1-① 第一章の要点
《第1章の要点》(P15〜✔︎)
《第1章の要点》(P15〜✔︎) 1だれでもその人の中に自然に存在するスーパーマインドの自由と平安とに目覚めることができる 2スーパーマインドは通常の条件づけられた思考のはるか上方で作用している 3スーパーマインドでの思考だけが、実際的な生き方を示してくれる 4あなたの内的な世界があなたの外部世界を決める 5真の幸福のために、あなたの内的な世界を優先させよ 6人生の大いなる目的は宇宙的真理に目覚めることである 7あなたは、あなたの本来の平静さとやすらぎとへ還ることができる 8あなたの内的な完全さを他人のために犠牲にするな 9われわれは単なる条件づけられた知識を超えて霊的な洞察へと進まなければならない 10真の宇宙的な導きがあなた自身の内部から湧き起こるのに委(まか)せよ むかしむかし、ある美しい山脈にタカたちが群れをなして棲んでいた。タカたちは森や渓流でふんだんに餌をみつけ、なんの心配もなく幸せに暮していた。毎日彼らは高く高く大空を翔びまわり、平和で愉しかった。 ところで山から下の乾燥した草原には、狡智(こうち)にたけたカラスの一群が棲んでいた。カラスどもは商売をしており、品質の悪いとうもろとし栽培に、お金をつぎこんでいた。いい顧客をさがしているうちに、空高く翔ぶタカに目をつけた。 「やつらにとうもろこしを売ってやれ」ーカラスどもは売りこみ作戦を練りながら、気勢をあげた。 「ピカピカの袋にとうもろこしをつめこむんだ」と一羽のカラスがいった。 「タカどもをおれたちに頼らずには生きていけないようにしつけるんだ」ともう一羽がいった。するとさらにもう一羽の、とうもろこし売りに成功したことのあるカラスがこう提案した。 「いちばん大事なことは、おれたちのとうもろこしが絶対の必需品だということをタカどもに信じこませることだよ。とうもろこしがなくては愛がなくて、淋しくて、途方に暮れてしまうと説得するんだ。まずやつらに、罪の意識を詰めこむことだ。おれたちがとうもろこしを作っていることを知らなかったなんて、なんて間抜けだったろうと、やつらに罪の意識をもたせさえすればいい。それでもう、やつらはこっちのものだ!」 一方、タカたちは知性はあったのだが、やや思慮を欠いていた。最初こそ慎重に近づきはしたものの、いかにも立派なとうもろこしの外観に魅せられてしまった。それに、とうもろこしがあれば、食糧にする獲物を獲るという苦労がなくなるという魅力もあった。 タカたちは次第に高度を下げてきて、とうもろこし畑に多数が降り立つようになった。飛翔時間が減れば減るだけ、常時翔んでいるといった感覚は薄らいでくる。翼の力も弱くなり、タカたちはぎごちなく地面を飛びあるくようになった。するとあちこち飛びあるくタカ同士が衝突する。喧嘩が起こる。 だが一羽の眼力の鋭いタカがいた、眼が利くから洞察力も並外れていた。このタカは近頃の集団行動全体にどこか間違ったところがあると感じ始めた。それに、とうもろこしの味が変だという事実は動かしようもなかった。そこでこのタカは仲間たちに、こんなところに住まず、山へ帰ろうと説きにかかった。売り手のカラスどもは、このなタカを、人騒がせな奴だと嘲(あざけ)った。タカの仲間はみんなカラスどもの言を信じ、このタカを疎外した。 こうしてカラスはますますとうもろこしの販売量をふやし、タカはひたすらにとうもろこしを嚥(の)みくだしていった。すでに当然のことだが、かつて悠々と高く天翔(あまが)けった鳥類の王者のあいだに妙なことが起こっていた。不平不満が多くなった。みんな神経質に苛立ってきた。寂寥(せきりょう)、冷淡、自己喪失などで沈みがちになった。どのタカも、ときどき山のなかの家を偲んだが、故郷へ還る方法は忘れてしまっていた。こうして彼らは、なにかよいことが起こらないかと空しい妄想を抱きながら、不機嫌にその日その日を過ごしていた。 例の明哲なタカは、まわりのすべてに厭気(いやけ)がさしてきて、自分自身を慎重に調べてみた。彼は自分の翼に気づいて、拡げてみた。なんと、りっぱに翼は動くではないか!タカは翔びたって山へもどった。そして夜明けから日没まで、彼はなんの煩(わずら)いもなく、幸せそのものとなり、彼自身の世界の空を縦横に翔びまわった。 さてこれが、どんな人間も、一切の状況にうんざりしてきた場合、彼自身の天来自然の自由と幸福の世界へ翔んで帰れるのだという譬(たと)えかつぼう話であることはいうまでもない。本書、『スーパーマインド』はもっぱらこのことを明かにしようとする試みなのである。 本書で明らかにしようとする、この高次の力(the Higher Force)を一語で示すことが必要と思い、私はこれをスーパーマインドと称ぶことにする。 スーパーマインドの定義はごく簡単である。それは条件づけられた人間思考を超えた心的機能といってよかろう。覚醒、意識、秘教的思考など、どれもスーパーマインドと同一のものを指す。東洋のある神秘思想家が"沈黙している心”とよび、新約聖書が”内なる天国"とよぶものも同じことを意味している。それは、あなたの"真の自己”である。空が地の上にあるとおなじく、通常の心を超えた高いところにある、どんな人間の内部にもそなわっている力、それがスーパーマインドである。 ところでスーパーマインドの境地は到底言葉では記述できない。個々の求道者が体験する以外にはない。しいて説明するとすれば、それは何々ではないといって裏側から説明するしかあるまい。スーパーマインド、それは条件づけられた心ではない。これははっきりといえる。スーパーマインドはあるゆるネガティブな条件づけから自由である。それは、怖れをもたない、痛みにみちた渇望をもたない、疑惑をもたない。それは人生を成功させるために知らねばならぬものすべてを知っている。それは幸福の境地である。 条件づけられた心とは、われわれが産声をあげて以来ずっと影響されつづけ形づくられてきたわれわれの一部である。それは、生後に外部から吹きこまれた意見、信条、自己矛盾、機械的反応などの団塊であって、それらは寄ってたかってわれわれをトラブルにおとしいれる。条件づけられた心は、人間の基本的な自己を表わすものではない。それゆえ、人はそれを絶ちきることができるし、また絶ちきらなければならない。 われわれの日常的な心はいつでも新しい生の探究へ出発することができる。だが遅かれ早かれ、われわれは日常的な心を超えてスーパーマインドに達しなければならない。 さてここで、われわれは、霊的求道の巡礼へ旅立とうとする出発点で待ちかまえている、ややこしい陥穽(かんせい)にぶつかるおそれを知らねばならない。それは、条件づけられた心でも立派に真実とリアリティを発見できるといった陽気な楽観論である。だがおよそ不可能なことだ!日常的な心は、条件づけられているとはいえ、柱につながれたコリー犬みたいに、その活動がきびしく限られているのである。 通常の心はもろもろの事実の記憶貯蔵から成りたっている。それは古ぼけた、習慣的な生き方、考え方しか知らない。もちろんこれはこれで、ビジネスとか料理とかには有効かつ必要な知識である。 そういった仕事は事実の記憶にたよらざるを得ないからである。 しかし、霊的な世界へ入るのに条件づけられた心を使えば、はじめは成功するかに思われるが、必ずや失敗に終る。純粋に霊的であることは、未知なる世界、条件づけられていない世界へ入りこむ意味なのだから、条件づけられた心にたよる求道者の多くが挫折するのもムリはない。彼らはリアリティの未知の神秘性におじけづいて無意識に抵抗する。でなければ、聞きなれた言葉やそこらの権威と称するものの教説に惹かれ、それらの誤った安定感を選ぶ。 繰り返すが、スーパーマインドは記憶庫にいれられた観念群、霊的な問題をもふくめて、それらの貯蔵されたアイディアの団塊とは無縁である。もしわれわれが霊的な事柄について誤っているならば、たとえ1ダースの学位をもっていても、誤っているのである。 かくてわれわれは、スーパーマインドの本質について想像上の億測を控えねばならないという、重要な原理に達する。想像上の憶測は古い心から湧いてくるもので、枠組は異なるとしても、同様に古ぼけた憶測をもうひとつ産みだすだけである。われわれはただ見たいというだけでものを見るという態度は戒めなければならない。 訪れてみたいある田園地方についてその性質を予断しても始まらないように、スーパーマインドについてはいかなる憶測も控えるべきである。まさか、その田園に向かって、かくあるべきだとあなたは命じまい。田園の新しさ、その自然美があなたの魂を洗ってくれることをこそあなたは望むであろう。スーパーマインドに対しても同じ態度で接すべきである。 スーパーマインドはどの人の内部にも存在する。ただ人は眠っており、その存在を知らないだけだ。われわれの、この地上における唯一無二の務めは、このスーパーマインドの匿(かく)された奇蹟的な力に目覚めることなのである。
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