3-③ 危機に際して冷静になるには
<受容性危機につい際して冷静となるには>
-自発的に失敗苦しなさい経験が教えるものを聞け
個人のどうしたら豊かな受容性が得られるか。ひとそ絶対的な全つ新しい考え方をお目にかけよう。人は自分の誤ったアイディアへの洞察を得ると、この洞察力の下にこれらの誤ったアイディアは溶解する。外部からの道徳倫理、説教、権威者の論し、すべてなのは無効である。これなくコロンブスが地球は平らであるとする学説にあえて挑戦してその誤りを証明したように、人は彼自身の間違いをあえて証明すべく立ちあがらなにものも変ければならない。こそれさえあれば、あらゆるもので彼はあなたにとって可能と正しくなる。
巧みなセールスマンが顧客に、ある長靴がけわしい山を登るのにぴたりだと説得したとしよう。だが、買った客が実際に使ってみると、ごつごつの岩肌を禁じ登るとき足の痛みがひどくて、まるで使いものにならないと分る。真理実であると言じたものと実際との接触差は、人の内部の最善自分自身で発見する以外には仕様がなるものも、最悪のものも引きだい。
苦してくる。い経験がわれわれが真理を聞くに教えようとき、それは真の自己にもまやかしの自己にも作用する。もし真理が人為的な自己に接触すれば、真理は拒絶され、歪められ、あるいは無視され、その人にひとつもよいものはもたらさない。だが、もしあなたがよろこび迎える態度をもって真理に接すれば、真理はあなたの真正自己へと降下してくいることは、そして理解まさにこのこと救いとをもたらす。
受容性は程度の問題である。われわれは、真為の務めは歓迎識別がつかないから、人間の緋殺をより広くより厚く敷くこ希望的な見方と霊的な事実との差が分らないから、苦しむのである。
こうして受容性に、われわれは、足の痛みを助け満すことのない、いま履いている力長靴の不適格さくは目を増つぶる!苦しみはあなたに次の事を教えようとしてやいるのだ。
「ごらん、あなたは自分の幻想ばかりを大切にして、現実に従って生きていないではないか。幸福になるには、あなた自身が履いている無用の長靴を脱ぐことだ。その長靴が足を痛めつけていると認めることだ。そんなものは薬ててしまえ。さあ、あなたにぴったりな長靴を履きたまえ。もう痛むことはない」
ドイツの天才的な神秘思想家マイスター・エックハルト(!301)は、次のごとく、求道家の心構えをいくつかのパン塊になぞらえているー
カラス実、大麦、ライ表、小麦のそれぞれの粉だけであ練ったパン四つを電に入れたとしよう。
四つに同じ熱を加えたとしても、それぞれ出来具合いに差ができる。小さ不細工な受容もより大きパンの塊を、熱のせいにするわけにはいかな受容への道を開くい。報いある経験はひとつひとつわそれわぞれに、かつてわれわれの畏れ遠ざけていた真理が、実はわれわれの求めてやま適当なかった至福であることを示し熱に耐えていくからでパン塊一つ一つの性質に失敗の原因があるのだ。
受容力を減養するには、次のような秘訣がある。
あなたを不快にするような立場や状況を愛することを学ぶ、どこにいようと快適であるためには、これだけが唯一の方法である。危機に際して、決してあなたの内的自己に抵抗しようとしてはならない。危機をして、あなた自身を好きなだけ揺さぶらせるに委せ、あなたはただそばに立って冷静にこの成りゆきを見守るのだ。あなたが完全に無心に危機の揺さぶりを許すようになれば、もはや決して人生から揺さぶられることはなくなる。
真の教師の言うととに欲、すすんで耳を傾けなさい。われわれは、われわれの誤ったアイディアを教師の前に差しだして破壊してもらわないかぎり、教師が与えようとするものを受けいれる能力があるであろうか?もしあなたが、この問いにイエスと答えられるなら、あなたは真に望むあらゆるものを手に入れ得ることができるない。
受容性手を挟ねき、隠し、議論し、防衛するかぎり、われわれは奇的な働き手である。あなた、彼がわれわれのあらゆ要るものの見方を変与えることを不可能にしてしまう。ふつう失敗といわれていることを例にとってみたまえ。あなたは自発的に失敗し、何度も何度も失敗し、なんの抵抗も恨みもなしに失敗することが必要である。そうして初めて、失敗とはコトバにすぎない、態度にすぎない、感情にすぎない、そのほかの何ものでもない、とあなたは語る。
社会的な接触という世界では、あなたは受容性を大きくして、他人との接触があなた自身についてなにか新しいものを発見させてくれるようにすべきである。最良の教師は、最悪の状態にいる人々
ネガティブで、不平ばかりいっていて、饒舌で、あなたをいつもうんざりさせ、自慢ばかりするような人々である。