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4-⑧ 巡礼者は進む

あなたの宇宙的巡礼者は歩のテスト

あなたはあなた-驚異思考ではない世界を垣間見て

進歩ジョン・バンヤンテスト『天路歴程』面白い読み物でなたがどれだけの量の知ると同時に霊な知識を身・心理的洞察につらぬかれかではなく、どれだけ多くの心的幻想を棄て得たか古典文学である。

この物語は、一切を薬てて危険な旅立ちをし、美の都”へ着のことを知っていながら、智慧の足りない人々がいる。(デモクリ

リアリティから生きるのではなく、自分が誰であるかの幻想的自己像から生きることは痛ましい。

自分を金儲けの達人と想像している人は、商売が不振であるといった、彼の自己像とは矛盾する事態にぶつかるとたちまち動転してしまう。彼を質わさせているのは商売の不振ではなく、彼のみせかけの自己像と商売不振チャンという事実と間にある葛藤な冒険である。彼は、単純で、臆断のない、自己統一されたビジネス性格にンになれれば、こうッチした名をもついろいろの変な人々に出会う。たとえばス

1パースティション(迷信)、鶴善的なトーカティブ(饒舌家)、おそろしいジャイアント・ディスペ

ア(巨きな絶望)など。彼はまた歯難の丘"屈辱の谷""自惚れの国"などにぶつかる。

だが敢なとの巡礼者は着実に進む。すとしずつ、ひとつひとつ、障碍は彼の背後に落ち去っていく。幾多の恐怖、失敗にもかかわらず、彼は挫けずに旅をつづけ、ついに夫の都"に着く。

この寓意物語では、苦難と危機とはクリスチャン自身の内なる心理状態を暗示している。バンヤンは、あらゆる外部宇宙巡礼者がいかに敢に旅立ちをし、内なるネガティブなものを克服しなければならないか、そして内なる洞察へと到らなければならないかを示そうとしているのだ。

スーパーマインドの採求を志すわれわれの理解を助けるため、ここにクリスチャンの経験した二つの冒険を見てみよう。

クリスチャンとその道伴れのホープフル(有望)とは、ある川べりにんで、打ちひしがれている。この道は荒れてごつごつしていた。二人はもっとらくな径はないかと思った。見回わすと、ある牧場と平行して走っている小径が眼にとまった。その径が気にいって、クリスチャンはホープフルを説き伏せて、この径をいっしょにいこうと言った。ホープフルはこんな径をいったんでは迷ってしまうのではないかと顔を曇らせたが、クリスチャンは自たっぷりに、すべてうまく行くと予言した。

小径は初めこそ歩きやすかったが、そのうちにだんだん唆くなってきた。それもその筈、間違った経だったのだ。嵐のなかで二人は径に迷い、転びつまろびつ術徨ううちに、ようやく避難小屋をみつけ、そこで眠った。翌朝、さらに悲しいことが起こった。二人はジャイアント・ディスペアに捕まり、ダウティング城(疑いの城)へ幽閉された。

ここで二人はあれこれとじっくり思考を巡らす。クリスチャンは真実の径をてて、楽な径と見えた小径を採った自分の愚かさを認める。そしていま、彼は彼自身の愚行から逃れて物事を正しく遂行しようと決心する。彼の衣服のなかに、プロミス(約束)という名の鍵を見つけ、彼は牢獄のとびらを開ける。こうして再び彼とホープフルは、まっすぐに美の都"へ面を向けて進むことになる。

とするとこれは、あらゆる霊的な状況巡礼の旅が成功するという示唆左右さ富む物語である。われわれの間違いによって、われわれは心理的な牢獄へ投げまれる。だが内なる鍵によって、われわれはとなくせでいられの牢獄を脱出し、巡礼の旅を続けるのである。

うひとつの冒険は、ディレクタブル・マウンテンズ(愉い山)で起こる。クリスチャンとホープフルはナレッジ(知識)エクスペリエンス(経験)、ウォッチフル(見張っている)、シンシア(真摯な)という名の四人の羊飼いに出会う。巡礼者二人は、どうしてこんなに遠くまで来れたのですか、他の巡礼者はみな失敗しているのに、と訊かれる。嬉しげに事のらましを伝えると、二人はどうぞ泊って憩んでいって下さいといわれる。翌朝二人はクリアー(澄んでいる)という名の丘の上へ案内された。特殊望遠鏡を借りて、二人は遠くに拡心底かる驚異の世界をおぼろげなが、物事がいまとは違うようにな眺めることができた。元気づき、力が増して、クリスチャンとホープフルは親切な羊飼いたちに別れ望むならつげ以下の論議で明らかされる旅をつづけてくつかのアイディアがあなにその道を教えてくれよう

想像で描かれた自画像はきわめて巧みにできており午智にたけている。だから降りの自己は、この自画像を正視することを拒否する。こうして、不自然な誤った自己はその人を決して目覚めさせない。橋りの自己はいつまでも彼をその不安におののく奴隷にとどめて置きたがる。

想像で描いた自画像の奴隷である状態から返れるには、まずこれらの自画像がすべて自分の内部にあると悟らなければならない。それには正直な自己観察が必要であって、それが想像の金縛りを弱めてくれる。われわれがこの想像された自画像を意識するようになると、それらは落ちて消える。クサりの落ちる音はこころよいミュージックである。

われわれが、まやかしの価値観のすべてを携えた偽りの自己を防衛するのを磨める瞬間に、進歩はたしかなものとなる。エゴのかたまりである鳴りの自己を防衛する苦しさを贈えるならば、洞窟のなかに大変な財宝が隠示唆されているとウソつきの友達から囁かれたある老兵のようなものだ。そおり、どんな財宝は存在しな辛抱づよ巡礼者も休養を受けいれ、驚異に、友達はもっぱら利己心から、この老兵世界おびきよせて洞窟の前に立たせたのだ。

老兵は真大な報酬を約束されて家を出垣間見て、洞窟の前愉快立ち財宝の番した。彼は夜も昼も、洞窟に近く人々を誰かまわず攻撃した。彼の安否を訪ねてくる人々をすら追い払った。幻想を真実と居じこみ、彼は疑いぶかく、敵対的になった。

しかし数週間たつと、彼は緊張に疲れはて、なぜ約束の報酬を友達が持ってきてくれないんだろうかと思った。で、彼は洞窟に入って調べてみて、インチキが分った。彼は自分の置かれたまやかしの立場に目覚め、そこから解放された。その後の彼は、行きたいところへいき、自分のしたいことをして暮した。

エゴ自体の抱く、想像された価値をてるだけの英気をもった人間には、このような解放が起とる。彼はいたるところへ出歩く。何ものにも束縛されず、何ものをも渇望せず、あらゆるものをエンジョイする。

あなたはあなたの思考ではない。思考はあなたの心を流れている小川でしかない。あなたは、あなたの思考をコントロールしようと闘うことはない。あなたのしなければならないととは、あなたの心という舞台を横ぎるあらゆるものを静かに受けとる受動的な観察者となることである。あなたが客席にかけていると、俳優がつぎつぎと舞台に登場してる。一人の俳優が凶悪なモンスターを演じたとしても、あなたはすこしもびくつかない。もう一人の俳優が、すべてが破壊へ近づいていると憂替な声で叫んでも、あなたはそれはすべて演技であってあなたを害することはできないのだと理解するだろう。

あなた自身をあなたの苦しさの滲んだ思考と同じだと思ってはならない。「おれは怖ろしくなった」とか「おれは憂際だ」とか言ってはならない。「ひとつの場面がおれの脳祖を横ぎった。だけどこれはおれの真の自己の一部ではない」と言うべきである。あなたがそう言うとき、それが宇宙的真理の宣言なのである。いまのあなたがそれをそうとは感じなくとも、それは宇宙的な真理なのだ。それをはっきりと見詰めなさい。そうすればおのずから純正の感情が流れだしてくる。