2-④ われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか
<われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか>(P48〜)✔︎
人間が善あるいは悪であることは不可能だ
心の動きを理解する度合に応じて人生は内部清掃される。人間思考は物事を比較するプロセスといえる。日常の次元では比較は有用である。家を買うとき、われわれは数軒の家を比較し、もっとも適したものを選ぶ。
だがあなたの内的な生という場所では比較の場所がない。あることを良いと呼ぶなら、その反対を悪いと呼ばなければならない。こうなると、悪いものがあなたのところへ来るとあなたは悩む。明るい手紙がくれば、あなたはこれは良いという。そして手紙がこないと、悪いと感じる。肉体の若さを感じて上機嫌になるあなたは、老化という想念につきあたれば憂鬱になろう。
善があるところには悪がなければならない。(陸王之学)
わたしたちの思考がこうした両極性という痛苦にみちたもので左右されてはならない。わたしたちの思考はスーパーマインドの自覚から発してくるものでなければならない。わたしたちは、人間思考がつくりだした善と悪の二つを超えて進まなければならない。超えた先に、新しい善がみいだされるのである。
善悪の両極性から考えられることは霊的な催眠という状態である。この眠りの状態では、人は自分が善いと思うものでありたいと努め、悪いと思うものを避けることで、彼自身を引き裂く。しかし人間が善あるいは悪であることは不可能なのだ。なぜならわれわれ人間の本性には善も悪もないからだ。あるものはただひとつ宇宙的な善性のみである!すべて真の宗教はこれを教える、だがこれを悟る人は少ない。
これを悟るとはなんというありがたい啓示であろうか!それは、あなた自身の思いこんでいる悪について、あなたはいささかも悪いと感じてはならないという意味だからである。思いこんでいる悪こそ悪を恒久化(こうきゅうか)するのだ。悪への恐れとは、あなたがあなた自身を悪と同一視することだ。つまり、あなたがあなた自身の悪だ、とあなたが見なしているというだけの意味なのだ。あなたの本性に関するかぎり、あなたは善でも悪でもない。だがこのことは、その秘教的な意味が分るまで、徹底的に探究されなくてはならない。次の問答を聴いてほしいー
Qこの原理が、友人関係、社会関係といった実際の状況にどう適用されるのでしょうか?
A対立物に分けて考える習慣から解放されれば、そうしたコトバの通常の意味での、誰かを受けいれるとか拒否するとかということはなくなります。拒否に伴う孤独感から解放されます。他の人々とのつき合いから屢々(しばしば)生してくる葛藤や乾業から自由となります。こうなると、誰をも受けいれるという、まったく新しい質の受容性がでてきます。これが純粋の愛というものなのです。
不幸の主たる原因は、私が心的映画と称している心理作用である。心的映画は想像力を誤用する結果である。どうしてそうなるのか、あなたにも容易に分ろう。あなたが誰かとのつきあいで、ひどく痛ましい経験をもったとする、そして繰りかえしこの経験を心に想い浮かべる。あなたは、あなたの言ったこと、彼が為したことを視覚化する、そのときどうあなたが感じたかを想いだす。それが恐ろしい光景であればあるほど、あなたは夜となく昼となくこのフィルムを繰りかえして頭の中へ映しださずにはいられなくなる。まるで恐怖映画を上映中の劇場に閉じこめられたようなものだ。
ここから脱けだすには、あなたが心的映画を映写しているのだと気づくことだ。このフィルム映写という作用が、あなたの心を機械的に呪縛していることに気づくことだ。そして、熟慮(じゅくりょ)した上で、断乎(だんこ)としてフィルム上映をやめることだ。大きく頭を振って、フィルムを拒否する。さあ、そこで、ちょいと視線をまっすぐに向ける。あなたの苦痛はどうなった?もうそこにはないはずである。霧散(むさん)したのだ。あなたはいま、なにか偉いことを成し遂げたのである。あなたは、自力でフィルムを消し、その暴君のような拷問を終らすことができることを証明したのだ。あなたは自由なのだ、いま直ちに自由なのだ。
この方法を自分で試してみなさい。最初はごく一秒の何分の一というほどの短時間の成功だとしても、とにかく完全に成功したのである。小さな成功が可能だと分れば、もちろん大きな成功へとよろこび進むことができる。
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