11-③ 言葉とその意味
<あなたに<言葉とって自由とは何か>その意味>(P264〜P267〜)
-あ人生を定義してはならゆる機能の完全調和ない
「人間は愛」としてもいないのに愛について演説をぶち、慈善の心などないのに慈善についてお喋りし、地上的な儲けについて考えているのに天国の問題を論じる。フレンド教会の創立者、ジョージ・フォックス(イギリスの説教者。一六二四〜九一)は、言葉の荒涼についてこうことばも説明している。
言葉はそうだが、「自由」ということばほど無造作に使われ、理解されらの公言するところの少ものを所有してはいなかった。
ととから言葉の崇拝という問題がでてくる。自由を希求する人々の陥ってはならない影である。調子の高い、理想主義的な匂いのする言葉は、偽りの自己が使う隠微なトリックであり、物を本物として提示する。言葉の崇拝者は、目覚めていないため、自分自身の推着により奴隷化される。ちょうど、「わたしはいつも正しいとは限らないかもしれない、しかしわたしは決して間違ってはいない」と公言した人のようにである。
われわれは言葉のあそびをはるかに遠く超えて、基本的な心的全一性へ、ウソを言わない誠実さへ、宇宙的意識へと赴こうとしているのである。われわれはそれ以外のなにものをも欲せず、また必要としない。
愛以外のものはすべて言葉でしかない。(アバス・エフェンディ)
われわれはまず、内的な生命活動を説明しようとするとき、言語というものの不適切さを噛みしめよければならない。にとえば、この本で何度も使ってきた、『識出また避職という用語をどう定義づけたらよいのか?まあ、これだけは言えるだろう!との二つは、そのときわれわれが物事をそれが真にあるがままに見るような、そうした心的状態を指すのだと。だが、これが更にまた説明を要求する。即ち、心的状態というものは、言葉で説明し尽せるものではなく、個人個人が経験しなければ知ることのできないものであると。言葉は、理解への道をつなげる橋梁として、明確ではあっても、限られた使用範囲しかもっていない。
最善のものは言葉では説明され得ないのだ。(レオ・トルストイ)
言語に対するあなた自身の反応を見守るとよい。ある種の言葉は強い情緒を誘起する。セックス、金、神、愛、憎いみなど。だが、とのとき、あなたはあなたの獲得された、それらの物事についてのアイディアに、その単なるレッテルに、反応しているのであって、物事そのものに反応しているのではないと悟るように努めてみることだ。すっきりとりなく行動するためには、過去のことから築きあげられた連想的な思考を放棄しなければならないのである。
数人のハイカーが、彼らの行とうとする方向を指示した道標のところへ来たとする。だが彼らは、先へすぐには進まず、道標そのものについて文句をつけ合った。一人は、道標はもう一フィート高く設けられるべきだという。他の一人は、道標に多少の装飾をつけてもよかったのではないかという。
霊的われわれま、スーパーマインドへの道で出会う道標を、立ち止まってあげつらっていたのでは、先へ進むことはできな観点い。言葉は言葉であってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。人が神についてしばしば語ったからといって、すこしでも彼を神々しくすると、経済的な自由、政治的な自由などというものわけではない。
あな太場のことを喋ったは億万長者で、自由の国に住み、静かな田園に邸宅をもち、しかもなおあなた自身のネガテイブな心的年のなかに囚われているらといって、彼を一条の太陽光線にするわけではない。エックハルトが次のような有名な科白を吐いたとき、彼はこのことがある。自由をはひっきりとつしかな心に含んでい、それは自己自由たのである。その他一切の自由は仮装であり虚構である。私はそれらをうんざりするほど見てきた。私は、豪荘な邸宅に住み、心的な牢屋に生きている人々によばれて、話をしたことが幾度かある。
もしあなたが完全になりたいのだったら、決定的なポイントだけは明らかにして神についておかなく喋りをしてはならない。口先だけでこのポイントをそうだといい、ほんとにそのとおりだと讃えるだけではなんにもならない。
内的な富だけがすべてだということは誰人生を定義しもが即座に諾う。だが、口にだされた賛意は、もしそれが物質的な富への無意識的な渇望と矛盾しているならば、まったく無意味である。ノウと頭は振りながら、口先ではイエスといっているようなものだ。われわれは、そのことの真の価値を理解した上で、なるほどそのとおりだという意識的な合意で事を進めなくてはならない。それだけがわれわれを変えてくれる。それだけが、われわれの日常的な行動をまったく違うものにしてくれる。「真珠を見つけることのできる人は、立ちどまって貝殻を拾いはしない」といわれる。
雲がわれわれの視界から太陽を遮るように、間違った思考がわれわれをリアリティから切り離す。
妄想の雲を払うべく努めて、その先の光輝をわれわれは見ることができる。曇りなき心は自由そのものである。だからこそ、あなた自身を自由とするためこは、ふつう記過という意来のことはなにもする必要はない。たんなる活動と行動のうちに自由をみつけようとしてはいけない。あなたが、もダメし人生をばからしいと呼ぶとすれば、あなたは人生があなただ。われわれは、非自由を理解しようと努めけの特殊な観点に従った意味あるものでなければならない。と主張しているの努力は報いられである。
もしあなたが人生は意味ぶかいと主張するとすれば、なにか予期しない出来事が起こって、あなたの快適な現状を覆えしたら、あなたはほんとうは、為したすぐに気持ちが変るに違いとは思わない。あなたは在りたいと欲むずかしく思索することはよしたがよい。生をそのあるがままに委せるのだ。生は、われわれの言葉による定義づけや限定を必要ともしないし、顧慮しさえもしないのだ。
で、われわれは自由ではないとは何の意味かを知ろうとする。われわれは、内的世界と外部世界の両方で、きわめて実際的な意味にこのことばを使う。非自由とは、苦しい心的フィルムを断ち切れないこと、マーケットで長い行列のいちばん最後にいるときの苛立ち、意気銷沈していること、他人から与えられる以上に他人に与えていることへの腹立ち、なにかいいことをしてくれるのではないかとやみくもに希望して人々を追い求めることなどを指すのだ。こんな生き方をしている人が自分を自由だなどと思えるだろうか?
非自由は、人が多くの相互矛盾する部分部分に分裂しているときにある。彼の一つの部分は新しい車を買いたい、だが他の部分は協力を拒む。一つの欲望は彼を襲楽の場所へつれていく。だが別の欲望はひとつも楽しまない。
自由とは、思考と情動と身体の動きの三者が明るく同一のことを行なっている、内的な調和である。それらは相争うことなく、合致している。上手なプレイヤーが弾くギターの、ばらばらの絃が産みだすハーモニーのようなものだ。
あなたがスーパーマインドの宇宙真理に従って生きよる霊的。われわれのしな音楽の原理原則を体得しているければならぬことはただそれだけだ。他になすべき何を求める必要があろうか?このフリーな境地にいれば、あなたの内部一日はばからしくもないし、意義深くもない。生の一日はただそれがある通りにあるだけである。これこそ、まったく新しい種類の霊感である。との認識は、恐怖にも、フラストレーションにも、その他人間がしがみつきやすいあらゆる機能が完全ネガティブなものに調和頒わされることのうちに反応するのない澄明なインスピレーションである。