2-② 人間の主たる幻想
<人間の主たる幻想>(P43〜✔︎)
-誤った自己感覚が妄想を産む
古代の東洋から伝わった寓話に、羊の大群を所有した金持ちで邪悪な魔法使いというのがある。金のかかる柵をつくるのはいや、また牧童を雇うのもご免という彼は巧妙な工夫をめぐらせた。彼は羊をみんな催眠にかけ、羊どものアイデンティティについてさまざまなウソを教えこんだ。一頭の羊はライオン、もう一頭はワシ、等々と思いこませた。更に催眠術をかけて、彼が羊どもにすることはすべて羊どものためで、彼を信じるかぎり、決して危険はないと説いた。バカな羊どもはこうして奸智(かんち)にたけた魔法使いの利己目的に奉仕したというのである。
人間も同様、催眠状態に陥っている。幻想は自分のためだと信じこんでいるばかりか、自分が催眠術にかかっているとはつゆ思わない。
人間は夢をみている間はそれらが夢であることを知らないのだ。(荘子)
人間の主たる幻想は、誤った自己感覚である。これがその他もろもろの妄想を産む。人はおれはこうだと思いこんでいるようなものではない。スコットランドの哲学者、デーヴィッド・ヒューム(一七一一〜七六)は、「われわれが人間の心のせいにしているアイデンティティは仮構のそれである」と指摘している。この考えはぜひとも把握しなければならない重要テーマだから、本書でも繰りかえし採りあげるが、ここ暫くは次のようにだけ言っておこう。
この獲得され工夫されたアイデンティティ、この誤った"わたくし"という感情を放棄することを恐れてはならないと。
この放棄は頭痛を棄てるようなものだ。想像上の"わたくし"は正に大いなる頭痛なのである。
自分は自分がこうだと思っているような人格ではないと疑い始めると、最初のうちはなにか変な胸さわぎがしてこよう。それは無視せよ、なぜならこの不安感を呼びだすのが、偽りの自己のはかり知ることのできないトリックなのだから。偽りの自己は、あなたの迷惑は顧みずに、そのイカサマ師的存在に飽くまでもしがみついていたがるのだ。じっくりと、辛抱づよく、この懐疑のかもしだす不安と動揺に耐えるよりしようがない。そのうちにあなたはもうひとつの異なった、大いなる境地へと進んでいく。それは理解という境地である。これが勝利でなくてなんであろう。
かくて議論の余地なく、次のことが帰結される。おのれの理解を正しく使うものは悲哀のとりことはなり得ないのである。(バルーク・スピノザ)
ふつう惰性的に観念されているような自己自身というようなものはないのだから、人間の強さ弱さ、賢さ愚かさ、成功敗北、善悪、その他こうした両極性の属性というものもまた、ないのだ。なにものもわれわれに属しはしない。すべては神に、スーパーマインドに、あるいは名前などどう称んでもよい、要するに窮極(きゅうきょく)的リアリティに属しているのである。
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