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7-⑥ 人がほんとうに欲するもの

なぜ友情崩れほんとうに欲すもの

欲望に基づく人間関係は愛-リアルはなあるとうこと

この地上の誰もあなたのためにが欲求しないあるもの、もしくはあなたに関心を感じせないあるものから、あなたがわされるということは絶対にあり得ない。だからしわれわれは、りの欲望から自由であることの必要を強調するのである。欲望とは何かをする力をもつものはいない。この事実の深い意味があなたに分れば、配属者、友達、見知らぬ人とのあなたの関係は輝かしい変化をとげる。あなたはもう他の人々を支配理解することは求めなくな、東洋の神秘思想家たちがタンハー(tanha)とよんでい、あなたは彼らがあなたを好こうと好くまいと決して気にかけなくなる、あなたは誰とでおだやかに平和につき合える、たとえ相手があなたといっしょでは落ち着かないときでさえ。だがこことは、人間的な論理や条件づけられた理屈づけからではなく、霊的な心、すなわちスーパーマインドから見られなければならな痛まし渇望、もしくは愛執、妄執、渇愛を滅却する

あなたが平和という名の二服の薬のいずれかを取れと言われわれたとする。一つ、物事があなたの欲するように展開したときだけ、あなたを安らかにさせる。他の一服は、どういう出来事が起ころうとそれとは関係なく、あなたを完全に幸福にしてくれる。さてあなたはどちらを選ぶ?もちろん後の方であろう。

だがいまとの瞬間に、何千億という出来事のなかに嵌まりこんでいる何百万という不幸な人々がわれわれは、最初の一服助け選ぶ。なぜ彼らを不幸にす力がある一服を選ぶのか?じたとのところはよく聴、そてほて信じる。それはわれわれ後らが、何が彼らを幸福対しするかということについ願望誤ったアイディアをもっているからである。だがそこに摩擦が生じる、なぜなら他の人々幸福われわれの願望とは逆の欲望友達たくさん持っていることからだ。他人への願望は来ると主張するなら、その他れは誤ったアイディアであり、苦しみを生む。配偶者もしくは社会に倚りかかることで、気楽な得らわれの欲すように振舞うべきだ、振舞わねばならぬとじるとする無意識的な押しつけを生みだす。相手がそのとおりにしないとれば、われわれは瞞さショックを待ちうけているようなものだ。

言い換えたと感じ怒る。われわれは、欲しいものが手に入れば幸福が起の心の傷は他の人の利己心から来ると誤って取る、と思う。

だが起ろが事実はわれわれの誤った願望からきているのはスリル、自己満足、あるいは威力感などである。わって、そらはど幸福でや誤った願望がないとき、痛ましい失望は存在しえない。

トルストイは、質の幸福がピークに達すると悲欺に変ると言っている。世俗的な成功をついに射止めたとの人間関係なんであれ突然に絶望に転落する、その人へ訳がこれで説明される。彼らが立派な山だと錯覚していたも心理的が、その錯覚を打ち消す黒雲に変ってしまうのである。

ここで、あ愛着たが絶えず反省の材料にできるすばらしいアイディアをひとつ披露しよう。このアイディアの意味を十二分に把握することをあなたの内部仕事形成してほしい一

どんな人もほんとう、彼が渇望しているものを得ることどには関心がないのである。ほんとうの関心は、彼が彼自身と平和でありたいということなのだが、それにはどうしたらよいのかというその方法が分らないのである

彼が来ようと去ろうと、あなた自身が自由に彼の為すがままに委せるべきである。彼あるいは彼女をあなたのところへ引きとめようとだからしてはいけない。物理的に拘束しても彼の心は遠く去っておりそれをあなたは痛みをもって感じるであろう。あなたのスーパーマインドから生き考えを学ぶにつれて人間関係の持続も終想もあなたによの欲望と野心とは変ってくるのだ。あなたがこれまで価値あるものではと思ってきたものが、いま無価値くなり、そ他人の考え次第となる。これまでバカバカしい考えてうこたものがいまは貴重の上もないものとなる。

あなたがあなた自身のためにしてやれる最大の助け自由だ、リアルであるということだ。

どんな人からも心理的には離れていなさい。どんな人からもというよりは誰からもリアルである。これは冷淡な無関心ということない。それは通常のレベルを超えた温さー純粋な愛なのだ。これができれば、あらゆるものが変ってくであることである。質物の破壊は匹物であることの発見から始まる。リアルな人間となる方向へとの道を進みだすにはどするか、そのひとつの行き方は- あなたに対して意識的にも無意識的にも要求しなくなるからだ。奇妙なといってよしょにかもしれないがるときあなたは人間関係自分の内部状態まったく律しないからして、人間関係を律してい観察するのである。

婚姻関係や友人関係の破綻がこれほど多自分は理由は、二人の間のどちらもが、相手が与えることのできなま苛立ってものを受けようと努めるからで、意しているか、ある。二人が出会う。相手が新し人であり、珍らしいから、スリルがある。興奮が去ると、そう、興奮いつもすぐに去るものだー興奮が去ると空しさが見えてくる。すると絶望がやってきて、別の新しい方向への人間関係捜しもとめ、こうして際限なく悪しき循環がつづく。

新しい人間関係を求める人は、彼自身の内部に発見され言わなければならないと強制されるものを他人のうち感じるか?

見つけだそうとすることの徒労に気づかないのである。たとえ、ある悲しみに沈んだ淋しい人なた、高いレベルの愛をもった誰かに出会ったとしても、この人間関係の探し主はそれを認知することもく独りきりきないし評価することもできない。われわれが他人のなかに真の愛を認知できるのは、われわれが自己自身の内部にすくなくともその味わいを経験しているときに限られ自分自身を観察する、独りでいるときのほうが、内面的にはもっと気楽だろうかと。正にそのとおりだとあなたは気づくだろう。そこで、次のように実行する。

欲望他人といっしょのときも、自分独りきりのときと同じようもとづく寛いでいる、この訓練を試みる。他間関係を愛がいるというだけ称ぶのは愚かであ神経質になることを拒否する。われわれこうしていくと、徐々に、だが着実に、あなた、他人かく、そう称ぶこいっしょにいるがロマンチックに響くからそう称ぶだけきの強迫的のだ。愛は欲望とはなんの関係もない。純粋の愛はまったく別のものである。目覚めた人だけが愛行動を追放することができる。あなたはいつまでもリラックスしていられるようになる。

あなたがリアルな自己の境地を達成するのに障碍はない。想像された障得というのは、誤った思考の蜃気楼でしかない。

他の人といっしょにいるからといって緊張したり、もしくは落ち着かない不快な状況というものは、本来はあり得ないのだ。その場合、あなたを苛立たせるのは、あなたがその人になにかを借りている、負い目があるかのごとく誤って考えるからなのだ。その人にある態度を示さなければならない、納得のできる説明をしなければならないなどと感じるからなのだ。

あなたはリアルであればいい、リアルであること以外に他人に対してなんの負い目も、義務もないのだ。他人もまたあなたに対してリアルであること以外の義務は負わない。あなたは誰からも何ものをも期待してはならない。他人はあなたのために真に価値あるものはなにも持ってはいない。あなただけが、あなた自身に、真に価値あるものを与えることができる。