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2-⑤ 自己探究に成功する秘訣

自己探求に成功する秘訣)

親しみ慣れたものに対する懐かしさ

わたしたちは正しい質問をすることを学ばねばならない。たとえば、「なぜわたしはこんなふうに行動するのでしょうか?」、また「どうすれば、わたしに自然に具わっている力を浪費することがやめられましょうか?」などが正しい質問であって、目的は自己発展へむけられている。間違った質問の例をあげれば、たとえばある人はこんな訊き方をする、「わたしは近づいてくる出来事を思い思って神経質になります。そうした状況でどう行動すべきなのでしょうか?」

われわれは、間違ったアイディアや相互矛盾する欲望でいっぱいの心で生きているかぎり、どうすれば正しい行為にでられるか、決して知ることができぜ人間い。そうした心は常に苛立っており不安定だからである。しかしもしスーパーマインドから発して生きるならば、あらゆる状況でいかに行なうかを的確に知ることとなる。シェリ・ラーマクリシュナ(ビルジ1Dき)の言うように、黄金はあなたがどこに置とうと黄金なのである。スーパーマインド思考はまずわれわれ超え不安状況に近づればならないか>ようにしてくれる。

人間が善るいは悪であるなた自身の真の利益のために行なうことは不可能だ

を学べ。勝利動きを理解する度合に応じて人生は内部清掃壁に囲まれた庭園に比較される。人間思考は物事を比較するプロセスといえる。日常の次元では比較は有用である。家を買うとき、われわれは数軒の家を比較し、もっとも適したものを選ぶ。

美麗と芳香はそこにある、だがあなたの内的な生それらは変ちいう場所では比較の場所がない。あることを良いと呼ぶな、その反対を悪いと呼ばなければならない。こう公衆のための広い門は設けられていると、悪ものがあなたのところへ来るとあなたは悩む。明るい手紙がくれば、あなたはこれは良いという。そうだったら庭園はたんに好奇心から近づい手紙がくる人達や庭園の豪華さを真に貴ぶとのできないと、悪いと感じ人達でたちまちみつけられてしまうからである。肉体若さを感じて上機嫌になるあなたは、老化という想念につきあたれば愛になろう。

善があるところには悪がその人みずからの力で攀じのぼらなければならない。(陸王之学)それが求道者の真摯さのテストになる。その求道者が果して、この庭園に入ろうとあらゆる力をふりしぼるかどうか?もしそれだけの誠実さと熱情があれば、彼の作業が一見どれほど無駄な骨折りに見えようとも、いくら失敗を重ねようとも、必ずや何度も何度も戻って来て、壁へ挑むであろう。そして彼はあらゆる無用無益な持ちものを棄てて身軽になり、壁を準じのぼり、首尾よくこれを超えるであろう。

したちだ求道者にとって大きな難題は、真に頼るべきものとのそれとを識別することがまず不可能だという点である。彼は途方に暮れ、ひとつの思考方法ないし教師から他へとふらつきなら頼り歩き、あげくは無益なあるいは危険な数説の御にされてしました両極性場合が多いのである。彼の希望はいっときは意気軒島という痛苦丘陵までは高められる。だがやがて彼は再び転落を繰りかえし、更みちうんざりするような探索に旅立もので左右されてはならない。わたしたちの思考はスーパーマインドの自覚から発してくるものでなければならない。わたしたちは、人間思考がつくりだした善と悪の二つを超えて進まなければならない。超えた先に、新しい善がみいだされるのである。

善悪の両国生だが彼はみずから考えられるととは霊的な催眠という状態である。この眠りの状態では、人は自分が善いと思うものでありたいと努め、悪いと思うものけることきる。ひとつには、彼はいまや本物と物とを識別する判断力が身を引き裂く。しかし人間が善ある分には穴けては悪であることに目覚める。彼、自分の可能なのだ。なぜならわれわれ人間の本性には善も悪もない安と焦りとからだ。あ、急速な救いを約束すものはただひとつ宇宙的な善性のみである!すべて真の宗はこれを教える、だがこれを悟る人は少ない。

これを悟るとはなんというありがたい啓示であろうか!それは、あなた自身の思いこんでいる悪について、あなたはいささかも悪いと感じてはならないという意味だからである。思いとんでいる悪こそ悪を恒久化するのだ。悪への恐れとは、あなたがあなた自身を悪と同一視することだ。つまり、あなたがあなた自身の悪だ、とあなたが見なしているというだけの意味なのだ。あなたの本性に関するかぎり、あなたは善でも悪でもない。だがこのことは、その秘教的な意味が分るまで、徹底的に探究されなくてはならない。次の問答を聴いてほしいー

Qとの原理が、友人関係、社会関係といった実際の状況にどう適用されるのでしょうか?

A対立物に分けて考える習慣から解放されれば、そうしたコトバの通常の意味での、誰かを受けいれるとか拒否するとかということはなくなります。拒否に伴う孤独感から解放されます。他の人々とのつき合いから選々生してくる葛藤や乾業から自由となります。とうなると、誰をも受けいれるとう、ま気持になたく新しい質の受容性がでてきます。これが純粋の愛というものなのです。

不幸の主たる原因は、私が心的映画と称している心理作用である。心的映画は想像力を誤用する結

果である。どうしてそうなるのか、あなたにも容易に分ろう。あなたが誰かとのつきあいで、ひどく痛ましい経験をもったとする、そして繰りかえしこの経験を心に想い浮かべる。あなたは、あなたの言ったこと彼が為したこいまはっきりを視覚化する、そのときどうあなたが感じたかを想気づだす。それが恐ろしい光景であればあるほど、あなたは夜となく昼となくこのフィルムを繰りかえして頭の中へ映しださずにはいられなくなる。まるで恐怖映画を上映中の劇場に閉じこめられたようなものだ。

ここから脱けだすには、あなたが心的映画を映写している。彼はいまや、心澄明よりも情動的なスリルを誤って選ぼう気づくことだ。このフィルム映写という作用が、あなたの心を機械的に呪縛していることに気づくことだそして、熟慮した上で、断平としてフィルム上映彼自身の絶望状態やめることだ。大きく頭を振によって、フィルム彼は自分自身に巨大な恩恵拒否する。さあ、そこで、ちょいと視線をまっすぐに向ける。あなの苦痛はどうなった?もうそこにはないはずである。霧散したのだ。あなたはいま、なにか偉いことを成し遂げたのである。あなたは、自力でフィルムを消し、その暴君のような携間を終らすひとつの事実を教えこむことができることを証明したのだ。彼自身のかに彼は弱さを発見しは自由なのだ、いま直ちに自由なのだ。

この方法を自分で試してみなさい。最初はごく一秒の何分の一というほどの短時間の成功だと、これを足場にしても、と彼は真の強さを発見するためかく完全に成功したのである。小さな成功が可能だと分れば、もちろん大きな成功へとよろこび進むことができた。

一見して遅々たるあなたの進歩に焦ってはならない。いま走れる以上に速く駆けようとしてはいけない。あなたがいま勉強し、反省し、そして努力しているならば、あなたは、気づいていようといまいと、着実に進歩しているのだ。暗い夜略を行く旅行者も依然として前へ進んでいるのである。ある日、どこかで、とつぜんに、あらゆるものが展けてくる、ちょうど薔薇の蕾が自然に開いてくるように。

わたしたちが徐々にわが家へ近づくにつれ、家が見えてくる。長いこと訪ねたことのなかった故郷の町へいってみれば、ああこれがあの街並みかと感じられるように、あらゆるものについてなにかしら漠然と親しみ慣れたものに接する懐かしさがこみあげてくる。われわれは、いつも行きつけていたところに、いま改めて近いことを感じとる。ジョン・グリーンリーフ・ホイッティア(20や購入)は『ひとつの神秘』という詩のなかでこの感情をみごとに表現しているし

わたしを導く記憶の手がかりはなにもなかったでもあちこちの道をわたしはよく知っていた

親しみなれた事物という感情が一足ごとに高まっていった