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50. 慈悲 Compassion

慈悲は、他人への同情でいっぱいになった血のにじむようなハートを持っていることではありません——慈悲とは、状況に覚醒をもたらすのに必要なことであれば、なんでも喜んでやるほどの愛の深さです。

 イエスの生涯で起こったある状況を思い出してほしい。彼は鞭(むち)を取って、エルサレムの偉大な寺院に入って行った。イエスの手に鞭? これこそ仏陀が言ったことの意味だ——「怪我をしていない手は毒を扱うことができる」 そのとおりだ、イエスは鞭を扱うことができる。問題はない。鞭が彼を圧倒することはありえない。彼は油断せずにいる。彼の意識はそれほどのものだ。

 エルサレムの偉大な寺院は泥棒たちの場所になっていた。巧妙な盗みが行われていた。寺院のなかには両替人たちがいて、彼らは国全体を搾取していた。

 イエスは独りで寺院に入り、彼らの机——両替人たちの机——をひっくり返した。彼らの金を投げ捨てて、彼はたいへんな動揺を引き起こしたために、両替人たちは寺院の外に逃げた。彼らは大勢いたが、イエスは独りだった。だが彼はそれほどにも激怒していた。それほどにも燃え立っていた。

 さあ、これはキリスト教徒たちにはずっと問題だった。それをどう説明したらよいのだろう?——というもの、イエスは鳩、
平和のシンボルだということを証明するのが彼らの努力全体だからだ。その彼がどうして自らの手に鞭を取りえたのだろう? どうして彼は、両替人たちの机をひっくり返して、その両替人たちを寺院の外に放り出すほど怒ることが、激怒することができたのだろう? そして彼のエネルギーは吹き荒れていたにちがいない。彼らは彼に顔を合わすことができなかったのだ。僧侶たち、商人たち、それに両替人たちはみな、「この男は狂ったぞ!」と叫びながら逃げた。

 キリスト教徒たちはこの物語を避ける。もしあなたが仏陀のこの経文(きょうもん)を理解したら、それを避ける必要はない。

 怪我をしていない手は毒を扱ってもかまわない
 無垢は傷つくことはない

 イエスは絶対的に無垢だ! 彼は暴力的ではない、破壊的ではない——それは彼の慈悲だ。それは彼の愛だ。彼の手にある鞭は、愛の手にある鞭だ。
THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.4, Discourse15**