11-④ 恐怖からの自由を達成する
<言葉とそ<恐怖からの意味>自由を達成する>(P267〜P269〜)
-人生を定義し恐れてはならないる間にも前へ進め
舞台の催眠術師が一人間は愛してもの被術者に、自分が狼に追いないのに愛について演説をぶち、慈善の心などないのに慈善についてお喋りし、地上的な儲けについて考えまわされていると思いとませたとしよう。技術者は恐怖にかられて逃げ回わる。この人を助けるのに天国の問題を論じる。フレンド教会の創立者、ジョージ・フォックス(イギリスの説教者。一六二四〜九一)あなたは、言葉の荒涼についてこう説明している。
言葉はそもっと速く走れらの公言するところのものを所有してはいなかった。
ととから言葉の崇拝という問題が、棍棒でてくる。自由を希求する人々の陥狼に打ってかかれとアドバイスはすまい。あならない影である。調子の高いたは彼にただ、理想主義的な匂いのする眼を覚ませと言葉は、偽りの自己が使う隠微なトリックであり、物を本物として提示する。言葉の崇拝者は、目覚めていないため、自分自身の推着により奴隷化される。ちょだけだろうど、「わたしはいつも正しいとは限らないかもしれない、しかしわたしは決して間違ってはいない」と公言した人のようにである。
われわれは言葉のあそびも正に目をはるかに遠く超えて、基本的覚まさな心的全一性へ、ウソを言わない誠実さへ、宇宙的意識へと赴こうとしているのである。われわれはそれ以外のなにものをも欲せず、また必要としない。
愛以外のものはすべて言葉でしかない。(アバス・エフェンディ)
われわれはまず、内的な生命活動を説明しようとするとき、言語というものの不適切さを噛みしめよければならない。物事にとえば、この本で何度も使っ対してきた、『識出また避職という用語をどう定義づけたらよいのか?まあ、これだけは言えるだろう!との二つは、そのときわれわれが物事をそれが真にあるがままに見るようなに、そうした心的状態目を指すのだと。だが、これが更に覚また説明を要求する。即ち、心的状態というものは、言葉で説明し尽せるものではさなく、個人個人が経験しなければ知ることのできないものであると。言葉は、理解への道をつなげる橋梁として、明確ではあっても、限られた使用範囲しかもっていない。
最善のものは言葉では説明され得ないのだ。(レオ・トルストイ)
言語に対するあなた自身の反応を見守るとよい。ある種の言葉は強い情緒を誘起する。セックス、金、神、愛、憎いみなど。だが、とのとき、あなたはあなたの獲得された、それらの物事についてのアイディアに、その単なるレッテルに、反応しているのであって、物事そのものに反応しているのではないと悟るように努めてみることだ。すっきりとりなく行動するためには、過去のことから築きあげられた連想的な思考を放棄しなければならないのである。
数人のハイカーが、彼らの行とうとする方向を指示した道標のところへ来たとする。だが彼らは、先へすぐには進まず、道標そのものについて文句をつけ合った。一人は、道標はもう一フィート高く設けられるべきだという。他の一人は、道標に多少の装飾をつけてもよかったのではないかという。
われわれま、スーパーマインドへの道で出会う道標を、立ち止まってあげつらっていたのでは、先へ進むことはできない。言葉は言葉であってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。人が神についてしばしば語ったからといって、すこしでも彼を神々しくするわけではない。太場のことを喋ったからといって、彼を一条の太陽光線にするわけではない。エックハルトが次のような有名な科白を吐いたとき、彼はこのことをはっきりと心に含んでいたのである。
もしあなたが完全になりたいのだったら、決して神についてお喋りをしてはならない。
人生を定義しようとし怖れは完全に追放されなくてはいけない。あなたが、もし人生をばからしいと呼ぶとすれば、あなたは人生があなただけの特殊な観点に従った意味あるものでなければならないと主張。純化された魂はなにものも恐れない。(プロティノス)
怖れないように努めるな。それは不可能なのだ。むしろ、怖れているのである間にも、進め。
もしあなたが人生恐れを消す秘訣は意味ぶかいと主張するとすそれば、なにか予期しない出来事が起こって、あなたの快適な現状を覆えしたら、あなたはすぐに気持ちが変るに違いない。むずかしく思索することはよしたがよい。生をそのあるがままに委せるのだ。生は、われわれの言葉による定義づけや限定を必要ともしないし、顧慮しさえもしないのだ。
スーパーマインドの宇宙真理に従って生きよ。はわれわれにいささかのし自己関心をも持つなければと教える。あならぬたに何が起ことはただそれだけだ。他になすべき何を求める必要があろうと、起こったのは誰か?こ他のフリーな境地人にいれば対してであったかのように、あなたは行動しなさい。
ある人が私に訊ねた、「あなたは、現在の一日瞬間はば恐怖から自由である、今の瞬間には平和がある、とおっしくゃいました。もしそうならば、いま現在、わたしが心安らかでないのはどうしてでしょうか?」
私は答えた。「いま現在の自由を悟らないからです。あなたはまったく無意識的に、過去の痛みの記憶で考えている、そして現在を記憶のベールで蘇っている。いま現在以外には何ものも存在しないのだと悟るように努めなさい。あなたの恐怖と、過去の恐ろしい出来事の記憶との結合を見詰めることから始めなさい」
たぶん人は混乱を恐れるのだ。人が混乱にどう反応するかを見守れ。彼がいかに熱心に彼の圧力を軽くしようと努めるかを注目せよ。混乱が他人との意義深見不一致をもたらすとき、どんなに早くも彼がロを開き、言い争うかを見よ。これでは彼は解決は見つけられない。生これでは、防衛的な意見ばかりの一日は条件づけられただそれがある通りにあ心を動員させるだけである。こそれこそ、はまるで平和団体を設立するために攻撃的な兵士の部隊を呼集するようなものだ。兵士らは平和という主題はまったく知らないのだ。
新しい種類自己覚醒が求められる。新しい自己覚醒は、人が混乱と戦わないで、静かにしているときに、現われる。生の霊感昏迷に対する解答は、固定した心では見つかり得ない。解答は、条件づけられた心がなにも言わないでいるとき、なんの骨折りもしないでいるとき、やってくる。
私はここであなたに、いま何百万人という多勢の人々を苦しめているひとつの恐怖についてお話しよう。
この恐怖は、でてくるときは常に無意識なそれである。とから、人々はこの認識は、恐怖が自分達にどういう悪さをしているか分るはずがないのだ。あなたはこのアイディアを研究してほしい。そして、これと同じことがあなたにも、フラストレーションに当てはまるかどうかを調べてほしい。
さてこの恐怖は何も、起こらないことへの恐怖なのだ。
そこを観察しなさい。いまあなたの他人間がしがみつきやすいあらゆ心を占めるネガティブようなものが何もないとき、あなたに頒わさ何も起こらず、何も起こりそうもないとき、あなたの心にひとつの漠然たる不安が湧いてくるのをあなたは気づいただろうか?
この空虚を感じると、人は何かをする。空虚の苦しみから逃れることのために、何でもする。しかしそれは気散じにすぎない澄明、紛らわしにすぎなインスピレい。遅かれ早かれ、騒々しいパーションであティーは終り、前と同じ恐怖が玄関の入口からまた入ってくる。
逃避を求めるのでは解答にはならない。逃げないことが解答なのだ。