4-⑧ 巡礼者は進む
<巡礼者は進む>
-驚異の世界を垣間見て
ジョン・バンヤンの『天路歴程』は面白い読み物であると同時に霊的・心理的洞察につらぬかれた古典文学である。この物語は、一切を薬てて危険な旅立ちをし、美の都”へ着くクリスチャンという人の冒険の話である。彼は、性格にマッチした名をもついろいろの変な人々に出会う。たとえばス
1パースティション(迷信)、鶴善的なトーカティブ(饒舌家)、おそろしいジャイアント・ディスペ
ア(巨きな絶望)など。彼はまた歯難の丘"屈辱の谷""自惚れの国"などにぶつかる。
だが敢なとの巡礼者は着実に進む。すとしずつ、ひとつひとつ、障碍は彼の背後に落ち去っていく。幾多の恐怖、失敗にもかかわらず、彼は挫けずに旅をつづけ、ついに夫の都"に着く。
この寓意物語では、苦難と危機とはクリスチャン自身の内なる心理状態を暗示している。バンヤンは、あらゆる宇宙巡礼者がいかに敢に旅立ちをし、内なるネガティブなものを克服しなければならないか、そして内なる洞察へと到らなければならないかを示そうとしているのだ。
スーパーマインドの採求を志すわれわれの理解を助けるため、ここにクリスチャンの経験した二つの冒険を見てみよう。
クリスチャンとその道伴れのホープフル(有望)とは、ある川べりにんで、打ちひしがれている。この道は荒れてごつごつしていた。二人はもっとらくな径はないかと思った。見回わすと、ある牧場と平行して走っている小径が眼にとまった。その径が気にいって、クリスチャンはホープフルを説き伏せて、この径をいっしょにいこうと言った。ホープフルはこんな径をいったんでは迷ってしまうのではないかと顔を曇らせたが、クリスチャンは自たっぷりに、すべてうまく行くと予言した。
小径は初めこそ歩きやすかったが、そのうちにだんだん唆くなってきた。それもその筈、間違った経だったのだ。嵐のなかで二人は径に迷い、転びつまろびつ術徨ううちに、ようやく避難小屋をみつけ、そこで眠った。翌朝、さらに悲しいことが起こった。二人はジャイアント・ディスペアに捕まり、ダウティング城(疑いの城)へ幽閉された。
ここで二人はあれこれとじっくり思考を巡らす。クリスチャンは真実の径をてて、楽な径と見えた小径を採った自分の愚かさを認める。そしていま、彼は彼自身の愚行から逃れて物事を正しく遂行しようと決心する。彼の衣服のなかに、プロミス(約束)という名の鍵を見つけ、彼は牢獄のとびらを開ける。こうして再び彼とホープフルは、まっすぐに美の都"へ面を向けて進むことになる。
とするとこれは、あらゆる霊的な巡礼の旅が成功するという示唆に富む物語である。われわれの間違いによって、われわれは心理的な牢獄へ投げまれる。だが内なる鍵によって、われわれはこの牢獄を脱出し、巡礼の旅を続けるのである。
もうひとつの冒険は、ディレクタブル・マウンテンズ(愉しい山)で起こる。クリスチャンとホープフルはナレッジ(知識)、エクスペリエンス(経験)、ウォッチフル(見張っている)、シンシア(真摯な)という名の四人の羊飼いに出会う。巡礼者二人は、どうしてこんなに遠くまで来れたのですか、他の巡礼者はみな失敗しているのに、と訊かれる。嬉しげに事のあらましを伝えると、二人はどうぞ泊って憩んでいって下さいといわれる。翌朝二人はクリアー(澄んでいる)という名の丘の上へ案内された。特殊な望遠鏡を借りて、二人は遠くに拡がる驚異の世界をおぼろげながら眺めることができた。元気づき、力が増して、クリスチャンとホープフルは親切な羊飼いたちに別れをつげ、更に旅をつづけていった。
示唆されているとおり、どんな辛抱づよい巡礼者も休養を受けいれ、驚異の世界を垣間見て、愉快に旅をつづけていくのである。
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