10-⑧ あなた自身を喜ばす生き方
<あなた自身を喜ばす生き方>(P255〜✔︎)
-自己を喜ばす人は解放された人である
自分がどれほど自分自身を喜ばさないような生き方をしているかを知ったら、誰でもショックをうけよう。これは大きな問題だ。彼は自分の一日一日が、苦痛への無意識的な奴隷状態のうちに、自分で必要なことと勘違いしている偽りの願望への奉仕に、あまたの懐疑の海に、欲しはしない旧套(きゅうとう)と習慣への拘泥(こうでい)に、費されつつあるのを悟らない。これらのネガティブなものすべてが、あまりに彼に身近なため、彼はこれ以外のどんな境地があるのかさえ、考えることもできない。こうして彼は、絶望と秘かな反抗とを撚り(より)あわせた彼自身の鉄鎖(てっさ)にくくりつけられている。
しかしながら、これが分ることのショックはまた幸福な啓示でもある。われわれがいまいる道への覚醒は、この道を変えることができる。スーパーマインドから生きている人は、彼自身を喜ばす生き方をしている。彼の内なる王国以外になにものにも依存することのない彼に対しては、あなたは何ものをも与えることができず、何ものをも彼から取り去ることはできない。彼は賞讃にも非難にもまったく無関心である。
彼は彼自身を喜ばすために生きている。しかしこれは想像されるような、利己的な生き方ではない。全然逆だ。これこそ雅量(がりょう)なのだ。唯一の真の雅量なのだ。自己を喜ばす人は、解放された人であり、他の人々に至高のギフトを贈る。即ち新しい生き方を経験するという招きがそれである。
あなたは自分自身のことを霊的な求道者だと思う必要はない。霊的な人、宗教心の篤い人という自己イメージをたずさえて生活するというのは骨の折れる重荷である。人は、霊的であるとは何を意味するかなどという条件づけられた観念をまったく抱かないとき、純粋に霊的なのである。リアルであることが即ち霊的であるということだ。ネコが正常なのは、誰もこのネコにお前はトラでなければならぬといった神経症的な観念を植えつけないからである。
インドの悟達(ごたつ)した導師、シュリ・ラマクリシュナが面白い譬(たとえ)話をしている。数人の男がマンゴの林に入って枝と葉を調べた。だがもう一人別の男はずっと賢かった。彼はマンゴの実を食べてみたのだ。これこそわれわれのしなくてはならないところだ。われわれは、ポイントを外れた神学で心身を擦り減らしてはならない。秘教的な話題を際限なくあげつらって貴重な時間を潰してはならない。われわれは果実そのものを食べなければならない。
次の霊的法則を銘記し、力づけられるとよい。ひとつの宇宙的真実は、それがわれわれを畏怖(いふ)させることが深ければ深いほど、その治癒力は大きい。もしわれわれがこの事実を避けたり抵抗したりはせずに、この事実に勇敢に立ち向かうとき、この霊的法則がわれわれを全き(ぜんき)人間となすのだ。たとえば、自己観察でわれわれの内部にある嫉妬心が露呈されたとせよ。これはひどく不愉快なことだから、われわれは顔をそむけ、否認したくなる。だが、もし単純にこの嫉妬を直視し、嫉妬を本質的な自己の一部とは見ず、単にひとつの獲得された習癖と見るならば、われわれは嫉妬心の呪縛を弱めることができる。
自己覚醒は闇を払う魔法の光である。
進歩をするとはあなたが必ず人生の揺れを表面的な冷静さで受けとめることを意味しない。ほとんどのケースでいえることは、危機に際して冷静でいるかに見える人々が内部では痛烈なショックを受けており、ただ静寂の外観を呈しているだけなのである。われわれが本当はどんなに困っているかを知り、生がわれわれをその好きなようにゆさぶるにまかせ、しかしながら「わたくし」というフィーリングをいささかも見失うことなくゆさぶるにまかせる、これでわれわれは進歩するのである。あなたはゆさぶられることはあり得ない。条件づけられた「わたくし」だけが傷つけられるに過ぎない。
正しく生きるには、まずフルに生きなければならない。あなたは勇気をもって、あらゆる出来事に、あらゆる人に、あなた自身をさらけださなければならない、あなたの現在の信念に何が起こるかを知ることなく、もしくは顧慮することなくそうしなければならない。防衛的態度がフルに生きる機会を妨げる、それこそがあなたを自由にするというのに。自分の防衛的態度こそ自分の城なのだと思っている人は、本当は、牢獄のなかにいるのだ。彼の城は、彼が思いきってドラゴンどもと出会い斬り棄てようと決意したときに遂に見出されるのである。
あなたが前に喧嘩した友人をなんとなく避けるとすれば、あなたはやはり彼を怖わがっているのだ。なんと言おうか、どういう態度でいこうかなどと予め考えることない、その友人と会う気持になっているとすれば、あなたは恐れを打ち破っているのである。
自分自身を喜ばすように生きるとは、日常的に湧いてくるあらゆる欲望を満足させるということではない。非常な違和感をおぼえるアイディアではあるが、これをまずなんとかして把握しなければならない。もともとわれわれは満足の伴わないことをするのを怖れるからである。われわれはすべて満足はわれわれを益する(えきする)と錯覚する。この錯覚はきわめて強力であって、われわれはほんとうは有害な欲望をなんとか満足させようと頑張る、そして欲望の満足により自分が破壊されるのだ!
他の人々に、こちらを満足させるような振舞いをさせたいという誰にでもある欲望をとりあげてみよう。こちらを満足させるとは、たとえば相手にこちらを尊敬してほしいということだ。ところが相手が、そうした態度にでない場合、われわれはひどく動揺する。なぜか?彼らの不遜(ふそん)そのものが原因ではない。われわれの、彼らがわれわれを高く評価すべきであるという欲望=強要が満足されないからである。われわれが他人に彼らの好きなように振舞うことを許すならば、われわれは自由なのだ。もはやわれわれ自身の欲望の奴隷ではなくなるのだ。
われわれが満ち足りているならば、他の人々がわれわれをどう扱おうと構わないではないか。いや、まったく構わないはずだ。森の中を翔ぶ鳥は、木の影に煩(わずら)わされるだろうか?
偽りの自己感覚という、この自由な生への敵をもう一度吟味してみよう。
人はその真実の本性から生きてはいない。彼は、彼自身についての何ダースもの夢幻(むげん)的な自己像から生きている。夢幻影像は、人がこれを本物と受けとるから、彼の情緒を支配し、彼の行動を決定する。かくてすべては彼を劣化、堕落へと導く。
ビジネスマンは自分の会社の中で自分が重要な人間であると思っている。それで、会社の中のなにかのプロジェクトになんらかの役割を依嘱(いしょく)されないと、不当に扱われたと感じる。それはもっぱら、自分が重要な人物でなければならないと思っているからである。もし彼が、自分が重要人的であろうとなかろうと全然意に介しなかったら、不当に扱われたと知っても、ただ肩をすくめるだけであろう。
地上におけるすべての問題と苦悩の原因となっている幻想というものの、ちっぽけではあるが、これは一つの典型である。自分には別のアイデンティティがある、自分は宇宙全体から離れたなにものかであるという自己中心的な幻想というやつだ。この幻想は圧力、忿懣(ふんまん)、他人への不信やすもうをつくりだす。本体とは離れたアイデンティティという誤った自己観念は、表面的には本土から離れてはいるが水面下ではちゃんと本土とつながっている離島に例えられる。
映画製作のスタディオへいってみる。家屋が並んでいる路地を歩いていく。そこまではよろしい。
だが、一軒の家のドアを開けて中で憩(やす)もうとするとどうなるか?憩むどころではなく、不快となる。家屋のセットは見せかけだから、そこでのくつろぎなどは不可能である。
われわれに起こることはすべてこれだ。偽りの見せかけのなかで生きているから、そこで落ち着とうとするとショックを受ける。
われわれは、自分でそう思っているような自分ではないのではないか、と疑い始めなければならない。われわれは目を覚まさなければならない。
偽りの自己感覚を消すことを怖れているかぎり、人間はあくまでも附きまとうその代償を支払わなければならない。しかし彼自身に関するあらゆる虚偽を進んで解き放つならば、彼は爽快という新しい生を生き始めるのだ。
まるで錠(じょう)のかかっているドアを叩くように偽りの自己と気狂いのようになって戦うことはもうないのだ。それはガラスのドアなのだから、透けて見えてしまうのだ。
No Comments