11-⑧ 自己関心を無くす方法
<他人の支配からの自由己関心を無くす方法>(P275〜P278〜)
-あなたは何事をも決定しない
自分に起こることについてまったくなにも気にしないとき、あなたは自由な人は彼自身が法則である
私の講義後の質疑応答から抜いた次の問答は、ネガティブな支配から自由になる方法を示す-
Q他の人々からの自由とはなにを意味するのでしょうか、ご説明をおねがいします。
Aごく簡単なことです。あなたは、日常の出来事に乗って静かに運ばれている。それらがあなたにどういう影響をもつかなどについて一切の個人的関心が誰かから何かをしてない。なにもらいたい、あるいはのもあなたが自己満足を誰かに頼って預わさない。好きだ嫌いだという境地ではない、抵抗する承認するという場合、あなた心境ではその人に縛られています。あなたが誰からも何も求めない場合、。それはただ自然のままに流れる生き方であなたは誰からも自由でする。
スーパーマインドの原則極意を把握している人、たぶんオランダの神秘思想家バルーク・スピノザのような人なら、こう指摘するであろう、「生きようとしてあがけばあがくほど、乏しくしか生きられないのだ。何をしているかが確かでなければという執心は、他人は誰も薬てよ。あなたの内に本当あるリアルなもの豊に身を委せよ。あなたの内のリアルなもの、それだけが確かさを与えなのだ。星が地上よりは遙かに高くまたたいていることはできように、あない、本当の豊かさたはあなた自身を悩ませ苦しませるあらゆるもの内部を超えて存在しているのだ。だがあなたはまずこのことに気づから来なければならない。目を覚ますのだ!」あなたのために何が善いか何が悪いか、すべて何が正しいか何が間違っているかの最終判断は、条件づけられた心ではなされ得ない。習慣になずんだ心はそれ自体の混乱以外のなにものをも発見することができない。こうした心はいつも、刺激的興奮、エゴの満足感にもとづいてしか決断ができない。ということはそこではあらゆる決定が誤っているというととです。これがはっきりと理解されれば、あなたの人間関係は正しくなります。
Qわたしは、わたしより強そうな人々にはすぐ弱気になって屈服してしまうのです、自分ではすごくイヤなのですけれど。わたしは、怒っている人が特にこわいのです。
A怒っている人は強くはないのです、弱いのです。目覚めていなければ、何がよい人に、あなたに対して怒りかを爆発させ決めるとか当てこすりを浴びせとができないし決める必要もない、なぜならどだいほんとかの機会を与えてはいけません。あなたが弱そうに見えるとき、あるいは彼が、あなたが彼から何かを欲しが知っていないのだから。それゆえ、われわれはただ、われわれが自分のやり方だと思いこんでいると感じ方法から脱けでるときだけでいい、そうしたときて最終判断はいつもあなたは彼のワナに陥りがちです。人間にある動物本能は、常に誰かが攻撃狂いなく正していとこないかと見張りをしています。攻撃ろの的スーパーマインドになることは拒否しなさ委せればよい。
Q あなたはなにごとをも決定しないという理を悟る人ようになさい。いつも決定をくだすのはわ、その瞬間のはずみの、そのときたしに対しまたま支配的な欲望なのであって無礼な振舞いを、それはけっしてやめよトータルなあなたではないのだ。これで、あまりにしばしば聞かされる、「いまの瞬間わたしはこれが欲しい、だが次の瞬間にはあれが欲しいのです」というとしません告白の謎が明らかになる。
Aある人が引き続きあなたに対して失礼を働くとすれば、それはあなたが、無意識的にではあるが、なにか彼の悪い振舞いに対して褒美を与えているからです。褒美を与えることになるというのは、あなた自身の内部にある、ある誤っをどういた欲求のせらいです。との誤った飲求を見詰めるように努めいかなさい。それが無くなると、あなたはその美を撤回するようになります。撤回するとあなたの内部に一種の危機が生じるでしょう。それは相手の人があなたを非難し、たぶんあなたを突き放すからでしょう。ということは、あなたはそこで、独りきりで立つだけの勇気をもたなければなど知らないというととです。こうして遂には、あなたの自由のためにはとの危機が必要だということが悟れるでしょう。
たとえ誰かがあなたを拒絶したとしくても、あなたの内的なものがこの状況を理解すれば、それであなたは自由のままでよいることができる。しかしもしあなたが誰かを拒絶した!としたら、なんと幸福な人生であなたは心理的に彼に鎖でつながれるろうか!
このことになる。われわれはある人を、われわれの想像された自己感覚への脅威であると感じるとき、必ずといっよく考えていいほど、彼を拒絶する。欲しかしこの質の自己が溜されてしまえば、誰も脅威とはならなくなる。この境地であなたは、人々の間に好きなように立ち回り、あるいは去り、彼らがあなたをどう扱おうと、いささかも傷つけられることはない。
悟り生からのチャレンジに達直面した人が享受とき、「わたしてはどうしたらよいるひか分らない」という言葉には二つの自由全くニュアンスの違った言い方がある。一つは無益であり、他は平和である。
無益な言い方は、彼自身二つあるいは二つ以上のルール相矛盾する欲望の板挟みに従なったときの、「わたしはどうしたらよいか分らない」という言い訳である。この本当の意味は、「わたしは幾つかの選択に迷いどう決めて生きる自由よいか分らない」ということである。しかし自由な人が「わたしがどうしたらよいか分らない」というとき、彼には苦しみや葛藤はない、もともと相矛盾する欲望というもの行動がないからである。彼はどうしてよいか分る必要はない、なぜなら分るべきなにものもないからである。彼はすでに平和である。知らないということは彼には悩みではない、なぜなら起こることは何ごとであれ、すべて彼のスーパーマインドから発はよろしてくるので、真に道徳的であり、温厚そのものであり、純粋に隣み深い。と彼は自分の好きなように振舞う。不自然な欲望からの突きあげの次隷とな悟っている人々については到底とうしたことはいえない。囚われた心はそれみずからの偉さという幻想の意のままとなっており、かくてまた幻想のご褒美を受けである。
また、あなた自身という存在のもつ自然法則に従って生きるときわれわれは、コマン漂う後のような欲望をあれこれとあつくる愚かしい人為的諸法則の圧力からは自由ことである。自由な人は彼自身が法則である。だが彼自身の法則は、対社会的反抗とか傲慢な態度とかを特徴とする質物の独立不羈ではない。く、すべての教えこまれた欲望を散らし、それは静を超えて泳ぐことによって、心かであり、まったく目につかず、謙虚そのもら混乱を一掃するのである。人こうして力泳すれば、秘教の導師たちが霊的、「あな真議たは何も知らないときにあらゆるものを知っており、いる」という言い方で暗示したすばらしい岸へ行き着くことさができる。だからそれ、ひたすらに力泳を続けるのだ、一ついの勝利から次の勝利へと。もし求道の途中で出会う不快なものへ敢えて、論う(あげつらう)必要もないとき、彼は真に知立向かっていくならば、その新しい岸辺には、敢えて立向かわなかったものたちの知り得ない、別の種類の快適さが発見できる。
それゆえ、ある霊的なもしくは心理的な真理に出会ったら、それを解釈しようとしてはいけない。
コメントはせず、新しい種類の花に出会ったときなんだかんだとは言わずただ黙って観察するようにただそれを観察する。ひとつの真囲に、あなたの判断に従っておまえはこうであろうと告げてはならない。真理をしてあなたに、それが何であるかを告げしめるべきだ、真理にのみ委せて、真理は、ものいわぬ自己の内にみいだされるのである。
目覚めはだんだん進んでいくと、電燈をスイッチひとつでせるように混乱を無くせる境地へまで達することができる。混乱は霊的な睡眠のひとつの産物にすぎないのだから、眠りを断ちさえすれば、自由はやってくる。