6-② 失敗なるものは存在しない
<失敗なるものは存在しない>
-成功も失敗もたんなる観念にすぎない
失敗の感情は無用であり不必要である。その正体は、われわれが次のことを知るとき、明らかになる
一、失敗の感情はわれわれの内部にあり、外部世界にはない。
二、それはそれ自身では力ももたず意味もない、われわれが不注意にそう思っているだけである。
私が、自の隣りにあるお化け屋敷にいるとしよう。暗くて気味悪く、おそろしい。私は闇が嫌いだから、棒で闇を叩く。だがそれで灯りが点くだろうか?点かない。私は無駄な戦いはやめて、自分の家の燈火の下へ入らなければならない。
失敗もこれと同じだ。昏さと幻想というお化け屋敷にいるかぎり、私は常に自己先を感じるだろう。だが自分の家へもどれば、灯があり煖炉がある。
そこで、アイディアとなる。私がそのお化け屋敷にいたとき、闇を打っても取り除けなかったからといって、自分自身を失敗者と感じるべきだろうか?ノウだ。私の隣人たちが私を失敗者と呼ぶだろうか?ノウだ。言葉はなんの意味ももたない。お化け屋敷で私が成功しようと失敗しようと私の仕事ではなかったのだ。私の為すべきことはただそこを脱して家へ帰ることだけであった。
この意味がお分りだろうか?
あなたがある出来事ないし状況を失敗と呼ばないかぎり、それはあなたにとって失敗ではない。ということは、その出来事にしろ状況にしろ、それが他人をどう悩ますかに関係なく、いささかもあなを預わすことはできない。そこでわれわれは、なぜわれわれがあるものを失敗と呼ぶかを調べてみなければならない。それは、われわれがそれらをわれわれ自身と結びつけて考えてしまっているからだ。われわれはそれらがわれわれにお金かメダルをくれればいいがと願う、そしてわれわれが自分自身を金持だ有名人だと思い描ければいいと思う。だがすべては空しい。たとえお金やメダルを得たとしても、われわれの真の自己に対して、何も寄与したことにもならない。
人がいちばん恐れることは、自分がまったく無価値だということへの恐怖である。だから彼は彼自身を成功という観念に結びつける。自分を成功者と呼びたいからだ。しかし成功も、はたまた失敗もたんなる観念にすぎないから、彼は永久に失意から浮かびあがることができない。難かしく聞こえるかもしれないが、われわれは自分自身についての想像上の観念を一切来てねばならない。われわれの空想、幻想、想像を超えたところに、われわれの真に欲するものがある。これが充分に理解されたとき、
人生はもはやミステリーでも、悲惨でもない。フランソワ・フェノロン(豚2対9、場。職
が、われわれが自分自身を乗てれば来てるほど、われわれはより大きな平和をみいだす、と書いたとき、彼はこのことを見抜いていた。
このことをテストしてみよう。ここに、あなたがなんら関心をもっていないプロジェクトのことを考えてみよう。たとえば科学者になるという計画、そんなものにあなたは全然関心がないとする。この計画の成否があなたに心配の種子になるだろうか?ノウである。われわれがわれわれ自身を成功失敗に関わらせるのは、自分にダメージを与える自己関心の場合だけだ。だから自由であるためには、あらゆる有害な自己関心は薬てなければならないのである。
といってこれは、あなたが豊かな生活の資を稼ぐことができないとか、人生における通常の事柄をりっぱに遂行していくことができないとかいう意味ではない。事実あなたは日常的なことはずっと上手にやっていけるだろう、なぜならあなたはどのようなかたちにしろ失敗ということには頂わされないからである。あなたは、内的葛藤なしに、ただ自分のやることをやっている。
おかしなことに、有害な自己関心がなければ、あらゆることに関心が湧き、しかも何ものにも囚われない。ちょうど、大海を好きなように航行し、好む港に立ち寄り、また気が向いたときにいつでもそこを離れる気ままな船のようなものである。
No Comments