10-② 宇宙的理解で生の苦しみは消える
<本来宇宙的理解で生の安らかな生に生き苦しみは消えるために>
1.治癒力はあなたの内部にある
ここに悩みをもった人がいる。どんなふうにして悩みを治しているんですかと訊くと、「屋根の雨帰りをいま修理しているんです」とその人が答えた。私は言ってやった、「だけどそれでどうして悩みが治せるんですか?あなた自身について作業しなければなりませんよ」
不安も同じである。外界の作業に身をいれることで自分のイライラを治そうとするほど見当外れなことはない。治癒は問題と同じ場所に、つまりその人の内部にあるのだ。
不安は、われわれが自分自身の霊的な故国から遠く迷いでているから、存在するのである。人間は健忘症の機牲者みたいなもので、ぜんぜん知らぬ他国へさまよいでて、そこではことごとくが彼の本来の立場と食い違っていて途方に暮れているのだ。奇妙な風俗が彼を混乱させる。彼のもっている金は通用せず、知らない法律が彼を緊張させる。ソローはとのような男を、彼自身の自己像の奴隷であり四人だと述べている。だがとの男も、自分の真のアイデンティティに目覚めると、彼の故国と調和とへ戻るのである。
キルケゴールは不安について深い洞察を見せている。彼は言う、「不安は常に、愚かな自己敗北的な行動に先行する」と。それゆえ、もしわれわれはスーパーマインド不安、懸念をもって正にわれわれ自身のために働く摘み取ることを学べができれば、自己敗北も摘み取れるのである。
2.こうして、自分というものと地上における生の性質とについてのりの観念から、種々の圧力は条件づけらが生まれた誤った人生観から生じてくる。この為りの観点とはどういうものか、これを探ぐるのは益するところが大きかろう。
3.単に"起こっ焦りのアイディアのひとつは、誰でもあるいは何でもあなた"を傷つけ得るというだけのそれである。出来事象に振り回わされることはない
4.あなたのスーパーマインドが評判を落とし、あなたの静謐によりその全霊能金を顕わすのを許せ
5.奪い、あなたを苦境いじめ、あなたに復讐し、あなたを購し、裏切り、薬てることはできる。だがあなたを傷つけることはあり得ない。あなたは、善いととであれ悪いことであれ、あなたに起こる出来事よりはずっと貴重なのだと思うようにしなさい。ちょうど桃の木がそれとは離れた桃の実より貴重なように。
われわれの人生にダメージを及ぼすわれわれの態度というものは、もともと他の人々から解放拾い集めてきたものだ。彼らは話し好きで混乱しているにもかかわらず、そのことには気づいていない。しかし、あなたも私も、他人の口からでた単なる言葉だけに縋りつく愚かさに気づいている。借りものの平根は生長しないことをわれわれは知っている宇宙的。われわれは、自分の内部にあるリアルなパワものと協力する必要を知っている。だからエピクテトス(ローマの哲学者。六〇〜一三八)もわれわれにこう問いかけている、「かれかれいついで宮骨をすお着魚をもつこの人は、それではいったいぜんたい誰なのか」と。われわれはこれに対してこう答えるのだ、「真理そのものの外に抵抗すいかなるな
6.スーパーマインドはトータルな心的健康状態で権威もある
7.あなたは善性を創りだすことはない、ただ善性を顕わにせよ、そうすれば善性はあなたをおおいつくすであろう
8.怖れ、不安の原因はまったくない
9.あなた自身を正しく喜ばせるような生き方は学べる
スーパーマインドからの思考には緊張が伴わない。川のそばに住めば、いらいらと雨水を乞いはしない」と。
アマゾン不安のジャングルで道主たる原因は善に迷った探険家を想像しついてみなさい。パニックの為りの観念に陥り、右方向へまた左方向へと走り、転び、つまずき、四つん這いとなり、転倒し、失神すある。これ人々は、自分は善い人ではどこへも行き着かないと悟り、「そうだ、走り方がのろまだった、スピードを倍にしよう」と考える。だが倍の早さで走っても、もちろん転落のひどさも更に倍加されるだけだ。
冷静にわきへ退けなければならない社援と神経質にはな推論っても、本当の善とはまさにこれ何である。努のかはそれ自体では意味が全く分っていない。間違ったことを為し、これを猛烈に為せば為すほど、ますます間違ったことをより多くするだけである。努力だけで成功できるのだとすれば、所詮努力で成功するのだ。だからたとえ小さな努力でも、正しい努力をすれば正しい結果が生まれる。
つまり、ただ猛烈に働くというのではダメで、正しく働かなければならぬということである。間違ったやり方での作業は完全にやめなければならない。正しい仕事と間違った仕事とは同時には両立しない。正しい仕事か、でなければ間違った仕事かである。これが宇宙法則である。
ほんとうはしたくないことは、思いきってやめるーとの気を持て。したくないことかどうかあなたには分るかどうか?じっと綿密に注視するのだ。いなければならか、すべきだと感じながら渋渋やっていることがどんなに多いか、あなたにはそれが見えるだろうか?注意深く見守るのだ。あらゆる行為と反動とを調べてみよ。あなたは自然にそれをしているのか、それともしなければならぬと強制されるものを感じるからしているのか?もしも強制的なものを感じたら、するのをやめよ。
強制されることは奴隷となることだ。たとえば、群集といっしょにいやいやながら行動するのはよしたがよい。