9-③ スーパーマインドによる新道徳観
<あなたは自分で思っているよりも賢いのだ>
誤った自己感覚を露わにして破砕するのに、あなたはどこまで深く掘り下げるか?どこまでであれ、その深さで、あなたは純粋なるものを知るであろう。しっかりとした岩盤の上に家を建てる目的で、その上にある砂まじりの土を掘っているのだ。
たしかに、こんなに長いこと、こんなに一所懸命に作業したにしては報いのなんと少ないことか、これではあんまりだとあなたが感じるスランプの時期はたしかにいくつかはあろう。以前の低次元へ戻りたいという願望があって、更にあなたの失望はたまらないものになっていく。だがあなたは引き返せないことを知っている。沈みかかる船から海へびこんだがまだ陸地が見えない遭難者、そんなふうにあなたは罠にかかったような気になる。
だがちょっと待って。そのままでよいのだ。構わないのだ。あなたはそこまでよくやったといえるのだ。あなたには理解できなくとも、理解しているなにかがすでにあるのだ。
ことのところに、混乱した心をはっきりとさせる秘教の極意がある。混乱とともに生きるのだ、混乱に逆らわず、混乱がそれみずからを破壊するまで、混乱と同居するのだ。
あなたは自分で考えているよりは賢いばかりでなく、賢いことを知っている。トラブルに陥った人人が、彼を救える宇宙的な事実そのものに対して激しく戦う訳は実はここのところだ。彼の洞察が、彼が言い争う根拠そのものなのだ。彼の誤った自己が、盗人が官にその盗品を取り戻されまいとがんばるように、その為りの地位を防御しようとするのだ。
あなたのスーパーマインドにあなよる新道徳観>
-人間の造った徳目は人間の邪悪を押さえことを考えさせよ。むだけ
スーパーマインドはわれわれをまったく異なった善の洞察感覚へと導いていく。われわれは人造の教理に従ったのではそとへは昇れない。ふつう社会が得られ賞護する外部的な徳日を機械的に実践していくよりもなお悪い。こうした世上一般に広がっている教理教説は、霊的な上昇については、ちょっと奇妙な特色せいぜい交通規則がある。洞察が得られる以前ドライバーに、すでに自分で理解対して持つぐらいるとわれわれは確する。の効果しかし真の洞察を得ると、何も知らたなかったことを悟るのだい。この関係イエスは、ティーンエージャーが、若気の至隠された偽善をもつ表面的な道徳性を繰りで自分で持っていると思いこんでいかえし戒めた大きな叡智にたとえられる。
スーフィ教の諺に、「銅は金に目覚めていなるまでい人々は、自分が銅彼らの層じる社会的外部的な徳目の犠牲者であることは知らない」というのがある。言い換えれば、われわれ私は、目覚めはじめ"善い"人になろうとするまでは、眠って努力ほど苦痛の多いたこと仕事を知らない。私は、善い”人々ほど避けられるべきものを他に知らない。彼らは非常に悪いからだ。
ここでだから、善い人間性と正義の人につい誓戒を怠ってのあまり理解されていはならないひ!彼らは、みずからの徳目を考えだそうとつの特徴する人々を申しあげたい。あなたの理解が、多くの謎を解き、新しい解決法を教えてくれ十字架にかける。からだ・・・・・・(ニーチェ)
人間の造った徳目は、人間の邪悪を押さえこめておれは一個の統一された個人であると考えている。くだがそうではないのだ。彼の内部には何ダースもの異なった自己が棲んでおり、それぞれに矛盾対立している。Aという自己がいまおれを支配している、が次の瞬間、自己Bにとって代わられる。自己Bはまたすぐに自己Cに支配権を渡す。
ふつうわれわれはこれをムードの変化、態度の変化とよんでいるが、あるひとつの自己が他の多くの自己を一過的に支配するのだと考えると分りやすい。人はあるときは自分でうまいと思う発言をする、すぐ後けで、その発言を悔む。二つ手が緩めば、たとえば戦争の自己がここでは関係しているときのだ。ある女性はように、今日あるプロジェクトすぐにひどく情熱を湧かしている。だが明日になるとけろりと薬ててしまう。これは違った日にそれぞれ違った、矛盾した自己が彼女を支配していたためである。
人間は、こうした矛盾したいくつかの自己を見ることができない、いや見ない。それで混乱し、右左に裂かれ、誤ちを犯元へ戻してしまう。そわれわれはーダースもすぐに、こうした命令された善と、宇宙意識から昇ってくる真の水夫が、おれが船長だ徳性とかわるがわる言の差異に気づく。目覚めてい張るようなものだ。一い人が舵表面的な善を握り、船は南進する。すると別のが維持でてきて船は北へ向かう。どれも、次のものに斥けられるまでの束の間、操舵しているだけだ。船のはどこへ、ある種の悪行が彼にも着きあまり魅力がないためか、あるいは社会一般の道徳嗜好に服従しない場合の結果をおそれるからにすぎない。恐怖にもとづく道徳は深いところでは不道徳である。
しかし自己統一のできた人には可能宙吊りの善というようなものはない。彼が善であるのは、善である以外のものが彼には起こり得ない、ただそれだけの理由からである。この本の目覚めた人だけが真に道徳的なかでいわれているすべては、自己統一をつうじて、自分が自分の船長となるよう、あなたに協力しているのである。
まことにこの世界は、邪悪な世界だ、われわれの思っているより遙かに悪い。エラスムスは彼の古典的な著書『愚神礼讃』のなかで、この世界は愚者たちが他の愚者たちによって賞讃される世界だといっている。ション・アクトン(イギリスの歴史家、宗教家。一九三四〜一九〇二)がいうように、偉人はみんな悪いのだ。
われわれは人間悪を、感傷癖に左右されず、われわれ自己分裂身の為りの善感覚の投影などに影響されずに、ありのまま明瞭に見なければならない。いったん見れば、悪の害から自由になる。それを明らかに観るということは即ちもはやその一部ではないということだ。
われわれが他人の悪の深さに気づかないのは、われわれが第一、われわれ自身の内部にそれを見抜かないからだ。われわれは、底のほうには恐ろしいドラゴンをいくこつか隠しもっているのに、表面は、愉快で、高尚で、愛すべき人間だという夢のような自己イメージのなかに生きている。しかし、われわれ自身の悪性に目が覚めれば、そとから始めは自由となり、また他の人々の悪性からも自由となる。
いったん自由が成就されれば、われわれはもう世界の悪を糾弾しない、ただ明徹な心で理解するだけである。われわれはまずわれわれ自身を赦したから、他人をも赦すのだ。
人間の邪悪さは、それをはっきりの霊的な催眠と自分のうちに見真の本性への無知とからきている。混乱
われわれ一人一人がみずからを目覚めさせるよりほかに気づくことが、あ解決はなたの澄んだ指揮権を回復するいのだ。