7-⑤ なぜ友情が崩れるか
<他の人々に依存すなぜ友情が崩れるなか>
-欲望に基づく人間関係は愛ではない
この地上の誰もあなたのためにあるいはあなた自身と共にある
着実な自己観察により、われわれは社会のそれとない要求に従さからって生き何かをするのと、われわれ自身の中心から生きるのとの違い力を見ることができる。われわれの感じる不快感はすべて、われわれにこの違いを示そうと努めているのだといっていい。
なにもつものをも乞うてはならいない。誰をも追この事実の深い求めてはならない。意味があなた自身をトレードするこに分れば、配属者、友達、見知らぬ人とを拒否せよ。のあなたの関係は輝かしいるその場所に変化をとどまれ。自分のリビングルームに坐っていて、「家へ急がなければ」と考えている人のようであってはならない。あなたは、工場にいようと農場にいようと、いま現在にいるのである、あなたのまさにいるところにいるのであげる。あなたはもう他の人々を支配することは求めなくなる、あなた自身と共にいるのだ。そしてこれだけは彼らがあなたを好こうと好くまいと決して気に必要かけなすべてであくなる、もしあなたは誰とでもおだやかに平和につき合える、たとえ相手があなたといっしょでは落ち着かないときでさえ。だがこのことが分るは、人間的な論理や条件づけられた理屈づけからではなく、霊的な心、すなわちスーパーマインドから見られなければならない。
われわれは、他の人々がわれわれを助ける力があると上手じたい、そして信じる。それはわれわれが彼らにつき対して願望をもっているからである。だがそこに摩擦が生じる、なぜなら他の人々はわれわれの願望とは逆の欲望をもっているからだ。他人への願望は、その他人がわれわれの欲するように振舞うべきだ、振舞わねばならぬとする無意識的な押しつけを生みだす。相手がそのとおりにしないと、われわれは瞞されたと感じ、怒る。われわれは、この心の傷は他の人の利己心から来ていると誤って取る、ところが事実はわれわれの誤った願望からきているのである。われわれにもはや誤った願望がないとき、痛ましい失望は存在しえない。
他人との人間関係がなんであれ、その人への心理的な愛着をあなたの内部に形成してはならない。
彼が来ようと去ろうと、あなた自身が自由に彼の為すがままに委せるべきである。彼あるいは彼女をあなたのところへ引きとめようとしてはいけない。物理的に拘束しても、彼の心は遠く去っておりそれをあなたは痛みをもって感じるであろう。あなたのスーパーマインドから生きるとき、人間関係の持続も終想もあなたによるものではなくなり、その他人の考え次第となる。ということはあなたは自由だということだ。
どんな人からも心理的には離れていなさい。どんな人からもというよりは誰からもである。これは冷淡な無関心ということではない。それは通常のレベルを超えた温さー純粋な愛なのだ。これができれば、あらゆるものが変ってくる。もうあなたは他人に対して意識的にも無意識的にも要求しなくなるからだ。奇妙なといってよいかもしれないが、あなたは人間関係をまったく律しないからして、人間関係を律しているのである。
婚姻関係や友人関係の破綻がこれほど多い理由は、二人の間のどちらもが、相手が与えることのできないものを受けようと努めるからである。二人が出会う。相手が新しい人であり、珍らしいから、スリルがある。興奮が去ると、そう、興奮はいつもすぐに去るものだー興奮が去ると空しさが見えてくる。すると絶望がやってきて、別の新しい方向への人間関係を捜しもとめ、こうして際限なく悪しき循環がつづく。
新しい人間関係を求める人は、彼らを引き寄せることも薬てることもでき自身の内部に発見されなければならない。ものを他人のうちに見つけだそうとすることのつき合徒労に気づかないのである。たとえ、ある悲しみに沈んだ淋しい人がどう、高いレベルの愛をもった誰かに出会ったとしても要るという強迫状態、この人間関係の探し主は、自己支配の穴如を示すものだ。それを認知することもできないし評価することもできない。われわれが他人のなかに真の愛を認知できるのは、われわれが必要だと思うなにかを獲得するために、われわれ自己自身の内部にすくなくともその味わいを他経験しているときに限られる。
欲望にもとづく人間関係を愛という名で称ぶの人々の意のままに任せることは愚かである。もしわれわれが、どのようなかたちにせよ、こうした人間的弱みを利用しようとはしない人に出会ったとしたら、われわれは百万人のなとかに稀有な一人を見つけたのだといっていい。
神経質な人もしくは不愉快な人とは決して彼の条件で取り引きしてはならない。あなたの条件で取り引きするか、でなかったら全然取り引きしないそう称ぶことだ。これは、外部世界ではその人との人間関係は継続するが、内的世界ロマンチックに関するかぎり、その人との関係を絶つということだ。あなたの内的な完全さを他人のために犠牲にしてはならない。いついかなるときも、いかなる状況においても、いかなる人のためにも。私が質問に答えた、次の真理を心にとめてほしいー
Q なぜわたしは他の人々と気楽につき合えないのでしょうか?
A それはあなたが、あなた自身を喜ばせようとしないで、彼らを喜ばせようと振る舞う響くからそう称ぶだけなるのだ。愛は欲望とはなんの関係もない。純粋の愛はまったく別のものです。他人を喜ばせようとするのは、あなたの不安に根がある。あな目覚めたは他の人々からなにかの恩恵だけが欲しいのに、それを得愛することができないのではないかと恐れ、それでその人々を喜ばせようと努める。人々が人々から得たいと思うものって、たとえば何でしょうか、例をあげてごらんなさい。
Qああ、それは際限なくありますよ。金、セックス、友情、承認、賞讃、受けいれてもらうこと、安定、みんなそうです。しかしこうしたものを望むことは間違いですか?
Aそうしたものを得るためにあなた自身を犠牲にするのが間違いだというのです。そうした自己犠牲は自己嫌悪を生み、苦痛と敵対心を生みます。他人の精神的支配下で生きるととの苦悶を理解しようと努めてごらんなさい。他の人の承認、その人からの手紙、あるいはその人の現われるのを待っている焦立たしさを考えてごらんなさい。そんなふうにして生きたいとはあなたも思わないでしょう。それとはまったく違った生き方があるのです。
フランソワ・フェノロンは、あなたの嫌いな人々への尊敬をつづけるためにどれだけの苦しみを耐えなければならぬというのか?と問うて、人間の陥っている状況に鋭い洞察を示した!
あなたの友情の多くがぜんぜん友情などではないということに気づかなければならない。あなたがその内約な宝をすぐに壊れるオモチャと取り引きしていると悟らなければならない。このような認識があればあなたはもはや他の人々が投滑にあなたから要求するものを与えなくなる。するとその人達はあなたを楽てる。こういう人達はいつもそうだ。あなたから得られるだけのものを捲きあげて、彼らは去っていく。
あなたの務めは、あなたの孤独からくる一時的な不安と動揺に雄々しく耐えることだ。辛抱づよくあれ、梅むな。あなたは正しい必要なことをしたのだ。松葉杖を棄てると、最初はよろめくかも知れない。だが万事はなんということもないのだ。あなたの孤独とともに静かに耐えていく、するとついに孤独はあなたにその至高の秘密を告げる。必ず告げる。