3-⑧ いきいきとした生への招き
<宇宙的真理に素直に驚いきなさいきとした生への招き>
-感じとる心の大切さ
古代ローマの哲学者エピクテトス(乳)の深い智は、弟子の一切を更新する人、アリアノス(ご一という軍人の慧い心のおかげで今日に伝えられ、われわれも学ぶことのができる。アリアノスはローマ帝国の軍司令官であるものを人が受けとろうとするとき、いり指導者であったい何がとれ、彼のハートは宇宙的啓示を咀止する歓迎した。奴隷の出身であろうか?根本的な原因は誤った師エピクテトスの壮大なメッセージをアイデンリアノスは感じとり、忠実に師の言葉をノートした。エピクティティの感覚である。なぜなら人は、おれは善いおれは賢いという想像された自己像に生きている。それゆえ彼は、それらのまやかしを揺さぶる他人を誰かまわず怒って拒否する。ソクラテトスは、彼の声を聞く愛と人々生について述懐して語り、「汝が何者であるかを考えよ。そもそも人間とは・・・・・」といる1人々かいながらかれらの愛する愚劣さを奪常子に説いとってやると、いつもかれらは怒って噛みついてきたものだ。
人がその宇宙的求道心に寒くのは、彼われわれが彼自身に邪魔理解して、彼なければならない奇妙な一面が求めるところの宇宙的な絶対真理の受容を不可能にしてしまうからである。彼は、真理をあるがままに受容するのでなく、真理の方で彼の条件づけられた心は、秘教的な知識の価値が到底分らない。秘教的な知識は、鳴りの自己にもとづいて生きている人には、たんに存在しないにひとしい。小さなこどもは、ダイヤモンドの原石よりも光る小石に惹かれる。ダイヤモンドの価値を知らないからだ。目覚めない人もこれと同じである。彼は宇宙的事実を冷笑するか無視する。彼は自分の無知に気づかない。
受容性とは、たんに秘教的なアイディアに合致ついて読むことではない。講座に出席すべきだと主張する。まるで、花が青くなく赤いからといって蜜を採ることでも、授業の単位を拒む蜂とることでも、他人に教えることでもない。こうしたことを何年も続けていて、しかも彼ら自身の内部のたったひとつすら変えることのない人がたくさんいる。彼らは、行なうこと(doing)は成ること(being)と同じだという幻想に、無意識的に捉われているのである。だがそうでないことは、彼らの日常における苛立ちや神経症がこれを証明している。
受容性は、これらとはまったく異なるなにかである。それはあなたの価値観を変え、あなたの霊性を高める内的プロセスである。それは虚よりも事実を愛し始めつつある心の境地である。それはあなたが現在この瞬間の、あるがままの、あなた自身を全的に受け入れることである。それは内的な、秘かなプロセスであり、なおつけくわえれば、ほれぼれするようなある魔力である。その果実によってあなたは受容性を知るに到る。あなたは、それがあなたにすること、あなたのためにしてくれるととによって、知るに到る。
改らはまた真理を知らん、しかして真理は次らに自由を得さすべし。(ヨハネ伝八章三二節)
新約聖書は、息子の特実に出してほしいと丁重な招待状を送った王様の家話を認している。(マタイ伝二)王の下僕は国中に招請を触れて回わったが、応じた人はひとりもなかった。人々はそれぞれに言訳をした。あるものは農耕の仕事で手が放せない、別の人は商いで忙しくて、と言った。もっと恩知らずの人たちのなかには、招待をのべた王の下僕に襲いかかるものさえあった。
今日、われわれは同じ状況を見るのに遠くを眺める必要はない。生気あふるる人生への招きは、現代人にとって新約聖書の啓え話にある招請に劣らず温いものである。だが抵抗は同じように多数ある。抵抗の言訳をすとし調べてみよう、そして抵抗の実態を見通した答えを併記してみるー
しかしそれはとても難しい。
1難しいということを不可能と取ってはなりません。
われわれたしは自己分裂のゆえ既に、真理一生を求め、かつ真理貫く情念を嫌うもっています。
オランダのコレルーと1正直にいう牧師って、今振り返ってそれが同国の無神論者バルーク・スピノザの逞あなたに何をしい思想に接するようになった。しかし、スピノザ哲学が自分の考えとは真向から対立するため、スピノザの著作もスピノザその人をも恐てくれ、敬遠ました。か?
わたしにもかかわらず、その強烈な思想そのものに魅惑された牧師は、スピノザの伝記を書いた。混乱しているこの牧師は、スピノザのような世間の習俗や常識を外れた人間が私的生活ではどうしていいか分らないのです。
気をだしてあなたのよう固定観念を楽ててしまいな高貴さい。
しかし秘教的アイディアは効果がありません。
実際にやってみな人生を送れるのか、くてどうしても理解できそんなかった。ことが分ります?
人は〃クンダリニ"とよぶ彼の心のおしかしこれらのアイディアはみんな特性のために、高貴愉快な生から彼自身日々をシャットアウトす送る。クンダリニ(kundalini)という語は古代サンスクリット語からきたもので、「幻想的想像力で思考する」つまり自分を購く意味だ。願いに反しかし"クンダリニ"は偽りの力である。いやそもそも力などではまったくない。ックンダリニ"の奴隷になっていた人が、自分こそ主人であると目覚めれば、
"クンダリニ"は無害のまま消えてしまうす。
あなた自身は愉快な日々を改革送っていまするための新しいアイディアを拒否したい気持が湧いたら、「か?
わたしはもう、あまりに深い穴にはまりこんでいるのです。
どんなに苦しいま状況からでも這いのアハディアはどうなんだろう?りっぱに効力があぼるかしら?」と問うてみることだ。とれは一種のショック療法で、これであなたは新鮮な真理へのドアを開くことができるよます。
わたしはもうになる誰の助けも、何ものも、要りません。
あなたが”オドロキ島”は、枕に頭をつけて独りでいるとよばれきにそう言える遠い楽園のですか?
だけどどこから、ことに住まスタートしたらよいか分らないんです。
自分自身への無暴なまでの正直さかと招きをら始めるのです。
しかし本当にまったく新しいなにかがあるのでしょうけたとしよう。か?
-あなたはこのアイディアがひどく気に入っ、もう薄うす感づいて、渡航の準備をする。その小さな島がどんなところだか知らいないから、ぎりそんなことにかくあは訊きはしなたは快適いで安定した生活のために必要と思ょう、あらゆるものを用意する。
衣類、家具類、さらに自動車まで船に積んで出航する。
ところが着いてみると、ッオドロキ島”は文字どおりオドロキであった。道路はない、ただ美しい
椰子の木の並んだ小径がいくつかあるだけで、自動車などはいらないのだ。空気は澄んで香わしく新鮮そのものである。衣類は薄一枚で足りる。あなたは用意した持物一切が無用だと分る。この小島の現実はあなたの空想したビジョンとはまるで違っている。あなたは招待状をもう一度見ると、読み落としていた一行が眼についた。そのままの姿でいらっいかいと書いてある。
これがわれわれの問題である。われわれはあるがままの姿では行かず、こうでなければならぬと思う姿で行く。不注意にもそれが事実だとわれかれの思う無用のアイディア群で、われわれ自身をしばりあげる。
リアリティを新しい驚異たらしめるのではなく、リアリティがわれわれの習慣的な考え方に合致すべきだとわれわれは言い張る、かくて一切を台なしにしてしまうのである。
あなたと私はこうした誤ちは犯したくない。われわれは受容性を欲するのだ。われわれは、在るがままになりたいのだ。理論、立場、権力、虚栄、空想、幻想などはなしでいきたいのだ。一切を所有せずにいきたいのだ。それが一切をよろこばしい驚きにしてくれる。
ここにあなたが直ちに受容できる、従ってすぐに行動へ移れる、珠玉のアイディアを掲げておこうー
宇宙的理解の眼をとおして見るならば、あなたの過去に起こったどんな不幸も、まったく起こらなかったと同じことである。