのどこかに、われわれの求めているダイヤモンドは見つかる。見つけるまで探すのだ。

あなたの理解は、経済上のことであれ、友人関係であれ、健康についてであれ、あらゆる種類の不安を癒す。コロンブスの実験的な航海が、地球は平らであるという、誤った諸説を粉砕したのだ。スーパーマインドによるあなたの航海は、偽りのものを背後へ斥け(しりぞけ)、ある新しい世界を啓示してくれる。

結合(コネクティング)とでも呼ぶべき方法を使うとよい。たとえば、なんでもいい、あなたが克服したいものをひとつだけ取りあげてみる。不安でもいいし、短気でもいいし、内気でもいい。それを、「スーパーマインド』でみつけた、いろいろのアイディアに結びつけてみるのだ。たとえば内気なら、内気というのは偽りの自己の一部であって、まったく不必要なものであり、それに気づけば、新しいかたちの大胆さが得られる等々といった発見である。