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3-⑦ 宇宙的真理に素直に驚きなさい

パーフェクト宇宙的真理に素直に驚き出発さい

一切を更新することのも、先ずみずから求めないかぎり、心底からそのつもりで求めないかぎり、なにきるあるものも与えを人が受けとろうとするとき、いったい何がとれを咀止するのであろうか?根本的な原因は誤ったアイデンティティの感覚である。なぜな人は、おは善いおれは賢いというのは霊的かつ宇宙的な法則であ想像された自己像に生きている。生を解放するもろもろの事実に抵抗するのそれゆえ彼は、それらのまやかし揺さぶる他人を誰かまわず怒って拒否る。ソクラテスは、彼の声を聞く人々理解ついて述懐している1人々からかれらの愛する愚劣さを奪いってやると、いつもかれらは怒って噛みついてきたものだ。

人がその宇宙的求道に寒くのは、彼が彼自身に邪魔して、彼が求めるところの宇宙的な絶対真解へ努力受容拒み、排除すること不可能にしてしまうからである。

霊的かつ宇宙的なアイディア彼は、真理をあるがまま初めて遭遇したとき、あなたはそれらの理解を求められはしない。

どだいあなたにどうして理解などできよう。あなたはただ健康な好奇心で観察し、より深く知ろうと欲受容するだけいい。こうした正気のなく良識的なアプローチが常に利益をもたらしてくれる。

ブラウニング、テニスン、ワーズワース、ホイットマンなどの詩が立証するように、間接的に象徴的に提示されたときに、心は、いちばんよく真理のにじんだアイディアを受容きる。これら詩人の叡智は、条件づけられた心の抵抗をすんなりとさけ、心の芯にある直観的な自己に到達し、これらのアイディアを真理に合致すべきだ認知主張する。

それゆえまるでわれわれの最初にし花が青くければなく赤いか作業のひとつは、受容しようと努めって蜜を採ることではを拒む蜂のようく、受容へ障得を取り除くことである。そうした障碍とは、たとえばネガティブな色合いの想像、機械的な反応、コチコチに凍りついた態度などである。

間違ったものを受容しないことが、正しいものへの受容力を築いてくる。ネガティブな影響力に歓迎の意を表してはならない。あなたにとって間違っていると感じとれたものに対しては、なんにかぎらず、断乎として否と言え。これは、われわれには虚偽性を理解する力がないから、初めは難しい

われわれは自己分裂のゆえに、真理を求め、かつ真理を嫌う。

オランダのコレルーという牧師が同国の無神論者バルーク・スピノザの逞しい思想に接するようになった。しかし、スピノザ哲学が自分の考えとは真向から対するため、スピノザの著作もスピノザその人をも恐れ、敬遠した。にもかかわらず、その強烈な思想そのものに魅惑された牧師は、スピノザの伝記を書いた。混乱しているこの牧師は、スピノザのような世間の習俗や常識を外れた人間が私的生活ではどうしてあのような高貴な人生を送れるのか、どうしても理解できなかて技巧た。

人は〃クンダリニ"とよぶ彼の心のおかしな特性のために、高貴な生から彼自身シャットアウトする。クンダリニ(kundalini)という語は古代サンスクリット語かたもので、「幻想的想像力で思考する」つまり自分を購く意味だ。しかし"クンダリニ"大抵”イ偽りの力である。いやそもそも力などではまったくない。ックチキダリニ"の奴隷になっていた人が、自分こそ主人であると目覚めれば、

"クンダリニ"は無害のまま消えてしまう。

あなた自身を改革するための新しアイディアを拒否したい気持が湧いたら、「わたしのいまのアハディアはどなんだろう?りっぱに効力があるかしら?」と問うてみることだ。とれは一種のショック療法で、これであなたは新鮮な真理へのドアを開くことができるようになる。

あなたが”オドロキ島”とよばれる遠い楽園から、ことに住まないかと招きをうけたとしよう。あなたはこのアイディアがひどく気に入って、渡航の準備をする。その小さな島がどんなところだか知らないから、人の颯爽にかくあなたは快適で安定した知恵者ぶ生活のために必要と思う、あらゆるものを用意する。

衣類、家具類、さらに自動車まで船に積んで出航する。

ところが着いてみると、ッオドロキ島”は文字どおに感歎オドロキであった。道路はない、ただ美

椰子の木の並んだ小径いくつかあるだけで、自動車などはいらないのだ。空気は澄んで香わしく新鮮そのものである。だが、やがて叡智と強さが衣類は薄一枚で足りる。あなたは用意した持物一切が無用だと分る。この小島の現実はあなたの空想したビジョンとはまるで違っている。あなたは招待状をもう一度見ると、読み落としていた一行が眼ついた。そのままの姿でいらっいかいと書いる。若木

これがわれわれの問題である。われわれあるがままの姿では行ら護られず、こうでなければならないが、充分に成長したあかつきにはどんな嵐ぬと思う姿で行く。不注意にも、どんな疾風のなかでも毅然として立つ。私が洞察力のある研修生のひとりと交わした次の問答を読んで、意味するところを受け容れてほしいー

Q自分に受け容れる用意があるかないか、どうすればわたしに分りましょうか?

Aあなたが、まったく惨めな大失敗に、じゅうぶん素直に号泣する気持でいるときは、受け容れる用意のあることが自分でも分るでしょう。ただし、隠れて泣かなくてはなりません、人前で泣いてはなりません。

Q わたしは自分の内部にある特別な抵抗があるのを発見したとじています。自分が誤っているといわれると防衛的になるのです。なぜでしょう?

Aあなたが誤っているというのが本当か、あるいは本当でないか、どちらかですね。もし感情に動かされずに、あなたが誤っていることが分った場合はあなたに問題はなく、自分を弁護したりはしないでしょう。しかしあなたが間違っていると分っているのに、なおかつ、それを否認するとすれば、あなた自身の危い立場を弁護しなければならないでしょう。この葛藤は、あなたが間違っていたことが原因ではなくて、あなたがりの立場を弁護するから起こるのです。ですから、自分が誤っていることを恐れてはいけない。誤りに気づくことが、この世界で正しくあれる確一の道だからです。

Qでもすることが多すぎて・・・・・・

Aしなければならないことはやれます。それを大袈裟にしないことです。あなたの内部に矯正されなければならないなにかがある、とのことにまず気づきなさい、それが第一歩です。あなたの場合、それがパーフェクトな出発です。

自分そのものが自分に対して問題を起としているの事実だと感じても、そかれの思う視してしまうだ。あなた自身が問題であるなしにかかわらず、あなたの内部にはいつもかすかな閃光を発しつづけているなにものかが在るのだからである。エマソンがとう断言している1

あらゆる人の知的な心には、そこへ通じる決して閉ざされることのないドがある、このドイディから造物主は入ってくる。そして絶対真理の探究者であるところの知性が、あるいは絶対善の熱愛者であるところの精神が、そこでは黙ってはいない・•・・•・これらの高次の力がひとつ囁くだけで、われわれはこの俗世間の悪夢との無益な闘自身をしばりあげる。

リアリティを新し驚異た目覚めるのではなく、リアリティがわれわれの習慣的な考え方に合致すべきだとわれわれは言い張る、かくて一切を台なしにしてしまうのである。

あなたと私はこうした誤ちは犯したくない。われわれは受容性を欲するのだ。われわれは、在る真実ままになりたいのだ。理論、立場、権力、虚栄、空想、幻想などはなしでいきたいのだ。一切選ぶと所有せずにい、真実はたいのだ。それが一切をよろこばしい驚きにしてくれる。

ここにあなたが直ちに受容できる、従ってすぐに行動へ移れる、珠玉のアイディア選ぶ掲げておこうー

宇宙的理解眼をとおして見るならば、あなたの過去に起こったどんな不幸も、まったく起こらなかったと同じことである