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1.あなたの心がもつ驚くべき力 <②スーパーマインドの実際的な力>

《第1章の要点》

1だれでもその人の中に自然に存在するスーパーマインドの自由と平安とに目覚めることができる

2スーパーマインドは
通常の条件づけられた思考のはるか上方で作用している

3スーパーマインドでの思考だけが、実際的な生き方を示してくれる
力>

4あなたの内的な世界があなたの外部世界を決める

5真の幸福のために、あなたの内的な世界を優先させよ

6人生の大いなる目的は宇宙的真理に目覚めることである

7あなたは、あなたの本来の平静さとやすらぎとへ還ることができる

8あなたの内的な完全さを他人のために犠牲にするな

9われわれは単なる条件づけられた知識を超えて霊的な洞察へと進まなければならな

10真の宇宙的な導きがあなた自身の内部から湧き起こるのに委せよ

 

むかしむかし、ある美しい山脈にタカたちが群れをなして棲んでいた。タカたちは森や渓流でふんだんに餌をみつけ、なんの心配もなく幸せに暮していた。毎日彼らは高く高く大空を翔びまわり、平和で愉しかった。

ととろで山から下の乾燥した草原には、滋智にたけたカラスの一群が棲んでいた。カラスどもは商売をしており、品質の悪いとうもろとし栽培に、お金をつぎこんでいた。いい顧客をさがしているうちに、空高く期ぶタカに目をつけた。

「やつらにとうもろこしを売ってやれ」ーカラスどもは売りとみ作戦を練りながら、気勢をあげた。

「ピカピカの袋にとうもろこしをつめこむんだ」と一羽のカラスがいった。

「タカどもをおれたちに頼らずには生きていけないようにしつけるんだ」ともう一羽がいった。するとさらにもう一羽の、とうもろこし売りに成功したことのあるカラスがこう提案した。

「いちばん大出来なことは、おれたちのとうもろこしが絶対の必需品だということをタカどもに借じこませることだよ。とうもろこしがなくては愛がなくて、淋しくて、途方に暮れてしまうと説得するんだ。まずやつらに、罪の意識を詰めこむことだ。おれたちがとうもろこしを作っていることを知らなかったなんて、なんて間抜けだったろうと、やつらに罪の意識をもたせさえすればいい。それでもう、やつらはとっちのものだ!」

一方、タカたちは知性はあったのだが、やや思慮を穴いていた。最初とそ慎重に近づきはしたものの、いかにも立派なとうもろこしの外観に魅せられてしまった。それに、とうもろこしがあれば、食糧にする獲物を獲るという苦労がなくなるという魅力もあった。

タカたちは次第に高度を下げてきて、とうもろこし畑に多数が降り立つようになった。飛翔時間が減れば減るだけ、常時翔んでいるといった感覚は薄らいでくる。選の力も弱くなり、タカたちはぎごちなく地面を飛びあるくようになった。するとあちこち飛びあるくタカ同士が衝突する。喧嘩が起こる。

だが一羽の眼力の鋭いタカがいた、眼が利くから洞察力も並外れていた。このタカは近頃の集団行動全体にどこか間違ったところがあると感じ始めた。それに、とうもろこしの味が変だという事実は動かしようもなかった。そこでこのタカは仲間たちに、こんなところに住まず、山へ帰ろうと説きにかかった。売り手のカラスどもは、この明哲なタカを、人騒がせな奴だと嘲った。タカの仲間はみんなカラスどもの言を言じ、このタカを疎外した。

こうしてカラスはますますとうもろこしの販売量をふやし、タカはひたすらにとうもろこしを購みくだしていった。すでに当然のことだが、かつて悠々と高く天翔けった鳥類の王者のあいだに妙なととが起こっていた。不平不満が多くなった。みんな神経質に苛立ってきた。寂寥、冷淡、自己失などで沈みがちになった。どのタカも、ときどき山のなかの家を偲んだが、故郷へ還る方法は忘れてしまっていた。こうして彼らは、なにかよいことが起こらないかと空しい妄想を抱きがら、不機嫌にその日その日を過ごしていた。

例の明哲なタカは、まわりのすべてに厭気がさしてきて、自分自身を慎重に調べてみた。彼は自分の翼に気づいて、拡げてみた。なんと、りっぱに翼は動くではないか!タカは翔びたって山へもどった。そして夜明けから日没まで、彼はなんの頑いもなく、幸せそのものとなり、彼自身の世界の空を縦横に翔びまわった。

さてこれが、どんな人間も、一切の状況にうんざりしてきた場合、彼自身の天来自然の自由と幸福の世界へんで帰れるのだという啓え話であることはいうまでもない。本書、『スーパーマインド』はもっぱらこのことを明かにしようとする試みなのである。

本書で明らかにしようとする、この高次の力(the Iigher Force)を一語で示すことが必要と思い、私はこれをスーパーマインドとがぶことにする。

スーパーマインドの定義はごく簡単である。それは条件づけられた人間思考を超えた心的機能といってよかろう。覚醒、意識、秘教的思考など、どれもスーパーマインドと同一のものを指す。東洋のある神秘思想家が"黙している心”とよび、新約聖書が”内なる天国"とよぶものも同じことを意味している。それは、あなたの真の自己”である。空が地の上にあるとおなじく、通常の心を超えた高いところにある、どんな人間の内部にもそなわっている力、それがスーパーマインドである。

ところでスーパーマインドの境地は到底言葉では記述できない。個々の求道者が体験する以外にはない。しいて説明するとすれば、それは何々ではないといって裏側から説明するしかあるまい。スーパーマインド、それは条件づけられた心ではない。これははっきりといえる。スーパーマインドはあるゆるネガティブな条件づけから自由である。それは、怖れをもたない、痛みにみちた渦望をもたない、疑惑をもたない。それは人生を成功させるために知らねばならぬものすべてを知っている。それは幸福の境地である。

条件づけられた心とは、われわれが産声をあげて以来ずっと影響されつづけ形づくられてきたわれわれの一部である。それは、生後に外部から吹きとまれた意見、条、自己矛盾、機械的反応などの団塊であって、それらは寄ってたかってわれわれをトラブルにおとしいれる。条件づけられた心は、人間の基本的な自己を表わすものではない。それゆえ、人はそれを絶ちきることができるし、また絶ちきらなければならない。

われわれの日常的な心はいつでも新しい生の探究へ出発することができる。だが遅かれ早かれ、われわれは日常的な心を超えてスーパーマインドに達しなければならない。

さてととで、われわれは、霊的求道の巡礼へ旅立とうとする出発点で待ちかまえている、ややこしい陥穽にぶつかるおそれを知らねばならない。それは、条件づけられた心でも立派に真実とリアリティを発見できるといった陽気な楽観論である。だがおよそ不可能なことだ!日常的な心は、条件づけられているとはいえ、柱につながれたコリー犬みたいに、その活動がきびしく限られているのである。

通常の心はもろもろの事実の記憶貯蔵から成りたっている。それは古ぼけた、習慣的な生き方、考え方しか知らない。もちろんこれはこれで、ビジネスとか料理とかには有効かつ必要な知識である。

そういった仕事は事実の記憶にたよらざるを得ないからである。

しかし、霊的な世界へ入るのに条件づけられた心を使えば、はじめは成功するかに思われるが、必ずや失敗に終る。純粋に霊的であることは、未知なる世界、条件づけられていない世界へ入りと部意味なのだから、条件づけられた心にたよる求道者の多くが挫折するのもムリはない。彼らはリアリティの未知の神秘性におじけづいて無意識に抵抗する。でなければ、聞きなれた言葉やそこらの権威と称するものの教説に惹かれ、それらの誤った安定感を選ぶ。

繰り返すが、スーパーマインドは記憶庫にいれられた観念群、霊的な問題をもふくめて、それらの貯蔵されたアイディアの団塊とは無縁である。もしわれわれが霊的な事柄について誤っているならば、たとえーダースの学位をもっていても、誤っているのである。

かくてわれわれは、スーパーマインドの本質について想像上の億測を控えねばならないという、重要な原理に達する。想像上の憶測は古い心から薄いてくるもので、枠組は異なるとしても、同様に古ぼけた測をもうひとつ産みだすだけである。われわれはただ見たいというだけでものを見るという態度は求めなければならない。

訪れてみたいある田園地方についてその性質を予断しても始まらないように、スーパーマインドについてのこの秘教的な知識いかなる憶測も控えるべきである。まさか、その田園果して現代人向かって、かくあるべきだとあ実際的たは命じまい。田園新しさ、その自然美があなたの魂を洗ってくれることをこそあなたは望むであろうか?

もし人類がスーパーマインドに対を見ることさえできたら、それは際限のない人間的フラストレーションのシャングルを払う脂一の力となろう。科学、心理学、社会計画、平和会議、道徳システム、崇教、哲学と、人間はありとあらゆる方法を試みた。だが依然として昏迷と混乱は続いている。人類が失敗したのは、秘教的知識の活用を真摯に試みなかったからである。しかし、闘争に明け暮れるこの世界で、彼自身のための平和を求める人々それぞれの個人はりっぱにこの秘教的知識にチャレンジし、これを同じ態度のにすることがきる。

秘教的知識が実際的かどうかを判断べきるため、次の諸事実を吟味してみようー

精神の上昇がもたらす最初の成果のひとつは、望まない出来事が起こらなくなるということである。

なぜか?外的状況はわれわれの内的状態から現われてくるものだからである。それゆえ、われわれが自分自身のレベルを上げるにつれ、外部的な問題は剥げ落ちていく。われわれはもはや外部的な問題の犠牲とはならない。外部状況を掌握するとは、ただひとつのことを意味する。つまりあなたの内的な自己を掌握するということである。

通常の心からスーパーマインドへ上昇した人に恐怖の忍びこむすきがない。子もが夜、揺れる醤木を亡霊と勘違いして家へ逃げて帰る。だがそ子どももこ内部幻想を払うことができれば、街を聞と見て、逃げることはやめる。間違った外観を誤りだと分れば、われわれは何を見ようと平気でいられる。恐怖がないからだ。

永遠なるものの至福をみいだしたものはいかなる方角からも恐れをもたない。(タイッティリーヤ・ウパニシャッド)

われわれのちっぽけな欲望や要求をはるかに超えたところにもう一つの世界が存在することを知ることは驚異であり歓びである発見とともに、永く求めつづけてき大いなる安堵が与えられる。それは、多くのが、彼の根本的なジレンマと問題、彼の棲んでいる心的世界がその原因ではなかろうかと、漠然とではあるが疑ぐっており、その存在を知いたかないだけだである。われわれは、他人々がわれわれに突きつけた

苛酷な世界が問題の原因であると考えてきた。だがいま目が覚めた。われわれ自身の態度がこの苛酷な世界を創りだしたのだと、いま分った。この洞察とともに、古びた世界を取り壊す新しい力が薄いてきた。その落塩の上における唯一無二の務めわれわれ、このスーパーマインドの壁され新しい世界を建て奇的な力に目覚めることなのである。

人生をエンジョイすることをためらうべきではない。重苦しい想念にサヨナラをいえ。万事を明るく気易い智慧で受けとれ。われわれは、よい印象を与えよう、何かを得よう、なにか一廉のものにならなければと考えるから、重苦しくなるのだ。社会があなたにどう告げ、どう命じようと、世間の人人の見た眼の誰かになどなる必要はみじんもない。あなたのならなければならない真の義務は、真実の人間となること、これひとつである。このことを全身全霊をもって分ろう、感じとろうと努めてごらんなさい。そうすれば、世界をあなたの遊び場とすることはどういう意味かが納得できよう。

秘教的な知識は実際的だろうか?習慣的な心がはまりこんでいる、まったく非実際的な諸観念を見抜くとき、あなたは秘教的な知識の実際的な所以が分るであろう。

あなたが熱烈に一度行ってみたいと思っていたある国の国境にづいたとしよう。国境線に江づくと阻まれる。道路に横木が渡してあり、監視員があなたのパスポートを要求し、さまざまな規則があなたの入国を邪魔しよう。

あなたの旅行がどうして潰されるか?それは政治的な世界の、人間がつくった規制と境界線とである。しかし、内的自己の国へ入っていくのにそのような障壁はない。あるように見えるだけで、実際にはなにもない。われわれが目覚めていない間に身につけた人為的なアイディアや制限規則は薬て去ることができる。これさえ分れば、だれでも彼自身の内なるすばらしい新しい国土へ入ることができるのである。