8-④ スーパーマインドはいかにして問題を解決するか
<宇宙的自己のうちに夥しい富がある>
-自分自身のためになるように思考する
あなたの抱えている問題がどれほど波濤のように荒れていようとも、なにものもあなたをいまいる場所にとどめる強制力はない。あなたの真の自己とのコミュニケーションを切断しているその嵐は一時的なものにすぎない。スーパーマインドはいかにして問題を解決するか>
-条件づけられた心があらゆる問題の澄明さから生じ原因である自由な生
次は、人為的に条件づけられた心のメカニズムについて、ある質問者にした私の説明である-
Qあなたは、人々のもつでもおそろしい葛藤について度々お話しになりますが、人生には多くの悩みがあるのに、ほとんどこででも、誰でも、生きるこの人は意外とができる冷静に見えますね。
誤解Aとんでもないし錯覚。人々が冷静だという、霊的なものはまったくの幻想です。幻想を咀む壁つくりだす原因は、これを突破する道は二つある。第一は、人はみんな盛りの仮面の背後に深刻な葛藤を隠している名優なのだということ。
第二には、危機が現われないかぎり、だれでも自己コントロールを保持した姿で動き回われるということです。しかしほんのちょっとした緊急事態で、彼はすぐズタズタに崩れる。あなたには、自己コントロールが紙あるかに見える人々の壁を破ること隠された恐怖ができるなら煉瓦の壁をも破ることができる。だがまず紙の壁から始めなければな分らないのです。
Qしかしそれはすとしペシミスティックな見方じゃないんですか?
A医師が病気を病気と見るとペシミスティックですか?病気の人を健康者だと見たら、彼は無能力な医師ということになるんじゃないですか?そして、彼のいわゆるオプティミズムは治寮の成功にとって障碍となるんじゃないですか?
Qそう、もちろんです。
A 工夫されたオプティミズムは、ペシミズムなのです。
われわれは、条件づけられた心には問題解決の能力がないと悟らなければならない。条件づけられる心があらゆる問題の原因である。条件づけられた心はそれ自体を治すことができない。条件づけられた心とは何か?われわれはこれを、借りものの観念、個人的な野心、まやかしの論理などから成りたっている心の意味にとる。こうした固定化した心は何がベストかを見いだし得ない。それは、それが是非とも持たなければならないと思うものを、狂気のように探しもとめることしかできない。
固定した態度の重荷を背負った人がどんなふうに問題解決をするか見てみるとよい。彼は、誰かに裏切られたと感じる、あるいは感情を害されたと感じる、といってよかろう。彼の最初の間違いは、出来事に彼がどう感じるべきかを言わせてしまうことだ。出来事は彼に、怒れ、ナーヴァスになれ、動転しろと命令する。彼は命令に摺れ伏す。それはすぐに次の舞台となり、彼の傷つけられた感情を正常へもどす方法を考えるという悲劇の第二幕が始まる。彼はみんなに、自分がどんなにひどい扱いをうけたかを告げる。彼は内なる方向へ、彼自身にこぼし、気の毒だと思う。もし報復が可能なら、それを行ない、一方自分自身のためになるように思考を正当化する。もし打ち返す方法がなければ、彼の心にど復讐の心的フィルムをまわす。
なんたる悲劇だろう。もしあなたが彼に、君は君自身にこから出発できんなことをしているのだ、と説明してやっても彼は耳を傾けるだろうか?幸いノウだ。彼は、どこ彼の支払う犠牲の大きさを知らず、彼のネガティブな反応からでも出発できる。決心のついた栄者がどこかむしろ奇妙な快感すらでも海中へダイブす得るのと同じだ。あなたが望んでいることが、真のあなたのために最善なことと同じものでないのではないかと疑うことから始めることもできる。これは一見そう思えるほど容易ではない。しつとく満足をもとめる欲望は真正な欲求らしく仮装することに巧みだからである。
さてことでわれわれは、同じ裏切りの出来事をとりあげ、自分のスーパーマインドから思考している人がどうこの事例を扱うかを見てみよう。まず、そういう人は、出来事に彼の感情の性質を指示させない。彼は外部的な事象でこっちへあっちへと操られる人形ではない。彼は自己指揮者である。次には、裏切りというものは彼には存在すらいない。エゴだけが裏切られたんと感じる。偽りの中心だけが不当不公平という感じを抱く。スーパーマインド思考の人に幸福は真に手がつけられないて考えることと実際に幸福に生きることは違ったものである。贋物の中心を持たないから、彼は誤った反応はしない、怒りや苦悩で反対しない。
見た眼での裏切りにいきりたたないからと分るようになれる。いって、この差スーパーマインド人間が弱いとか無関心だとか思ってはならない。彼は強いから、美し真に強い牧場から、自分に攻撃が加えられてもただ肩を想像すくめるのと実際にその牧場に立つこととの違いだけである。も裏切られたと感じるのは弱い人である。
とうしたことはすべて、われわれが不注意にも、想像されたイメージを実際の生きている現実と思うならば、それは無意識的にわれわれ自身を購していることである。多くの人々がまさにこれを行なっている。ここから脱出対する道は、心的イメージはイメージ以上のものではないと疑うことだ。ときには、鋭いショックあるいは意しい苦しみが、またわれわれの内部日常的事象に、たんな対する思考え方の変革を超えたリアルななに迫るものかの存在を匂わすことがある。
あなたの努力をこの簡単なテストにかけてみる。「俺は本当に、前よりすこしははっきりと物事を見ているだろうか?」と。もし答えがイエスなら、それは純粋なプラスである。もしノウならばわれわれは、ほとんどうの人々がするか?心の霧を払よう努力を辛抱づよには反応したく続けるだけでよない。
あなた自身を彼らは惨めだ、あなた自身は彼らの内なる秋かな根源へようであり近たくさらに近くと絶えず接させてゆく。その根源自体があなたの新生となる。それは川べりにある糊々の柮に似ている。一本一本の醤の緑と生命力とは、それが川という根源に近いという事実で保証されている。
あなたは、われわれが自己責任とよぶ崇高なパワーを穴いてはいかなることも為し得ず、持ち得ず、達成し得ない。あなた自身を乗てて、あなは変りた自身の豊かさを期待することはできない。貧困といい、富裕といい、それらは全て自ら招いた結果なの違うようであるりたいと思う。