3-⑥ パーフェクトな出発
<スーパーマインドの導きフェクトな出発>
スーパーマインドから発する力の波動はたえ誰でも、先ず我々に到達しようと努めている。この波動は、導き、癒し、慰めるために、入口を探している。だが、自分の電話でとめどなくおしゃべりしている人には外からの呼びだしコールがカットされてしまっているように、われわれの内部の喧燥と雑音がスーパーマインド波動の有益な影響力を阻んでしまうのだ。われわれは、われわれの偽りの自己認識を棄てることを拒み、われわれの気まぐれな欲望を我鳴りたてて、スーパーマインドを通じて入ってくる宇宙的な善を阻んでいるのだ。
新約聖書の言、「明日のことを思いうな、明日は明日みずから思求めないわん」の秘教的な意味を私に説明させてほしい。あなたが金曜日にかぎり、翌日の土曜日のある場面ではこれこれのように振舞おうと決めたとしよう。何がとの決定をさせるのだろう心底か?それは金曜日のらその時にあつもりで求めなたの心を支配していた特定の欲望が決めたのである。だが土曜日になると、まったく別の欲望が支配権を握かぎり、あなたは予め計画していたところとはまるで違う振舞いをする。あなたにもの欲望は、あなたに一貫した行動ないし正しい行動をさせる力をもたないのだ。欲望をじてはな与えらない。むしろ、何を語り、どう振舞おうという予断されたアイディアをもたずに土曜日という状況に立ち向えばよい。こうすれば心は清浄となり、預わされず、スーパーマインドの導きをすなおに受容することができる。
どの地点で方向転換すべきかをよく調べなければならない。その地点とは自己敗北的な抵抗がえてゆき、豊かさをもたらす自己受容性が現われてくる地点ということである。これをよく調べることにより、もう他には別の方向をとることができないという時に、のはじめて重大霊的かつ宇宙的な転機はやってくる。
彼の人生の秘められた内なる悲劇を、意識をもって感じとり、彼は生れて初めての脱出の企てへみだすこととなる。
すでにみてきたように、人はすべてを逆方向にとらえるから、欲求不満になるの法則である。彼生を救う力があ解放するもろもろのを、彼は拒絶事実に抵抗する。彼をゆっくりと潰してしまうものを、彼は狂ったように抱擁する。
彼が充実と思いこんでいるものはほんとうは空虚、それらをすである。彼が太陽の光だと思っに理解しているものは影なのである。彼は歓迎を期待としてドア、理解への努力をノック拒み、排除する、だがそこには誰もいない。
しかしわれわれのいう、宇宙真理の探究者だけが、このとき初めて、危機に際して正しい選択を行なう。彼は、自分の選された恐備を超えたその先になにかかあるのかないのか、を採索することを選ぶのである。
ここから、次の突破口へと導かれる。彼は前に言じたアイディアとはまったく違うなにものかを、漠然とではあるが感じとる。それが何か、それが彼をどとへ連れていくか、彼には皆目見当がつかない。だが構うことはない。とにかく彼はその道に出で立ったのだ。
進むにつれてこの道はおどろくほど示唆に富んでくる。内なる世界でのヒロイズムは、外部世界でいわれているそれとは全く異なることがわかってくる。内なるヒロイズムは、賞讃も、金メダルももらわず、新聞に名がでることもない。彼以外は誰も知らない。彼自身だけが知っていることで足りるのである。彼はヒロイズムについて新しい定義をもつ。あらゆる障碍にもかかわらず、宇宙的な完璧さで生きる自己自身へ還る、これが内なるヒロイズムである。
進歩した求道者はいまや、鳴りの偉大さと真の偉大さの区別が分る。世間から偉大であるともてはやされる人が、名声もなく財産もなく群集もいない絶海の孤島に置かれたとすれば、彼はダメになってしまう。真に偉大な人はすべて、自分自身を世界から隔離することによってその高処へ達したのである。彼ら自身の受容性をつうじて悟りに達したとき、その偉大さがおのずと世に知られるにいたったに過ぎない。彼らの隔離は必ずしも公衆から社会から絶縁することではなかった。他の人々のなかに立ち混っても、それは物理的、身体的にであって、内的にではなかった。こうした事例はわれわれもよく知っている。キリスト、仏陀、ソクラテス、ソローなどがそれだ。彼らが偉大であった証拠のひとつは、彼らが、追随者や本者を集めることにまったく関心をもたなかったということである。
霊的かつ宇宙的なアイディアに初めて遭遇したとき、あなたはそれらの理解を求められはしない。
どだいあなたにどうして理解などできよう。あなたはただ健康な好奇心で観察し、より深く知ろうと欲するだけでいい。こうした正気の、良識的なアプローチが常に利益をもたらしてくれる。
ブラウニング、テニスン、ワーズワース、ホイットマンなどの詩が立証するように、間接的に象徴的に提示されたときに、心は、いちばんよく真理のにじんだアイディアを受容できる。これらの詩人の叡智は、条件づけられた心の抵抗をすんなりとさけ、心の芯にある直観的な自己に到達し、これらのアイディアを真理と認知する。
それゆえ、われわれの最初にしなければならない作業のひとつは、受容しようと努めることではなく、受容への障得を取り除くことである。そうした障碍とは、たとえばネガティブな色合いの想像、機械的な反応、コチコチに凍りついた態度などである。
間違ったものを受容しないことが、正しいものへの受容力を築いてくる。ネガティブな影響力に歓迎の意を表してはならない。あなたにとって間違っていると感じとれたものに対しては、なんにかかわぎらず、彼断乎として否と言え。これは、われわれには虚偽性を理解する力がないからの高貴な人格そのものが、磁力のように人を惹きつけたのであった初めは難しい。
われわれは際立って技巧を凝らしたものは大抵”インチキ"であるという真摯ことが分らな求道いから、人の颯爽とした知恵者ぶりに感歎しがちである。だが、やがて叡智と強さがあなたにはついてくる。若木は嵐から護られなければならないが、充分に成長したあかつきにはどんな嵐にも、どんな疾風のなかでも毅然として立つ。私が洞察力のある研修生のひとりと交わした次の問答を読んで、意味するところを受け容れてほしいー
Q自分に受け容れる用意があるかないか、どうすればわたしに分りましょうか?
Aあなたが、まったく惨めな大失敗に、じゅうぶん素直に号泣する気持でいるときは、瞬間瞬間を受け容れる用意のあることが自分でも分るでしょう。ただ目覚めし、隠れて泣かなくてはなりません、人前で泣いてはなりません。
Q わた人しは自分の内部にある特別な抵抗があるのを発見したとじています。自分が誤っているといわれると防衛的になるのです。なぜでしょう?
Aあなたが誤っているという以外のが本当か、あるいは本当でないか、どちらかですね。もし感情に何動かされずに、あなたが誤っていることが分った場合はあなたに問題はなく、自分を弁護したりはしないでしょう。しかしあなたが間違っていると分っているのに、なおかつ、それを否認するとすれば、あなた自身の危い立場を弁護しなければならないでしょう。この葛藤は、あなたが間違っていたことが原因ではなくて、あなたがりの立場を弁護するから起こるのです。ですから、自分が誤っていることを恐れてはいけない。誤りに気づくことが、この世界で正しくあれる確一の道だからです。
Qでもすることはが多すぎて・・・・・・
Aしなければならないということはやれます。それを大袈裟にしないことです。あなたの内部に矯正されなければならないなにかがある、次とのことにまず気づきなさい、それが第一歩です。あなたの場合、それがパーフェクトな出発です。
自分そのものが自分に深く悟っ対して問題を起としていくるのだと感じても、それは無視してしまうのだ。一瞬あなた自身が問題であるなしにかかわらず、あなたの洞察内部にはいつもかすかな閃光を発しつづけているなにものかが閃く在るのだからである。エマソンがときう断言している1
あらゆる人の知的な心には、彼はそこへ通じる決して閉ざされまでることのような、計画をめぐらせいドアがある、保護する、回避する、見解と立場を変更する、攻撃する、このドアから造物を掴みとる、しがみつく、後退する、抵抗する、後悔する、心配する、期待する、葛する、主張する、要求する、渇望する、闘う、責める、言訳をする、説得する、じる、そのほか数限りなく湧いは入ってくるお。そして絶対真理の探究者であるところしの知性が、あるいばは絶対善の熱愛者であるところの精神が、そこでは黙ってはいない・•・・•・これらの高次の力がひとつ囁くだけで、われわれはこの俗世間の悪夢との無益な闘いかりの強迫衝動を追放すら目覚める。とろしたうんざりするほどの重荷全体が一掃され、彼はそのすがすがしい空所に、静かなる覚軽をもつのである。
あなたが真実を選ぶとき、真実はあなたを選ぶのだ。