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4-⑤ どうすれば悲哀はやむのか

<苦しみ<どうすれば悲哀はやむ謎を解く)か>

-みなもとは心であままの状態から逃げずにい

どんなかたちのものにしろ苦しみの意味すむ人々は、荒れくところはひとつう川に沿って住んある!われわれが宇宙的調和から外れているということである。調和するよう一群の人々なれば、苦しみはやね。

道路へ駆けだそうとしてもがく幼児は平手打ちにされる。体罰以外の言語が分らないからだ。両親は子どもを愛しているから、わざと子どもの心を傷つけようとして平手打ちにするのではない。子どもが大きくなって理解が進めば、痛い目に遭わなくともすむようになる。

人間の状況もとれである。苦しみは、現実という道路へ飛びだすことの危険をわれわれに告げているのである。しかし、頑な小児的おとなは、自分がなんでもいちばんよく知っていると思い上がっているから、教訓を拒絶し、傷つけ皆えられる。毎日毎日、来る年も来る年もそうである。いま提防が決壊しかし彼のうけた霊的な体職を検討するならば、彼は体罰が不必要な境地へ成長できる。涙のみなもとは心である。心そのものについての自己中心的な概念を薬てることを拒む心である。

痛みら自由になるには痛みの末端まで行かなくてはならない。痛みに抵抗してはならない。怒ってはならない。不幸であることを数き、不幸となってはならない。かくすれば、苦しみは大きな啓示となる。苦しみは、われわれが借りかかっていたぺりの支柱を看破させてくれる。支柱を取り除くと真実がやってきてわれわれを完全に支えてくれる。あらゆることが、われわれがその苦痛を賢く使うか否かに懸っている。

最初一人は言う、「ぼくはこの家残って、切手意集に熱中していれば、それで巡れられるよ」。もう一人は考える、「おれは情事に我を忘れて、それで逃避してしまおう」

第三の男は言じる、「わたしが他の人々のために善いこをして回われば、川はわたしを呑みこまないだろう」と。

どの人もポイントを逸していべき賢明な行為。人類もまさにこのようである。洪水内部にあるのだ。われわれの注意と努力の注いかれるべき場所はそこだけだ。それ以外の行為はすべて危険な気散じ不幸かを意識的に自覚することである。苦しみは、ほとんどの人々にとって、九十九パーセント無意識的なものである。彼らは地下の業火を見過ぎない。

ときどき火山のように噴出するので気づくだけである。たとえば癇癪と方向へ眼をかけながら、別の方角へ歩うことを取り上げてみよう。人は、怒るたびに苦しむ、だが彼はそれを痛みと見るだろうか?見ないのだ。彼は自分の怒りにプライドすら抱くかもしれない。怒りをあらわすのは強さのしるしと思っているようなものだ。

妻またあなたに決定的な突破口のみつけ方を教え友達、う。あなたをひどく困らせてることを取ってみよう。なんでもいい評判あなたの人生にかかわっている不倫な石介者適さある種の心、問題が解決できないための苦悶幸福、その他なんでもいい、ある種類の失に悩むとき、われわれはいかにすべきか?まず最初の衝動は、あなたが失ったものの代替物を追いかけて、あなたの頭痛から逃れることであろう。あなたは快楽を失い、それが与えていた安定感を失う。見慣れ聞き慣れたものを失い、あなたは、同じく慣れ親しみ、慰めとなりそうな他のなにかを探すだろう

だがこを充分に意識すらはどれも間違っている。遅かれ早かれ、この困窮状態を他の一切から選り分けて、それだけを科学的な好奇心をもって観る。それがいかに行為はあなたをより深い絶望へ陥いれるにきまっているか、それが。代替物を追かにあなたの感じたくないもとめることを感じさせるか、を見てみる。するとあなたにどう自体恐ろしう反応が現われるか、この反応に注意を向けて見守るの足掻きである。特に、この苦悩がどんなふうにあなたから気易さを奪っているが静かに注意自己観察向けおこなえば、不安を逃れようと焦こと自体がより大きな不安を招くことに気づくはずである。

とすればあなたの為さねばならないことはきわめて簡単である。れが喪失に対するあなたの習慣的反応に逆行するから、最初は難しいとに思えるかもしれない。あなたは喪失のとき、あなたの苦悶へ反旗を翻てみる。他の人々がするように苦悶の原因と思わるものへ反抗するのではなく、あなたの内部の苦悶そのものへ反抗を試みるのだ。これは大変肝要な点である。

ためらうことなくとう官言する、「おれはとんな苦しみにとりつかれ、飽きあきした、いやになった。おれは行けるところまで行った。もうこれには我慢できない。おれは忍耐することはしない状況へ忍耐しないんだ。これで終りにするんだ」と。

驚異の感覚をしなんなら、これについて感情をたぎらせてもよい。しかしとにかく本気になって、このとおり宣言してみるのだ。それが苦闘の解消のはじまりとなる。

皆しみから遊れようとしてはならない。苦しみは解消できるのだ。それゆえわれわれはいま、苦痛の解消を妨げる大きな誤りを探索対峙しなければならない。こう考えるのだ、「なんと奇妙な!いまこの私は、戸惑い、悩んでいる。だけどこれが私の状態だ、戸惑い、悩み、虚ろであるのは。希望はない、期待するものはなにもない、慰めはない。ああ、なんと新鮮でおもしろい経験だろうか!よし、暫くこのままの状態でいよう、逃げださないでいよう、そしてこの状況のストーリーに耳を傾けてみよう」

こうした純粋な驚きの状態にいるとき、あなたは奇的な変貌を可能にするのである。

外部の状況は変るかもしれないし、変らないかもしれない、だがそれは重要ではない。奇は外部世界で起こらない、内部の世界で起とるのだ。あなたが寄質である。そうなれば、もはや爽失というようなものは再び起とらない。起とるのは変化だけである。変化して、リアリティとなる。それは幸福である。

霊的な眠りの呪縛から解かれたいと心底から望む人々は、特殊な型の苦しみに出合う。秘教文学でしばしばいわれる「たましいの闇夜」がそれである。これはウィリアム・ブレイク、マイスター・エックハルト等の神秘思想家をもふくめて、およそ啓示をうけた人なら誰でも経験するところである。

われわれが最初、自分の仮装、自分の虚しさを感じたとき、この苦しみは始まる。われわれ自身のイカサマと意識的に対決させられると、われわれは戦標する。われわれは参禍の淵に、ひとりぼっちで、裸で立っているように感じる。これは大きな危機であり、われわれはこれを超えなければならない、そして超えることができる。外部の権威者、人あたりのよい言葉、にぎやかな場所といった頼りない避難所へ逃げもどるのではなく、ただとの孤独とともに、身の虚しさとともに、じっとやむととである。こうすれば、危機は乗り超えられる。

われわれがなにか新しいことを学ぶことのできるのは、この内なる虚しさからだけでしかない。だが最初から、われわれは意識的でなければならない。そうだ、痛いまでにこの虚しさを意識していなければならない。充実しているという見せかけは進歩を阻む。内なる虚しさとともに生きることで、戦慄をものともせずに、虚しさへ驚きの眼をむけることで、虚しさはそれ自ら新しい洞察と平安とでみたされてくる。それとともに悲しみは終る。