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<スーパーマインドによる新道徳観>
-人間の造った徳目は人間の邪悪を押さえこむだけ
スーパーマインドはわれわれをまったく異なった善の感覚へと導いていく。われわれは人造の教理に従ったのではそとへは昇れない。ふつう社会が賞護する外部的な徳日を機械的に実践していくよりもなお悪い。こうした世上一般に広がっている教理教説は、霊的な上昇については、せいぜい交通規則がドライバーに対して持つぐらいの効果しかもたない。イエスは、隠された偽善をもつ表面的な道徳性を繰りかえし戒めた。
目覚めていない人々は、彼らの層じる社会的外部的な徳目の犠牲者である。私は、"善い"人になろうとする努力ほど苦痛の多い仕事を知らない。私は、善い”人々ほど避けられるべきものを他に知らない。彼らは非常に悪いからだ。
だから、善い人と正義の人に誓戒を怠ってはならない!彼らは、みずからの徳目を考えだそうとする人々を十字架にかけるからだ・・・・・・(ニーチェ)
人間の造った徳目は、人間の邪悪を押さえこめておくだけで、その手が緩めば、たとえば戦争のときのように、すぐに人間を元へ戻してしまう。われわれはすぐに、こうした命令された善と、宇宙意識から昇ってくる真の徳性との差異に気づく。目覚めていない人が表面的な善を維持できているのは、ある種の悪行が彼にもあまり魅力がないためか、あるいは社会一般の道徳嗜好に服従しない場合の結果をおそれるからにすぎない。恐怖にもとづく道徳は深いところでは不道徳である。
しかし自己統一のできた人には宙吊りの善というようなものはない。彼が善であるのは、善である以外のものが彼には起こり得ない、ただそれだけの理由からである。目覚めた人だけが真に道徳的なのである。
まことにこの世界は、邪悪な世界だ、われわれの思っているより遙かに悪い。エラスムスは彼の古典的な著書『愚神礼讃』のなかで、この世界は愚者たちが他の愚者たちによって賞讃される世界だといっている。ション・アクトン(イギリスの歴史家、宗教家。一九三四〜一九〇二)がいうように、偉人はみんな悪いのだ。
われわれは人間悪を、感傷癖に左右されず、われわれ自身の為りの善感覚の投影などに影響されずに、ありのまま明瞭に見なければならない。いったん見れば、悪の害から自由になる。それを明らかに観るということは即ちもはやその一部ではないということだ。
われわれが他人の悪の深さに気づかないのは、われわれが第一、われわれ自身の内部にそれを見抜かないからだ。われわれは、底のほうには恐ろしいドラゴンをいくつか隠しもっているのに、表面は、愉快で、高尚で、愛すべき人間だという夢のような自己イメージのなかに生きている。しかし、われわれ自身の悪性に目が覚めれば、そとからは自由となり、また他の人々の悪性からも自由となる。
いったん自由が成就されれば、われわれはもう世界の悪を糾弾しない、ただ明徹な心で理解するだけである。われわれはまずわれわれ自身を赦したから、他人をも赦すのだ。
人間の邪悪さは、その霊的な催眠と自分の真の本性への無知とからきている。
われわれ一人一人がみずからを目覚めさせるよりほかに解決はないのだ。