OSHOタロット 1. OSHO The Ultimate OSHO − 究極なるもの 2. コミューン Commune コミューンとはもうひとつの社会を意味します……世間という砂漠のなかの小さなオアシスです。 もっともっと調和のなかに入ってゆきましょう。生を祈りに満ちて、敏感に、意識して、醒めて生きるのです。 あなたの小さな小川をほかの小川とひとつにして、大海に行き着く途上にある大河となるのを許しましょう。 " サンガ "、コミューンとは覚者のまわりに集まった弟子や帰依者(きえしゃ)たちのブラザフッドだ。 花開いた覚者のもとにやって来た蜂たちのブラザフッドだ。 THE WHITE LOTUS, p29  覚者はそれぞれコミューンを創る……。コミューンとは彼のエネルギーフィールドを意味する。 コミューンは彼とともにつながり合った人びとを意味する。 コミューンとはもうひとつの社会を意味する……世間という砂漠のなかの小さなオアシス…… そこでは生がまったく異なった形態で、まったく異なったヴィジョンで、まったく異なったゴールをもって生きられる。そこでは生が目的と意味をもって生きられる。そこでは生が祈りに満ちて、敏感に、意識して、醒めて生きられる。そこでは生はたんなる偶然ではない。そこでは生があるひとつの方向のなかで、あるひとつの最終目的に向かって、より大きく、より大きくなって成長となり始める。そこでは生は、もはや流木のようなものではない。 THE BOOK OF WISDOM, Vol.2, Discourse 1**  覚者のコミューンのなかでは、あらゆる人が個性をもっている。人格をもっている人はいない。誰ひとりエゴイスティック ではない。だがあらゆる人がその人独自の特性をもっている。人はその人独自のユニークなやり方でコミューンに寄与する。 そしてあらゆる人が、なにをやっていようと尊敬されている。個人への途方もない尊敬がある……。  詩人、画家たちがいる……有名な、よく知られている……多くの本を出版した作家たちがいる。彼らは靴を作っているかも しれない。大工仕事をしたり、庭でなにか手仕事をしているかもしれない。というのも、ひとつのことが完全にはっきりして いるからだ。それは、仕事はなんのちがいももたらしはしないということ、あなたの個性はどんなところでもそこなわれては いないということだ。あなたの仕事があなたにより高い地位を与えることはない。それはどのような階級組織も作らない。あ らゆる人がその人独自のやり方で心から働いている。 I AM THAT, Discourse 15**  あなたがそこに始めたばかりの人々を見る場所、あなたがそこに始めたばかりの人よりはもう少し先に行っている人びとを 見る場所、そして、そこに自分たちの旅のほぼ中間にまで行き着いている人びとを、さらにその中間を超えている人びとを、 そしてまさにゴールに行き着こうとしている人びとを、そして行き着いているマスターを少なくともひとり、そこに見る場所。 それはあなたがスピリチュアルな段階の範囲をすべて見ることのできる場所だ。旅の全行程を見ることのできる場所だ。それ は勇気を与える。あなたは自分は行き詰まってはいないのだと、暗闇のなかを動き回ってはいないのだと、なんらかの幻想に、 幻覚に入り込んではいないのだと、自分の努力は結果をもたらすのだと知る。 THE SECRET, pp.156-161  そしてこの実験全体は、世界に、あるひとつのブッダフッドをもたらすためのものだ。このコミューンは普通のコミューン ではない。これは神を呼び起こす実験だ……。  私は神がもっともっと降りてこられるようなスペースを創ろうとしている。このコミューンは接点になるだろう。世界はそ の接点を失った。神はもう現実ではない。この世紀に関するかぎり、ニーチェは正しい。神は死んだ。接点が壊れている……。  このコミューンは橋を創る実験だ。もっともっと調和しなさい。あなた方のエネルギーをプールしなさい。そして覚えてお くがいい、小さな流れは海に行き着けない。どこかで失われてしまうだろう。海は非常に遠い。どこか砂漠の地で、どこか荒 れ地で、それは失われてしまう。だが多くの小さな流れがひとつにプールされたら、それらはガンジス河になる。そうなった らそれは海に行き着くことができる……。 SUFIS: THE PEOPLE OF THE PATH Vol. 2, pp.318-322 3. エンライトンメント ( 光明を得ること ) Enlightenment 光明を得る最初の者になろうとする野心をすべて落としなさい。 個人的なエンライトメントはありません。個人はみな、全体とひとつに結ばれています。   仏陀は天上の門に着いた。もちろんそこの人びとは待っていた。彼らは門を開いて、彼を歓迎した。だが彼は門に背を向け、そして世界を見た——同じ道の上にいる何百万もの魂たちがもがき、惨めに、苦悶して、天上と至福の門に行き着こうと努力していた。  門の番人は言った。「お入りください! 私たちはずっとあなたをお待ちしていました」  ところが仏陀は言った。「ほかの者たちが辿り着いていないのに、どうして私がいけよう?  まだそのときではないようだ。全体がまだ入っていないのに、どうして私が入れよう? 私は待たなければならない。私の手は門のなかに届いているのに、私の足はまだ届いていないかのようだ。私は待たなければならない。ただ手だけが入ることはできない」  このすばらしい物語のなかでは、仏陀はいつまでも待っていると言われている。 彼は待たなければならない——誰ひとり孤島ではない。私たちは大陸を形作っている。私たちはいっしょだ。私はあなた方より少し先まで足を運んだかもしれない。だが私は離れてはありえない。そしていま、私はそのことを深く知っている。いまやそれは私にとっては物語ではない——私はあなた方を待っている。それはもうただの逸話ではない。いまや私は個人的なエンライトンメントはないことを知っている。 個人は少し先まで足を運ぶことはできる。それだけのことだ。だが彼らは全体とひとつに結ばれたままだ。 TANTRA : THE SUPREME UNDERSTANDING, pp.130-131 4. サレンダー ( 明け渡すこと ) Srrender もしあなたが、どのような状況からも最大限の恩恵を達成したいと望むなら、トータルにかかわらなければなりません。 それがあなたに鍵を与えてくれるでしょう。  ボーディダルマはインドで光明を得た。そしてひとりの弟子を探したが、そのひとりを見つけることができなかった。それゆえに彼は中国に行かなければならなかった……。彼は鍵をもっていた。そして彼は老年にさしかかっていたが、しかも彼は正しい後継者を見つけることができなかった……。  彼は九年の間、洞窟のなかで待った。ただ待った……壁を見つめながら。彼は大きな磁力を創りだしていた。この伝統をこれから先へ伝えることのできるひとりの者を呼び寄せようとしていた。彼はこう言っていた。「その者が来たら、そのときにのみ私はその者と顔を合わせよう。さもなければ私は壁に顔を向けつづける」  そしてある日、まさにその人が来た。彼はボーディダルマの後ろに立った……。やって来たこの男はなにも言わなかった。彼はただ待った。忍耐強く待った……そしてふたつの沈黙が出会った。そして次の日、朝早く、この新参者は自分の片手を切り落とし、それをボーディダルマに贈って言った。「私の方を向いてください。さもなければ私は次に自分の頭を切り落としま す!」  ボーディダルマはすぐに向きを変えた。向きを変えなければならなかった。九年の間、彼は誰をも見なかったのだ。彼は言った。「そうか、お前は来たんだな!」……弟子だけが自分の頭を差し出す用意のあるたったひとりの者だからだ。  これらは象徴的な物語だ。手とは、「私は自分の行いをあなたに差しあげます。私を使ってください」という意味だ。手とは、「私にはあなたのメッセンジャーになる用意があります。あなたが伝えたいものをなんでも私は伝えましょう。あなたが伝えたいものをなんでも私に与えてください。あなたが与えようとして来られたものを、なんでも私に与えてください」という意味だ。手とは、ただ、「私の行いはこの瞬間からあなたのものです。私は私なりの行為者にはなりません。もう私はあなたが言われたことだけをやります。これが私の手です」という意味だ——これがその意味だ。彼がほんとうに自分の手を切り落としたというのではない。それはばかげていただろう。そして彼は言った。「私の方を向いてください、さもなければ私は自分の頭を切り落とします!」……。これがサレンダーだ。 ボーディダルマは向きを変えた。この男の目のなかを見た。そして鍵が渡された。ひとことも話されなかった。その必要はなかった。彼は後継者になった。禅は生きた伝統のまま残った。 THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.2, pp.148-150 5. 究極の事故 Ultimate Accident 自分の探究においては真正でありなさい。そのためにあらゆることをしなさい。映し出されたものの背後にある元のものを知ろうとする渇き、それがあなたを『究極の事故』に値するものにしてくれます。  千代能はサニヤスを受けようとして、尼僧(にそう)になろうとして、次から次へと僧院を訪ねた。だが偉大なマスターたちでさえ彼女を拒んだ。彼女はあまりにも美しかったからだ……。僧たちは神を、そしてあらゆることを忘れてしまうだろう。途方にくれた彼女は自分の顔を焼いた。顔じゅうに傷をつけた。そして、彼女はひとりのマスターのところに行き着いた——彼は彼女が女なのか男なのかさえ見分けることができなかった。そこで彼女は尼僧として受け容れられた。  彼女はまさに用意ができていた。その探究は真正なものだった。彼女にはその事故に値するだけの価値があった。それは働きかけて得られたものだった。彼女は三十年、四十年の間休みなく学び、瞑想した。 そして突然、ある夜……。  彼女は手にもっていた桶の、水に映っている月を見ていた。映し出されたものですら美しい。それらは絶対的な美を反映しているからだ。真の探究者は映し出されたもののなかに非常に多くのことを知った。それはあまりにも美しく、そこにはすばらしい音楽があったので、今度はその源を知りたいという欲望が湧いてきた。  歩いてゆきながら、彼女は桶の水に映っている満月を見守っていた。  突然、桶をひとつにまとめていた竹の箍(たが)が切れて、桶はばらばらになって落ちた。水が勢いよく流れ出し、月の影は消えた ——そして、千代能は光明を得た。  彼女はこの詩を書いた—— あれこれと 私は桶をひとつにまとめとおこうとしてきた 弱い竹が切れないように望みながら 突然底が抜け落ちて もう水はない 水のなかの月もいまはない—— 私の手のなかには空。  光明を得ることは事故に似ている。だが私を誤解してはいけない——私は、そのためになにもしてはいけないとは言っていない。もしあなたがそのためになにもしなければ、その事故ですら起こらないだろう。それは、そのために多くのことをやってきている者たちにしか起こらない——そして彼らがやっているそのことを抜きにしては、それはけっして起こらない。あなた方の瞑想はすべて事故の起こりやすさを、招待を創り出すためにすぎない。ただそれだけだ。  事故に、未知なるものに備えるがいい——用意を整え、待ち、受容的であるがいい。招待がなければ客はけっしてやって来ない。 NO WATER, NO MOON, pp.1-19 6. 強欲 Greed あなたのマインドとその強欲さ、そして信頼の不足に気をつけなさい。強欲が変容される機会は覚醒を通して訪れます。 7. 強欲を超える Beyond Greed なにが与えられていようとも、それは絶対に正しいのだという信頼に向けて、自分の覚醒の向きをポジティヴな方向に変えましょう。そしてこの信頼のなかから、自分自身が感謝に満ちて踊るのを許すことです。  インドの偉大な神秘家、ナラダは、神に会いに行こうとしていた。ヴィーナを奏でながら森を過ぎてゆくと、彼は樹の下に坐っている非常に年老いた聖者に出会った。  年老いた聖者は言った。「私からの質問をひとつ、神にたずねてみてください。私は三生にわたってあらゆる努力をしてきています。そこで、あとどのくらいの努力が必要なのか、私の解放はいつ起こるのでしょうか? と」  ナラダは笑って言った。「オーケー」  さらに歩いてゆくと、彼は、別の樹の下でエクターラをもって踊り、歌っている若者を見つけた。ナラダは彼に冗談のつもりでたずねた。「君も神になにかたずねて欲しくはないかい?」  若者は答えなかった。彼はなにも聞かなかったかのように踊りつづけた。  二、三日してナラダは帰ってきた。彼は老人に伝えた。「神に聞いてきた。彼はさらに三生だと言っていたよ」  老人は怒り狂った。自分の数珠を、自分の聖典に投げつけた。彼は言った。「それではまるで不公平ではないか! さらに三生とは!」  ナラダは若者のところに行った。彼はまたしても踊っていた。彼は言った。「君はたずねなかったけれど、ついでに君のことを神にたずねてきた。でもいまとなっては君に伝えたものかどうか……。あの老人の怒りを見て、私は言い出しかねている」  若者はなにも言わなかった。彼は踊りつづけていた。ナラダは彼に伝えた。「私がたずねたら、神はこう言った。『その若者に伝えなさい。お前は、その下で踊っている樹についている葉の数と同じだけ生まれてこなければならない! と』 」  すると、若者はさらにもましてエクスタティックに踊り始めた。若者は言った。「そんなに早いのか? 世界にはとても多くの樹があるし、たくさんの葉がある……たったそれだけ? 今度神のところに行ったら、彼にありがとうと伝えてください!」  そしてその若者は、まさにその瞬間に解放されたと言われている。もし信頼がそれほどまでにトータルだったら時間は必要ない。もし信頼がなかったら三生ですら充分ではない。そしてこれは私の感触だが、その老人はいまでもどこかそのあたりにいるにちがいない。そのようなマインドは解放されえない。そのようなマインドこそ地獄だ。 THE PERFECT MASTER, Vol.2, pp.287-289 8. 弟子であること Disciplehood あなたの生のあらゆる状況があなたに教えてくれるのを許しましょう。  スーフィーの偉大な神秘家、ハサーンが死のうとしていたとき、ある人がたずねた。「ハサーン、あなたのマスターは誰だったのですか?」  彼は言った。「私には何千人ものマスターがいた。彼らの名前をあげるだけでも何か月、何年もかかるだろう。それに、そうするにはもう遅すぎる。だが三人のマスターについてははっきりと話しておこう。」  「ひとりは泥棒だった。あるとき私は砂漠で道に迷った。そしてある村に着いた頃には夜も非常に更けていた。すべてが閉ざされていた。だが最後になって、私は家の壁に穴を開けようとしているひとりの男を見つけた。私は彼にどこか泊まれるところはないかとたずねた。彼は言った。『夜もこんな時間ではむずかしいだろう。だが私といっしょでよければ泊まれる——君が泥棒といっしょに泊まれればの話だが』  「ところがその男は非常にすばらしかった——私は一か月も滞在した! そして夜ごと彼は私に言ったものだ。『さて、私は仕事に行ってくる。君はゆっくり休んで、祈っていてくれたまえ』 彼が帰ってくると、私はたずねたものだ。『なにかとれたかい?』 彼はよくこう言った。『今夜はだめだった。だが、明日、またやってみる。神が許してくれればね……』 」 彼はけっして絶望しなかった。いつでも幸せだったのだ。  「何年も絶えることなく瞑想して、さらに瞑想しつづけていたにもかかわらず、なにも起こっていなかったとき、もう自分ではどうしようもなくて、絶望の淵にあり、このナンセンスすべてをやめにしようと思う瞬間が何回となくやってきた。すると突然、私はその泥棒のことを思い出したものだ。彼は夜ごとこう言っていた。『神が許してくれれば、明日には起こるだろう』 」  「そして、私の二番目のマスターは犬だった。私は河へ行くところだった。喉が渇いていたのだ。すると犬がやってきた。彼も喉が渇いていた。彼は河のなかをのぞきこみ、そこにもう一匹の犬——自分自身の影——を見て恐くなった。彼は吠えると逃げて行った。だが、あまりにも喉が渇いていたために、彼は戻ってきた。ついに自分の恐れもかまわずに、彼は水のなかに飛び込んだ。すると影が消えた。 そこで私は、神から私にメッセージが来たのを知った——あらゆる恐れにもかかわらず人はジャンプしなければならない、と。」  「そして、三番目のマスターは幼い子どもだった。私がある町に入ってゆくと、子どもが火のついた蝋燭(ろうそく)を運んでいた。彼はモスクに蝋燭を置きにゆく途中だった。」  「ちょっとからかうつもりで私はその少年にたずねた。『自分でその蝋燭に火をつけたのかい?』彼は言った。『そうです、おじさん』。 そこで私はたずねた。『その蝋燭に火のついていない瞬間があって、その蝋燭に火のついている瞬間があった——その火がやってきた源を見せてくれないか?』  するその少年は笑って蝋燭を吹き消し、こう言った。『いま、火が消えるのを見たでしょう? それはどこに行ったのでしょうか? 言ってください!』 」  「私のエゴはこなごなになった。私の全知識がこなごなになった。そしてその瞬間に私は自分の愚かさを感じた。それ以来私は自分の知りたがりをすべて落とした」  私にマスターがいなかったのは事実だ。それは私が弟子ではなかったという意味ではない——私は全存在を自分のマスターとして受け容れた。私の弟子としてのありようは、あなたのそれよりももっと大きなかかわりだった。私は雲を、樹を信頼した……私は存在そのものを信頼した。私にはマスターがいなかった。私には何百万ものマスターがいたからだ——私はありうるすべての源から学んだ。  道において、弟子であることは絶対に必要なことだ。弟子であるとはどういう意味だろう? それは学ぶことができるということ、学ぶべくそこにいるということ、存在に対して感じやすいということだ。マスターとともにあなたはどう学ぶかを学び始める……少しずつ少しずつ、あなたは調子が合ってくる。そして少しずつ少しずつ、同じように全存在と調子を合わすことのできる、そのポイントが見えてくる。  マスターはスウィミング・プールだ。そこであなたはそこで泳ぎ方を学ぶことができる。一度学んだらすべての大洋があなたのものだ。 THE SECRET OF SECRETS, Vol.1, pp.184-188 9. 最も偉大な奇蹟 Greatest Miracle 心霊現象、突然襲ってくる至福、奇蹟に巻き込まれないように注意しましょう。 それらをどこかに行き着いたしるしとして見てはいけません。行き着くところはどこにもありません。 ただ普通でいて、楽しみましょう。  臨済に関して言われていることだ——  彼の弟子のひとりが別のマスターの弟子と話をしていた。相手は言った。「私たちのマスターは奇蹟の人だ。望むことをなんでもやってのけることができる。私は彼のやった奇蹟をたくさん見てきた。自分自身の目でそれを目撃したのだ。君のマスターにはどんなすごいところがある? どんな奇蹟をやってのけることができる?」  臨済の弟子は言った。「私のマスターにできる最も偉大な奇蹟は、奇蹟を行わないことだ」  それに瞑想しなさい——「私のマスターにできる最も偉大な奇蹟は、奇蹟をやらないことだ」 奇蹟的な力が起こり始めると、弱い者だけがそれを行う。強い者はそんなことはしない——今度はそれがもうひとつの罠だと知るからだ。世界が再び彼を引き戻そうとしている。  これは最後の罠だ。静かに、見守りながら、心霊エネルギーを避けることができたら、それに巻き込まれることなく、閉じ込められることなく、それらを過ぎ去らせることができたら、そのとき初めてあなたは家に着く。それは大変な誘惑だ。 SUFIS : THE PEOPLE OF THE PATH, Vol.1, pp.287-288 10. 価値 Worth 自分の価値を証明しようとして、自分自身を商品におとしめてはいけません。 生の最も偉大な体験は、あなたがすることを通してやって来るのではなく、愛を通して、瞑想を通してやって来ることを覚えて おきましょう。  老子が弟子たちとともに旅をしていた。彼らは、何百人もの樵(きこり)たちが木を切っている森にやってきた。 森全体は、何千もの枝を張っている一本の大きな木を残して、ほとんど切り倒されていた。その木は一万人の人びとが木陰に坐れるほど大きかった。  老子は自分の弟子たちに、なぜその木は切られていないのかたずねてくるようにと言った。彼らは樵のところに行ってたずねた。すると彼らは言った。「この木はまるで役に立たない。枝という枝に節が多すぎて、これからはなにも作れない——まっすぐな枝がひとつもないのだ。燃料にすることもできない。煙が目の毒だからね。この木はまったくの役立たずだ。だから切らなかった」  弟子たちは帰ってきて老子に伝えた。彼は笑って言った。「この木のようになるがいい。もしお前たちが役に立つようなら、切られてしまい、誰かの家の家具になってしまうだろう。もしお前たちが美しかったら、市場で売られてしまうだろう、商品になってしまうだろう。この木のようになるがいい。まったくの役立たずに……。そうなったらお前たちは大きく、広大に成長して、何千もの人びとがお前たちの下に陰を見いだすだろう」  老子はあなたとはまったくちがった論理をもっている。彼は最後の者でいるがいいと言う。世界のなかをまるで自分がいないかのように動くことだ。競ってはいけない、自分の価値を証明しようとしてはいけない——その必要はない。役立たずのままでいて楽しむがいい。 TAO : THE THREE TREASURES, Vol.1, pp.69-71  その人がどのように有益かということで私たちは人びとを計る。だが私は、私たちはなにも役に立つことをしないと言っているのではない——役に立つことをするがいい。だが覚えておくことだ。生とエクスタシーの偉大な体験は役に立たないことをすることから生じる。 それは詩を通して、絵を描くことを通して、愛を通して、瞑想を通してやってくる。商品におとしめることのできないなにかをする能力があって初めて、最も偉大な喜びがあなたを押し流す。報酬は内側にある。もともと備わっている。それは行ないから湧き起こる……。  だから自分は役立たずだと感じても心配することはない。私はあなたの役立たずも使う。私はあなたを大きな葉むれのある巨大な木にするつもりだ。それに、役に立つ活動にたずさわっている人びと……彼らにはときとして木陰で休む必要がある。 THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.2, pp.308-309, 311-312 11. 普通であること Ordinariness ただ普通であることが奇蹟です。誰かになろうと渇望しないことが奇蹟です。 自然が自らのコースを取るに任せましょう。それを許すことです。  禅のマスター、盤珪 ( ばんけい ) は、たまたま自分の庭で庭仕事をしていた。ひとりの求道者がやってきて盤珪にたずねた。「庭師、マスターはどこにいる?」  盤珪は笑って言った。「あの扉——あそこからなかに入るとマスターがいる」  そこで男は入っていって、なかで肘かけ椅子に坐っている盤珪、外で庭師だったその男に出会った。 求道者は言った。「からかっているのか? その椅子から下りろ! 神聖を汚すことだぞ! お前はマスターに敬意を払っていないではないか!」  盤珪は椅子から下り、床に坐って言った。「もう椅子にマスターはいないだろう——私がマスターだからだ」  偉大なマスターが、それほどにも普通でありうるということが、その男にはむずかしすぎて分からな かった。彼は立ち去った……そして逃がした。  ある日、盤珪が自分の弟子たちに静かに教えを説いていると、別の宗派から来た僧に話を遮(さえぎ)られた。 その宗派は奇蹟の力を信じていた。  その僧は、自分の宗教の創始者は筆を手に河岸に立ち、対岸にいる助手が手にしている紙きれに聖者の名前を書くことができると自慢した。そして彼はたずねた。「あなたはどのような奇蹟を行うことができるのか?」  盤珪は答えた。「ひとつだけだ。腹が減ったら食べ、喉が渇いたら飲む」  唯一の奇蹟、不可能な奇蹟は、ただ普通であることだ。マインドの望みは並外れたものになることだ。エゴは認められることを渇望する。 あなたが自分の誰でもなさを受け容れたとき、あなたがほかの誰とも同じように普通でいられるとき、あなたがどんな証明も求めていないとき、あなたがあたかも自分は存在していないかのように存在しうるとき——それが奇蹟だ。力はけっしてスピリチュアルではない。 奇蹟を行う人びとはどのような意味においてもスピリチュアルではない。宗教の名のもとに魔術を広めているだけだ。それは非常に危険だ。  あなたのマインドは言う。「このどこが奇蹟なのか? 腹が減ったら食べて、眠くなったら眠るとは」 だが盤珪はほんとうのことを言った。あなたが空腹を感じると、マインドは言う。「いや、私は断食をしているのだ」 空腹を感じていないとき、腹が満たされているとき、マインドは言う。「食べつづけるのだ。この食べ物はとてもおいしい」 あなたのマインドが邪魔をする。  盤珪は言っている。「私は自然とともに流れる。私の存在がなにを感じようとも、私はそれをする。それを操っている断片的なマインドはない」  私もひとつだけ奇蹟を知っている。自然が自らのコースをとるに任せること、それを許すことだ。 ROOTS AND WINGS, P.212-221 12. 受容性 Receptivity 積極的に答えを探し求めるのをやめるときです。自分自身を空からにして、全存在を受け入れるようになりましょう。 ただリラックスして待ち、楽しむことです。  哲学の教授が、禅のマスター、南院のところに行って、神、瞑想、そして非常に多くのことをたずねた。 マスターは沈黙したまま聴いていた。そして言った。「あなたは疲れているようだ。あなたはこの高い山を登ってきた。 あなたは遠いところから来た。まずあなたにお茶を出させてほしい」  哲学の教授は待った。彼は質問で沸き立っていた。だが、湯沸かしが歌い、茶の香りが広がり始めて、マスターは彼に言った。「待つがいい! そんなに急いではいけない。誰にわかる? 茶を飲むことによってすら、あなたの質問に答えが出るかもしれないのだ」  教授は自分の旅全体が無駄だったのではないかと思い始めた。「この男は狂っているようだ。なぜお茶を飲むことで、神についての私の質問に答えがでることなどどうしてありえよう?」  だが、彼は疲れてもいたので、山を下りる前に一杯のお茶を飲むのも悪くはなかった。  マスターは急須をもってきて、茶碗に茶を注いだ。茶は受け皿にあふれだしたが、彼は注ぎつづけた。そして受け皿もいっぱいになった。 あと一滴で茶は床にこぼれる! 教授は言った。「おやめください! なにをやっているのです? 茶碗がいっぱいなのが、受け皿がいっぱいなのがわからないのですか?」  すると南院は言った。「これこそあなたが入り込んでいる状況だ。あなたのマインドはあまりにも質問でいっぱいになっているために、たとえ私が答えたとしても、あなたには、それが内に入ってゆくためのスペースがまったくない。それに、私はあなたに言うが、あなたがこの家に入ってから、あなたの質問がそこらじゅうにあふれている。この小さな小屋はあなたの質問でいっぱいだ! 戻るがいい、自分の茶碗を空にして、それから来るがいい。まずあなたのなかに小さなスペースを創ることだ」  あなたは南院よりももっと危険な人物のところに来た。私とだと、空の茶碗ではだめだからだ。茶碗は完全に壊されなければならない。空であっても、もしあなたがそこにいたら、あなたはいっぱいだ。あなたのなかに茶を注ぎ入れることはできない。あなたがいないときにのみ、実際には、あなたのなかに茶を注ぎ入れる必要などない。あなたがいないとき、全存在があらゆる次元から、あらゆる方向から注ぎ始める。 ROOTS AND WINGS, P.3 13. 知識を落とす Dropping Knowledge あなたは偽りを落として、借りものの知識を落として、自分の知恵のなかに、自分の理解のなかに入ってゆく用意ができています。  ナロパは偉大な学者、偉大な神学者だった———この物語は彼が光明を得る前に起こった。彼は一流の大学の副学長で、彼自身の弟子が一万人いたと言われている。ある日、彼は自分の弟子たちに囲まれて坐っていた。彼のまわりじゅうに、非常に古い、めったに見られない何千もの教典がばらまかれていた。  突然彼は眠りに落ち、ヴィジョンを見た。それはあまりにも意味が深かったので、夢と呼ぶにはふさわしくなかった———それはヴィジョンだった。  彼は非常に年取った、醜い、見るからに恐ろしい女性、鬼婆(おにばば)を見た。彼女の醜さがあまりにもすさまじかったので、彼は自分の夢の中で震え始めた……。 彼女はたずねた。「ナロパ、お前はなにをやっている? 彼は言った。「私は学んでいるのだ」 「なにを学んでいる?」その年老いた女性はたずねた。 彼は言った。「哲学、宗教、認識論、言語学、論理学……」  老婆はたずねた。「それがわかるのか?」 ナロパは言った。「……そうだ、私はわかる」  その女性はもう一度たずねた。「お前はことばがわかるのか、それとも意味がわかるのか?」  しかも彼女の眼は非常に深く見入る力をもっていたので、嘘をつくのは不可能だった……彼女の目を前にして、ナロパは自分が完全に裸なのを、見透かされているのを感じた。  彼は言った。「私はことばを理解します」  その女性は踊り始め、笑い始めた……と、彼女の醜さは変容された。微妙な美しさが彼女の存在から出て来始めた。  ナロパは考えた。「私は彼女をあれほど嬉しがらせたのだ。もう少し幸せにしてあげてもよいのではないか?」 そこで彼は言い添えた。「はい、私は意味も理解します」  その女性は笑うのをやめた。踊るのをやめた。彼女はすすり泣き、泣き叫び始めた。すると彼女の醜さがすべて戻っていた———何千倍にもなって。  ナロパはたずねた。「なぜなのです?」  その女性は言った。「お前のような偉大な学者が嘘をつかなかったので私は幸せだった。だがいま、お前が私に嘘をついたので、私は泣いている。お前が意味を理解していないのを私は知っているし、お前も知っている」  ヴィジョンは消えた———そしてナロパは変容された。彼は大学を去った。生涯二度と再び彼は教典に触れなかった。彼は理解した……。  知恵の人、理解の人には新鮮さがある。神学者、知識の人とはまったくちがった香りを放つ生がある。意味を理解する人は美しくなる。ことばだけを理解する人は醜くなる。そしてその女性は、知識を通して醜くなったナロパの内なる部分、彼自身の存在が映し出されたものにすぎなかった。  ナロパは探究に入った。もう教典は役に立たない。いまや生きたマスターが必要だ。 YOGA : THE ALPHA AND THE OMEGA, Vol.5, pp.51-53 14. 信頼 Trust 深い信頼のなかにあれば、状況はどうあろうとも、信頼のその質があなたの生を変容してくれます。  ミラレパがチベットの彼のマスターのところに行ったとき、彼はあまりにも控え目で、あまりにも純粋で、あまりにも真正だったために、ほかの弟子たちが嫉妬し始めた。彼が後継者になるのは確実だった。 そこで彼らは彼を殺そうとした。  ミラレパはまるで少しも人を疑わなかった。ある日、ほかの弟子たちが彼に言った。「もしお前がほんとうにマスターを信じていたら、崖から飛び降りることができるだろう? もしそこに信頼があったら、それはなんでもないことだ! けがをすることはないさ」  そこでミラレパは一瞬の間もためらわずに跳んだ。弟子たちは駆け降りた……それはおよそ三千フィートの深さはある谷だった。彼らは散乱した骨を見つけるために降りて行った。だが彼はそこに蓮華座(れんげざ)で、途方もなく幸せに坐っていた。  彼は目を開けて言った。「あなた方は正しい———信頼は命を救う」  彼らはこれはなにか偶然の一致にちがいないと思った。そこである日、家が火事で燃えているときに、彼に言った。「もしお前がマスターを愛し、信頼していたら、火のなかにだって入れるさ」 彼はなかで取り残されていた女性と子どもを救うために飛び込んだ。火はとてつもなくすさまじかったので、彼らは彼が死ぬものと期待していた。だが彼はまったく焼けていなかった。しかも彼は、その信頼ゆえに、さらに輝きを増した。  ある日、彼らは旅をしていて、川を渡ることになった。そこで彼らはミラレパに言った。「お前は舟に乗る必要はない。お前には非常に大きな信頼があるんだ———お前は水の上を歩けるさ」 そして彼は歩いた。  マスターが彼を見たのはそれが初めてだった。彼は言った。「お前はなにをやっている? ありえないことだ」  ところがミラレパは言った。「マスター、私はあなたの力でこれをやっているのです」  さあ、マスターは考えた。「もし私の名前と力で、無学な、愚かな男にこれをやらせることができたのなら……自分でためしてみたことは一度もなかった」 そこで彼はためしてみた。彼は溺れた。それ以来彼の消息はまったく聞かれなかった。  光明を得ていないマスターですら、もしあなたが深い信頼のなかにいたら、あなたの生に革命をもたらすことができる。そしてその逆もまた真実だ。光明を得たマスターですら、どんな役にも立たないかもしれない。それは完全にあなた次第だ。 THE BELOVED, Vol.1, pp126-127 15. 傷つきやすさ Vulnerability マスターといっしょにいると、どのような瞬間におけるどのような状況でも、自分を目覚めさせるために使われうるのだと信頼するように覚えておくことです。自分を守ってはいけません。保証のない状態でいること、傷つきやすくいることです。明け渡して、自分の信頼を自分のマスターのなかに置きましょう。  日本のマスター、奕堂(えきどう)は、厳格な教師だった。彼の弟子たちは彼を恐れていた。 ある日、ひとりの弟子が時を告げる寺の鐘を憧(つ)いていた。突然、彼はひと憧きを失敗した———寺の門を過ぎてゆく美しい娘を見ていて、その弟子は自分を失った。彼はもうそこにはいなかった。彼は欲望になった。 彼はその娘を追い始めた。彼は夢に入って行った……。  その瞬間に、彼の後ろに立っていたマスターが、杖で彼の頭を激しく叩いた———あまりにも激しかったので、彼は倒れて死んだ。  日本では、それはもっとも古くからある伝統のひとつだった。弟子はマスターのもとに行くと、彼はいつでもこう言った。「私の生と私の死は両方ともあなたのものです。もしあなたが私を殺したければ、殺してかまいません」そこで彼はそれに署名した。それを書きものにして渡した。この伝統にもかかわらず、人びとは奕堂を非難し始めた。  それでも奕堂の伝統は日本においてもっとも重要なひとつになった。彼の弟子の十人がエンライトンメントを達成した。まれに見る数だ。  そして、この弟子が死んだあと、奕堂はまるでなにごとも起こらなかったかのように過ごしていた。誰かがその弟子のことをたずねるたびに、彼は笑ったものだった。彼は、なにかがうまくいかなかったとはけっして言わなかった。それは事故にすぎなかった———と彼は笑った。なぜだろう? それには内なる物語があるからだ。  この弟子はなにかを成し遂げた。彼の身体は倒れた。だが内側で彼は目覚めた。その欲望が消えた。その夢が消えた。あらゆることが身体とともに落ちた。こなごなになった。その覚めた状態で彼は死んだ。そして、もし覚醒と死を結びつけることができたら、あなたは光明を得ている。  奕堂は死の瞬間を非常にすばらしく使い、その弟子は達成した。彼は偉大なアーティスト、偉大なマスターだった。  この物語を見て、あなたはマスターが弟子を殺したと思うかもしれない。起こったことはそうではない。いずれにしろ、その弟子は死ぬことになっていた。マスターはそれを知っていた。これは物語のなかでは言われていない。それは言われえない。だがものごとはそのようにして起こる。さもなければ、弟子が鐘を憧いている間、その弟子のうしろにマスターが立つ必要はなかった——まさに日常のこと、毎日の儀式だ……奕堂にはやるべきもっと重要ななにかがなかったのだろうか?  その瞬間において、より以上に重要なことはなにもなかった。その弟子の死は使われなければならなかった。これは内側の秘密だ。そして私は、それをもって奕堂を法廷で弁護することはできない。マスターはあなたのなかを深く見入る。彼はあなたの死の正確な瞬間を知っている。そして、もしあなたが明け渡したら、その死は使われうる。  この物語を読むたびに、私はいつも不思議に思う。なぜその後、十人の弟子しか光明を得なかったのか——この人は多くの者たちに光明を得させることができたはずだ。ほかの者たちは自分を守っていたにちがいない。  あなたの守りはあなたの破滅だ。マスターの近くでは不確かなままでいるがいい。彼があなたの保証だからだ。安全でなくいるがいい。 マスターはあなたに完全に光明を得させることにしか関心をもっていない……だが多くの準備が必要だ。機が熟すことが必要だ。そして明け渡しが。 ROOTS AND WING, pp.258-282 16. 真似 Imitation 自分は他人を真似していないかどうか見なさい。真似によっては、あなたのなかにある真正さの種は死んだままです。 覚醒の剣を取り、それがどんなに苦痛であるように見えようとも、この真似を完全に断ち切りなさい。 その苦しみは深くまで入らなければなりません。でも、そのショックを通して、あなたの自己、あなた自身の真正さが現れます。  禅のマスター、倶胝(ぐてい)は、禅に関した問を解くときはいつも自分の指を立てたものだ。  非常に若いひとりの弟子が彼の真似をし始めた。そして、誰かがその弟子に、マスターはなにを話していたかとたずねると、かならずその少年はいつも自分の指を立てるのだった。  倶胝はそのことを聞き及んだ。そしてある日、彼はその少年がそれをやっているところに出くわしたので、彼は少年を捕まえ、すばやくナイフを取り出して、彼の指を切り落として放り捨てた。少年が泣きわめきながら走り去る間に倶胝は叫んだ。「止まれ!」  少年は立ち止まった。振り向いて泣きながらマスターを見た。  倶胝は指を立てていた。少年は習慣から自分の指を立てかけた……そして、その指がそこにないことに気づいて、彼は礼拝した。その瞬間に彼は光明を得た。  マスターはなにひとつ不必要なことはしない。指を立てることすらしない……。倶胝は常に指を立てたのではない。禅に関する問を解くときだけだった。なぜだろう……?  あなたのあらゆる問題が生じるのは、あなたが分裂しているからだ。あなたは不統一で、混沌として、調和していないからだ。そして瞑想とはなんだろう? 合一に至る以外のなにものでもない。倶胝の説明は二次的なものだった。立てられた一本の指が最初のことだった。 彼は言っていた。「ひとつであれ! そうすればお前の問題はすべて解決する」  その少年は彼を真似し始めた。さあ、真似はあなたをどこに導くことはできない。真似とは理想が外側から来るということだ。それはあなたの内側で起こっているなにかではない。あなたは自分の内側に種子をもっている。もしあなたが他人を真似していたら、その種子は死んだままだ。  真似は厳しく断ち切られなければならない。指は象徴的なだけだ。その少年に厳しくショックを与えなければならない。その苦しみは彼の存在の基盤そのものにまで至らなければならない。  非常に強烈な覚醒の瞬間、非常にすばらしい仕掛け……倶胝は叫んだ。「止まれ!」 止まるその瞬間、もはや痛みはなかった……。  身についた習慣から、少年は、マスターが指を立てると、自分の指を立てる——そこにはないそれを。そして初めて、彼は自分が肉体ではないことを悟った——自分は覚醒だ、意識だ、と。彼は魂だ。そして、肉体は家にすぎない。  あなたは内にある光だ——ランプではなく、炎だ。 NO WATER, NO MOON, pp.104-122 17. 覚醒 Awareness いつであれ自分が無意識に行動していることに気づいたら、やめなさい。ロボットになってはいけません。 エゴから行動を起こしてはいけません。一杯のお茶を飲み、目を覚ましなさい——それから覚醒をもって行動しなさい。  茶は覚醒を意味する禅のシンボルだ。茶はあなたをもっと油断なく、醒めさせてくれるからだ。茶は仏教徒たちによって創案された。彼らは何世紀もの間、茶を瞑想における助けとして用いた。そして茶は助けになる。  その物語はボーディダルマが中国の「タ」と呼ばれる、ある山で瞑想していたことから来ている。 「ティー」という名称はその「タ」に由来している。その山は「タ」あるいは「ティー」とも発音できる。 だからこそインドではディーは「チャイ」あるいは「チャー」と呼ばれている。  ボーディダルマは瞑想していた。彼はほんとうに偉大な瞑想者だった。彼は十八時間にわたって瞑想するのを好んでいた。だが、それはむずかしかった。彼は何度も何度も眠くなったし、目瞼も何度も何度も落ちたものだ。そこで彼は目瞼を切り落として捨てた。もう目が閉じられる可能性はなにもなかった。  物語はすばらしい——この目瞼が茶の最初の種子になった。そして、それからある草木が生まれた。ボーディダルマはその草木から世界で始めての茶をいれた。そして彼は、その葉を取ってそれを飲むと、より長い期間にわたって醒めていられることに気づいて驚いた。 だから何世紀もの間、禅の人びとは茶を飲みつづけている。そして茶は、非常に、非常に神聖なものになった。 THE GRASS GROWS BY ITSELF, pp.272-273 18. 瞑想 Meditation あらゆるものに注意を向けなさい。「大きい」、「小さい」はありません。すべてに神性があります。 あらゆるところにあなたは神を見出すことができるのです。  ある期間修行してきた弟子が一休に会いにきた。雨が降っていたので、なかに入るときに彼は履物と傘を外に置いた。 彼が挨拶をし終えると、一休は履物のどちら側に傘を置いたのかとたずねた。  さあ、なんという問だろう……? あなたは、マスターが神について、クンダリーニの上昇、チャクラの開き具合、あなたの頭のなかで起こっている光についてたずねるのを期待する! だが、一休はごくありふれた問いをたずねた。履物と傘が霊性とどのような関わりがあるのだろう?  だが、そのなかには途方もなく価値のあるなにかがある。その問いには意味がある。その弟子は思い出せなかった——自分の履物をどこに置き、傘をどちら側に置いたか、誰が気にするだろう?  だがそれで充分だった——その弟子は拒絶された。一休は言った。「そうであれば、行ってさらに七年間瞑想するがいい」  「七年!」その弟子は行った。「このささいな落ち度のために?」  「落ち度に大小はない」一休は言った。「お前はまだ瞑想的に生きていない。ただそれだけだ」  これはささいなことで、あれは非常に、非常にスピリチュアルなことだと、ものごとの間にちがいを設けてはいけない。注意を向けるがいい。気をつけるがいい。そうすればあらゆることがスピリチュアルになる。もし注意を向けなかったら、気をつけなかったら、あらゆることが非スピリチュアルになる。  霊性はあなたによって分け与えられるもの、それは世界へのあなたの贈り物だ。一休のようなマスターが自分の傘に触れると、その傘は、あらゆるものがそうでありうるのと同じように神性を得る。瞑想的なエネルギーは錬金術的だ。それはより低い金属をより高い金属に変容しつづける。シンフォニーを指揮しているかのようにオレンジの皮をむきなさい。そうすればあなたはもっともっと近づく。瞑想的になればなるほど、それだけあなたは神をあらゆるところに見る。究極ピークではあらゆるものが神性を得る。 TAKE IT EASY, Vol.2, pp.488-491 19. 中心が定まる Becoming Centered 中心が定まったままでいることです。他人の意見や、あなたをあちらこちらへと押しやる他人の企てに操られるのを自分に許してはいけません。他人のレベルに落ちてはいけません。  かつて仏陀の時代に、もっとも有名な美しい売春婦が、仏教の僧、乞食に恋をしたことがあった……。  彼女は、彼に、仏教の僧たちが旅をやめる雨期の四ヶ月間、自分の家に泊まって欲しいと頼んだ。その僧は言った。「私はマスターに聞かなければならない。もし許してもくれたら、来ることにしよう」  ほかの僧たちは非常に嫉妬した。その若者が仏陀のところに行って願い出ると、多くの者たちがそれを聞いていた。彼らはみな立ち上がって言った。「よくないことだ。その女がお前の足に触れるのを許したことですらよくないことだったのだ。『女性に触れてはいけない。女性に触れさせてはいけない』と仏陀は言ったではないか。お前は規則を破った……しかもいま、お前はその女と四ヶ月もの間いっしょに泊まることを願いでているのだぞ!」  だが仏陀は言った。「私は、あなた方に、女性に触れてはいけない、女性に触れられてはいけないと言った。それはあなた方がまだ中心に定まっていないからだ。この男にはその規則はもう当てはまらない。私は彼をずっと見守ってきた——彼はもう群衆の一部ではない」  さあ、これはあんまりだった! これは前にはけっして一度もなされたことがなかった。弟子たちはみな怒った。そして何カ月もの間、アムラパリの家でなにが起こっているかという噂が大袈裟に行き渡った——あの僧はもう僧ではない、彼は堕落した、と。  四ヶ月たって、アムラパリとともにその僧が帰って来ると、仏陀は彼らを見て言った。「女よ、私になにか言うことがあるのか?」  彼女は言った。「私はあなたに入信の儀式を行っていただくために来ました。私はあなたの弟子を悩まそうとしました—— 失敗でした。これは私の初めての負けです。私は男とならいつも成功してきました。でも、彼を悩ますことはできなかったのです、ほんの少しといえども。私のなかにも、どうしたらこの中心に定まっていることを達成できるのかという大きな欲望が湧いてきました。  「彼は私といっしょに暮らしました。私は彼の前で踊りました。彼の前で歌いました。あらゆる方法で彼を誘おうとしました。でも、彼はいつも彼自身のままでした。私は彼を転向させようとしました——でも彼が私を転向させたのです、ひとことも話さずに。彼が私をここに連れて来たのではありません。私は自分で来ました。私は初めて尊厳とはなにかを知ったのです。私はそのアートを学びたいのです」  彼女は仏陀の弟子になった。  彼は常に自分の足で歩く……彼をあちらこちらと押しやる道はどこにもない。彼は完全に彼自身のままだ。非常に中心が定まって、自分の存在のなかにしっかりと根を下ろしている。人がトゥリヤ、四番目の境地を知ったら、そのときには心の散漫はない。そのときには人はどこでも生きることができる。  自分の生の環境を変えようとしてはいけない。自分の態度を変えようと試みなさい。内側の状態を変えるために外の状況を使いなさい。 状況を変えるのはたいした変化ではない——あなたは自分自身と世界をだましている。ほんとうの宗教は意識の状態を変えることで成り立っている。  より高いものを探し求めなさい。ひとたびあなたが、そのより高いものが自分のエネルギーに届いたことを知ったら、より低いものはおのずと枯れ始める。それがほんとうの宗教だ。 THE SUN RISES IN THE EVENING, pp.213-216 20. 理解 Understanding あなたが他人のなかに見るものは、あなた自身が持ち運んでいるものだということを理解しましょう。 あなたの判断は、実際にはあなた自身の内側で抑圧されたか、あるいは拒絶されたものの反映です。  ふたりの禅僧が河を渡ろうとしていた。彼らは同じように渡りたがっているとても若くて美しい女性と出会ったが、彼女は怖がっていた。そこで、僧のひとりが彼女を肩にかついで向こう岸に運んだ。  もうひとりの僧は怒り狂った。ひとことも口には出さなかったが、内側では煮え立っていた。これは禁じられていたのだ! 仏教の僧は女性に触れてはならない。しかもこの僧は触れるだけではなく、その女性を肩にかついでいた。  何マイルもが過ぎた。僧院に着いて、扉を入るところで、怒っている僧は最初の僧の方を向いて言った。 「いいか、このことを私はマスターに話さなければならない。報告しなければならない。禁じられているんだぞ!」  最初の僧は言った。「なんのことを言っているのだ? なにが禁じられているだって?」  「お前は忘れたのか?」二番目の僧はたずねた。「お前はあの若くて美しい娘を肩にかついだのだぞ!」  最初の僧は笑って言った。「そのとおりだ、私は彼女を運んだ。だが私はあの河に彼女を置いてきた。何マイルも後ろに。お前はまだ彼女を運んでいるのか?」  抑圧され、拒絶され、地下室に放り込まれたあなたの内面もまた、あなたの行動に影を投げかけつづける。ときにはあなたはなにかを避ける! そのときですらまた、あなたの逃避そのもののなかにあなたの理解が姿を見せている。 THE DISCIPLINE OF TRANSCENDENCE, Vol.4, p.22 21. 与えること Giving いまこそ開いて、けちであることをやめて、自分がなしうるかぎりのことを、自分がもちうるかぎりのものを与えることです。あなたのありあまる愛を、あなたのありあまるハートを与えることです。  マリー・マグダレーナを覚えているだろうか? 私には、彼女だけがほんとうにイエスについて行った人のように思える。彼女の真正さは途方もなかった。ある日彼女はやってきて、非常に、非常に高価な香水をイエスの足にかけた。  ユダはその場にいて、その機会を逃さなかった。彼は言った。「いいですか、あなたは彼女を止めるべきだったのですよ! これは無駄です! あのオイルは非常に高いのですよ……売ることだってできたのに。人びとは飢えています。それに、この香水は非常に高いのに、なぜそれを無駄にするのですか?」  論理的に見える。だがイエスはなんと言うだろう? イエスが言うことは非常に非論理的だ。彼は言う。 「貧しい人たちは常にいる。私が去ったら、お前が彼らの面倒を見ればいい。お前にはこの女性のハートがわからない。彼女に香水をかけさせるがいい——高価か、高価でないか、それは関係ない。私は彼女のハートのなかにすばらしいフィーリングが立ち昇っているのを見ることができる。これが祈りだ……私には彼女の祈りを邪魔することはできない」  マリー・マグダレーナがハートの美しさをもっていることをイエスは理解した。イエスが見ているのは香水ではない——彼はその女性のハートを見ている。 ZEN: THE PATH OF PARADOX, Vol.3, p.312 THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.1, pp.265-266 22. イノセンス(無垢)Innocence ハートは岩に語りかけることができます……全くの愛がその神秘を明かします。ハートから狂いなさい。  アッシジの聖フランシスは確実に気違い病院に入っていたにちがいない。樹に話しかけ、アーモンドの樹に言っている。「シスター、お元気ですか?」——もし彼がここにいたら捕まっていたにちがいない。「シスター、私に神を歌ってください」と彼はアーモンドの樹に話しかけたものだ。しかもそれだけではない——彼はアーモンドの樹が歌うのを聞く! 狂っている! 治 療が必要だ!  彼は河に、魚に話しかける——しかも彼はその魚が自分に応えると主張する。彼は石や岩に話しかける——狂っているという証拠ががほかにもまだ必要だろうか?  彼は狂っている。だが、アッシジの聖フランシスのようにあなたも狂いたくはないかね? ちょっと考えてごらん——アー モンドの樹が歌うのを聞くことのできる能力、樹のなかの兄弟姉妹たちを感じることのできるハート、あらゆるところに、ま わりじゅうに、あらゆる形のなかに神を見るハート……。  それは最大限の愛のハートにちがいない。全くの愛がその神秘をあなたに明かす。だが論理的なマインドにとっては、もち ろん、これらのことはナンセンスだ。  私にとてはこれらだけが意味のあることだ。狂いなさい。もしできるなら、ハートから狂いなさい。 ANCIENT MUSIC IN THE PINES, p.171 23. 祈り Prayers ほかの人の愛と祈りを邪魔してはいけません。自分は愛し方を、あるいは祈り方を知っているという考えを落としなさい。 人がどのように愛し、どのように祈っていても、その人にとってはそれは完全なのだと、ほかの人びとをただ尊敬することです。  モーゼはあるとき祈っている人に出会った。だが、その人がばかげた祈りを唱えていたので、モーゼは立ち止まった。しかもばかげているだけでなく、その祈りは神を侮辱もしていた!  その人はこう言っていた。「神さま、もっと近くに寄らせてください。そうしていただければ、あなたの身体が汚れているときには洗ってさしあげましょう、それをお約束します。もし、しらみがいたら取ってさしあげましょう。それに、私は上手な靴屋です。あなたに完璧な靴をお作りしましょう。神さま、あなたを世話してくれる人は誰もいないのです……私があなたの世話をいたしましょう! もしあなたが病気になられたら、あなたの看病をして、薬をおもちしましょう。それに、私はすばらしい料理人でもあるのです!」  モーゼは叫んだ。「やめなさい! そんなナンセンスはやめなさい! いったいなにを言っている? 神の身体にしらみがいるだって? しかも、彼の服がよごれているからお前がそれを洗うだって? しかもお前が彼の料理人になる? いったいどこからこの祈りを習ったのだ?」  その男は言った。「どこからも習いませんでした。私はとても貧しくて、しかも教育を受けていない人間です。それに、私は自分が祈り方を知らないのをよく知っています。自分で作りあげたのです……こうしたことが私の知っていることなのですから。しらみは私をとても悩ませます。ですから神をも悩ますにちがいありません。それに、私が得る食事はときにはあまり上等なものではなく、胃が痛みます。神もときどき苦しむことがあるにちがいありません。これは私自身の体験です。 それが祈りになりました。でも、もしあなたが正しい祈りをご存知なら、どうか教えてください」  そこでモーゼは正しい祈りを彼に教えた。その男はモーゼにひざまづき、彼に感謝した。その目には深い感謝の涙が流れていた。彼は去り、モーゼはとても幸せだった。善い行いをしたと思った。このことを神がどう思ったか知ろうとして、彼は空を見上げた。  ところが、神は非常に怒っていた! 神は言った。「私は、人びとをわたしのもとにもっと近づけるためにお前をそこに送ったのだ。だが、お前はいま、私の最も偉大な恋人たちのひとりを放り出した。よいか、お前が彼に教えたこの『正しい祈り方』は、まるで祈りではない——祈りは法とはなんのかかわりもないからだ。それは愛だ。愛そのものが法だ。ほかの法は必要ない」  そして、愛とともに恩恵が起こる。そして、愛とともに真理が。  覚えておきなさい。もしあなたに真理を理解することができたら、真理は解放する。そしてほかに解放はない。 COME FOLLOW ME, Vol.1, pp.25-28 24. 力の誤用 Misuse of Power 力を使うときは、相手の人、そして存在全体への深い尊敬と愛をもっていなければなりません。 あなた独自の知的な考えで、誰かほかの人の生を邪魔してはいけません。もしあなたがなにか力をもっていたら、他人を操らないこと、それを創造的に使いなさい。  ラーマクリシュナにはひとりの弟子、ヴィヴェカナンダがいた。そしてアシュラムには、カルウという名の非常に単純で無垢な男がいた。知的なタイプで、議論好きのヴィヴェカナンダは、このカルウをいつもからかっていた。  カルウは自分の部屋を寺院のように作りあげていた。インドではどんな石でも神になることができる。だから彼は自分の小さな部屋に三百に近い神々をもっていた。ヴィヴェカナンダはいつも彼に言っていた。「この神々を全部ガンジス河に捨てろ! まるでなんの意味もない——神は内側にある」 だがカルウは言った。「私はこの石たちを愛している。美しい。ガンジスが私に与えてくれたのだ。いまになって投げ返すなんてできないだろう? いや、私にはできない」  ヴィヴェカナンダが彼の最初の " サトリ " を、最初の力の洪水を伴って達成した日、考えが彼のマインドのなかに入ってきた……少し遊んでみようと思って、彼はその考えをカルウのマインドに映し込んだ。「カルウ、自分の神々を全部もって行って、ガンジス河に捨ててきなさい」  ラーマクリシュナは外に坐っていた。彼はこのゲーム全体を見た。彼は映し込まれた思考を見たにちがいない。だが、彼は待った。カルウが大きな包みをもって出て来た。彼はひとつの大きな袋に神々をすべて入れて運んでいた。ラーマクリシュナは彼を止めて言った。「待ちなさい! どこに行く?」  カルウは言った。「これはばかげているという考えが私のマインドに入ってきました。これらの神々をすべて捨ててこようと思います」  ラーマクリシュナは言った。「待っていなさい」 そして、ヴィヴェカナンダが呼ばれた。  ラーマクリシュナは非常に怒って叫んだ。「これが力を使う道だというのか?」 そしてカルウに言った。「お前は自分の部屋に戻りなさい。お前の神々をもとの場所に戻すがいい。これはお前の考えではない、ヴィヴェカナンダのだ」  カルウはその考えが変な感じだったことを認めた。あたかも外側から打たれたかのようだった、それにとりつかれてしまったようだった、と。  ラーマクリシュナはヴィヴェカナンダに対して非常に怒っていたので、彼にこう言った。「もう、お前の鍵は私が預かる。お前は二度と再びこれ以上の " サトリ " を得ることはない……お前は死ぬまさに三日前にこの鍵を受け取ることになる」  そしてそのとおりのことが起こった。彼は何年ものあいだ泣き、すすり泣いた。だが二度と " サトリ " を得ることはできなかった。彼は激しい努力をした。ラーマクリシュナが死の床にあったとき、ヴィヴェカナンダは彼に言った。「私の鍵を返してください」 だが、ラーマクリシュナは言った。「だめだ、お前は危険に思えるからだ。そうした力が、そのように用いられてはならない。お前は待つがいい。お前はまだそれに見合うほど純粋ではない。お前は泣きつづけ、瞑想しつづけなさい」  そしてヴィヴェカナンダは、自分が死ぬまさに三日前に、もうひとつの " サトリ " を得た。そして彼は自分の死が来たことを知った。 SUFIS : THE PEOPLE OF THE PATH, Vol.1, pp.290-292 25. 実用性 Practicality あなた自身の内成る神性を見せてくれるものに魅せられたり、囚われたりしてはいけません。その代わりに道に、神性に至る道の上にとどまりまりなさい。  非常に暗い夜、森のなかで道に迷ったふたりの人のことを聞いたことがある。それは非常に危険な森だった。野獣がたくさんいて、しげみは深く、まわりじゅうが闇だった。  ひとりは哲学者で、もうひとりは神秘家だった——ひとりは疑いの人で、もうひとりは信頼の人だ。 突然嵐になり、雷鳴(らいめい)がとどろき、すさまじい稲妻が走った。稲妻が光るその瞬間に、哲学者は空を見た——神秘家を道を見た。  あなたは、この物語の森よりもさらに深い森のなかで道に迷っている。夜はさらに暗い。ときとして稲妻の一閃(いっせん)がやってくる——道を見るがいい。  荘子のような人は稲妻だ。覚者は稲妻だ。私は稲妻だ。私を見てはいけない、道を見なさい。もし私を見たら、あなたはすでに逃している——稲妻は一瞬の間しかつづかないからだ。永遠が時間を貫く瞬間はめったにない。それはまさに稲妻に似ている。もしあなたがその稲妻を見たら、それはまさに稲妻に似ている。もしあなたがその稲妻を見たら、もしあなたが覚者の方を見たら——しかも覚者は美しい。その顔は心を奪い、その目は磁石のように引きつける——もしあなたがその覚者を見たら、あなたは道を逃している。  道を見なさい……道に従いなさい。 THE EMPTY BOAT, pp.127-128 26. 比較 Comparison 自分が必要とされていることを覚えておきましょう。ある人の方が高く、ある人の方が低いということはありません。 ある人は優れていて、ある人は劣っているということはありません。 あらゆることが互いに調和し合っています。  ひとりのサムライ、非常に誇り高い戦士が、ある日、禅マスターに会いに来た。そのサムライは非常に有名だった。だが、彼はマスターを見て、マスターの美しさとその瞬間の優美さを見て、突然劣等感を感じた。  彼はマスターに言った。「なぜ私は劣等感を感じるのでしょう? 一瞬前までは、すべてがうまくいっていたのです。これまでこのように感じたことは一度もありません。私は何度も死に直面しましたが、一度といえ、どのような恐怖も感じたことはありません——なぜ私は今おびえているのでしょう?」  マスターは言った。「待ちなさい。誰もいなくなったら答えよう」  人びとは一日中マスターに会いに来て、絶えることがなかった。サムライはますます待つのに疲れてきた。 夕方になって、部屋が空になると、サムライは言った。「さあ、答えていただけますか」  マスターは言った。「外に出よう」  満月の夜だった。月が地平線から昇ろうとしていた。そこで彼は言った。「これらの樹を見てごらん——この樹は空高くそびえ、そばにはこの小さな樹がある。両方とも何年ものあいだ私の窓の脇に存在してきた。それでも、一度といえなんの問題もなかった。小さい方の樹が、大きい樹に向かって、『なぜ私はあなたの前で劣等感を感じるのでしょう?』とはけっして言ったことがない。この樹は小さく、あの樹は大きい—— そのささやきを、なぜ私は一度も聞いたことがないのだろう?」  サムライは言った。「彼らは比べることはできないからです」  マスターは答えた。「そうであれば、あなたは私にたずねる必要はない。あなたは答えを知っている」  あなたが比較しないとき、あらゆる劣等感、あらゆる優越感が消える。そのときあなたは在る——あなたはただそこに在る。 小さな灌木(かんぼく)、あるいは大きくて高い樹——それは問題ではない。あなたはあなた自身だ。一枚の草の葉は、最も大きな星と同じだけ必要とされている。このかっこうのこの声は、どんな覚者とも同じだけ必要とされている——もしこのかっこうがいなくなったら、世界はそれだけ豊かさを失うことになる。  ちょっとまわりを見てごらん。すべてが必要とされている。そしてあらゆることが互いに調和し合っている。それは有機的合一だ。ある人の方が高く、ある人の方が低いということはない。ある人は優れていて、ある人は劣っているということはない。あらゆるものが比較できないほどユニークだ。あなたは必要とされている。もしあなたが、このことを私の臨在のなかで感じることができなかったら、どこであなたはそれを感じようというのか?  私が毎日あなたに頭を下げる。それは、あなたは完全だということを、なにひとつ欠けてはいないということを、あなたはすでにそこに在るということを、ただあなたに思い出させるためだ——。一歩といえども踏み出されるべきではない。あらゆることが在るべきように在る。これが宗教的意識だ。 THE SUN RISES IN THE EVENING, pp.130-131 27. 判断 Judgment 判断とは、マインドの腐りかけた状態のことです。そしてマインドは、常に判断を求めています。 進行している動きのなかにいるのは常に危険で、居心地がよくないからです。とても、とても勇敢でありなさい。成長するのをやめてはいけません。瞬間のなかで生きて、生の流れのなかにただとどまりなさい。  この物語は老子の時代に中国で起こり、老子はそれを非常に愛した。  村にひとりの老人がいた。彼は非常に貧しかったが、美しい白馬をもっていたために、王たちでさえ彼を嫉妬した……。王たちはその馬に途方もない値をつけたが、その男はいつもこう言った。「この馬は、私にとっては馬ではない。人だ。どうして人を、友人を売ることができるだろう?」 男は貧しかったが、けっしてその馬を売ろうとはしなかった。  ある朝、馬が馬小屋からいなくなっていた。村中が集まって言った。「じいさん、あんたはばかだよ! いつかは馬が盗まれるということは、俺たちにはわかっていたんだ。あいつは売った方がよかったんだよ。なんて運のないことだ!」  老人は言った。「そんなに言いすぎてはいけない。馬小屋に馬がいないとだけ言えばいい。それが事実だ。ほかのことはすべ て判断だ。それが不幸なのか、それとも祝福なのか、私は知らない。というのも、これは断片にすぎないからだ。その後になにがつづくのかは誰にもわからないだろう?」  人びとは老人を笑った。彼らはいつも、この老人は少し狂っていると思っていたのだ。だが十五日たって、ある夜突然、馬が帰ってきた。馬は盗まれたのではなかった。山野(さんや)に逃げていたのだ。しかもそれだけではなく、彼は一ダースの野性馬をいっしょに連れてきた。  またしても人びとが集まって言った。「じいさん、正しかったじゃないか。これは不幸ではなく、祝福だったということが確かに証明されたんだ」  老人は言った。「またしてもあなた方は行きすぎる。馬が戻ってきたとだけ言えばいい……それが祝福かどうか誰にが知っている? それは判断にすぎないのだ。あなた方は文章のひとつのことばしか読まない——それでどうして本全体を判断することができるだろう?」  今度は人びとはあまり多くは言えなかった。だが内側では、彼はまちがっていると知っていた。十二頭の美しい馬が来たのだ……。  老人にはひとり息子がいて、その野性馬を馴らし始めた。ちょうど一週間後、彼は馬から落ちて両足を折った。人びとはまた集まってきて、再び判断した。彼らは言った。「またしてもお前さんが正しいということになったな。不幸だったんだ。お前さんのたったひとりの息子が足を使えなくなってしまった。しかもお前の歳では彼がたったひとつの支えだったのに。いまやお前さんは前にもまして貧乏だ」  老人は言った。「あなた方は判断にとりつかれている。そんなに行きすぎてはいけない。私の息子が両足を折ったとだけ言えばいい。これが不幸か、祝福か、誰も知らないのだ。生は断片のままやってきて、それ以上は決して与えられていない」  数週間たつと、その国は戦争に入り、町の若者たちはみな軍隊に取られることになった。老人の息子だけは残った。歩けなかったからだ。町中が泣き、すすり泣いていた。それは負け戦で、ほとんどの若者は帰ってこないとわかっていたためだった。彼らは老人のところに来て言った。「じいさん、あんたが正しかったよ——これが祝福だったことが証明されたんだ。あんたの息子は歩けないかもしれないが、それでもあんたといっしょにいる。私たちの息子は永遠に逝ってしまった」  老人は再び言った。「あなた方はいつまでもいつまでも判断しつづける。誰にもわからないのだ! あなた方の息子は軍隊に入るように強制され、私の息子は強制されなかったとだけ言えばいい。だが神〈全体なるもの〉だけが、それが祝福か不幸か知っている」  判断しないことだ。さもなければ、あなたはけっして〈全体なるもの〉とひとつにはならない。断片であなたはとりつかれる。 小さなことであなたは結論に飛びつく。一度判断したら、あなたは成長をやめたのだ。判断とは、マインドの腐りかけた状態のことだ。そしてマインドは常に判断を求める。進行している動きのなかにいるのは常に危険で、居心地がよくないからだ。  事実、旅はけっして終わらない。ある道が終わり、別の道が始まる。ある扉が閉まり、別の扉が開く。あなたは頂上に辿り着く。そこには常に、さらに高い頂きがある。神は終わりのない旅だ。ゴールを気にせずに、旅で満足するほどに、ただ瞬間を生きて、そのなかへと成長してゆくことで満足できるほどに勇気のある者たち、——そういう者たちにしか、〈全体なるもの〉とともに歩くことはできない。 UNTIL YOU DIE, pp.36-40 28. 自分を受け容れること Self-Acceptance あなたは、あるがままの自分以外の誰にもなれません。だからリラックスすることです!  存在はあるがままのあなたを必要としています。  聞いたことがある——。  ある王が庭園に出かけてゆき、しおれて死にかけている樹、灌木(かんぼく)、そして花を見つけた。  樫(かし)の樹が、自分は松の樹ほど高くなれなかったから死ぬのだ、と言った。王が松の方を見ると、それは倒れかけていたが、それは松の樹が葡萄のように実をつけることができなかったからだった。そして葡萄の樹は、薔薇のようには咲くことができなかったので死のうとしていた。  そして王は、いつものように新鮮に咲いている一本の草花、三色すみれを見つけた。たずねると、答えが返ってきた——。  「あなたが私を植えたとき、私は、当然あなたが三色すみれを望んでいるのだと受け取りました。もしあなたが樫の樹を、葡萄の樹を、あるいは薔薇の樹をお望みならば、それらをお植えになったでしょう。ですから私は、自分である以外にはどうしようもないのですから、そうあるべく私の能力のかぎりをつくそうと考えたのです」  あなたがここに在るのは、この存在があるがままのあなたを必要とするからなのだ! さもなければ、ほかの誰かがここにいるだろう。あなたは、あるがままのあなたで、まったく欠くことのできないなにかを、非常に根本的ななにかを満たしている。  なぜあなたが仏陀のような人にならなければならないのだ? もし神がもうひとりの仏陀を望んでいたら、神は自分で望むだけ多くの仏陀を産み出すことができたはずだ。神はたったひとりの仏陀しか産み出さなかった。しかもそれで充分だった。それ以来、神はもうひとり別の仏陀を、あるいはもうひとり別のキリストを産み出してはいない。そのかわりに神はあなたを創った。宇宙があなたに抱いている尊敬をちょっと考えてごらん! 仏陀ではなく、キリストではなく、クリシュナではなく、あなたが選ばれているのだ。  彼らの仕事は終わった。彼らは彼らの芳香を存在に与えた。いまやあなたが、あなたの芳香を与えるためにここにいる。  あなた自身をちょっと見てごらん。あなたはあなた自身でしかいられないのだ……あなたがほかの誰かになれるという可能性はない。あなたはそれを楽しんで開花することができる。あるいはそれを非難して、しおれることもできるのだ。 TAKE IT EASY, Vol.2, pp.101-103 29. 感謝 Gratefulness あなたのハートが感謝でいっぱいになっているときは、閉じているように見えるどんな扉でも、さらにもっと大きな祝福への開き口となりえます。  禅の究極を達成した女性たちはごくわずかしかいない。蓮月(れんげつ)はそうした女性たちのひとりだ。  彼女は巡礼の旅をしていた。日が暮れるころある村に着いたので、一夜の宿を求めた。だが村人たちは扉を手荒く締めた。彼らは町の伝統的な仏教徒だったにちがいない。彼らはこの禅の女性がそこに泊まるのを許さなかった。彼らは彼女を村から追い出した。  寒い夜で、年老いた女性には泊まるところがなかった……それに空腹でもあった。彼女は野原に立っている一本の桜の樹を拠りどころにしなければならなかった。ほんとうに寒くて、彼女はよく眠れなかった。それに危険でもあった——野性の獣やなにもかもが。  彼女は真夜中に目が覚めた——とても寒かった——そして春の夜空に、満開になった桜の花が、おぼろ月に向かって笑っているのを見た。その美しさに圧倒されて、彼女は起きあがり、村の方角に向かってお辞儀をした。 私が泊まるのを断るという 彼らの親切さゆえに 私はこのおぼろ月の夜に 花の下にいる自分に気がついた  非常に感謝して、彼女は自分の宿泊を断った人たちに礼を言った。さもなければ、彼女は普通の屋根の下で寝ていて、この祝福を——この桜の花、おぼろ月とのささやき合い、そして夜の沈黙、夜のこの完全な沈黙を逃していたことだろう。  彼女は怒ってはいない。彼女はそれを受け容れる——それを受け容れるだけでなく、それを喜んで迎え入れる。彼女は感謝を感じる。  生は途方もない。そして毎瞬、それはあなたへの千とひとつの贈りものをもってやってくる。だがあなたは、欲しがっている自分のマインドで非常に忙しく、心を奪われているために、自分の考えであまりにもいっぱいになっているために、その贈りものをすべて拒絶する。神はやって来る——あなたは拒絶しつづけている。  生がもたらすすべてを感謝をもって受け容れる瞬間、人はひとりの覚者になる。 ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.3, pp.179-180 30. 死 / けっして死ぬことのないもの Death/ That Which Never Dies あなたの注意を、あなたの内側にあってけっして死ぬことのないものを見る方に向けなさい。 あなたにはいま、死んでいるもの、あるいは去ったものに手放す用意ができています。それを呼び戻そうとすることを忘れなさい。そして、それが過ぎ去っていったことを個人的にとらえてはいけません。  仏陀の奇蹟は、イエスのそれとはまったくちがう。ある女性が仏陀のところに行く——。 自分の子どもが死んだので、彼女は悲嘆にくれている。しかも彼女は未亡人で、もう子どもをもつことはけっしてない。たったひとりの子どもが死んだのだ。それは彼女の愛のすべて、彼女の心づかいのすべてだった……。  だが、仏陀はどうしただろう? 仏陀は笑って彼女に言った。「町に行って、誰ひとり一度も死んだことのない家から、芥子種(けしだね)を少し貰ってきなさい」  そこで、その女性は町に駆け込み、一軒ごとに家を訪ねた。どこへ行っても彼らはこう言った。「欲しいだけ芥子種をあげることはできるけれど、その条件を満たすことはできない——私たちの家ではほんとうにたくさんの人が死んだからだよ」。 何度も何度もそうなった。  だが、彼女は望みを捨てなかった。「もしかしたら……わかるわけないわ。死を知ったことのない家がどこかにあるかもしれない」  そうして彼女は一日中あらゆるところを訪ね歩いた。夕方になると、彼女のなかに深い理解が湧き起こってきた。「死は生の一部だ。それは起こる。それは個人的ななにかではない。私に起こった個人的な災難ではない」。 その理解をもって、彼女は仏陀のところに行った。  彼はたずねた。「芥子種はどこにある?」  彼女は笑った。彼の足もとにひれ伏して言った。「私を入信させてください。けっして死ぬことのないものを知りたいのです。私の子どもが戻るようにとは望みません。たとえその子が私に与えられたとしても、また死ぬでしょうから。自分の内側で、けっして死ぬことのないものを知ることができるように、なにか教えてください」 THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.1, pp.103-104 31. 受け容れること Acceptance 生をあるがままに受け容れることです。どんな理由ももたずに、楽しみなさい。  偉大な禅のマスター、白隠が住んでいた村で、ある娘が妊娠した。彼女の父親は、彼女をおどしつけて、恋人の名前を知ろうとした。そしてついに、彼女は罰を逃れようとして、それは白隠だと告げた。  父親はそれ以上なにも言わなかった。だが時が満ちて、子どもが生まれると、彼はすぐに白隠のところに連れて行って、子どもを放り出した。「これはお前の子どものようだが」と彼は言い、ことの不名誉に対してあらゆる侮辱とあざけりをまくしたてた。  禅マスターは、ただひとこと、「おお、そうなのか?」とだけ行って、その子を腕に抱いた。それからというもの、彼は、その子どもを、ぼろぼろになった長衣(じょうえ)のたもとにくるんで、どこへでも連れて行った。雨の降る日も、嵐の夜も、彼は近所の家々にミルクを貰いに出かけたものだ。弟子の多くは、彼は堕落したと思って、反発して去って行った。が、白隠はひとことも言わなかった。  一方、母親は、自分の子どもから離れている苦しみに耐えられなくなっていた。彼女はほんとうの父親の名前を明かした。 彼女の父親は白隠のもとに駆けつけて、ひれ伏し、何度も何度も許しを乞うた。  白隠は、「おお、そうなのか?」とだけ言って、彼に子どもを返した。  これが受け容れることだ。これが " タタータ " だ。生がもたらすものはなんでもオーケーだ。完全にオーケーだ。これが鏡のような質だ——なにも良くはなく、なにも悪くはない。すべてが神性だ。生をあるがままに受け容れるがいい。それを受け容れることで欲望が消える。緊張が消える。不満が消える。それをあるがままに受け容れることで、人はとても楽しく感じ始める。まったくなんの理由もないのに。  喜びに理由があると、それは長くはつづがない。喜びになんの理由もなければ、それは永遠にそこにある。 ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.3, pp.175-176 32. 小さな家族を超えて Beyond the Small Family あなたは全体の一部です。存在に属しています。部分への執着に、より大きな全体へと入っていくのを妨げさせてはいけません。  イエスに関する非常に神秘的な物語、イエスにしては非常に厳しく見える物語がある。  彼は群衆に語りかけていた。すると誰かが言った。「イエス、あなたのお母さんが外の方で待っていらっしゃいます。でも、人の集まりが大きすぎて、彼女はなかに入ってこれません。あなたに会いたがっておられます」  イエスは言った。「誰も私の母ではない」  そしてあるとき、イエスはまだ子どもだったころ、イエスと彼の父母は、毎年恒例の祝祭でユダヤの偉大な寺院に来ていたが、イエスは両親から離れてしまった。彼らは捜しに捜し回った。 そして夕方になり、彼らが心乱れ、ひどく心配になっていたところで、ようやくイエスが見つかった。彼はある学者たちといっしょに坐っていた—— 子どもにすぎないのに、彼は未知なるものについて彼らとなにごとか議論していた。  父は、彼のところに行って、こう言った。「イエス、ここでなにをしている? 私たちは一日中お前のことを心配していたのだよ」  イエスは言った。「私のことは心配しないでください。私は、私の父の仕事をしていたのです」  ヨセフは言った。「私がお前の父親だ……それに、ここでどんな仕事をしているというのか? 私は大工だ!」  ところがイエスは言った。「私の父は天にいます——あなたは私の父ではありません」  子どもがまさに母の肉体を離れなければならないように、彼もまた、ある日、父母の子宮から精神的に出なければならない。 肉体的にというだけではなく、精神的にも——精神的にというだけではなく、霊的にも。そして子どもが霊的に生まれるとき、 過去から完全に脱(ぬ)けるとき、過去との関係を完全に絶つとき、そのとき初めて、彼は自己に、独立した現実になる。それまでは彼は母親、あるいは父親、あるいは家族の一部だったにすぎない。けっして彼自身ではなかったのだ。 NO WATER, NO MOON, pp.173-179  もしあなたが家族と恋に落ちたら、その愛を超えなければならない。さもなければ、その愛そのものが、その執着そのものが、もっと大きな全体へと入ってゆくのをあなたに許さない。 COME FOLLOW ME, Vol.2, p.122 33. 再誕生/瞬間から瞬間へ Rebirth/Moment-to-Moment あなた自身の感じていることが完全に正しいとされていて——しかもあなたが、自分はまったく正しい! と感じる——そのような状況においてすら、それでもなお、これまでにあなたが知ってきたあらゆることを超えている、なにかの可能性に対して開いていなさい。過去の体験から飛び出して、まったく新しい次元に飛び込みなさい。  仏陀が光明を得て、最初にしたことは、自分の家族のもとに帰ることだった。そうすることで、彼になにが起こったかを彼らが知ることができるように……。そして、以前自分が愛していたそれらすべての人びとを彼が思いだしたというのは自然なことだ。  だが彼の妻、ヤショダーラは、非常に怒っていた。それもまた自然で、人間的だ。ある夜、この人は、行くということを告げることすらせずに、突然逃げ出した……。その傷は深かった。そして、あなたは驚くだろうが、その傷は、ゴータマ・シッダルタが彼女を置き去りにしたからではなかった——それは問題ではなかった。彼女はこの人を途方もなく愛していたので、もし彼が自分の内的な探究のために森に行くことを望んでいたのなら、彼女はそれを許していただろう。傷は、彼が彼女になにも言わなかったことだった。彼が彼女を信頼していなかったことだった——それが傷だった。そのちがいを見てごらん! 彼女は普通の女ではない。これが彼女を痛めていたことだったのだ——「なぜ彼は私を信じることができなかったのだろう?」……。  そして彼が着いたとき、突然、彼女は怒っていた。彼女の怒りは爆発した。彼女は言った。「なぜあなたは私に言わなかったの?  私はあなたを妨げはしなかったでしょう。それに、あなたは私を知っているではありませんか——ほんとうによく知ってい るのに。私たちは何年もいっしょに暮らしたのよ。私が一度でも、なにかのことであなたの邪魔をしたことがあったでしょうか?  私はあなたをとても深く、とても広く愛していました……私があなたの探究の妨げになることはななかったでしょう。なぜ あなたは私に言ってくださらなかったのですか?」  彼女は何度も何度も彼にたずねた。それから怒って、息子を呼んだ。仏陀が去ったとき、その子は生後一ヶ月にすぎなかった。 いまでは彼は十二歳で、絶えずたずねていた。「私の父はどこにいるのですか? 私の父は誰なのですか?」  彼女はその少年を呼んで言った。「ラーフラ、この人があなたの父親です。彼は臆病者のように逃げたのです。この人があな たに生を与えたのです。さあ、財産を譲ってもらいなさい!」  彼女はあざけって挑発していた。仏陀はいまや乞食だったからだ——どんな財産を? 彼はいったいなにを得たのだろう? ……。  そして仏陀はどうしたか、あなたはわかるかね? 彼はその子をサニヤスにイニシエートした。彼は、その子に自分の乞食用の鉢を与えて言った。「私はほんとうはこのために来たのだよ。私は見い出した。そして私の息子にも見い出してほしい。そしてヤショダーラ、この怒りはもう終わりにしなさい。いまではもう意味がない。お前が怒っているその男はもういないからだ。 私は死んで、再び生まれている。私はお前の激しい怒りを理解することはできるが、あの夜にお前を置き去りにしたその男はもういない。もう一度私をみてごらん!」  目は涙でいっぱいになっていたが、彼女は見た……そして認めた。彼女の怒りはすべて消えた。彼女は仏陀の足もとにひれ伏した。イニシエーションを求め、彼のサニヤシンになった。 THE PERFECT MASTER, Vol.2, pp.208-210 THE BOOK OF THE SECRETS, Vol.5, pp197-200 34. 怒り Anger 怒りを感じるときは、それを誰かほかの人に投げつけても、抑圧してもいけません。それは、ポジティブな方向に変容させることのできるすばらしい現象です。  禅の学生が盤珪 ( ばんけい ) のところに来て言った。「マスター、私には自分ではどうしようもない怒りがあります。どうしたらそれを鎮めることができるでしょうか?」  「その怒りを私に見せてごらん」と盤珪は言った。「おもしろそうではないか」  「いまはそれはありません」と学生は言った。「ですから、お見せできません」  「そうであれば」と盤珪は言った。「それがあるときに私のところにもって来るがいい」  「ですが、たまたまそれがあるときに、それをもって来るわけにはゆかないのです」と学生は抗議した。「予期せぬときにそれは湧いてきます。そして、それをあなたのところにもって来る前に、私はまちがいなくそれを失ってしまうでしょう」  「そういうことであれば」と盤珪は言った。「それはあなたの本性の一部ではありえない。もしそうであれば、あなたはいつ であれ、それに私に見せることができたはずだ。生まれたとき、あなたはそれをもっていなかった——だから、それは外側か らあなたのところに来たにちがいない。私は提案しよう、いつであれ、それがあなたのなかに入って来たときは、その怒りが 耐えきれなくなって逃げ出すまで、自分を棒で打つがいい」  今度あなたが怒りを感じたら、家のまわりを七回走り回り、その後で樹の下に坐って、その怒りがどこに行ったのかを見守る がいい。あなたはそれを抑圧しなかった。あなたはそれを操らなかった。あなたはそれをほかの誰かに投げつけなかったのだ ……。  怒りは精神的な嘔吐にすぎない……。それを誰かに投げつける必要はまるでない……。ジョギングを少しするか、枕を取って、 その枕をあなたの手と歯がリラックスするまで叩くがいい。  変容のなかでは、あなたはけっして操らない。あなたはもっと醒めるだけだ。怒りが起こっている——それはすばらしい現 象だ。それはちょうど雲のなかの電気のようだ……。  怒りが起こっているさなかでも、あなたが突然意識するようになったら、それは落ちる。それを試してごらん! 自分が熱くなっていて、人を殺したいそのさなかに——突然醒める。すると、あなたはなにかが変わったのを感じる。内側のギア、そのカチッという音をあなたは感じることができる。なにかが変わったのだ。あなたの内なる存在がリラックスした。あなたの外側の層がリラックスするには時間がかかるだろう。だが、内側の層はすでにリラックスしている。協力が壊された……もうあなたは同化していない。肉体が冷めるには少し時間がかかる。だが、中心深くでは、あらゆることがクールだ……。  クールなとき、あなたは全世界を楽しむことができる。ホットなとき、あなたは失われている。同化している。あなたはそのなかでどうしようもなく混乱している。どうしてそれを楽しむことができるだろう?  これは矛盾して聞こえるかもしれない。だが私はあなたに言おう、覚者だけがこの世界を楽しむ。 AND THE FLOWERS SHOWERED, pp.50-72 35. ムードの習得 Mastery of Moods 幸せであろうと、不幸であろうと、「これもまた過ぎ去る」と覚えておきましょう。この鍵が、ムードの犠牲者になる代わりに、あなたを自分のムードの支配者にしてくれます。  多くの賢者たちを擁(よう)していた王が自分の富に不満を感じた。しかも近くの国、彼の国よりも力の強い国が攻撃の準備をしていた。王は死を、敗北、絶望、寄る年波を恐れていた。そこで彼は自分の賢者たちを呼んで言った。「なぜだかはわからないが、私はある指輪を捜さなければならない……それは、不幸なときには私を楽しませてくれると同時に、もし幸せなときに見たら、悲しくさせてくれるという指輪だ」  彼は鍵を、ふたつの扉を開くことのできる鍵を求めていた——幸福の扉と不幸の扉。彼はなにを求めていたのだろう? 彼は自分のムードの習得を求めていた。自分のムードの主人になりたいと言っていた、彼はもはやそれらの犠牲者になるのを望んでいない。  賢者たちは相談しあったが、どのような結論も見い出せなかった。ついに彼らはスーフィー神秘家のところに言って助言を求めた。スーフィーは自分の指から指輪を外し、それを彼らに与えて言った。「ひとつ条件がある。それを王に与えるがいい。だが、彼に伝えることだ。すべてが失われ、混乱の極みに達して、苦悩の極みに達して、まったく望みがないときにしかその石の裏側を見てはならない。さもなければ彼はメッセージを逃す」  王は従った。国は失われ、自分の命を救うただそれだけのために、彼は王国から逃げ出した。敵が迫っていた。彼は騎馬の音を聞くことができた……しかも馬は死んでしまい、彼は自分の足で走った……彼は窮地に陥った。底の知れない深淵(しんえん)しかなかった。  最後の瞬間になって、彼は指輪を思い出した。彼はそれを開けた。 石の裏側を見ると、そこにメッセージがあった。そこには——  これもまた過ぎ去る、とあった。 UNTIL YOU DIE, pp.192-204 36. 地獄の門 Gates of Hell 地獄にいるか、あるいは天国にいるかという選択権は、自分がもっていることを瞬間ごとに覚えておきなさい。 もしあなたが無意識だったら、あなたは地獄にいます。それはあなた次第です。 37. 天国の門 Gates of Heaven あなたが意識しているとき、あなたは天国にいます。醒めていなさい。油断せずにいなさい。意識していなさい! これもまた、あなた次第です。  禅マスター白隠(はくいん)は、まれな開花のひとつだ。ひとりの戦士、サムライが、偉大な兵士が彼のところに来てたずねた。「地獄はありますか? 天国はありますか? もし地獄と天国があるとしたら、その扉はどこにあるのですか? 私はどこから入ればよいのですか?」  彼は素朴な戦士だった。戦士は常に素朴だ。彼らのマインドのなかにずるさはない。計算はない。彼らはふたつのことしか知らない、生と死だ。彼はなにか教義を学ぼうとして来たのではなかった。彼は地獄を避けて、天国に入れるように、その門がどこにあるのかを知りたかった。 そして白隠は、戦士にしかわからないやり方で応えた。  白隠は言った。「お前は誰なのか?」  戦士は応えた。「私はサムライだ」。サムライであることは、日本では非常に誇り高いことだ。それは完璧な戦士、自分の命 を差し出すのを一瞬の間といえどもためらわない人間であることを意味する。彼は言った。「私はサムライだ。私はサムライの 隊長だ。天皇でさえ私には敬意を払う」  白隠は笑って言った。「お前がサムライだって? お前は乞食みたいだぞ!」  彼の誇りは傷ついた。サムライは自分がなんのために来たのかを忘れた。彼は刀を抜いて、まさに白隠を殺そうとした。  白隠は笑って言った。「これが地獄の門だ。この刀、この怒り、このエゴとともに、ここにその門が開く」  これこそ戦士に理解できることだ。すぐにサムライは理解した。彼は刀を鞘(さや)に収めた……そこで、白隠は言った。「ここに天国の門が開く」  地獄と天国はあなたの内にある。両方の門があなたの内にある。あなたが無意識に振るまっているとき、そこには地獄の門がある。あなたが油断せずに、意識するようになるとき、そこには天国の門がある。  マインドは天国だ。マインドは地獄だ。そしてマインドには、そのどちらにもなれる許容力がある。だが人びとは、どんなものも、どこか外側にあると思いつづけている……。地獄と天国は、生の終わりにあるのではない。それらは今ここにある。 瞬間ごとにその扉が開く…… 一瞬のうちに、あなたは地獄から天国へ、天国から地獄へと動くことができる。  ROOTS AND WINGS, pp.82-98 38. 変容 Transformation アティシャのエクササイズをただ試みてみましょう。世界のすべての苦しみを自分のハートのなかに取り込んで、祝福を注ぎ出します。それはすばやい効果をもたらします。今日それをやってみましょう。  さあ、彼は、慈悲心をもつことを始めなさい、と言う。そして、その手法とは、息を吸うとき—— 注意して聴きなさい、それはもっとも偉大な手法のひとつだ——息を吸うとき、自分は世界のあらゆる人びとの惨めさをすべて吸い込んでいると考えることだ。あらゆるところに存在するあらゆる暗闇、あらゆる否定的なもの、あらゆる地獄、それをあなたは吸い込んでいる。そしてそれを、あなたのハートに吸収させる。  息を吸い込むとき、世界の——過去、現在、そして未来の——すべての存在のあらゆる惨めさと苦しみを吸い込む。そして息を吐き出すときは、あなたがもっている喜びのすべて、あなたがもっている至福のすべて、あなたがもっている祝福のすべてを吐き出す。息を吐き出す——あなた自身を存在に注ぎ入れる。 これが慈悲の手法だ。すべての苦しみを飲み込んで、すべての祝福を注ぎ込む。  それをやってみると、あなたは驚くだろう。世界のあらゆる苦しみを自分の内側に取り込んだ瞬間、それらはもう苦しみではない。ハートがすぐにそのエネルギーを変容させる。ハートは変容する力だ。惨めさを飲み込むと、それは至福に変容されている……。それからそれを注ぎ出す。  自分のハートはこのマジックを、この奇蹟を行うことができる、と一度学んだら、あなたはそれを何度も何度もやりたくなるだろう。それを試してごらん。それはもっとも実用的な手法のひとつだ——単純で、しかもすぐに効果が現れる。今日それをやってみるがいい。 THE BOOK OF WISDOM, Vol.1, pp.21-22 39. 創造性 Creativity あなたの狂気、あなたの否定性、あなたの破壊性を、あなた自身とほかの人に対して用いるのをやめなさい。それはこれまでやりやすいことだったのです。破壊なら、子どもにもできます。いまはもう、内側にあってまったくなじみのないなにかに向かいなさい。それには途方もない勇気、途方もない力が要ります。あなた自身があなたの創造性を表現するのを許しましょう。  これは仏陀のことを語った物語だ。  ほとんど狂っている人がいた。狂っている殺人者だ。彼は千人の人びとを殺すという誓いをたてていた、社会が彼をひどく扱ったから、それ以下ではだめだった。千人の人びとを殺すことで、彼は復讐するつもりだった。そして彼は、殺した人一人ひとりずつから指を一本取って、自分の首にかけるロザリオを作る——千本の指のロザリオ。この誓いがもとで、彼の名前はアングリマーラ——『指のロザリオをかけている人』になった。  彼は九百九十九人の人びとを殺した。アングリマーラが近くにいることを知ると、人びとは誰もその方角には行かなかった。人の往来が止まったものだ。そして、彼には最後の人間を見つけるのがとてもむずかしくなっていた。自分の誓いが成就(じょうじゅ)するには、あとひとりだけでよかったのだ。  仏陀は森に向かっていた。すると村から人びとが彼のところに来て言った。「行ってはいけません! あそこにはアングリマーラが、あの狂った人殺しがいます! 彼は思い直したりはしません、あっさりと殺してしまうのです。彼はあなたが仏陀だという事実を考えたりはしないでしょう。向こうには行かないでください! 別の道があります……」  だが仏陀は言った。「もし私が行かなかったら、誰が行く?……彼は人間だ。彼には私が必要だ。私は危険を冒(おか)さなければならない。彼が私を殺すか、それとも私が彼を殺すかだ」  仏陀は行った。最後の最後まで彼といっしょにいると言っていた彼のもっとも近い弟子たちでさえ、あとずさりし始めた。これは危なかった!  だから、アングリマーラが岩の上に坐っている、その丘に仏陀が近づいたときには、彼の後ろには誰もいなかった。彼は独りだった。弟子たちは消えていた。  アングリマーラは、この無垢で、子どものような人を見た。あまりにも美しかったので、殺人者である彼ですらその人に慈悲を感じた。 彼は考えた。「この人は私がここにいることにまったく気づいていないようだ。そうでなければ誰もこの道を通っては来ない」。さらに彼は考えた。「この人を殺すのは良くない。彼を行かせることにしよう、誰かほかの人を見つければいい」  彼は仏陀に向かって叫んだ。「戻れ! いまそこで止まって戻るんだ! それ以上足を踏み出してはだめだ! 私はアングリマーラだ。 それに、見ろ、ここには九百九十九本の指がある。あと一本の指が必要なんだ——たとえ私の母が来ようとも、私は彼女を殺して自分の誓いを成就させる! だから近づいてはいけない。私は危険だ! それに私は宗教など信じていない……お前は非常に善良な僧、偉大な聖者かもしれないが、私はかまわないぞ。お前の指でも誰の指でもかまわないんだ。一歩も先へ進むな、さもないとお前を殺す。止まれ!」だが仏陀は行きつづけた。  そこでアングリマーラは考えた。「こいつは耳が聞こえないか、狂っているかだ」 もう一度彼は叫んだ。「止まれ! 動くな!」  仏陀は言った。「私はずっと前に止まった。私は動いていない。アングリマーラ、お前は動いている。私にはゴールはない……それに、動機がなければ、どうして動きが起こりえよう? おまえが動いているのだ——そして、私はお前に言おう、お前こそ止まるのだ!」  アングリマーラは笑い出して言った。「お前はほんとうにばかか、狂っているかだ。お前がどんな礼儀を心得ているのか私にはわからない!」 仏陀は近づいて言った。「お前にはもう一本の指が必要だと私は聞いた。この身体に関するかぎり、私のゴールは達成されている。この身体は役に立たない。お前がそれを使うがいい。お前の誓いは満たされるだろう——私の指を切り落とし、私の頭を切り落とすがいい。私は目的があって来た。これが、私の身体がなんらかの意味で使われる最期の機会だからだ」  アングリマーラは言った。「私はこのあたりでは自分だけが気違いだと思っていた。が、賢くあろうとはしないことだ。それでも私はお前を殺すことができる」 仏陀は言った。「私を殺す前に、ひとつのことをやってほしい——死んでゆく者の願いにすぎないが——この枝を切ってほしい」 アングリマーラが剣を樹に振りおろすと、大きな枝が落ちた。  仏陀は言った。「もうひとつだけ——それをもう一度樹につけてほしい」  アングリマーラは言った。「お前が完全に狂っていることがもう私にはわかった。私は切ることはできるが、つなぐことはできない」  すると仏陀は笑い始めて言った。「壊すだけで創ることができないなら……お前は壊すべきではない。破壊は子どもでもできる、それには少しも勇ましいところはない。この枝は子どもでも切れる。だがそれをつなぐにはマスターが必要だ。それに、もしお前に、枝を樹につなぎ戻すことができないのなら、人間の頭だとどうなる? お前はそのことを一度でも考えたことがあるのか?」  アングリマーラは目を閉じて言った。「その道に私を導いてください」。そして、その一瞬のうちに、彼は光明を得たと言われている。  気違いになるエネルギーをもっている人は、光明を得るエネルギーももっている——それは同じエネルギーだ。向きが変わっただけだ。  あなたが創造的になれなかったら、エネルギーは破壊的になる。 THE MUSTARD SEED, pp.137-142 40. 全体性 Wholeness 自分が全一であるかどうか、内側を見てみましょう。はさみはマインドに似ています。それは切ります、それは分けるのです。針は愛に似ています。ものごとをひとつにまとめます。引き裂かれたものを癒してくれます。あなたのハートを愛に向けて開きなさい。そうすれば愛があなたを全一にしてくれるでしょう。  偉大なスーフィー神秘家、ファリッドの生涯で、ある王が彼に会いに来たと伝えられている。 王は彼に贈り物をもってきた——非常に高価で、めったにない、どこかユニークなところのあるすばらしい一丁のはさみ。彼はこのはさみをファリッドに贈るためにもってきた。彼はファリッドの足に触れて、はさみを差し出した。  ファリッドは受け取り、それを見て、王に返して言った。「殿下、おもちくださった贈り物、ほんとうにありがとうございます。すばらしいものですが、私にはまったくなんの役にも立ちません。針がいただければ、その方が私にはよいでしょう。私ははさみはいりません、針でよいのです」  王は言った。「私にはわからない。針が必要なら、はさみもいるであろう」 ファリッドは言った。「私にははさみはいりません。 はさみはものを切り分けるからです。針なら私には必要です、針はものをひとつにまとめるからです。私は愛を教えます。私の教え全体は愛に基づいています——ものごとをひとつにまとめながら、人びとにコミュニオンを教えています。人びとをまとめられるように、私には針が必要なのです。はさみは役に立ちません。それは切ります、外します。この次にいらっしゃるときは、普通の針で充分です」 UNIO MYSTICA, Vol.2, pp217-218 41. 失敗 Failure あなたが独りで、全体からかけ離れてなにかをやろうと企てると、なんであれそれは失敗になります。 成功は神のなかに、そして神とともにあります。 私は内なる恋人に話しかけて言う。 私たちは鳥や動物や蟻たちを愛するある種の精神があることを感じ取っている—— おそらくそれはあなたの母の子宮のなかで あなたに輝きを与える者と同じなのだろう。 いまではまったく孤児になって歩き回っているあなたは理にかなっているだろうか? あなたが自分に背を向けて独りで暗闇のなかに入っていこうと決めたこと それがほんとうのところだ。 いまではあなたは他者のなかにもつれ込み かつては自分が知っていたことを忘れている。 だからこそあなたがやるあらゆることのなかに 不気味な失敗が含まれているのだ。  それを自分の生のなかで見守ったことはないだろうか? あなたのやることは失敗しつづけている。それでもあなたは要点を見ない……あなたは、やるべきようには自分はそれをやらなかったのだ、と考える。そこであなたは別の計画を試みて、再び失敗する。そうなるとあなたは、自分の技能が充分ではなかったのだ、と考える。そこであなたは技能を学んで、またしても失敗する。それからあなたは、「世界が私に反対している」、あるいは、「私は人びとの嫉妬の犠牲者だ」と考える。あなたは、なぜ自分は失敗したのかという説明を見い出しつづける。だがけっして自分の失敗のほんとうの基盤を掘り当てはしない。  カビールは、失敗とはあなたから神を引くことだ、と言う。あなたとしてのあなたが失敗の根本的な原因だ。成功は神のなかに、そして神とともにある。宇宙の精神、タオ——存在全体に充満し、浸透する法——を感じ取るがいい。あなたはそれから生まれ、いつの日かそれに帰ってゆく。 THE REVOLUTION, pp.150, 177-179 42. 心配/不安 Worry/Anxiety あなたが離れていて、個人的なゴールをもっていると、とてつもない緊張があるために、あなたの覚醒は非常に狭くなります。あなたは閉じてしまいます。ただ明け渡しましょう。存在があなたを運んでゆくのを許しなさい。   私は、バスで旅行をしていたある年老いた女性のことを聞いたことがある。彼女は非常に不安で、震えながら、運転手にこの停留所はどこかと絶えず聞いていた。  彼女のわきに坐っていた見知らぬ人が言った。「楽にしていなさい、心配しなくていいんですよ。車掌が停留所を次々にアナウンスしつづけますよ。それに、もしあなたがあまりにも心配だったら、私が車掌を呼んでもあげましょう。あなたは彼に自分が降りたいところを告げればいいのです。そうすれば彼はそれを心にとめとくことができるのですよ。あなたは楽にしていれば いい!」  彼は車掌を呼んだ。そしてその女性は言った。「どうか覚えておいて。私は自分が降りるところを見過ごしたくないのよ。と ても急いでそこに着かなければならないの」  車掌は言った。「オーケー、心に留めておきましょう。あなたが求めなくても、私はそこをアナウンスしますけど、心にとめ ておいて、あなたの降りるところになったら、とくにあなたにそのことを教えに来ましょう。心配することはありません。それで、あなたはどこで降りたいのですか?」  その女性は——汗をかき、震えながら、とても緊張して——言った。「ああ、ありがとう。心にとめておいてね——私は終点 で降りなければならないのよ」  あなたが緊張すると、あなたの意識はさらに狭く、さらに狭くなる。あなたは閉じてしまう。そしてそのような緊張のなかで、そのような不安のなかで、覚えているのはますますむずかしくなる。エゴとは緊張のことだ。不安を重荷を抱えている……しかも不必要に。  さあ、それがバスの終点だったら、なぜ心配しなければならない? どうやって見過ごすことができよう? 休むやいなや、くつろぐやいなや、存在はすでに動いていることを、これらのより高い頂きに向かって近づいていることを、あなたは知る。 しかもあなたはその一部だ! あなたはかけ離れた野望をもつ必要はない。  これが明け渡すことだ。くつろいで、個人的なゴールをすべて落として、成し遂げようとするマインド全体を、エゴの投影をすべて落として——。これが光明を得ることの秘密のすべてだ。それは深い休息状態のなかで起こる。 GUIDA SPIRITUAL, pp.302-303 43. マインド Mind あなた自身の惨めさ、喜び、否定的な部分、肯定的な部分、地獄、あるいは天国といった創造の責任を取る用意。この責任を理解して受け容れたら、ものごとは変わり始めます。新しい可能性に向かって開いていましょう。  有名な逸話がある。  あるとき、ある人が旅をしていて、偶然楽園に入った。さて、インドの楽園の概念では、願いをかなえてくれる木がある。ただその下に坐って、なにかを望むと、すぐにそれがかなえられる——欲望と成就の間に隙間はない。  その人は疲れていたので、この願いをかなえてくれる木の下で寝込んでしまった。目が覚めると、彼はとても腹が減っていたので、こう言った。「とてもおなかがすいている。どこかで食べるものが手に入るといいのだが」 すると突然、どこからともなく食べ物が現れた——まさに空中に浮いていた。すばらしい食べ物だ。  彼はとても腹が減っていたので、それがどこから来たのか、あまり気にかけなかった——腹が減っていると、あなたは哲学的ではなくなる。彼はすぐに食べ始めた。それに食べ物は非常においしかった……。そして飢えが去ってしまうと、彼はまわりを見回した。  もう彼は満足していた。彼のなかで別の考えが起きてきた。「なにか飲むものが手に入りさえすれば……」 いまでも楽園にはどのような禁止項目もない。すぐに上等なワインが現れた。  木陰の、楽園の涼しい風のなかで、くつろいでワインを飲みながら、彼は不思議な気がしてきた。「いったいどうしたのだろう?  どうなっているのだろう? 私は夢を見ているのだろうか、それとも私に悪戯(あくぎ)をしている幽霊がこのあたりにいるのだろう か?」  すると幽霊が現れた。しかも彼らは凶暴で、恐ろしく、吐き気を催(もよお)させた。彼は震え出した。そしてある考えが彼のなかに起きてきた。「もう、私はまちがいなく殺される……」 そして、彼は殺された。  この逸話は古くからある逸話だ。途方もなく意義深い。あなたのマインドは望みをかなえてくれる木だ——あなたがなにを考えようとも、いずれそれは実現する。ときには、自分がそれを望んだことを完全に忘れてしまうくらいギャップがある。だからあなたはその源につながることができない。だが、深く見守ったら、あなたは自分の思考のすべてが自分と自分の生を創っていることに気づくだろう。  それらがあなたの地獄を創る。それらがあなたの天国を創る。それらがあなたの惨めさを創る。それらがあなたの喜びを創る。 それらが否定的なものを創る。それらが肯定的なものを創る……。  ここにいるあらゆる人が魔術師だ。そしてあらゆる人が自分のまわりに魔法の世界を紡ぎ出している……そうして捕まってしまう。蜘蛛そのものが自分の巣で捕らえられている。  あなたを虐待している人は、あなたをおいてほかにいない。そして、一度このことが理解されたら、ものごとは変わり始める。 そうなるとあなたは、その向きを変えることができる。自分の地獄を天国に変えることができる。それはただちがった視野からそれを描くという問題にすぎない……。全責任はあなたにある。  そして新しい可能性が起きてくる。あなたは世界を創るのをやめることができるのだ! 天国と地獄を創る必要はない、創る必要はまったくない。創造主はくつろいで、退くことができる。  そして、マインドの引退が、瞑想だ。 TAKE IT EASY, Vol.2, pp.176-179 44. 欲望 Desire あなたを幸せにしてくれるものを、あなた自身の外側に探し求めるのをやめるときです。内側を見なさい。  非常に有名なスーフィーの物語がある。  ある皇帝が、宮廷から朝の散歩に出たところで、乞食に出会った。彼はその乞食にたずねた。「お前はなにが欲しいのかね?」  乞食は笑って言った。「お前はまるで私の欲望を満たすことができるかのようにたずねるのだな!」  王は気を悪くした。彼は言った。「もちろん私はお前の欲望を満たすことができる。なにが望みなのか? 私に言ってみるがいい」  ところが乞食は言った。「なにかを約束する前に、もう一度考えるがいい」  その乞食は普通の乞食ではなかった。彼は皇帝の過去生でのマスターだった。そして彼はその生で約束をしていた。「私は、 お前の次の生に現れて、お前を目覚めさせてみよう。この生をお前は見逃した。だが私はもう一度来ることにしよう」 だが王 は完全に忘れていた——誰が過去生を覚えているだろう? そこで彼は強く言った。「お前が求めるものならなんでも私はかな えてやろう。私は非常に力のある皇帝だ。お前に求めることのできるもので、私が与えられないものなどがありえようか?」  乞食は言った。「とてもシンプルな欲望だ。ここに乞食椀があるだろう? それをなにかで満たすことができるかね?」  皇帝は言った。「もちろんだ!」。彼は大臣のひとりを呼んで、彼に告げた。「この男の乞食椀を金でいっぱいにするがいい」  大臣はいくらか金をもってきて、それを椀に注ぎ入れた……すると、それは消えてしまった。彼はさらにさらに注いだが、注ぎ入れるやいなや、消えてしまう。そして乞食椀は常に空のままだった。  宮廷中が集まってきた。やがて噂が都中に広まって、大群衆が集まった。皇帝の名声は危うくなった。彼は大臣に言った。「王国全体が失われることになっても、私にはそれを失う用意がある。だがこの乞食に負けるわけにはゆかないのだ」  ダイヤモンドや真珠やエメラルド……彼の財宝は空になろうとしていた。その乞食椀は底なしのように思われた。そのなかに入れられたものはなんでも——なんでもだ!——すぐに消えてしまった。存在からかき消えた。ついに日が暮れて、それでも人びとはまったく沈黙してそこにたちつくしていた。王は乞食の足下に崩れ落ち、自分の負けを認めた。彼は言った。「ひとつだけ教えてください。あなたは勝利をおさめました——でも、去られる前に、私の好奇心を満たしてください。この乞食椀はなにで出来ているのですか?」  乞食は笑って言った。「それは人間のマインドから出来ている。秘密はなにもない……人間の欲望で出来ているだけだ」  この理解が生を変容させる。ひとつの欲望に入っていくがいい——そのメカニズムはなんだろう? 最初は大変な興奮があ る。大変なスリル、冒険が。あなたはすさまじい刺激を感じる。なにかが起ころうとしている。あなたはその瀬戸際にいる。 そしてあなたは車を手に入れる、ヨットを手に入れる、家を手に入れる、女性を手に入れる、そして突然、すべてが再び無意味だ。  なにが起こったのだろう? あなたのマインドがそれを物質ではなくしたのだ。車は車道に止めてある。だがもはや興奮はない。興奮はそれを手に入れることにしかなかった……あなたはあまりにも欲望に酔ってしまったために、自分の内なる無を忘れた。いま……その欲望は満たされた。車道に止めてある車、あなたのベッドにいる女性、あなたの銀行口座にある金——またしても興奮が消える。再び無がそこにある。あなたを食べつくそうと待ち構えている。再びあなたは、この大きく口を開けている奈落から逃げるための、別の欲望を創らなければならない。  そうやって人は、ある欲望から別の欲望へと動きつづける。そうやって人は乞食のままでいる。あなたの生全体が繰り返し繰り返しそれを証明する——あらゆる欲望は挫折する。そしてゴールが達成されると、あなたは別の欲望を必要とする。欲望というもの自体失敗に終わるものだとあなたが理解する日、あなたの生における変わり目が来る。  もうひとつの旅は内的だ。内に向かうがいい、家に帰るがいい。 ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.2, pp.208-220 45. 延期 Postponement 未来での成就を追いかける無益さを見て、これ以上はなにも必要ないことを認めましょう。 延期してはいけません。  ディオゲネス、ギリシアの神秘家は、人間の意識のまれにみる開花のひとつだ。アレキサンダー大王はインドに向かっていて、その途中でディオゲネスに会った。  それは冬の朝で、冷たい風が吹いていた。ディオゲネスは裸で、河の堤(つつみ)の砂の上で日光浴をしながら横になっていた……。彼は美しい人間だった——美しい魂がいると、この世のものではない美が立ち昇る……。  アレキサンダーはこの人間の優美さを信じることができなかった。彼は畏怖(いふ)の念にかられて言った。「サー……」。彼はそれまでの生涯で、誰にもけっして「サー」と言ったことはなかった。彼は言った。「サー、私はあなたの存在に途方もない感銘をうけました、私はあなたのためになにかして差し上げたいのです。なにか私にできることがあるでしょうか?」  ディオゲネスは言った。「少し片方に寄って立ってくれないか。あなたは太陽を妨げている——それだけだ。ほかにはなにもいらない」  アレキサンダーは言った。「もし私に地上に来るもうひとつ別のチャンスがあったら、私は神に求めよう。私を再びアレキサンダーにするかわりに、ディオゲネスにしてほしい、と」  ディオゲネスは笑った。そして言った。「たったいま、誰があなたを妨げている? あなたはどこに行こうとしているのか?  何カ月もの間、私は軍隊が動いているのを見てきた……。あなたはどこに行こうとしているのか? そしてなんのために?」  するとアレキサンダーは言った。「私は全世界を征服するためにインドに行くところだ」  「その後で、あなたはどうするつもりなのか?」ディオゲネスはたずねた。  アレキサンダーは言った。「それから私は休む」  ディオゲネスは再び笑って言った。「あなたは狂っている! 私はいま休んでいる。私は世界を征服しなかった。私にはその必要があるとは思えない。最後には休んで、くつろぎたいのであれば、なぜいまそうしない? それに私はあなたに言おう、もしいま休まなかったら、あなたはけっして休まないだろう。あなたはけっして世界を征服できないだろう……あなたは旅の途中で死ぬだろう。誰もが旅の途中で死ぬ」  アレキサンダーはそれを心にとめておこうと言って、感謝の意を告げたが、いまはやめることはできないと言った。そして、 彼は旅の途中で死んだ。彼は二度と再び家に着かなかった。彼は途上で死んだのだ。  それから、ディオゲネスもその同じ日に死んだという不思議な物語がずっと語り継がれている。そして彼らは、神に向かう途上で、ちょうど川を渡るところで出会った。アレキサンダーは、後ろに誰かがいるのを耳にしたとき、二、三フィート先を行っていた……彼が振り返ると、それはディオゲネス、あの同じ美しい人間だった。彼は驚いて、恥ずかしくなった。 恥ずかしさを隠そうとして、彼は言った。「また会いましたね、皇帝と乞食が」  ところがディオゲネスは言った。「たしかにそのとおりだ。だがあなたは誤解している。あなたは誰が乞食で、誰が皇帝だかわかっていない。私は自分の生を完全に生きた。それを楽しんだ。だから神に顔を合わすことができる。あなたは神に顔を合わすことができないだろう。私にはわかるからだ。あなたは私にすら顔を合わすことができない。あなたは私の目を見入ることができない——あなたの全生涯はむだだった」  TAKE IT EASY, Vol.1, pp.136-139 46. 探すこと、求めること、探究すること Searching, Seeking, Questing あなたはとてつもない危険な状態にあります! どのような瞬間にでも——あなたは愛して、笑って、活気に満ちているかもしれませんが——偶然神を見出すかもしれないのです。  これはラビンドラナート・タゴールによるすばらしい物語だ。  私は何千もの生にわたって神を探していた。私は神を見た……ときとしてはるか彼方に……私は駆け寄った……私がそこに着くころには、神は遠ざかっていた。私はどんどん行きつづけた。だが、ついに私は扉のところに着いた。そして扉には表示が出ていた。「ここは神の住む家です」  ラビンドラナートは、私は初めて心配になった、と言っている。私はとても困ってしまった。 震えながら、私は階段を登って行った。まさに扉をノックしようとしたとき、突然、あっという間に、私は見てしまった……。  もし私が扉をノックして、神がその扉を開けたら、どうなるのだろう?  そうなるとあらゆることが終わってしまう——私の旅、私の巡礼、私の偉大な冒険、私の哲学、私の詩、私のハートの憧れすべて——すべてが終わってしまうのだ! それでは自殺になってしまう!  そのポイントを見て、ラビンドラナートは言っている——私は靴を脱いだ……というのも、階段を降りて戻ると、なにか音をたててしまうにちがいないからだ……。そして階段の一番下に着くやいなや、私は駆け出した。そして私は後ろを振り返らなかった。それ以来私は、何千年もの間ずっと、走りに走りつづけている。  私はまだ神を探している。もう彼がどこ住んでいるのか知っているというのに。だから私がやらなければならないすべては、その場所を避けることだけだ。そうすれば私は、ほかのあらゆるところに彼を探しつづけることができる。だが私はあの家は避けなければならない……あの家は私の脳裏を離れない。私はそれを完全に覚えている。もし私が、たまたま、偶然あの家に入ったら、そうなったらすべてが終わってしまうのだ。  THE GOOSE IS OUT, pp.283-284  47. 希望 Hope 希望のわなに堕ちてはいけません。自分自身の外側から助けが来ているという考えに囚われてはいけません。 相手があなたを満たすことはありません。成就は内側にあります。  ジャングルで道に迷ったハンターのことを聞いたことがある。三日というもの、彼は抜け出す道を聞こうにも誰にも出会えなかった。そして彼はますます恐慌(きょうこう)状態に陥った——食べ物のない三日間、そして絶えることのない野獣の恐怖の三日間。三日にわたって彼は眠れなかった。襲われるのを恐れて、彼はある木の上に坐ったまま起きていた。蛇がいた、ライオンがいた、野獣がいた。  四日目の朝早く、彼は木の下に坐っている人間を見つけた。彼の喜びは想像できる。彼は駆け寄って、その人を抱きしめると、こう言った。「うれしいよ!」すると相手の人も彼を抱きしめて、ふたりとも途方もなく幸せだった。  そこで、彼らは互いにたずね合った。「なぜあなたはそんなに悦んでいるのですか?」  最初の人が言った。「私は道に迷ってしまい、誰かに会えたらな、と願っていたのです」  すると二番目の人が言った。「私も道に迷ったんです。それで誰かに会えればと願っていました。でも私たちふたりとも道に迷っているのだとしたら……だとしたら、この悦びはなんにもなりませんな。いまや私たちはふたりして道に迷っているのですよ!」  GUIDA SPIRITUALE, pp.216-217 48. チャレンジ Challenge(挑戦) 少しの苦闘は必ず必要なことです。私たちは嵐——稲妻、雷鳴、そして悲しみ——を経験することで、それと同時に喜びと幸せを経験することでも、より豊かになってゆきます。  私は古くからあるたとえ話を聞いたことがある——非常に古いにちがいない。というのも、そのころは神はよく地上に住んでいたからだ……。  ある日、ひとりの男が、年老いた農夫が来てこう言った。「いいですか、あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。でも、私はひとつのことだけはあなたに言わなければなりません、あなたは農夫ではないのです。あなたは農業のいろはさえ知らないのです。少しは学んだらどうですか」  神は言った。「どうすればいいのかね?」  農夫は言った。「私に一年という時間をください。そしてものごとをただ私の言うとおりにしてください。それでどうなるか見てほしいのです。貧困はすっかりなくなっているでしょう!」  神は喜んでそうした。そしてその農夫には一年が与えられた。当然、彼はもっとも良いものを求めた。彼はもっとも良いこと——雷鳴はない、強い風はない、穀物に危険はないといったことしか考えなかった。あらゆることが快適で、心地よかったので、彼はとても幸せだった。小麦はほんとうに高く育っていた! 太陽が欲しいときには、太陽が照った。雨が欲しいときには、雨が降った。しかも彼の望みに応じて。この年はすべてにまちがいがなかった。数学的に正しかった。  小麦は非常に背高く育っていた……農夫はよく神のところに行って、こう言った。「見てください! 今度の穀物は、たとえ人びとがこれから先十年は働かなくても充分なほどになるでしょう!」  だが、穀物が取り入れられると、なかには小麦がなかった。農夫は驚いた。彼は神にたずねた。「どうしたのでしょう?なにがうまくいかなかったのでしょう?」  神は言った。「チャレンジがなかったからだ。争いがなかった、あつれきがなかったからだ。お前が悪いものをすべて避けたために小麦は能力がないままだった。少しの争いは必ず必要なものだ。嵐は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。彼らは小麦のなかの魂を揺り起こす」  このたとえ話には途方もない価値がある。もしあなたが幸せで、幸せで、ただ幸せなだけだったら、幸せはすべての意味を失う。それはまるで、誰かが白い壁に白いチョークで書いているようなことになるだろう——彼は書きつづけることはで きる、だがけっして誰もそれを読むことはできないだろう。  夜は昼と同じだけ必要だ。そして悲しみの日々は、幸せの日々と同じように欠かすことができない。これを私は理解と呼ぶ。 そして、徐々に徐々に、生のリズムを、二元性のリズムを、両極性のリズムを見れば見るほど、それだけあなたは求めるのをやめる、選ぶのをやめる。あなたは秘密を見出したのだ!  この秘密とともに生きることだ。そうすれば、あなたは突然驚くだろう。生の祝福はなんと偉大なのだろう! 瞬間ごとに、 いかに多くがあなたに注がれていることだろう! だがあなたは、自分の期待のなかで、自分の小さな取るにたりない欲望のなかで、ずっと生きている。そしてものごとがあなたの欲望にかなっていなかったら、あなたは惨めだ。  あなたがものごとの自然に従うときは、どのような影も投げかけられていない。そのときには、悲しみすらも輝いている。 悲しみが来ないというのではない——それはやってくる——だがそれはあなたの敵ではない。あなたはその友だちになる。 その必要性がわかるからだ。あなたはその優美さを見ることができる。そしてあなたは、なぜそれがそこにあるのか、そしてなぜそれが必要なのか、見ることができる。そしてそれなしでは、あなたはもっと少ないだろう、もっと多くはない。 THE PERFECT MASTER, Vol.2 pp.307-311 49. 愛 Love 自分の愛を貯め込んだり、計算したりしないように覚えておきましょう。けち臭くなってはいけません。あなたはなにもかも逃してしまうでしょう。その代わりに、あなたの愛を咲かせて、それを分かち合いましょう。それを与えて、育てましょう。  ある偉大な王に三人の息子がいて、彼はひとりを自分の後継者に選びたかった。ところがそれは非常にむずかしかった。というのも、三人ともみな非常に賢くて、とても勇敢だったからだ。しかも彼らは三つ子だった——みな同じ歳だ——だから判断しようがなかった。そこで、彼は偉大な聖者にたずねた。聖者は彼にある考えを提案した。  王は家に帰って、三人の息子たちみんなを呼び寄せた。そこで彼は、花の種の入った袋をひとつずつ彼らに与え、自分は宗教的な巡礼に行くつもりだと告げた。「数年はかかるだろう—— 一年、二年、三年、もっとかもしれない。それに、これはお前たちへのある種のテストだ。私が戻ったら、この種をお前たちは私に返さなければならない。そして、それをもっともよく守ったものが、誰であれ私の後継者になる」 そして彼は巡礼に出て行った。  最初の息子は考えた。「この種をどうしたらよいだろう?」。彼はそれを鉄の金庫に入れて鍵をかけて入れた——父親が帰っ てきたら、彼はそれをあるがままで返さなければならなかったからだ。  二番目の息子は考えた。「兄弟がやったように閉じ込めてしまったら、死んでしまうだろう。死んだ種はまるで種ではない」  そこで彼は市場に行ってその種を売り、金を取っておいた。そして彼は考えた。「父が帰ってきたら、私は市場に行こう。 新しい種を買って、それを父に返そう。最初のよりは良い」  だが、三番目の息子は庭園に入ってゆき、あたり一面に種を蒔いた。  三年たって、父親が戻ってくると、最初の息子は金庫を開けた。種はすべて死んでいた、臭いを放っていた。そこで父親は行った。「どういうことだ! 私がお前に与えた種がこれなのか? それらは花となって咲いて、すばらしい薫りを与えることもできたのだ——それなのに、この種は悪臭を放っているではないか! これは私の種ではない!」その息子はそれらは同じ種だと言い張った。ところが父親は言った。「お前は物質主義者だ」  二番目の息子は市場に駆けつけた。種を買い求めて家に帰り、それを父親に贈った。父親は言った。「だがこれは同じものではない。お前の考えは最初のよりは良かった。だが、お前はまだ、私がお前にそうあって欲しいと望んでいるのにはかなっていない。お前は心理学者だ」  彼は三番目の息子のところに行った——大きな期待と、恐れをも抱いて——「彼はなにをやったのだろう?」と。三番目の息子が彼を庭園に連れてゆくと、何百万もの草木が花を咲かせていた。まわり中に何百万もの花があった。そしてその息子は言った。「これがあなたが私に下さった種です。時機が来たらすぐに、私は種を集めて、あなたにお返しします」  父親は言った。「お前が私の後継者だ。それこそ人が種に対してなすべきことだ」  貯め込む人は生を理解しない。そして計算だかいマインドもそれを逃す。創造的なマインドしかそれを理解できない。それが花の美しさだ——彼らを貯めることはできない。彼らは神を代表する。神を貯めることはできない。彼らは愛を代表する。 愛を貯めることはできない。  何代にもわたって、あらゆる国で、あらゆる種類の社会で、花が愛のシンボルでありつづけたのは偶然ではない。愛は花のようだ——それがあなたのなかで咲き始めると、あなたはそれを分かち合わなければならない。あなたは与えなければならない。そして、与えれば与えるほど、愛はそれだけ成長する。もしあなたが与えつづけたら、あなたが愛の絶えることのない無限の源になる日が来る。 ZEN : THE PATH OF PARADOX, Vol.2, pp.43-45 50. 慈悲 Compassion 慈悲は、他人への同情でいっぱいになった血のにじむようなハートを持っていることではありません——慈悲とは、状況に覚醒をもたらすのに必要なことであれば、なんでも喜んでやるほどの愛の深さです。  イエスの生涯で起こったある状況を思い出してほしい。彼は鞭(むち)を取って、エルサレムの偉大な寺院に入って行った。イエスの手に鞭? これこそ仏陀が言ったことの意味だ——「怪我をしていない手は毒を扱うことができる」 そのとおりだ、イエスは鞭を扱うことができる。問題はない。鞭が彼を圧倒することはありえない。彼は油断せずにいる。彼の意識はそれほどのものだ。  エルサレムの偉大な寺院は泥棒たちの場所になっていた。巧妙な盗みが行われていた。寺院のなかには両替人たちがいて、彼らは国全体を搾取していた。  イエスは独りで寺院に入り、彼らの机——両替人たちの机——をひっくり返した。彼らの金を投げ捨てて、彼はたいへんな動揺を引き起こしたために、両替人たちは寺院の外に逃げた。彼らは大勢いたが、イエスは独りだった。だが彼はそれほどにも激怒していた。それほどにも燃え立っていた。  さあ、これはキリスト教徒たちにはずっと問題だった。それをどう説明したらよいのだろう?——というもの、イエスは鳩、 平和のシンボルだということを証明するのが彼らの努力全体だからだ。その彼がどうして自らの手に鞭を取りえたのだろう? どうして彼は、両替人たちの机をひっくり返して、その両替人たちを寺院の外に放り出すほど怒ることが、激怒することができたのだろう? そして彼のエネルギーは吹き荒れていたにちがいない。彼らは彼に顔を合わすことができなかったのだ。僧侶たち、商人たち、それに両替人たちはみな、「この男は狂ったぞ!」と叫びながら逃げた。  キリスト教徒たちはこの物語を避ける。もしあなたが仏陀のこの経文(きょうもん)を理解したら、それを避ける必要はない。  怪我をしていない手は毒を扱ってもかまわない  無垢は傷つくことはない  イエスは絶対的に無垢だ! 彼は暴力的ではない、破壊的ではない——それは彼の慈悲だ。それは彼の愛だ。彼の手にある鞭は、愛の手にある鞭だ。 THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.4, Discourse15** 51. 勇気 Courage これは、あなたがひとたび神を見い出す道に踏み込んだら、後戻りはないことを思い出させるためのものです。これには途方もない勇気が必要です。  あるときイエスは、朝早く湖に来た。ひとりの漁師が網を打ったばかりで、太陽はまさに地平線上を昇ろうとしていた。イエスが漁師の肩に手を置くと、漁師は彼を見た。一瞬の間、彼らの間ではことばが交わされなかった。イエスはただの彼の目を見入った。その人は恋に落ちた。なにかが起こった。  イエスは言った。「いつまでお前は魚を捕まえて、自分の生涯を無駄にするつもりなのか?  私といっしょに来るがいい。お前に神を捕まえる道を見せてあげよう」  その人には途方もない勇気があったにちがいない。彼は網を湖のなかに捨てて、ひとつの問いすらたずねることもなく、イエスについて行った。  彼らが町のすぐ外にいると、ある人が走って来た。彼は漁師に言った。「どこに行くんだ? 気でも違ったのか? 家に帰って来い! 病気だったお前の親父さんが死んだんだ。だから俺たちは親父さんの最後の儀式と礼拝の手筈を整えなければならない」  漁師は初めてイエスに話しかけた。彼は言った。「死んだ父の、息子としての義務を果たすために、三日間だけ家に帰るのを許していただけますか?」  イエスは言った。「心配することはない。町には死んだ人びとが非常にたくさんいる——彼らが面倒をみてくれるだろう。 死人が死人を埋めるのだ。お前は私といっしょに来るがいい。そして、もしお前が私といっしょに来たら、そのときには後戻りはない」  そこでその人はついて行った。 TAO : THE GOLDEN GATE, Vol.1, pp.236-237 52. 後悔 Repentance 自分が失敗したときですら、それもまたひとつの機会になりえることに気づいていましょう。 あなたが自分自身の真実に背いてしまい、自分のハートで感じていることを妥協してしたと気づいたときは、あなたのなかを涙が深く流れるのを許すことです。そうすればそれは変容になりえます。  スーフィーの伝統のなかで、アル・ヒラジ・マンスールに比べられる人はほかに誰もいない。 いわゆる宗教的な人びとによって、過去に多くの人びとが殺されてきた。イエスは十字架に架けられただけだが、マンスールはばらばらに切り裂かれた。彼は十字架に架けられた。そして、まず彼の足が切り落とされた——それでも彼は生きていた——次に彼の手が切り落とされた。それから舌が切り取られ、次には目がくり抜かれた——それでも彼は生きてきた—— そうして彼の首が切られた。  が、マンスールはどのような罪を犯していたのだろう? 唯一の罪は、彼が " アナル・ハック! " と言ったことだった。 それは「私は真理だ。私は神だ!」という意味だ。インドでは、彼は何世紀にもわたって崇拝されていただろう。だが回教徒たちにはそれが我慢できなかった。  一万人の人びとがマンスールに石を投げるために、彼を笑い者にするために集まっていた。マンスールは笑っていた。自分の足が切り落とされたとき、彼は自分の血を自らの手に受けた……すると、誰かが彼に、なにをやっているのか、とたずねた。マンスールは言った。「どうしてあなたは自分の手を水で洗うことができるのかね? というのも、あなたは自分の血で犯罪を犯すからだ。あなたは自分の血で罪を犯すからだ。血しか浄化にはなりえない。私は自分の手を浄化しているのだ。私は祈りの用意をしている」  彼らが彼の手を切り落とし始めると、彼は言った。「ちょっと待ってくれ! いまは私に祈らせてほしい、手がなくなったら、それはむずかしくなる」 そこで、彼は空を見て、神に言った、「あなたは私をだますことはできません! 私はここにいるあらゆる人のなかにあなたを見ることができるのです! あなたは殺人者として来たのですか? 敵として? あなたは私をだますことはできません——どのような形であなたが来ても、私はあなたを認めるでしょう——私は自分自身の内側にあなたを認めたからです!」  人びとはあざけって、彼に石と泥を投げつけていた。そしてマンスールは笑い、微笑んでいた。だが突然、彼は泣き出した……シブリ、彼の友人、彼の弟子が、薔薇の花を投げたからだ。  再び人びとは謎に包まれた。そして彼らは、どうしてなのかとたずねた。マンスールは言った。「石を投げている人びとは、 自分たちがなにをやっているのか知らない。だがシブリは知っている——彼は知らなければならない。彼が神から許しを得るのはむずかしいことになるだろう」  後になってシブリは、なぜ薔薇の花を投げたのかときかれて、こう言った。「私は群衆が恐かった。もし私がなにも投げなかったら、彼らが私に対して暴力を振るうにちがいないのが恐かった。私は石を投げることはできなかった。マンスールは無実だということを私は知っていたからだ。だが私は、なにも投げないでいるという勇気を振るい起こすこともできなかった。あの花は妥協にすぎなかった。そしてマンスールは私の恐れを、私の臆病を泣いたのだ」  マンスールの涙はシブリを完全に変えた。彼にとっての変容になった。彼にとって、それには少なくとも十二年はかかった。 浮浪者、乞食のようにさすらい、これ以上はないほどにハートを引き裂かれる苦悶のうちに嘆き泣く十二年間。全生涯、彼は後悔した。彼は言ったものだ。「私がマンスールを殺したのだ。あそこにいたほかの誰にも責任はなかった。だが、私は理解できたはずなのに、彼を救うことができたはずなのに、群衆に妥協した——私はあの人に花を投げたのだ」  もしあなたが責任を理解したら、後悔はあなたのなかの、非常に、非常に深い現象になりうる。そうなったら、小さなことでも、もしそれがあなたの根まで深く入っていったら、もし涙があなたの目からだけではなく、あなたの身体のあらゆる細胞から出てきたら、変容になりうる。  これこそマスターに、偉大にマスターにしかできないことだ。マスターはやりつづける——生きている間でも、死のうとしている間でも、あるいはすでに死んでいてさえも——人びとを変容させるためにあらゆる機会を利用しつづける。 UNTIL YOU DIE, PP.218-222 53. 遊び Play 自分がなにをやっていようとも、それはゲームだということを覚えておきましょう。自分の役割を遊ぶことです。もしそれが戦いだったら、そのときには戦いなさい。中心に定まったままでいなさい。深刻になる必要はありません。ただ遊ぶだけでいいのです!  戦争は始まらなければならなかった。両方の軍隊が対峙(たいじ)して、互いに殺し合いを始めることができるように、合図がなされるのをまさに待っていた。アルジュナは、何百万もの人びとを見て、少し動揺した。彼は考えた。「これはばかげている。王国のためというだけで、ただ王になるというだけで、何百万もの人びとを殺すだけの価値はない」 この考えがあまりにも深くつき刺したために、彼は自分の有名な弓を捨てて、クリシュナに伝えた——クリシュナは彼の御者(ぎょしゃ)、彼の戦車の御者だった——彼はクリシュナに伝えた。「戦車の向きを変えてください。私をジャングルに連れていって、そこに置き去りにしてください。私は世界を放棄したい。私はもうこの王国は欲しくはないし、戦いたくはない」  クリシュナは彼と議論した。これはお前の義務だ、お前は臆病者だ、これは現実逃避だ、と彼を納得させた。そしてついに、クリシュナは彼を戦わせた……。  彼はアルジュナに言った。「それは神によって決められている——戦争は起こることになっている、避けることはできない。 お前が逃げても、ほかの誰かがお前にとって代わらなければならないだろう。それでも戦争は起こることになっている。だから心配することはない、お前は口実にすぎない。お前がこの人びとを殺しているのではない。この人びとは殺されなければならないと神がすでに決めたのだ。そしてこの人びとは、宗教を救うために殺されなければならない。この人びとは平和のために殺されなければならない。お前はそれをやらなければならない——それはお前の義務だ!」  そして、彼は偉大な論旨(ろんし)を与える。彼は言う。「そして、覚えておくがいい、お前が人を殺すとき……」 そしてこれはもっとも危険な論旨だ。彼は言う。「お前が人を殺すとき、お前はその人の身体しか殺さない。魂は殺されていない。魂は永遠だ。 だからなぜ心配することがある? 彼は再び生まれるだろう。彼は別の身体を、実際には新しい身体をもつだろう。お前は古いモデルを取り去り、その人は新しいモデルを得ることになる。魂は永遠だからだ」 GUIDA SPIRITUALE, pp.228-229  そしてクリシュナがアルジュナに言おうとしていることだ。「ゲームを心配してはいけない。遊ぶがいい! もし、戦士のゲームを遊び、この戦争を戦うことがお前の役として回ってきたら、戦うがいい。ただ中心にとどまって、これはゲームだということを見守りつづけるがいい。そして、それには深刻なところはなにもない」  クリシュナにとっては、それはゲームだ。ある日彼は約束して、別の日には忘れる。彼はほんとうに解放されている。彼の解放は完璧だ、欠陥はない……彼はすべてがゲームだと知っているからだ。すべてがゲームで、すべてが夢であるとき、そのときになぜ煩(わずら)う? 彼は心配していない。彼はそれを遊ぶ。そして触れられないままとどまる。 THE PATH OF LOVE, pp.135-136 54. 一点に集中すること Single-Pointedness 学識のある人は、生命力のあふれている人のところに行かなければなりません。人工のものは、〈真実なるもの〉のところに行かなければなりません。  ボーディダルマがまさに禅の創造者であるように、サラハはタントラの創始者だ。  もし私が、人間性への貢献者を五人、数えあげるとしたら、サラハはそのひとりだ。  サラハはマハラシュトラのヴィダルバで生まれた。プーナにとても近い。彼は、マハパラ王の法廷の近くにいた学識のあるブラーミンの息子だった……。 王は自分の娘を快くサラハに与えようとしていた。だがサラハは出家したかった、サニヤシンになりたかった。彼はある仏教徒、シュリ・キルティの弟子になった。  シュリ・キルティがサラハに伝えた最初のことは、すべてのヴェーダを、自分の学識すべてを落とすことだった。何年もが過ぎて、サラハは偉大な瞑想者になった。ある日、彼は瞑想している間にヴィジョンを見た——自分のほんとうの教師になる女性が市場にいるというヴィジョンだ。シュリ・キルティは彼を道の上に乗せただけだった。だが、ほんとうの教えはある女性から来ることになっている。彼はシュリ・キルティに伝えた。「あなたは私の経歴を清算してくれました。いま私は、自分のワークの残りの半分をやる用意ができています」 彼は笑っているキルティの祝福を受けて去って行った。  そして彼は自分のヴィジョンの女性を市場で見つけた。彼女は矢を作っていた。彼女は矢を作る女鍛冶(かじ)師だった——低いカーストの女だ。サラハ、王の法廷に属していた学識あるブラーミンにとって、矢を作る鍛冶屋の女のところに行くのは象徴的だ。学識のある人は、生命にあふれた人のところに行かなければならない。人工のものは、〈真実なるもの〉のところに行かなければならない。  彼は、生き生きと、生に輝き、矢の柄(へい)を切りながら、矢を作ることに完全に飲み込まれているこの女性を、この若い女性を見た。彼は、彼女がそこにいることになにか特別なものを感じた……彼女は自分の動きにまったく飲み込まれていた。  サラハは注意して見守った。矢が出来上がり、その女性は片方の目を閉じて、片方の目を開けながら、目には見えない的を狙う仕草をした……。  そしてなにかが、コミュニオンのようななにかが起こった。その瞬間に、彼女がやっていたことの霊的な意義が、サラハにわかりかけてきた。左も、右も見ることなく、彼は彼女を見た……。彼はそのことが言われるのを何度も聞いていた。そのことを読んだことがあった。彼はそのことを熟考していた。彼はそのことをほかの人びとと議論したことがあった。真ん中に在ることが正しい、と。彼女はあまりにも完全に飲み込まれていた、あまりにも全面的に動きのなかにいた——それもまた仏教徒のメッセージだ。動きに全面的に入っていることは、動きから自由であることだ。トータルでありなさい。そうすれば、あなたは自由になる。  その女性の美、輝きは、全面的に飲み込まれることから来ていた。初めて彼は、瞑想とはなにかを理解した——特別な時間だけ坐ってマントラを繰り返すのではなく、教会や、寺院や、モスクに行くのではなく、生のなかにいることを——些細なことをやりつづける——だが、そのように飲み込まれることで、あらゆる動きのなかに深遠(しんえん)さが開示される。彼はそれを感じることができた。彼はそれに触れることができた……。  サラハは、この矢を作る女鍛冶師の指導のもとでタントリカになった。ひとりの弟子のひとりのマスター——それは魂の恋愛だ。サラハは自分の魂の配偶者を見つけた。彼らは途方もない愛、偉大な愛のなかにいた。それは地上ではめったに起こらない。彼女は彼にタントラを教えた……。  サラハはまず、すべてのヴェーダ、教典、知識を置き去りにしなければならなかった。いま、彼は瞑想すらも置き去りにした。いまでは歌うことが彼の瞑想だった。いまでは踊ることが彼の瞑想だった。いまでは祝祭が彼のライフスタイルすべてだった。  サラハと矢を作る女鍛冶師は火葬場に移って、いっしょに住んだ。火葬場に住みながら、祝っていた! 死しか起こらないところに住みながら、楽しく生きていた! もしそこで楽しむことができたら、そのときには喜びがほんとうにあなたに起こったのだ。いまではそれは無条件だ。  遊びがサラハの存在に入ってきた。そして、遊びを通してほんとうの宗教が生まれた。 THE TANTRA VISION, Vol.1, pp.5-20 55. セックス(性)Sex セックスを、最後の段階ではなく、最初の段階にしましょう。  ふたりの恋人が深い性的なオーガズムに入っているとき、彼らは互いに溶け合う。そうなると、女性はもはや女性ではない、男性はもはや男性ではない。彼らはまさに " イン(陰)"と " ヤン(陽)" のサークルのようになる。互いに届き合い、互いに出合い、溶けて、自分たちの存在証明を忘れている……。だからこそ愛は非常に美しい。この境地は " ムドラー " と呼ばれている……そして、全体とのオーガズムの最後の境地は、" マハムドラー "——偉大なオーガズムと呼ばれている。  オーガズムとは、そこではあなたの身体がもはや物質とは感じられない境地だ。それはエネルギー、電気のように振動する。それが、基盤そのものから、あまりにも深く振動するために、あなたはそれが物質的なものだということを完全に忘れる。それは電気的な現象になる——そしてそれは、確かに電気的な現象だ。  やがて、彼らが互いに愛し合い、互いに明け渡していたら、彼らは脈動の、エネルギーであるこの瞬間に明け渡す。しかも彼らは恐れていない……。  身体が境界を失うとき、身体が実際に蒸発して、エネルギー、非常に微妙なリズムしか残っていないとき、それは、まるで自分がいないかのようだとあなたには思われる……。人は、深い愛のなかでしかそのなかに入れない。愛は死のようだ。 あなたは、自分は身体だ思っているかぎりにおいて死ぬ。あなたは、自分の物質的なイメージに関するかぎり死ぬ。あなたは身体としては死ぬ。そしてエネルギー、活力に満ちたエネルギーとして進化する。  そして、パートナーたちがひとつのリズムで振動し始めると、彼らの心臓の鼓動と身体はひとつになる。それはハーモニーになる……そうなると彼らはもはやふたりではない。  いまでは彼らはひとつのサークルだ。そして彼らはいっしょになって振動する、いっしょになって脈動する。彼らの心臓はもはや離れてはいない。彼らはメロディーに、ハーモニーになった。それはありうるかぎりもっとも偉大な音楽だ。それに比べると、ほかの音楽はすべて弱々しいものだ。それに比べると影のようなものだ。  同じことが、相手の人とではなく、存在全体と起こるとき、そのときにはそれは " マハムドラー " だ。そのときにはそれは偉大なオーガズムだ。 TANTRA : THE SUPREME UNDERSTANDING, pp.20-135 56. 献身 Devotion 可能な愛のもっとも深い強烈さのなかに全面的に入っていきなさい。それを、あなた自身のなかにある、神性へ向かう開き口にしなさい。自分の女性的なエネルギーが流れるのを許しなさい。  ミーラ、インドの女性神秘家は、ほんとうに狂った帰依(きえ)者、" バクタ " だった。神との途方もない愛とエクスタシーのなかにいた。彼女は女王だったが、通りで踊り出した。家族は彼女を勘当して、毒殺しようとした。王家の家族にとって、彼女は恥さらしだったからだ。  そこは、国のもっとも因習(いんしゅう)的な地域のひとつ、ラジャスタンだった。そこでは何世紀もの間、誰も女性の顔を見たことがなかった。女性の顔は覆われていたのだ。常に覆われていた。当時、それほどにもばかげた環境のなかで、女王が通りで踊り出した。群衆が集まった。ところが、彼女は神性であまりにも酔っていたために、彼女の " サリー " はずり落ち、彼女の顔はあらわになり、彼女の手は剥き出しになったものだ。家族は明らかに、非常にあわてた。  だが彼女はすばらしい唄を、世界中でかつて歌われたことがないようなすばらしい唄を歌った。それらは彼女のハートそのものから来ていたからだ。それらは自然に起こる発露(はつろ)だった。  彼女は夫に言った。「いつまでも自分が夫だとは、信じつづけないでください——私の夫はクリシュナです。あなたは哀れな代用品にすぎません」  王は非常に怒った。彼は王国から彼女を追放した。彼女はマトゥラに、クリシュナの場所に行った。そこにはクリシュナのもっとも偉大な寺院のひとつがある。その寺院の首席僧侶は、生涯どのような女性も見ないという誓いを立てていた。 三十年間、彼はどのような女性も見ていなかった。女性は誰もその寺院に入るの許されていなかったし、彼は一度も寺院を空けたことがなかった。  ミーラはそこに着いて、寺院の門のところで踊った。門番たちはあまりにも魅せられ、引きつけられたために、彼女を遮るのを忘れた。彼女は寺院に入った。彼女はこの三十年間でそこに入った最初の女性だった。  首席僧侶はクリシュナを礼拝していた。彼はミーラを見て、自分の目が信じられなかった。彼は狂っていた。彼は彼女に向かって叫んだ。「ここから出て行け! 女、ここから出て行くんだ! ここでは女は許されていないのを知らないのか?」  ミーラは笑って行った。「私が知るかぎりでは、神を除くすべての人が女です——あなたもよ! クリシュナを三十年礼拝していて、それでもまだあなたは自分が男だとでも思うの?」  それは首席僧侶の目を開かせた。彼はミーラの足もとに崩れ落ち、こう言った。「そのようなことを言った人はこれまでひとりもありません。でも私にはわかります、私は感じることができます——それは真実です」  もっとも高い頂きでは、愛の道に従おうと、あるいは瞑想の道に従おうと、あなたは女性的になる。 THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.5, Discourse 10**  ミーラの愛は、完璧な人間の愛だ。彼女に必要なものはなにもない。彼女はクリシュナからはなにも望んでいない。彼女はただ与えつづける。彼女には歌う唄がある——彼女は歌う。彼女には踊るダンスがある——彼女は踊る。彼女には得るものはなにもない、彼女は与えるだけだ。それなのに彼女は千倍も受け取る——それは別のことがらだ。  もしミーラになりたかったら、まずあなたは人間的な愛の必要を満たさなければならない。さもなければ、あなたのクリシュナはあなたの想像、抑圧された欲望の投影にすぎなくなる。  人間の限界を覚えておくがいい。そして、あなたの限界を覚えておくことだ。そして、愛がどのような種類であれ可能であれば、そのなかに入って行くがいい。不可能なことを欲しがってはいけない。さもなければ、あなたは可能なものでさえ見逃す。可能なもののなかを通って行きなさい。可能なものを終わらせなさい。あなたの存在が満たされてそこから出てくるようにしなさい、そうすれば不可能なことも起こりうる。あなたに能力がそなわったのだ。  まず人間の愛と喜びと、人間の愛の惨めさを通り抜けることだ。それを通して自分を成熟させるがいい。 SUFIS : THE PEOPLE OF THE PATH, Vol.2, pp.87-88 57. 知性 Intelligence たとえ暗くても、ないところではなく、あるところを捜すようにあなたの知性を使いなさい。内側を見ましょう。  ある夕方、人びとは、ラビヤが自分の小屋の前の通りでなにかを探しているのを目にした。 彼らは集まり合った——かわいそうな老婆……。彼らはたずねた。「どうしたのです? なにを捜しているのですか?」  すると彼女は言った。「私は針をなくしたのよ」。そこで彼らは手伝い始めた。  そのうちに誰かが思いついてたずねた。「ラビヤ、通りは広いし、夜になろうとしています。 すぐに光がなくなるでしょう。それに針はとても小さい物です——どこに落ちたのか、正確に言ってもらえませんか?」  ラビヤは言った。「針は私の家のなかで落ちたのです」  彼らは言った。「気でも狂ったのか? 家のなかで針が落ちたのなら、なぜここを探しているんだ?」  すると彼女は言った。「ここには光があるからよ。家のなかには光がないわ」  そこで誰かがたずねた。「ここには光があっても、針がここでなくなったのでなければ、どうしてそれを見つけることができるのです? 正しいやり方は、光を家のなかに持ってゆくことでしょう。そうすれば、そこで針を見つけることができるではありませんか!」  すると、ラビヤは笑った。  「あなたたちは小さなことにはほんとうに賢い人たちなのね」と彼女は言った。「あなたたちは、いつになったら自分の知性を、自分の内なる生に使うつもりなの? 私はあなたたちみんなが外を探しているのを見てきました。それに、私はよく承知しているのですよ、私はいまでは私自身の体験から知っているのです。あなた方が探しているものは内側でなくなったのです。自分の知性を使いなさい! なぜあなた方は至福を外の世界に探しているのですか? あなた方はそれをそこでなくしたのですか?」  彼らは口もきけずに立ちつくした。そしてラビヤは自分の家のなかに消えた。 SUFIS : THE PEOPLE OF THE PATH, Vol.1, pp.283-285 58. ワーク / ワーシップ(仕事 / 礼拝)Work/Worship 自分の責任を回避してはいけません! 自分がやるワークのなかでは強烈に生きていましょう。そして、人間として可能なことならなんでもやりつづけましょう。それでいて同時に、どのような緊張も創らずに、欲求不満にならずに、結果にこだわることなく、自分のやっていることを信頼して祈りにならしめましょう。  ひとりのマスターが、弟子のひとりと旅をしていた。その弟子には、駱駝(らくだ)の面倒を見る役目があった。彼らは夜になって、疲れて隊商宿(たいしょうやど)に着いた。駱駝を繋ぐのはその弟子の義務だった。彼はそのことを気にせずに、駱駝を外に放しておいた。彼はただ神に「駱駝の面倒を見てください」と祈った。そして彼は眠り込んだ。  朝になって、駱駝はいなくなっていた——盗まれたか、さ迷い出たか、起こるべきことが起こった。マスターはたずねた。「駱駝はどこにいる?」  すると弟子は言った。「私は知りません。神に聞いてください。私はアラーに駱駝の面倒を見てくれるように伝えました。 私はとても疲れていたのです。ですから私はどうなったのか知りません。それに、私には責任もありません。私はアラーにはっきりと伝えたのですから! それにあなたは、『アラーを信頼しなさい』と教えつづけています。だから私は信頼しました」  マスターは言った。「アラーを信頼するがいい。だが、まず自分の駱駝を先に繋ぎなさい——アラーはお前の手以外に手をもっていないからだ」  もし神が駱駝を繋ぎたければ、誰かの手を使わなければならない——ほかに神の手はない。それに、それはあなたの駱駝だ! もっとも良くて、もっとも簡単で、もっとも手短な方法は、自分の手を使うことだ。駱駝を繋いで、それからアラーを信頼するがいい。あなたは自分にできることをなんでもやればいい。それは結果を確実にするものではない。保証はない。だからあなたは自分にできることをなんでもやるがいい。その後は、なにが起ころうとも、それを受け容れることだ。  これが駱駝を繋ぐ意味だ。自分にできることをなんでもやるがいい。自分の責任を回避してはいけない。その後は、なにも起こらなくても、あるいはなにかがうまくゆかなくても、アラーを信頼することだ……。  アラーを信頼して、怠けていることは、非常に簡単だ。アラーを信頼せずに、やり手でいることは、非常に簡単だ。人間の三番目のタイプは——アラーを信頼して、しかもやり手のままでいることは、むずかしい。だが、いまではあなたは楽器にすぎない。神がほんとうのやり手だ。あなたは神が手にもっている楽器にすぎない。  人間として可能なことならなんでもやりつづけるが、そのことで緊張を創らない人が宗教的な人だ。そのときには、行為はある種の祈りだ。結果はこうあるべきだという欲望はない。そうなったら欲求不満はない。信頼が、あなたが欲求不満にならずにいるのを助けてくれる。そして、駱駝を繋ぐことが、あなたが生き生きと生きるのを、強烈に生き生きとあるのを助けてくれる。 THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.1, pp.70-72 59. おいで、おいで、それでももっとおいで Come, Come, Yet Again Come あなたがどういう状態にあるかはかまいません。誰が来るかも問題ではありません。マスターには常に用意があります。  かつてない偉大なスーフィーのマスターのひとり、ジェラルッディン・ルーミーのすばらしい声明がある。それをあなたのハートに受け取るがいい。 おいで、おいで あなたが放浪者、崇拝者、学問の恋人 誰であろうとかまわない。 私たちのキャラバンは絶望のキャラバンではない。 たとえあなたが自分の誓いを 千回破ったとしても おいで おいで、おいで、それでももっとおいで  マスターは主人だ。ほんとうのマスターたちはけっして誰も拒まない。彼らはそうできない。あなたが旅と頭上の燃える太陽に疲れて木の下に、木陰のある木の下に行ったとして、その木があなたを拒む、あなたに避難する場所を与えない、あなたを保護しない……そんなことは起こらない。木には、避難する場所を、その影を、その果実を、その花を、その薫りをあなたに与える用意が常にある。  もし私が誰かに、「まずは行って、サニヤスに値するようになりなさい。それから私のところに来るがいい……」と言ったら、それはまるで、あなたが医者のところへ行って、その医者がこう言うようなものだ。「私はあなたが健康なときにしか薬を与えない。それが、私があなたに薬を与える条件だ。私はけっして自分の薬を病気の人たちにむだに使ったりはしない!」  誰が来ようとかまわない。マスターには用意がある。 COME, COME, YET AGAIN COME, Discourse 1** 60. 笑い Laughter 笑いはとても変容をもたらす力ですから、ほかにはなにも要りません。もし自分の悲しみを祝祭に変えたら、あなたは自分の死を復活に変容することもできるでしょう。  私は中国の三人の神秘家たちのことを聞いたことがある。誰も彼らの名前を知らない。彼らは『三人の笑う聖者たち』としてのみ知られている。彼らはほかにはなにもしたことがなかったからだ——彼らはただ笑った。彼らは町から町へとよく移動して、市場に立って腹の底からすばらしく笑ったものだ。  この三人の人びとはほんとうにすばらしかった。笑うと、彼らの腹は波打った。それは伝染病になった——市場全体が笑ったものだ……。少しの間、新しい世界が開いた。  彼らは、人びとが笑うのをただ助けながら、中国中を移動した。悲しい人びと、怒っている人びと、欲の深い人びと、嫉妬深い人びと、彼らはみな、彼らといっしょに笑い出した。 そして多くの人びとがその鍵を感じ取った——人は変容することができるのだ。  そのうちに、ある村で、三人のなかのひとりが死ぬという事態が起こった。村人は言った。「さあ、面倒なことになるぞ。 彼らの友だちが死んだんだ——彼らは泣かなければならない」。だが、二人は踊り、笑い、死を祝っていた。  村の人びとは言った。「もう、これはあんまりだ。これは礼儀にかなっていない。人が死んだときに笑って踊るのは、神聖を汚すことだ」  彼らは言った。「お前たちはなにが起こったのか知らないのだ! 私たち三人はみな、いつも考えていた。こいつが勝った。 私たちは負けたのだ。一生涯、私たちは彼といっしょに笑ってきた。どうして私たちが、ほかのことをして彼の最後の門出を見送ることができるだろう? 私たちは笑わなければならない。私たちは楽しまなければならない。私たちは祝わなければならない。  これが、自分の全生涯を笑った人間への唯一可能な別れだ。そして、もし私たちが笑わなかったら、彼は私たちのことを笑っ て、こう考えるだろう。『ばかだな! それで、お前たちはまたしてもわなに堕ちたのか?』。私たちは彼が死んでいるとは見ない。どうして笑いが死にえよう? どうして生が死にえよう?」  そして、身体が焼かれることになって、村の人びとは言った。「儀式の規定どおり、私たちは彼を入浴させよう」。だが、 このふたりの友人は言った。「いや、私たちの友人はこう言った。『どんな儀式も行わないでほしい。それに、私の服は変えないでもらいたい。私を風呂に入れないでほしい。あるがままの私を、燃えている薪の上にただ乗せてほしい』。だから私たちは彼の指図に従わなければならない」  それから、突然、偉大な出来事が起こった。身体が火の上に置かれたとき、その老人は最後のトリックを仕掛けておいたのだ。彼は自分の服の下にたくさんの花火を隠していた。そして突然、" ディワリ " になった! すると、村全体が笑い始めた。この狂ったふたりの友人たちは踊っていた。それは新しい生、復活だった。あらゆる死が新しい扉を開く。  もしあなたが自分の悲しみを祝祭に変えたら、そのときには、あなたは自分の死を復活に変えることもできる。だから、まだ時間があるうちに、そのアートを学ぶがいい。 YOGA : THE ALPHA AND THE OMEGA, Vol.4, pp.252-254