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4-⑥ いかにして人生の悪夢を終らせるか

<どうすれば悲哀はやむのか>

-このままの状態から逃げずにいる

苦しむ人々は、荒れくるう川に沿って住んでいる一群の人々に皆えられる。いま提防が決壊しかかっている。

一人は言う、「ぼくはこの家に残って、切手意集に熱中していれば、それで巡れられるよ」。もう一人は考える、「おれは情事に我を忘れて、それで逃避してしまおう」

第三の男は言じる、「わたしが他の人々のために善いことをして回われば、川はわたしを呑みこまないだろう」と。

どの人もポイントを逸している。人類もまさにこのようである。洪水は内部にあるのだ。われわれの注意と努力の注がれるべき場所はそこだけだ。それ以外の行為はすべて危険な気散じに過ぎない。

ある方向へ眼をかけながら、別の方角へ歩いているようなものだ。

妻または夫、友達、よい評判、快適さ、幸福、その他なんでもいい、ある種類の失に悩むとき、われわれはいかにすべきか?まず最初の衝動は、あなたが失ったものの代替物を追いかけて、あなたの頭痛から逃れることであろう。あなたは快楽を失い、それが与えていた安定感を失う。見慣れ聞き慣れたものを失い、あなたは、同じく慣れ親しみ、慰めとなりそうな他のなにかを探すだろう。

だがこれらはどれも間違っている。遅かれ早かれ、この行為はあなたをより深い絶望へ陥しいれるにきまっている。代替物を追いもとめること自体恐ろしい足掻きである。あなたが静かに自己観察をおこなえば、不安を逃れようと焦ること自体がより大きな不安を招くことに気づくはずである。

とすればあなたの為さねばならないことはきわめて簡単である。それが喪失に対するあなたの習慣的反応に逆行するから、最初は難しいことに思えるかもしれない。あなたは喪失のとき、あなたの新しい、慣れない状況へ、驚異の感覚をもって、対峙しなければならない。こう考えるのだ、「なんと奇妙な!いまこの私は、戸惑い、悩んでいる。だけどこれが私の状態だ、戸惑い、悩み、虚ろであるのは。希望はない、期待するものはなにもない、慰めはない。ああ、なんと新鮮でおもしろい経験だろうか!よし、暫くこのままの状態でいよう、逃げださないでいよう、そしてこの状況のストーリーに耳を傾けてみよう」

こうした純粋な驚きの状態にいるとき、あなたは奇的な変貌を可能にするのである。

外部の状況は変るかもしれないし、変らないかもしれない、だがそれは重要ではない。奇は外部世界で起こらない、内部の世界で起とるのだ。あなたが寄質である。そうなれば、もはや爽失というようなものは再び起とらない。起とるのは変化だけである。変化して、リアリティとなる。それは幸福である。

霊的な眠りの呪縛から解かれたいと心底から望む人々は、特殊な型の苦しみに出合う。秘教文学でしばしばいわれる「たましいの闇夜」がそれである。これはウィリアム・ブレイク、マイスター・エックハルト等の神秘思想家をもふくめて、およそ啓示をうけた人なら誰でも経験するところである。

われわれが最初、自分の仮装、自分の虚しさを感じたとき、この苦しみは始まる。われわれ自身のイカサマと意識的に対決させられると、われわれは戦標する。われわれは参禍の淵に、ひとりぼっちで、裸で立っているように感じる。これは大きな危機であり、われわれはこれを超えなければならない、そして超えることができる。外部の権威者、人あたりのよい言葉、にぎやかな場所といった頼りない避難所へ逃げもどるのではなく、ただとの孤独とともに、身の虚しさとともに、じっとやむととである。こうすれば、危機は乗り超えられる。

われわれがなにか新しいことを学ぶことのできるのは、この内なる虚しさからだけでしかない。だが最初から、われわれは意識的でなければならない。そうだ、痛いまでにこの虚しさを意識していなければならない。充実しているという見せかけは進歩を阻む。内なる虚しさとともに生きることで、戦慄をものともせずに、虚しさへ驚きの眼をむけることで、虚しさはそれ自ら新しい洞察と平安とでみたされてくる。それとともに悲しみは終る。