11-⑦ 他人の支配からの自由
<永遠他人の喜びに至るには支配からの自由>(P273〜P275〜)
-自由な人は彼自身が法則である
私の講義後の質疑応答から抜いた次の問答は、ネガティブな支配から自由になる方法を示す-
Q他の人々からの自由とはなにを意味するのでしょうか、ご説明をおねがいします。
Aごく簡単なことです。あなたは、あなたが誰かから何かをしてもらいたい、あるいはあなたが自己満足を誰かに頼っているという場合、あなたはその理性的人に縛られています。あな心のみを使う
内的たが誰からも何も求めない場合、あなたは誰からも自由へです。スーパーマインドの進軍原則は、家へ着く他人は誰もあなために本当の豊かさを与えることはできないくつも、本当の川を渉豊かさはあなた自身の内部から来なければならない人のよ、というだととです。これら一連がはっきりと理解されれば、あなたの川人間関係は正しくなります。
Qわたしは、わたしより強そうな人々にはいろいろすぐ弱気になって屈服してしまうの名がついているです、頑迷、模倣、不自然さ、臆病分ではすごくイヤなのですけれど。もわたし彼が水に入りは、渉ることを拒むならば、家庭の快適さから遮断され、いまいるところに止ま怒っているほか人が特にこわいのです。
A怒っている人は強くはないのです、弱いのです。目覚めていない人に、あなたに対して怒りを爆発させるとかし、当てこすりを浴びせるとかの意に挑戦し、彼自身機会を超与えて進むはいけません。あなたが弱そうに見えるとき、あるいは彼が、あなたが彼から何かを欲しがっていると感じるとき、そうしたときはいつもあなたは彼のワナに陥りがちです。人間にある動物本能は常に誰かが攻撃してこないかと見張りをしています。攻撃の的になることは拒否しなさい。
Q ある人はわたしに対して無礼な振舞いをけっしてやめようとしません。
Aある人が引き続きあなたに対して失礼を働くとすれば、それはあなたが、無意識的にではあるが、なにか彼の心悪い振舞いに対して褒美を与えているからの願望達成へと一歩一歩近づくです。褒美を与えることになるというのは、あなた自身の内部にある、ある誤った欲求のせいです。
われわとの誤った飲求を見詰めるように努めなさい。それが食欲と性欲による痛ましい渇望を超えてきたとすれば、無くなるほどと、あなたはその美を撤回するようになります。撤回するとあなたの内部に一種の危機が生じるでしょう。それは長相手の人があなたを非難し、たぶんあなたを突き放すからでしょう。とい道をあるいてきたわけだ。うこうして自由へと解放された人は自分自身に対して、おれは何が要るとは告げ、あないしたはそこで、ま独りきりで立つだけの勇気をもた告げる必要もおぼえない。彼は彼の欲求を生自体に裂ねる。生は常にそれみずからが何をしつつあるかを心得ている。彼は手をのばして欲しいものを掴もうとして、生に干渉はしない。彼は生が差しだしてくれるまで待つ、そして受けとる。彼は食物からもセックスからも駆りたてられはしない。食物もセックスも、彼の支配者として上から君臨しているのではなく、彼の下僕として彼の下で奉仕しているのだ。
プロティノスはこのことを次のように説明している
起とってくる欲望は、それがなんであれ、決して下劣な方向へは進み得ない。疲労回復のための食物や飲物ですら、魂の注目を外れたところでおとなしく横たわっている。そして性欲もまた同じだ••・・・・それは自然の実際的なニーズに応じており、まったくコントロールされている。
われわれが人間的な定義による成功を超えて上昇しなければならないというととです。こうして遂には、あなたの自由のためにはとの危機が必要だということが悟れるでしょう。
たとえ誰かがあなたを拒絶したとしても、あなたの内的なものがこの状況を理解すれば、それであなたは自由のままでいることができる。しかしもしあなたが誰かを拒絶したとしたら、あなたは心理的に彼に鎖でつながれることになる。われわれはある人を、われわれの想像された自己感覚への脅威であると感じるとき、必ずといっていいほど、彼を拒絶する。しかしこの質の自己が溜されてしまえば、誰も脅威とはならなくなる。この境地であなたは、人々の間に好きなように立ち回り、あるいは去り、彼らがあなたをどう扱おうと、いささかも傷つけられることは、すでない。
悟りに学んだ。で達した人が享受しているひとつの自由は、『彼自身のルールに従って生きる自由ということである。彼の行動はすべて彼のスーパーマインド』から発してくるの成功で、真に道徳的であり、温厚その定義ものであり、純粋に隣み深い。彼はどうか?秘教的自分の好きな事実を理解しように振舞う。不自然な欲望からの突きあげの次隷とすなっているく人々につろいだ、親ては到底とうしみにみちた努力は成功である。あなたの努力の結果などは忘れることだはいえない。なぜなら、結果囚われた心はそれみずからでやの偉さという幻想の意のままとなっており、かくてまた幻想のご褒美を受ける。
また、あなた自身という存在のもつ自然法則に従って生きるときは、コマンとある愚かしい人為的諸法則の圧力からは自由である。自由な人は彼自身が法則である。だが彼自身の法則は、対社会的反抗とか傲慢な態度とかを特徴とする質物の独立不羈ではない。それは静かであり、まったく目につかず、謙虚そのものである。人が霊的な真議を知っており、ことさらそれについて、論う(あげつらう)必要もないとき、彼は真に知っているのだから。努力だけが、これのみが肝要なのだ。純粋な勢かは成功である。
天上的な成功へ達するテクニックはすこしも複雑ではない。困るのはただひとつ、人間が辛抱づよく修行することを嫌うことだ。たとえば、われわれは自分自身のなかの自己敗北的な行動に気づいて、これを弁護することを拒否するかどうか?このテクニックひとつでも奇瞔を生みだしてくれる。なぜなら、正直ほどこの地上で健全なかつ清新なものはあり得ないからである。
人間は獲得されたネガティブな性癖を解除することを拒むため、重苦しい生を生きている。ちょうど重たい魚をくわえて翔べないカモメのようなものだ。
しかしマイスター・エックハルトは、自由な心はあらゆることを成い遂げるかをもっていか、とわれわれを激励している。
実際の状況では、それはどんなふうに作動するのだろうか?ここで、不愉快な仕事を気楽な煩わしさのないものにするすばらしい方法をお教えしよう。これを、あなたの情動を使ってではなく、ただあなたの心を使って行なうのである。家事であれ事務であれ、事業であれ、あらゆる仕事は、心でなされるべきであって、決して感情でやってはならない。あなたの情動が支配権を握ろうとするのを拒否すれば、何をやるにせよ、あなたは仕事を嫌ったり、それへ向かって腹を立てたりすることはおそらくはできなくなる。やってみることだ。あなたの理性ある心のみを使うこと。仕事は仕事であることをやめてしまう!
あなたを自由に解き放つ真理を理解し、かつ経験することは、純粋な永遠のよろこびである。