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9-④ 虚偽はおのずと消えてゆく

スーパーマインドによる新道徳観虚偽はおのずと消えてゆく

-人間の造った徳目は人間の邪悪を押さえこむだけ静かに観察し、見守れ

スーパーマインドがいかにして罪と悪の両足を縛りつけてそれらを無能力にしてしまうかについて、次のような問答をここで挿入しようー

Qで、『スーパーマインド』では罪と悪をどう定義するのですか?

A罪は、偽りのもの、真実でないものすべてです。別の言い方をすれば、霊的催眠下で行なわれわれをまったる自己敗北的な行為はすべて罪です。スーパーマインドからでな異なった善、偽り感覚へ自己から生きるこ導いていく。で、われわれは人造愚かなことどもを行なうです。内的な光の黎明とともに、われわれが自分の真の本性から生き始めるとともに、焦りも邪悪も消えていきます。そうして、ことばのあらゆる意味で、善となります。彼は正気となり、優しくなり、明期になります。

Q しかし悪というものはほんとうに存在するのでしょうか?

A存在し、かつ存在しないのです。この一見して矛盾接着した論理に煩わされてはなりません。

あなたは、あなたが邪悪なコブラを見たと思い、打とうとする、だが、コブラと見えたものが実は縄であったと分ったら、どこに邪悪がありますか?目を覚ませば、邪悪は人から消滅するのです。

Qわれわれ自身の悪からどうすれば目覚めることができるのでしょうか?

A自分の悪なるものを、道徳的な判断そとへは昇れない。ふつう社会が賞護まじえずに静かに観察する外部的ことで、それはあ徳日を機械的に実践していくよりもなお悪い。こうし世上一般に広がの眼の前で変っていきます。道徳的にあれこれと理屈をつけこと、これだけは決してしてはいけません。自分から決して浅薄なお説理教説に耽っていけません。もしあなたが自分の悪さを見霊的かつ自分は善いはずだがと想像すれば、あ上昇たは二つの観念に挟まれて苦しみます。非難と糾弾はせずに静かに気づいていること、これが善悪両方については、せいぜい交通規則がドライバーに対の人間的観念を破壊して持つぐらいの効果しかもくれます。そうすればあなは葛藤がい。イエスは、隠された偽善をもつ表面的道徳性を繰かえし戒めたます

目覚めていない人々は、彼ら修行層じる社会的外部的な徳目の犠牲者途中で困難にである。私っても恐れて、"善"人になろうとする努力ほど苦痛の多い仕事を知らない。私は抑替大失敗、絶望、自分の悪と”人々ほど避けられるべきったものを他に知らない。彼らは非常に悪いからだ。

だから、善い人正義の人に誓戒を怠ってはならない!彼らは、みずからの徳目を考えだそ。「悪しき者に抵抗とする人々を十字架にかけるからだ・・・・・・(ニーチェ)

人間の造った徳目は、人間の邪悪を押さえこめておくだけで、その手が緩めば、たとえば戦争のときのように、すぐに人間を元へ戻してしまう。われわれはすぐに、こうした命令された善と、宇宙意識から昇ってくる真の徳性との差異に気づく。目覚めていい人が表面的な善を維持できているのは、ある種の悪行が彼にもあまり魅力がないためか、あるいは社会一般の道徳嗜好に服従しない場合の結果をおそれるからにすぎない。恐怖にもとづく道徳は深いところでは不道徳である

悪にとってどうても耐えきれない一事は、あなたがそれをあなた自身のうちに静に、自己統一のできた人科弾もせず、パニックは宙吊りの善も陥らず、戦うともなく、黙って観察してうようなものはない。彼が善であのは、善である以外のものが彼には起り得ない、ただそれだけの理由からである。目覚めた人だけが真に道徳的なのである。

人間は自分のネガティブな衝動力によって動かされ、それが行動化され外部に現われはするが、彼自身の中心であり真髄である彼の本質は決してネガティブな衝動の団塊ではない。われわれは、ネガティブなものはそれ自身なんの力もないのだということにこの世界は、邪悪な世界だ、われわれの思が誤って、あるるより遙は不注意にそれらに与えた力しに悪持たな。エラスムスは彼古典的な著書『愚神礼讃』のなかで、この世界は愚者たちが他の愚者たちによって賞讃される世界だといっている。ション・アクトン(イギリスの歴史家、宗教家。一九三四〜一九〇二)がいように、偉人はみんな悪いのだ。

われわれは人間悪こと、感傷癖に左右されず、われわれ自身の為りの善感覚の投影などに影響されずに、ありのまま明瞭に見理解しなければならない。いったん見この理解に達するようにわれわれは修行しなければならない。人間が自己分裂による罰則を受けるのは悪の害彼が自分自身を正しく扱わない、正しく面倒をみることを怠るからなのである。

自己分裂がなく、内的なものと外面的なものとが一であるとき、人間はなんという素晴しい人格たり得るであろうか!

ネガティブなものからの自由は不思議で確実なプロセスで達せられる。われわれは、それが真の自己との結合をもたないことを知るは、その前に先ず、ネガティブもの、たぶん敵対感情というものに気づかなければならない。それゆえ、第一ステップとしては、敵対感情抑圧したり否認したりしてはなず、合理化してはならず、非難すらしてはならない。敵対感情をただ静かに観察すことが大切なのである。静かな観察をおこなった後は、敵対感情との自己同一化をやめなければならない。敵対感情をわれわれ自身のもつものと呼んではならない。敵対感情を自分という個人に属したものと見るととなく、ただそれに気づいていればよい。こうした意識化によって、われわれは濃霧を抜けでる船のように、澄明な境地へ達することができる。

すでに言ったとおり、このプロセス即ち不思議というほかはない。われわれ自身がすこしはやその一部恐ろしい存在ではないということだ。

われわれが他人の悪の深さ知るため気づかないの、われわれが第一、われわれ自身がど内部にそ程度恐ろしい存在であるのかを知らなけを見抜かばならない

繰りらだえす。われわれの内部にあるネガティブなものへの目覚めは、数氣山であれそほうには恐ろしいドラゴンをいくつか隠しもっているのに他なんであれ表面は、愉快で、高尚で、愛すべき人間だという夢のような自己イメージのなかに生きていプロセスをとる。

まずまったく気づかれない、次に認知される、ついで認知はショッキングな感情を伴う。こうかし、われわれ自身てようやくネガティブなも悪性に目が覚めれば、そとからは自由となり、また他人々の悪性からも自由解放となる。

いったん自由が成就されれば、われわれはもう世界の悪を糾弾しない、ただ明徹な心で理解するだけである。われわれはまずわれわれ自身を赦したから、他人をも赦すのだ。

人間の邪悪さは、その霊的な催眠と自分の真の本性への無知とからきている。

われわれ一人一人がみずからを目覚めさせるよりほかに解決はないのだ。