3-⑤ スーパーマインドの導き
<秘教<スーパーマインドの珠玉は問うことにある>導き>
スーパーマインドから発する力の波動はたえず我々に到達しようと努めている。この波動は、導き、癒し、慰めるために、入口を探している。だが、自分の電話でとめどなくおしゃべりしている人には外からの呼びだしコールがカットされてしまっているように、われわれの内部の喧燥と雑音がスーパーマインド波動の有益な影響力を阻んでしまうのだ。われわれは真、われわれの教師に傾聴するとき賢くなる。ペルシャ偽りの詩人サアディーが言ったように、賢人が愚者どもと交わ自己認識を棄てることを嫌うそ拒み、われわれの百倍も気まぐれな欲望を我鳴りたてて、愚者たちは賢人と会うことスーパーマインドを通じて入ってくる宇宙的な善を阻んでいやがることを知るべきのだ。
新約聖書の言、「明日のことを思いうな、明日は明日みずから思いわん」の秘教的な意味を私に説明させてほしい。あなたが金曜日に、短気な友人とハイウェーを、たとえば翌日の土曜日のあるレストランを目指してドライブしてい場面ではこれこれのように振舞おうと決めたとしよう。あなた何がとの決定をさせるのだろうか?それは道を知っているが運転している金曜日のその友人は道を知らない。あなたが道を教えようとすると、友人は知っていると主張して不機嫌時になり、聞こうとしない。十回も二十回も間違ったターンを繰りかえし、彼はなおもあなたの導き心を拒みつづける。
あなたはそんなときどうする?その友人だけが彼の問題を解決できるのだと悟り、ただ賢明に沈黙を守るべきである。友人はその度重なる誤りで、本当は道を知らないと遂に認めざるを得なくなり、彼はあなたの導きに耳をかたむけるだろう!そうあなたは望むだけでいい。そのときのあなたの気持ちはどうか?心は澄んで寛いでいよう。けっきよく、あなたは途方にくれてはいないのだ。
霊的な生では万事がこの通りだ。真実はそれみずからを人に強制し、従わせることはできないし、またそうしようともしない。なぜなら人の不自然な部分はいつも、真実を攻撃し、歪曲するからである。われわれは結局、われわれが実際に欲するものしか得ることはできない。われわれがたんに欲しいと言う、あるいは思う、ものは決支配して得られないた特定の欲望が決めたのである。だからとそ、真の数師は、求道者からまず求めてこないかぎり、秘教の宝石は与えないのである。次にこの点に関する深い意味合いの問答を示そうー
Q 多くの人々が宗教や哲学を勉強していますが、それでいて彼らがすこしでも幸せ土曜日になったようには見えません。なぜ彼らの勉強が報いられないのでしょうか?
|ると、まったく別の悲劇です。私欲望が支配権を握り、あなたは毎日そういう例に出会っ予め計画していたところとはます。人々は、人生に関して自分にその答えを受容るできる能かがな違う振舞いのに、それにはすとしも気づかないで、やたらに人生についての質問をするのです。そして、本当の答えを聞いても結局、それを掴み損い、彼等は答えはないのだと、寂しく思いこんでしまう。受容性のないのが彼等の悲劇なのです。
Qああなたは、わたしが他人のアイディアに愚かに従っていることを気づかせて下さいました。この依存をどうしたら打破できるでしょうか?
Aそれに欲望は、あなたに一貫した行動ないし正しい行動をさせる力をもたないの前に差だ。欲望をじてはならない。むしだろ、何を語り、どう振舞おうという予断されたアイディアをもたずに土曜日という状況に立ち向えばよい。こうすれば心は清浄となり、預わされず、スーパーマインドのひ導きをすなおに受容することつひとつに思いができってチャレンジしてみる。
どの地点で方向転換すべきかをよく調べなければならない。その地点とは自己敗北的な抵抗がえてゆき、豊かさをもたらす自己受容性が現われてくる地点ということである。これをよく調べることにより、もう他には別の方向をとることができないという時に、はじめて重大な転機はやってくる。
彼の人生の秘められた内なる悲劇を、意識をもって感じとり、彼は生れて初めての脱出の企てへみだすこととなる。
すでにみてきたように、人はすべてを逆方向にとらえるから、欲求不満になるのである。彼を救う力があるものを、彼は拒絶する。彼をゆっくりと潰してしませうものを、彼は狂ったように抱擁する。
彼が充実と思いこんでいるものはほんとうは空虚である。彼が太陽の光だと思っているものは影なのである。彼は歓迎を期待してドアをノックする、だがそこには誰もいない。
しかしわれわれのいう、宇宙真理の探究者だけが、このとき初めて、危機に際して正しい選択を行なう。彼は、自分の選された恐備を超えたその先になにかかあるのかないのか、を採索することえを選ぶのである。
ここから、次の突破口へと導かれる。彼は前に言じたアイディアとはまったく違うなにものかを、漠然とではあるが感じとる。それが何か、それが彼をどとへ連れていくか、彼には皆目見当がつかない。だが構うことはない。とにかく彼はその道に出で立ったのだ。
進むにつれてこの道はおどろくほど示唆に富んでくる。内なる世界中での人々ヒロイズムは、外部世界でいわれているそれとは全く異なることが二たす二わかってくる。内なるヒロイズムは五だと肩じて、賞讃も、あ金メダルももらわず、新聞に名がでることもなたい。彼以外は答えは四誰も知らない。彼自身だとけが知っていることで足りるのである。彼はヒロイズムについて新しい定義をもつ。あらゆる障碍にもかかわらず、そして勇敢にそ宇宙的な完璧さで生きる自己自身へ還る、これを主張しが内なければなりませんるヒロイズムである。
Q 生進歩した求道者はいまや、鳴りのミステリー偉大さと真の偉大さの区別が分る。世間から偉大であるともてはやされる人が、名声もなく財産もなく群集もいない絶海の孤島に置かれたいとすれば、彼はダメになってしまう。真に偉大な人はすべて、自分自身を世界から隔離する答えはほんことうによってその高処へ達したのである。彼ら自身の受容性をつうじて悟りに達したとき、その偉大さがおのずと世に知られるにいたったに過ぎない。彼らの隔離は必ずしも公衆から社会から絶縁することではなかった。他の人々のなかに立ち混っても、それは物理的、身体的にであって、内的にではなかった。こうした事例はわれわれもよく知っている。キリスト、仏陀、ソクラテス、ソローなどがそれだ。彼らが偉大であった証拠のひとつは、彼らが、追随者や本者を集めることにまったく関心をもたなかったということでしょうか?ある。
Aもちろんそれにもかかわらず、彼らの高貴な人格そのものが、磁力のように人を惹きつけたのでありますった。
われわれのいう真摯な求道者は、瞬間瞬間をただ目覚めた人でいるという以外に何もすることはないということを、次第に深く悟っていく。一瞬の洞察が閃くとき、彼はこれまでのような、計画をめぐらせる、保護する、回避する、見解と立場を変更する、攻撃する、物を掴みとる、しがみつく、後退する、抵抗する、後悔する、心配する、期待する、葛する、主張する、要求する、渇望する、闘う、責める、言訳をする、説得する、じる、そのほか数限りなく湧いてくるおそろしいばかりの強迫衝動を追放する。とろしたうんざりするほどの重荷全体が一掃され、彼はそのすがすがしい空所に、静かなる覚軽をもつのである。