6-⑨ いかにして正しい行為をなすか
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ふと正気に返って、正直に見詰めると、人は自分自身をどうしてよいかまったく五里霧中なのだと気づく。まことに辛い状況である。何かをしたいと熱情が湧いてきているのに、その何かがなんであるかがすとしも分らない、わずかの知識すらも穴けているということだ。彼は困惑の果て、機械的な行動へ移る。鈍くしびれた絶望のうちに、彼はけっきょくいつもしていたことをする。
このミステリーを解くためには、行為というものの移教的な意味合いを把握しなければならない。
この意味での行為とそ唯一の恩恵にみちた行為である。秘教的な意味での行為は、歪んだ願望とエゴイスティックな野心から発生する有害な行為とはまったく違ったものだ。
あなたの為さねばならぬことはただ、あらゆるものを、あなたのために為されるままに委せるというととである1!とのことが分ったとき、あなたは物事の本質に迫る至高の洞察を遂げたことになる。その自己中心約な自己の末端にまで達し、そして自分の真の自己をして、彼または彼女という生身をつうじて、その本性をフルに生きるに委せる。このような人に、このしあわせな洞察は到着する。
もしあなたがなにかをすれば、間違いをしでかす。もしあなたがなにもしないなら、ただひたすらにあなたの内的生をいて、エコの干渉なしに、起こるに委せるならば、けっして間違いは犯さない。
これはあなたにとって価値あるなにものかを放棄する意味ではない。これは真の価値をみいだす意味だ。人間のもつ密かなる恐怖は、多くのことが彼には起こるけれどもリアルなものはなにひとつ起こらないということなのだ。彼に起こることは、新奇で、エキサイティングで、満足なものでさえあるかもしれない、だがそれは、より深い彼の自己にとっては本物ではない。あなたがあなたの真の、かアルな自己であればあるほど、あなたはリアルでないととはやらなくなり、それだけ一層幸福になる。
人々が繰りかえし繰りかえし、間違った行為で苦しみながら、なおそれを問題にしないとはなんと不思議なことであろうか!物理的な外部世界では、われわれは充分に実際的である。ディナーの味が落ちていたら、あるいはビジネスのプロジェクトがうまくいかなかったら、われわれは調査し矯正する。だが、内的な生では、実際的である人がいかに少ないことか。
なにかが間違っていると感づくだけで充分である。われわれはなにかが間違っていると知っている。正しい行為を始めるには、相も変らぬパニックや倦怠感に飽きてこなければならない。充分イヤ気がさしてこなければならない。正しい行為は、りの自己を観察してこれを除くことで、スタートする。
内的前進への正しい行為をプランすることはいらない。あなたが正しいと思いこんでいる間違った行為をやめるだけでいい。そうすれば、条件づけられた思考を伴わない行為!それは常に正しい行為だしへのスペースが塗く。数は、目覚めた人について、彼は計画せず、工夫せず、計算しないと言っている。あなたに、太陽が天空を横ぎってその自然の道をとおるのをプランする必要はあるまい。あなたが何が起こるべきかについて予めなにかの観念を抱かないときに、あらゆるものは起こるべくして起こるのだ。
自分はこの人生でどこへも行き着こうとしていないと感じたときは、いつでもすぐに、こう自分自身に問うてみるべきである、「だけどおれはほんとうにどこへ行きたいんだろうか」と。するとあなたはたぶん、表面の心がすぐに大急ぎで飛んで、あなたに偽りの答えを運んでくるのに気づくだろう。たぶん、あなたが新しい友達あるいはお金をもっと欲しがっていると、あなたの表面の心は示唆しているのだ。だがこうしたごまかしの答えの下に、あなたのスーパーマインドがある。そしてそれらをごまかしと見抜く。あなたの務めは、鳴りの声に気づくことだ。これに気づくと、腸が当って露が消えるように、偽りの声は潰れてしまう。どこにも行き着くところがないという不安がもう一切なくなる時がこよう。あなたはすでにそこに行き着いている、いや既にそこに居たのだ、と分るであろう。
あなたが真摯に宇宙的な諸原理を理解しようと努めるとき、あなたは確実に正しい行為をしているのである。
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