6-③ あなたは常に宇宙的覚醒に到達できる
<失敗あなたは常に宇宙的覚醒に到達できるものは存在しない>
-成功も失敗もたんなる観念にすぎ現在の生き方が生き方の全てではない
あなたの失敗の感情は無用であり不必要である。その正体は、われわれが次のことを知るとき、明らかになる
一、失敗問答の感情はわれわれの内部にあり、外部世界にはない。
二、それはそれ自身では力ももたず意味もない、われわれが不注意にそう思っているだけである。
私が、自の隣りにあるお化け屋敷にいるとしよう。暗くて気味悪く、おそろに烈しい。私は闇が嫌いだから、棒調子で闇を叩く。だがそれで灯りが点くだろうか?点かない。私は無駄な戦いはやめて、自分の家の燈火の下へ入ら扱わなければならない。かったある研修生の失敗に類似のものだろうかーー
Q わたしはこの径のどこかで失敗もこれしています。わたしの行動はと同じだ。昏さと幻想というお化け屋敷にいるかぎり、私は常に自己先を感じるだろう。だがきどき自分でもひどくおぞましいもの家へもどれば、灯があになり煖炉があるます。
そこうで、アイディアとなる。私がそのお化け屋敷にいたとき、闇を打っても取り除けなかったからといって、自分自身を失敗者と感じるべきだろしょうか?ノウだ。私の隣人たちが私を失敗者と呼ぶだろうか?ノウだ。言葉はなんの意味ももたない。お化け屋敷で私が成功しようと失敗しようと私の仕事ではなかったのだ。私の為すべきことはただそこを脱して家へ帰ることだけであった。
この意味がお分りだろうか?
あなたがある出来事ないし状況を失敗と呼ばないかぎり、それはあなたにとが眠って失敗おり、それに気づいていないからです。しかし、あなたの本質は、おぞましい行動から成り立っているのではない。行動は霊的な眠りから来た結果です。あなたは目覚めるとはどういうことは、その出来事にしろ状況にしろ、それが他人をどう悩ますかに関係なく、いささかもあなを預わすことはできない。そこでわれわれは、なぜわれわれがあるものを失敗と呼ぶ意味かを調べてみ理解しなければならない。それが理解されれば、おぞましい行動は、われわれがやみます。
なぜ行動的な人生よりも霊的な目覚めの必要ということを強調なさるんですか?
A それは夢遊病患者はどこへいこうと、どこへも到達しないからです。
Qわたしはなぜ、こうした奇妙な霊的仮眠にいることが分らないのでしょうか?
Aあなたはまだ、眠りと意識状態との差が分るほど長くは自己作業をわれわれ自身と結びつけして考えてしまいないからです。あなたの知っていることがすべて眠りのなかのことに過ぎないとしたらだ、目覚めた状態がどういうものか、認知するすべがないではありませんか。
あなたの現在の生き方は、生き方のすべてではない。われわれは、習慣の重荷がのしかかっている心のうえへ超えて昇り、まったく新しい、いままでとは違った、優れた生き方を見つけることができる。次のストーリーはそのポイントをついている。
昔、大きなリンゴ園が沢山ある国があった。この国の産業はさまざまな色のリンゴ、あらゆる品種のリンゴの栽培でなりたっていた。この国のリンゴは世界中で名を知られており、国民はこれを誇りにして、もっぱらリンゴのみに関心を示し、その他の果実は栽培しなかったし輸入もしなかった。
リンゴの国のある市民が、よその国へ長途の旅にでていたが、ある日の午後、疲れはて、またひどく腹がへってきた。道路わきで休んでいると、遠くから声をかけられた。このあたりの果(園経営者で、うちで食事でもしてゆっくり休息をとっていきなさいと親切にいってくれた。そしてリンゴの国の市民の眼の前へ、一と山の新鮮な果物が差しだされた。リンゴの国の市民は礼はいったが、果物には手をつけなかった。でも、「ずいぶん珍しい果物ですね、なんというものですか?」と訊くと、果樹園の主人は、「モモ、ナシ、ナツメヤシ、パイナップルです、新鮮だし、おいしいですよ」と説明した。
腹のへっているリンゴの国の市民はまだ我慢してためらっていたが、ついに眼の前の果物に手をつけるか、空腹で倒れるかの瀬戸際にきた。そしてとうとう見たこともない果物へ歯をあててみると、それはいわれたとおり、すばらしい味の果実であった。との市民は、この日以来もはや、リンゴだけがこの世界で唯一の果物とは思わなくなった。
われわれにお金は、いまの生き方しかメダルをくれればいいがと願う、そしてわれわれが自分自身を金持だ有名人だと思い描ければい生き方はないと思う。だがすべ考えては空しい。たとえお金やメダルを得たとしても、われわれの真の自己に対して、何も寄与したことにもならない。
人がいちばん恐れることは、つぎのようなステップを踏んでいくうちに必ずや自分がまったく無価値だということへの恐怖である。だから彼は彼自身を成功という観念己実現に結びつける。自分を成功者と呼びたいからだ。しかし成功も、はたまた失敗もたんなる観念にすぎないから、彼は永久に失意から浮かびあがることができない。難かしく聞こえるかもしれないが、われわれは自分自身についての想像上の観念を一切来てねばならない。われわれの空想、幻想、想像を超えたところに、われわれの真に欲到達するものがある。これが充分に理解されたとき、
人生はもはやミステリーでも、悲惨でもない。フランソワ・フェノロン(豚2対9、場。職
が、われわれが自分自身を乗てれば来てるほど、われわれはより大きな平和をみいだす、と書いたとき、彼はこのことを見抜いていた。
このことをテストしてみよう。ここに、あなたがなんら関心をもっていないプロジェクトのことを考えてみよう。たとえば科学者になるという計画、そんなものにあなたは全然関心がないとする。この計画の成否があなたに心配の種子になるだろうか?ノウである。われわれがわれわれ自身を成功失敗に関わらせるのは、自分にダメージを与える自己関心の場合だけだ。だから自由であるためには、あらゆる有害な自己関心は薬てなければならないのである。
-自分自身にどとか間違ったところがあるとおぼろげながら感じる
-もはやそれを無視するわけにはいってこれは、あなたが豊かな生活の資を稼ぐことができないとか、人生悟る
-答えを探す
-失望とフラストレーションにお突き当る
-勇敢に探索をつづける通常
-自分の事柄をりっぱ内部に遂行なにか新しいユニークなあるものが存在していくことができないるとかいう意味ではない。事実あなたは日常すかに感じる
-内的に変り始める
-彼の外部的なことはずっと上手生き方を変えていくより自由にや、より幸福になっていけるだろう、なぜならあなたはどのようなかたちにしろ失敗ということには頂わされないからである。あなたは、内的葛藤なしに、ただ自分のやることをやっている。く
おか-そのまま引き続いて、真理が彼をみちびいて新しなことい人間に、有害な自己関心がなければ、あらゆることに関心が湧き、しかも何ものにも囚われない。ちょうど、大海を好きなように航行し、好む港に立ち寄り、また気が向いたときにいつでもそこを離てくれる気ままな船のようなものであに委せる。