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31. 受け容れること Acceptance

生をあるがままに受け容れることです。どんな理由ももたずに、楽しみなさい。

 偉大な禅のマスター、白隠が住んでいた村で、ある娘が妊娠した。彼女の父親は、彼女をおどしつけて、恋人の名前を知ろうとした。そしてついに、彼女は罰を逃れようとして、それは白隠だと告げた。

 父親はそれ以上なにも言わなかった。だが時が満ちて、子どもが生まれると、彼はすぐに白隠のところに連れて行って、子どもを放り出した。「これはお前の子どものようだが」と彼は言い、ことの不名誉に対してあらゆる侮辱とあざけりをまくしたてた。

 禅マスターは、ただひとこと、「おお、そうなのか?」とだけ行って、その子を腕に抱いた。それからというもの、彼は、その子どもを、ぼろぼろになった長衣(じょうえ)のたもとにくるんで、どこへでも連れて行った。雨の降る日も、嵐の夜も、彼は近所の家々にミルクを貰いに出かけたものだ。弟子の多くは、彼は堕落したと思って、反発して去って行った。が、白隠はひとことも言わなかった。

 一方、母親は、自分の子どもから離れている苦しみに耐えられなくなっていた。彼女はほんとうの父親の名前を明かした。
彼女の父親は白隠のもとに駆けつけて、ひれ伏し、何度も何度も許しを乞うた。
 白隠は、「おお、そうなのか?」とだけ言って、彼に子どもを返した。

 これが受け容れることだ。これが " タタータ " だ。生がもたらすものはなんでもオーケーだ。完全にオーケーだ。これが鏡のような質だ——なにも良くはなく、なにも悪くはない。すべてが神性だ。生をあるがままに受け容れるがいい。それを受け容れることで欲望が消える。緊張が消える。不満が消える。それをあるがままに受け容れることで、人はとても楽しく感じ始める。まったくなんの理由もないのに。

 喜びに理由があると、それは長くはつづがない。喜びになんの理由もなければ、それは永遠にそこにある。
ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.3, pp.175-176