4-④ 苦しみの謎を解く
<<苦しみの謎を解く)
-涙のみなもとは心である
どんなかたちのものにしろ苦しみの意味するところはひとつである!われわれが宇宙的パワーの奥義>
ほとんどの人が気づい調和から外れていない至高の秘密がある。人間の心の力を超えたひとつの力があるということだ。それはリアリティの、真実の、カーいつもそこにある力である。この力調和するように気づけなれば、こ苦しみはやね。
道路へ駆けだそうとしてもがく幼児は平手打ちにされる。体罰以外の力言語が分らないからだ。両親は子どもを愛しているから、わがざと子どもの心を傷つけようとして平手打ちにするのではなるい。子どもが大きくなって理解が進めば、痛い目覚めは導火線に点火し、意識の爆発へ遭わなくと到もすむようになる。
人間の状況もとれである。苦しみは、現実という道路へ飛びだすことの危険をわれわれに告げているのである。しかし、頑な小児的おとなは、自分がなんでもいちばんよく知っていると思い上がっているから、教訓を拒絶し、傷つけられる。毎日毎日、来る年も来る年もそうである。しかし彼のうけた霊的な体職を検討するならば、彼は体罰が不必要な境地へ成長できる。涙の人生みなもとは心である。心そのものについての自己中心的な概念を、考え過ぎ薬て込ることを拒む心である。
痛みいからせ自由になるには痛みの末端まで行かなくてはならない。ハートを痛めつけるのは、人生のリアリテ←ではなく、条件づけられた心である。習慣的な思考や理窟づけや並べ変えはあなたみに何も抵抗してはくれない、あなたの内的な満足にすとしでも寄与したことはない。習慣的な思考は、休暇の計画とかバランスのとれた食事を考案するとか、日常的レベルの事柄についてはりっぱに役立つ。だが心理的な事象、たとえば幸福とか意味ある人生とかについては、条件づけられた思考はけっして成功しない。
心の力は翔ばない鳥類と同じく、地上的な活動だけに限られている。
人々は見当外れの思考をやめることを恐れる。人々は間違ったことをするのをやめることを恐れる。それをするしかないと誤って思いこんでいるからである。狂気のように心を働かせて追いかけないと、すべてが潰れてしまうと誤解しているからだ。だがこの逆が真実である。人間的思考がとまれば、霊的な目覚めが始まる。人は統一される。霊的な大空へ翔ぶのに地上に縛られた心を使おうとすれば、あらゆるものが墜落してしまう。
幸福とか意味ある人生とかについて考えようとはいないことである。計画と計算をやめることである。幸福となる、意味ある人生を送る、それは可能である、ただし催眠にかけられた心によってではない。イギリスの哲学者ジョン・ステュアート・ミル(※学1七三)は、目覚めた心だけが、真の満足を選択できると借じた。
答えがないことを恐れてはならない。空虚で不安定であることを怖が怒ってはならない。不安感、空虚感、答えがみつからない苛立たしさ、それらは初めは辛く、これを怖わがるなといってもなかなかそうはいかない。しかし暗いトンネルを抜けでなければ日光は仰げないように、これらはまったく自然な通過関階なの幸である。この濃度に終始せよ。誰からも何からも慰識や安定とを求め数き、不幸となってはならない。かくすれば、苦しみは大きな啓示となる。苦しみは、われわれが借りかかっていたぺりの支柱を看破させてくれる。支柱を取り除くと真実がやってきてわれわれを完全に支えてくれる。あらゆることが、われわれがその見ただけでは恐し苦痛を賢く使うか否かに懸ってい暗いトンネルへ、あなた自身を投げてるのだ。そして、何が起こるかを見る。
起こってく最初にとるのべき賢明な行為は、あなたの求めてやまなわれわれがいかった奇貴である。とても言葉では表現できない。個人に不幸かを意識的に経験自覚するよりほかはない。これがあなたの求める、そしてあなたの持つことのできる、その経験なのだーあなたの真の自己との再会ということである。次苦しみは、ほとんどの問答のポイ人々にとって、九十九パーセント無意識的なものである。彼らは地下の業火を考えてみ見なさいー。
0人ときどき火山の憎ように噴出するので気づくだけである。たとえば癇癪ということを取り上げてみよう。人は、怒るたびに苦しむ、だが彼はそれを痛みと見るだろうか?見ないのだ。彼は自分の怒りにプライドすら抱くかもしれない。怒りをあらわすのは一強さのしるしと思っているのだ。
私はあなたに、決定的な突破口のみつけ方を教えよう。あなたをひどく困らせていることを取ってみよう。なんでもいい、あなたの人生にかかわっている不倫快な石介者、ある種の暗黙心、問題が解決できないための申苦悶、その他なんでもいい。
それを充分に意識する。この困窮状態を他の一切から選り分けて、それだけを科学的な好奇心をもって観る。それがいかにあなたを苦し合めているか、それがいかにあなたの感じたくないことを感じさせるか、を見てみる。するとあなたにどういう反応が現われるか、この反応に注意を向けて見守るのである。特に、この苦悩がどんなふうにあなたから気易さを奪っているかに注意を向けるのである。
そこで、あなたの苦悶へ反旗を翻してみる。他の人々がするように、苦悶の原因と思われるものへ反抗するのではなく、あなたの内部の苦悶そのものへ反抗を試みるのだ。これは大変肝要な点である。
ためらうことなくとう官言する、「おれはとんな苦しみにとりつかれ、飽きあきした、いやになった。おれは行けるところまで行った。もうこれには我慢できない。おれは忍耐することはしない、忍耐しないんだ。人々はそこれで終りにするんだ」と。
もしなんなら、これについて語り感情をたがぎらなせてもよい。しかし憎しみはそとにかく本気になって、この人の惨めさと手をつないでいる。どうおり宣言して人間には、こんなに憎しみが多いるのでしょうか?
A 憎しみは自己認識への誤った感覚を護ろうとする必死のあがきなのです。男が女を離別すると、女は男を憎みますだ。それが苦闘の解消のは彼女自身の本来の虚しさが暴露されたからです。憎しみはきわめて熾烈じまりとな感情ですから、活発さ、強さなどという為りの感情をもたらします。憎悪はきわめて自己破壊的です。洞察によって為りの自己が褪せていくにつれ、憎悪は消えていきまする。
Q 心痛がす皆しみから遊れようとしてはならない。苦しみは解消できるのだ。それゆえわれわれは現在といま、苦痛の瞬間の自由のうちに生解消を妨げる大きていな誤りを探索しなければならないからだとおっしゃいました。わたしには理解できませんが•・・
A長い鎖につながれた重い岩をうしろに引きずりながら歩いているのと同じです。その岩は、あなたがいまいる地点まで辿りついた旅の必要な一部ではなかった。だのにあなたはそれを引きずっている。あなたが取りすがっている、この記憶という、不必要な鎖のせいで、そんなふうに錯覚するのです。鎖を断ち切りなさい。そうすれば、いまあなたが立っているその場所、つまり、いまこの瞬間において、自由が経験されるのです。ときには、朝、半分眠りから覚めかかったとき、記憶の鎖がまたあなたに取りつく前に、この自由が垣間見られます。