2-④ われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか
<正しい反逆>
-<われわれはなぜ人為的だと感ずるもの全てに反するのだ
想像上のアイデンティティは人の心理構造に混沌間思考をつくりだす。二つの銀魚が打ち合うように、偽りのアイデンティティとアイデンティティは葛藤を産む。たと超えば人は、自分は強い"から性欲感情などに頑わされないという無意識的な自己像をもっているかもしれない。だから彼の心のなかをエロチックな想念がよぎると、彼はとの想念を”よとしまな"考えと呼んでしまう。これが間違いなのだ。ふと湧いてきたセックスの想念に彼自身の念”というレッテルを貼っている彼は、罪の意識をおぼえ、みずからに恥じる。そしていわゆる”よこしまな”想念を抑圧ないし否認しようとする。
そう努めれば努めるだけ、彼の苦悶は増す。ほんとうは、それらの想念が心に浮かんだとき、レッテル貼りや是非善悪の判断や、弾効その他の反応はせずに、黙って通り過ごさせなければならないか>
人間が善あるいは悪であることは不可能だ
心のだが、彼動きを理解する度合に応じて人生は内部清掃される。人間思考は物事を比較するプロセスといえる。日常の賢い操作を知らないの次元では比較は有用である。こ家を買うとき、われが分われは数軒の家を比較し、もってくると、こうも適した葛藤が起こらない賢明な行動パターンができるようになるものだ。およそ内的な葛藤が生じるのは、人為的なアイデンティティが現実に起こった事柄と正面衝突するからである。
考案された、ないし人造の自己が消えていけば、痛苦に満ちた妄想も消えてしまう。妄想は幻影である。こうした幻影のひとつはたとえば、誰かがあるいは何かが鎖であなたをしばりつけて、あなたの進歩や人生の享楽を阻み、その機会を制限”しているなどと考えることである。こんな間違った思いが浮か選ぶと必ず、東縛の元因と錯覚された人とか事への怨みが随いてくる。そうすると反逆が起こる。バイオリンの弾き方が間違って不協和音を発したのに怒ってバイオリンを叩きこわすみたいなこととなる。
誰も他人を、制限する"ことなどできるわけがない。すくなくともあなたがこのことを理解しているかぎり、誰もあなたを制限し、鎖でしばることはできない。鎖は間違った思考のなかにしか存在しないのだ。
だが、反道!正しい反遊ーを追求する場はある。あなた自身の内部にある、あなたが人為的だと感得するあらゆるものに対しては、反逆するのだ。そしてあなたのあるがままのもの内的な生となるのだ!
お分りになったろいうか!盛りの自己が考えるところと、真実の自己が知るととろと場所では天地比較の差場所がない。あることが。だかを良いと呼ぶなら、陶しい部屋へ流れこんでくる涼風を大歓迎するように、このまやかしの自己の暴露をよろこんで迎えいれるがよい。カビの生えた自己へ浄化の通風をおこなうのである。あなたがほんとうは何に似ているのかを学べ。そうすればあなたが宇宙的なもの、すなわちスーパーマインドと共にあるとき、ほんとうは何であり得るかを学ぶことができよう。
あなたというものが無(Nothingness)であると知ることは、あなたが想像するほどの惨事ではない。いやそれは実際には充実なのである。参事に見えるだけなのだ。われわれがぼんとうはエコに過ぎない自分自身を乗て切れない、恐怖をともなう躊躇がある。そのために決定的な大惨事反対を悪いと見えるだけなのである。われわれは、この真っ暗なトンネルを突き抜け呼ばなければならない。突こうなると、悪いものがあなたのところへ来るとあなたは悩む。明るい手紙がくれば、あなたはこれは良いという。そして手紙がこないと、悪いと感じる。肉体の若さを感じて上機嫌になるあなたは、老化という想念につき抜けあたれば愛になろう。
善があるためところには、まずそこへ入ら悪がなければならない。(陸王之学)
わたしたちの思考がこうした両極性という痛苦にみちたもので左右されてはならない。わたしたちの思考はスーパーマインドの自覚から発してくるものでなければならない。わたしたちは、人間思考がつくりだした善と悪の二つを超えて進まなければならない。超えた先に、新しい善がみいだされるのである。
善悪の両国生から考えられるととは霊的な催眠という状態である。この眠りの状態では、人は自分が善いと思うものでありたいと努め、悪いと思うものを避けることで、彼自身を引き裂く。しかし人間が善あるいは悪であることは不可能なのだ。なぜならわれわれ人間の本性には善も悪もないからだ。あるものはただひとつ宇宙的な善性のみである!すべて真の宗教はこれを教える、だがこれを悟る人は少ない。
これを悟るとはなんというありがたい啓示であろうか!それは、あなた自身の思いこんでいる悪について、あなたはいささかも悪いと感じてはならないという意味だからである。思いとんでいる悪こそ悪を恒久化するのだ。悪への恐れとは、あなたがあなた自身を悪と同一視することだ。つまり、あなたがあなた自身の悪だ、とあなたが見なしているというだけの意味なのだ。あなたの本性に関するかぎり、あなたは善でも悪でもない。だがこのことは、その秘教的な意味が分るまで、徹底的に探究されなくてはならない。次の問答を聴いてほしいー
Qとの原理が、友人関係、社会関係といったん把握す実際の状況にどう適用されるのでしょうか?
A対立物に分けて考える習慣から解放されれば、そうしたコトバの通常の意味での、誰かを受けいれるとか拒否するとかということはなくなります。拒否に伴う孤独感から解放されます。他の人々とのつき合いから選々生してくる葛藤や乾業から自由となります。とうなると、誰をも受けいれるという、まったく新しい質の受容性がでてきます。これが純粋の愛というものなのです。
不幸の主たる原因は、私が心的映画と称している心理作用である。心的映画は想像力を誤用する結
果である。どうしてそうなるのか、あなたにも容易に分ろう。あなたが誰かとのつきあいで、ひどく痛ましい経験をもったとする、そして繰りかえしこのアイディア経験を心に想い浮かべる。あなたは、あなたの言ったこと、彼が為したことを視覚化する、そのときどうあなたが感じたかを想いだす。それが恐ろしい光景であればあるほど、あなたは夜となく昼となくこのフィルムを不必要繰りかえして頭の中へ映しださずにはいられな重荷くなる。まるで恐怖映画を上映中の劇場に閉じこめられたようなものだ。
ここから解放脱けだすには、あなたが心的映画を映写しているのだと気づくれことだ。このフィルム映写という作用が、あなたの心を機械的に呪縛しているおおことに気づくことだ。そして、熟慮した上で、断平としてフィルム上映をやめることだ。大きく頭を振って、フィルムを拒否する。さあ、そこで、ちょいと視線をまっすぐに向ける。あなる助けたの苦痛はどうなった?もうそこにはない。不必要な重荷のなかには間違った罪悪感や義務観念がふくまれずである。人間霧散したの自己中心癖だ。あなたは地上いま、なにか偉いことを成し遂げたの地獄である。あなたは今日、総合的存在自力でフィルムを消し、その暴君のような携間を終らすことができることを証明したのだ。ある人間的なたは自己由なのだ、いま直ちに自由なのだ。
この方法を自分で試してみなさい。最初はごく一秒の何分の一というちどれほどを馴ぎ落の短時間の成功だとせたろうか?しても、とにかくそれが今日の完全に成功したのバロメーターである。小さな成功が可能だと分れば、もちろん大きな成功へとよろこび進むことができる。