スーパーマインド

1.あなたの心がもつ驚くべき力 ページ一覧(✔︎)

①第一章の要点
②スーパーマインドの実際的な力
③あなたは同時に二つの世界にいる
④人生の真の目的
⑤人間とは本当は何であるか
⑥秘教的真理があなたを高める
⑦真の宇宙的な導きへの道
⑧全てがうまくいっているという境地

2.スーパーマインドによる成功法 ページ一覧

①活力をもたらす10のアイディア✔︎
②人間の主たる幻想✔︎
③正しい反逆✔︎
④われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか✔︎
⑤自己探究に成功する秘訣✔︎
⑥失うことによって得る法則✔︎
⑦スーパーマインド思考に関する基本原則✔︎
⑧秘教的理解力を得る方法
⑨あなた自身を流露させなさい
⑩真の自己を明るくしなさい

3.人生の転機を摑み成功へ至れ ページ一覧

①銘記すべき10のポイント
②受容性について
③危機に際して冷静になるには
④秘教の珠玉は問うことにある
⑤スーパーマインドの導き
⑥パーフェクトな出発
⑦宇宙的真理に素直に驚きなさい
⑧いきいきとした生への招き
⑨宇宙的な生き方への目覚め
⑩いつも明るい気持ちでいるには

4. 隠された痛みと 悲しみの断ち方 ページ一覧

①隠された痛みと悲しみを終らすには
②奇蹟はいかにして起こるか
③宇宙的パワーの奥義
④苦しみの謎を解く
⑤どうすれば悲哀はやむのか
⑥パーフェクトな出発
⑦あなたの宇宙的進歩のテスト
⑧巡礼者は進む
⑨高貴なる宇宙的アイディアの源泉
⑩宇宙的パワーは常にあなたと共に

5. 自己の宇宙的変化から豊かさを勝ちとれ

①本章の要点
②新しいあなたになるには
③あなたへの二つの問いかけ
④あなたの運命は変えることができる
⑤宇宙的アイディアの日常的な意味
⑥宇宙的観点から見れば、全てはうまくいっている
⑦あなたの内なる世界を変えよ
⑧自己変革はいかにして始まるか

6.敗北と失敗を終わらせるには

①本章の要約
②失敗なるものは存在しない
③あなたは常に宇宙的覚醒に到達できる
④敗北感情の確実な救治法
⑤宇宙的アイディアの日常的な意味
⑥霊的成功への十の秘訣
⑦スーフィ教実際的な智慧
⑧自己変革はいかにして始まるか
⑨いかにして正しい行為をなすか
⑩秘教のすばらしい事実

7.あなたの人間関係を愉しくするには

①愉しい人間関係のために
②指揮権を執るには
③他人との摩擦を避ける方法
④他の人々に依存するな
⑤なぜ友情が崩れるか
⑥人がほんとうに欲するもの
⑦誰もあなたを傷つけることなどできるはずがない
⑧対人関係への七つの指針
⑨難しい人々をどう扱うか
⑩真の航海者の冒険

8.スーパーマインドによる問題解決

①第8章の基本原理
②澄明(ちょうめい)な思考方法
③宇宙的自己のうちに夥(おびただ)しい富がある
④スーパーマインドはいかにして問題を解決するか
⑤スーパーマインドの自覚による力
⑥問題はその本来の無へ至る
⑦スーパーマインドは好戦的な大将軍をも変えてしまう
⑧人生に本当の意味を与えるには
⑨霊的探偵

9.スーパーマインドの秘宝

①貴重な秘訣
②あなたは自分で思っているよりも賢いのだ
③スーパーマインドによる新道徳観
④虚偽はおのずと消えてゆく
⑤あなたのスーパーマインド王国
⑥奇蹟をもたらす十二の単語
⑦孤独から救われるには
⑧孤独から利益を得よう
⑨真正の力へ到る道
⑩相拮抗する強迫観念を超えるには

10.圧力からの自由と静穏な生き方

①本来の安らかな生に生きるために
②宇宙的理解で生の苦しみは消える
③安心と満足に至る道✔︎
④日常生活での重苦しさの原因✔︎
⑤自然な生活こそ宇宙的生活✔︎
⑥不安の扱い方✔︎
⑦怖れを癒すには✔︎
⑧あなた自身を喜ばす生き方✔︎
⑨実際的な利己主義✔︎

11.完全自由を得る道

①自由について
②あなたにとって自由とは何か
③言葉とその意味
④恐怖からの自由を達成する
⑤恐怖にみちた努力をやめるには
⑥永遠の喜びに至るには
⑦他人の支配からの自由
⑧自己関心を無くす方法
⑨あなたの解放がほのかに見えてきた

12.終章

①全ては正しくなる
②秘中の秘
③新世界の建設
④霊的成功とは何か
⑤具体的な救いへ導く一般的思考
⑥スーパーマインドとともに

著者はしがき

著者はしがき

美しい色彩に満ちた牧場で、幸福そうに絵筆を運んでいる画家を想像してごらん。彼は日当りの良い場所にいる。だが暫くすると、太陽は傾き、画家のいたところは日陰になってしまった。彼は日向の方がよいと思っていても、そのまま場所を変えず、日陰にとどまっている。そのうち彼は薄暗いところに飽き飽きし、自分で場所を変え、日向へでた。苺び陽光のあたたかさに喜びを感じ、寛ろぎ、愉快そうに、巧みに絵筆を輝っている。

このように、あなたもまた、永遠の陽光の下に移動する霊的アーティストになれる。本書『スーパーマインド』はその手引きなのだ。理解と行為とでもたらせられる本当の日向へ、自分はまだ踏みだしてはいないと卒直に感じ、本当にそうしたいと望む人々のために本書はある。

『スーパーマインド』は秘教的な叡智を提供する。本書の中であなたは、初めはやや意外な耳新しい多くの答にぶつかるだろうが、読みつづけていくうちに、不思議なことに、聞きなれぬ意外という感じは薄れ、新しい洞察のすばらしさに魅せられてとよう。この新しい無町な観かは、これまでの考え方では想像もできないほどあなたのためにあらゆるものを変え、高めてくれる。それはあなたがみずから、決定的に、明瞭に感じとれるなにものかである。単なる知識の獲得とのこの差異を、あなたは身にしみて感じとれよう。それは鉛筆の重さと書物の重さとの違いほどもはっきりと感じとれると思う。

あなたに『スーパーマインド』は何をしてくれるのか?それは次のようなあなたの発見である。

  1. この地上における人生の意味と目的、また真に人生で成功するにはどうしたらよいかといった、あなたが長年にわたって問いつづけてきた難問への答が本書に見出される。
  2. との世で堅実な、いのない生き方をするにはどうするか?世間ではほとんど知られていない、この納得のいくテクニックを本書は示唆している。
  3. おおいなる宇宙的叡智が、明快にまた実際的な語り口で説明される。
  4. 苦しい選択、神経を噴む意思決定、それらは普通、やってみてから間違いと分るのだが、そうした選択や決断への欲求から自由になるにはどうしたらよいかの方法。
  5. 不眼症、神経の昂ぶりとかの身体的な悩みは、精神的な健康によって難なく解決される。この新しい解決法を本書は説く。
  6. 物事や現象の起き方の秘密を本書は解説し、どんな出来事であれ、そこから利益をもたらす秘訣を示す。
  7. なんの抵抗も辛苦も要せず、真に豊かな人生を送るための新鮮な霊的エネルギーに目覚めさせ
    る。

最初の三週間、『スーパーマインド』の示す諸原理諸原則に、特別な注意を集中してほしい。検討し、熟慮する。本書のあげる秘教的なアイディアの数々があなたに働きかけるよう、これだけの時間は使ってほしい。

『スーパーマインド』と二重カギをつけたら本書のこと、つけない場合は心そのものを指すと思っていただきたい。

本書の中の、多くの質問と解答はすべて、私の講演会やクラスで交わされた質疑応答の中の典型的なものである。こうした特異ともいえる方法でスーパーマインドへの理解とその使い方を訓練するととができる。

本書は、家で世間話をするぐらいの、ごく気軽な態度で、くつろいで、愉しみながら読んでほしい。わたしたち(あなたと私)のする作業は、ある意味ではそういった性格のものなのである。

わたしたちの目的は大いなる発見をとげ、それを輝かしい、新しい人生にどう活用させるかを知り、実践することである。これは、多くの人達が本書を読んで成就したところであって、あなたにもまたできることなのである。

ヴァーノン・ハワード

1-① 第一章の要点

《第1章の要点》(P15〜✔︎)

《第1章の要点》(P15〜✔︎) 1だれでもその人の中に自然に存在するスーパーマインドの自由と平安とに目覚めることができる 2スーパーマインドは通常の条件づけられた思考のはるか上方で作用している 3スーパーマインドでの思考だけが、実際的な生き方を示してくれる 4あなたの内的な世界があなたの外部世界を決める 5真の幸福のために、あなたの内的な世界を優先させよ 6人生の大いなる目的は宇宙的真理に目覚めることである 7あなたは、あなたの本来の平静さとやすらぎとへ還ることができる 8あなたの内的な完全さを他人のために犠牲にするな 9われわれは単なる条件づけられた知識を超えて霊的な洞察へと進まなければならない 10真の宇宙的な導きがあなた自身の内部から湧き起こるのに委(まか)せよ むかしむかし、ある美しい山脈にタカたちが群れをなして棲んでいた。タカたちは森や渓流でふんだんに餌をみつけ、なんの心配もなく幸せに暮していた。毎日彼らは高く高く大空を翔びまわり、平和で愉しかった。 ところで山から下の乾燥した草原には、狡智(こうち)にたけたカラスの一群が棲んでいた。カラスどもは商売をしており、品質の悪いとうもろとし栽培に、お金をつぎこんでいた。いい顧客をさがしているうちに、空高く翔ぶタカに目をつけた。 「やつらにとうもろこしを売ってやれ」ーカラスどもは売りこみ作戦を練りながら、気勢をあげた。 「ピカピカの袋にとうもろこしをつめこむんだ」と一羽のカラスがいった。 「タカどもをおれたちに頼らずには生きていけないようにしつけるんだ」ともう一羽がいった。するとさらにもう一羽の、とうもろこし売りに成功したことのあるカラスがこう提案した。 「いちばん大事なことは、おれたちのとうもろこしが絶対の必需品だということをタカどもに信じこませることだよ。とうもろこしがなくては愛がなくて、淋しくて、途方に暮れてしまうと説得するんだ。まずやつらに、罪の意識を詰めこむことだ。おれたちがとうもろこしを作っていることを知らなかったなんて、なんて間抜けだったろうと、やつらに罪の意識をもたせさえすればいい。それでもう、やつらはこっちのものだ!」 一方、タカたちは知性はあったのだが、やや思慮を欠いていた。最初こそ慎重に近づきはしたものの、いかにも立派なとうもろこしの外観に魅せられてしまった。それに、とうもろこしがあれば、食糧にする獲物を獲るという苦労がなくなるという魅力もあった。 タカたちは次第に高度を下げてきて、とうもろこし畑に多数が降り立つようになった。飛翔時間が減れば減るだけ、常時翔んでいるといった感覚は薄らいでくる。翼の力も弱くなり、タカたちはぎごちなく地面を飛びあるくようになった。するとあちこち飛びあるくタカ同士が衝突する。喧嘩が起こる。 だが一羽の眼力の鋭いタカがいた、眼が利くから洞察力も並外れていた。このタカは近頃の集団行動全体にどこか間違ったところがあると感じ始めた。それに、とうもろこしの味が変だという事実は動かしようもなかった。そこでこのタカは仲間たちに、こんなところに住まず、山へ帰ろうと説きにかかった。売り手のカラスどもは、このなタカを、人騒がせな奴だと嘲(あざけ)った。タカの仲間はみんなカラスどもの言を信じ、このタカを疎外した。 こうしてカラスはますますとうもろこしの販売量をふやし、タカはひたすらにとうもろこしを嚥(の)みくだしていった。すでに当然のことだが、かつて悠々と高く天翔(あまが)けった鳥類の王者のあいだに妙なことが起こっていた。不平不満が多くなった。みんな神経質に苛立ってきた。寂寥(せきりょう)、冷淡、自己喪失などで沈みがちになった。どのタカも、ときどき山のなかの家を偲んだが、故郷へ還る方法は忘れてしまっていた。こうして彼らは、なにかよいことが起こらないかと空しい妄想を抱きながら、不機嫌にその日その日を過ごしていた。 例の明哲なタカは、まわりのすべてに厭気(いやけ)がさしてきて、自分自身を慎重に調べてみた。彼は自分の翼に気づいて、拡げてみた。なんと、りっぱに翼は動くではないか!タカは翔びたって山へもどった。そして夜明けから日没まで、彼はなんの煩(わずら)いもなく、幸せそのものとなり、彼自身の世界の空を縦横に翔びまわった。 さてこれが、どんな人間も、一切の状況にうんざりしてきた場合、彼自身の天来自然の自由と幸福の世界へ翔んで帰れるのだという譬(たと)えかつぼう話であることはいうまでもない。本書、『スーパーマインド』はもっぱらこのことを明かにしようとする試みなのである。 本書で明らかにしようとする、この高次の力(the Higher Force)を一語で示すことが必要と思い、私はこれをスーパーマインドと称ぶことにする。 スーパーマインドの定義はごく簡単である。それは条件づけられた人間思考を超えた心的機能といってよかろう。覚醒、意識、秘教的思考など、どれもスーパーマインドと同一のものを指す。東洋のある神秘思想家が"沈黙している心”とよび、新約聖書が”内なる天国"とよぶものも同じことを意味している。それは、あなたの"真の自己”である。空が地の上にあるとおなじく、通常の心を超えた高いところにある、どんな人間の内部にもそなわっている力、それがスーパーマインドである。 ところでスーパーマインドの境地は到底言葉では記述できない。個々の求道者が体験する以外にはない。しいて説明するとすれば、それは何々ではないといって裏側から説明するしかあるまい。スーパーマインド、それは条件づけられた心ではない。これははっきりといえる。スーパーマインドはあるゆるネガティブな条件づけから自由である。それは、怖れをもたない、痛みにみちた渇望をもたない、疑惑をもたない。それは人生を成功させるために知らねばならぬものすべてを知っている。それは幸福の境地である。 条件づけられた心とは、われわれが産声をあげて以来ずっと影響されつづけ形づくられてきたわれわれの一部である。それは、生後に外部から吹きこまれた意見、信条、自己矛盾、機械的反応などの団塊であって、それらは寄ってたかってわれわれをトラブルにおとしいれる。条件づけられた心は、人間の基本的な自己を表わすものではない。それゆえ、人はそれを絶ちきることができるし、また絶ちきらなければならない。 われわれの日常的な心はいつでも新しい生の探究へ出発することができる。だが遅かれ早かれ、われわれは日常的な心を超えてスーパーマインドに達しなければならない。 さてここで、われわれは、霊的求道の巡礼へ旅立とうとする出発点で待ちかまえている、ややこしい陥穽(かんせい)にぶつかるおそれを知らねばならない。それは、条件づけられた心でも立派に真実とリアリティを発見できるといった陽気な楽観論である。だがおよそ不可能なことだ!日常的な心は、条件づけられているとはいえ、柱につながれたコリー犬みたいに、その活動がきびしく限られているのである。  通常の心はもろもろの事実の記憶貯蔵から成りたっている。それは古ぼけた、習慣的な生き方、考え方しか知らない。もちろんこれはこれで、ビジネスとか料理とかには有効かつ必要な知識である。 そういった仕事は事実の記憶にたよらざるを得ないからである。 しかし、霊的な世界へ入るのに条件づけられた心を使えば、はじめは成功するかに思われるが、必ずや失敗に終る。純粋に霊的であることは、未知なる世界、条件づけられていない世界へ入りこむ意味なのだから、条件づけられた心にたよる求道者の多くが挫折するのもムリはない。彼らはリアリティの未知の神秘性におじけづいて無意識に抵抗する。でなければ、聞きなれた言葉やそこらの権威と称するものの教説に惹かれ、それらの誤った安定感を選ぶ。 繰り返すが、スーパーマインドは記憶庫にいれられた観念群、霊的な問題をもふくめて、それらの貯蔵されたアイディアの団塊とは無縁である。もしわれわれが霊的な事柄について誤っているならば、たとえ1ダースの学位をもっていても、誤っているのである。 かくてわれわれは、スーパーマインドの本質について想像上の億測を控えねばならないという、重要な原理に達する。想像上の憶測は古い心から湧いてくるもので、枠組は異なるとしても、同様に古ぼけた憶測をもうひとつ産みだすだけである。われわれはただ見たいというだけでものを見るという態度は戒めなければならない。 訪れてみたいある田園地方についてその性質を予断しても始まらないように、スーパーマインドについてはいかなる憶測も控えるべきである。まさか、その田園に向かって、かくあるべきだとあなたは命じまい。田園の新しさ、その自然美があなたの魂を洗ってくれることをこそあなたは望むであろう。スーパーマインドに対しても同じ態度で接すべきである。 スーパーマインドはどの人の内部にも存在する。ただ人は眠っており、その存在を知らないだけだ。われわれの、この地上における唯一無二の務めは、このスーパーマインドの匿(かく)された奇蹟的な力に目覚めることなのである。
 

1-②スーパーマインドの実際的な力

<スーパーマインドの実際的な力>(P21〜✔︎)

望まない出来事が起こらなくなる

スーパーマインドについてのこの秘教的な知識は果(は)して現代人にとって実際的なものであろうか?

もし人類がスーパーマインドを見ることさえできたら、それは際限(さいげん)のない人間的フラストレーションのシャングルを払う唯一の力となろう。科学、心理学、社会計画、平和会議、道徳システム、宗教、哲学と、人間はありとあらゆる方法を試みた。だが依然(いぜん)として昏迷(こんめい)と混乱は続いている。人類が失敗したのは、秘教的知識の活用を真摯(しんし)に試みなかったからである。しかし、闘争に明(あ)け暮(く)れるこの世界で、彼自身のための平和を求める人々それぞれの個人はりっぱにこの秘教的知識にチャレンジし、これをものにすることができる。

秘教的知識が実際的かどうかを判断するため、次の諸事実を吟味(ぎんみ)してみようー

精神の上昇がもたらす最初の成果のひとつは、望まない出来事が起こらなくなるということである。

なぜか?外的状況はわれわれの内的状態から現(あら)われてくるものだからである。それゆえ、われわれが自分自身のレベルを上げるにつれ、外部的な問題は剥(は)がれ落ちていく。われわれはもはや外部的な問題の犠牲とはならない。外部状況を掌握(しょうあく)するとは、ただひとつのことを意味する。つまりあなたの内的な自己を掌握するということである。

通常の心からスーパーマインドへ上昇した人には恐怖(きょうふ)の忍(しの)びこむすきがない。子どもが夜、揺(ゆ)れる樹木を亡霊(ぼうれい)と勘違(かんちが)いして家へ逃(に)げて帰る。だがその子どももこの幻想(げんそう)を払うことができれば、樹を樹と見て、逃げることはやめる。間違った外観を誤(あやま)りだと分(わ)かれば、われわれは何を見ようと平気でいられる。恐怖がないからだ。

永遠(えいえん)なるものの至福(しふく)をみいだしたものはいかなる方角(ほうがく)からも恐れをもたない。(タイッティリーヤ・ウパニシャッド)

われわれのちっぽけな欲望(よくぼう)や要求(ようきゅう)をはるかに超えたところにもう一つの世界が存在することを知ることは驚異(きょうい)であり歓(よろこ)びである。発見とともに、永(なが)く求めつづけてきた大いなる安堵(あんど)が与えられる。それは、多くの人が、彼の根本的(こんぽんてき)なジレンマと問題は、彼の棲(す)んでいる心的世界がその原因ではなかろうかと、漠然(ばくぜん)とではあるが疑(うたが)っていたからである。われわれは、他の人々がわれわれに突(つ)きつけた苛酷(かこく)な世界が問題の原因であると考えてきた。だがいま、目が覚(さ)めた。われわれ自身の態度がこの苛酷な世界を創(つく)りだしたのだと、いま分った。この洞察(どうさつ)とともに、古(ふる)びた世界を取り壊(こわ)す新しい力が湧(わ)いてきた。その廃墟(はいきょ)の上にわれわれは新しい世界を建てたのである。

人生をエンジョイすることをためらうべきではない。重苦(おもくる)しい想念(そうねん)にサヨナラをいえ。万事を明(あか)るく気易(きやす)い智慧(ちけい)で受けとれ。われわれは、よい印象を与えよう、何かを得よう、なにか一廉(ひとかど)のものにならなければと考えるから、重苦しくなるのだ。社会があなたにどう告げ、どう命じようと、世間の人人の見た眼(め)の誰かになどなる必要はみじんもない。あなたのならなければならない真の義務(ぎむ)は、真実の人間となること、これひとつである。このことを全身全霊(ぜんしんぜんれい)をもって分ろう、感じとろうと努(つと)めてごらんなさい。そうすれば、世界をあなたの遊(あそ)び場とすることはどういう意味かが納得(なっとく)できよう。

秘教的な知識は実際的だろうか?習慣的(しゅうかんてき)な心がはまりこんでいる、まったく非実際的な諸観念(しょかんねん)を見抜(みぬ)くとき、あなたは秘教的な知識の実際的な所以(ゆえん)が分るであろう。

あなたが熱烈(ねつれつ)に一度行ってみたいと思っていたある国の国境(こっきょう)にづいたとしよう。国境線に近づくと阻(はば)まれる。道路に横木(よこぎ)が渡してあり、監視員(かんしいん)があなたのパスポートを要求し、さまざまな規則(きそく)があなたの入国を邪魔しよう。

あなたの旅行がどうして潰(つぶ)されるか?それは政治的(せいじてき)な世界の、人間がつくった規制(きせい)と境界線(きょうかいせん)とである。しかし、内的自己の国へ入っていくのにそのような障壁(しょうへき)はない。あるように見えるだけで、実際にはなにもない。われわれが目覚(めざ)めていない間に身につけた人為的(じんいてき)なアイディアや制限規則は棄(す)て去ることができる。これさえ分れば、だれでも彼自身の内なるすばらしい新しい国土(こくど)へ入ることができるのである。

1-③ あなたは同時に二つの世界にいる

<あなたは同時に二つの世界にいる>(P24〜✔︎)

内なる王国が外界を支配する

あなたは実際は、いつも同時に二つの異った世界に住んでいるのである!これを本書では内なる世界と外的な世界と称ぶことにしたい。これを理解すると混乱が一掃され、あなたの精神的かつ宇宙的な力を増強するのにすばらしい効果がある。

あなたはその肉体、他の人々、家庭、経済生活、政府、旅行、自動車等々から成る外的な世界で生きている。そして同時にまた、あなたの思考、感情、欲望、洞察力、好奇心、その他の心理的なものの働いている内的な世界に生きている。だが、あなたがものを考える場合、あなたの内的な世界を優先させなければならない。このことが、本書で説くところをもふくめて、すべての真の宗教、哲学の最も重要な教えである。

なぜ内なる霊的な王国が優先するのかといえば、内的なものが外界をコントロールし、決定するというすこぶる簡単な道理からである。ところが人類という集団は、この真理を口では唱えながら実際には理解していない、それが多くの人々の神経症の原因になっている。

このことがあなたの未来とどう結びつくのかを考えてみよう。この先どういう家庭をもとうかといった外部的な事柄は、あらかじめ計画を立てることは正しくもあり必要なことでもある。しかし明日どうすれば、またどこにいたら、幸せだろうかとムキになって計画するのは正しいことではない。第ー、未来はあなたの要求にたやすく従うものではないからだ。だが一番大切な点は、明日われわれを幸福にしてくれるものを考えるということは、今日われわれに許されている生の享楽(きょうらく)を明日に延ばすことだからである。

あなたが精神の世界に立脚して生きれば生きるほど、あなたの実人生はより気軽なものとなってくる。あなたは、経済上の悩み、社会の要求、あなた自身の混乱、そういったものに振りまわされず、自分の為すべきことは何かを的確に心得るようになる。そうしたひとつとして、あなたは外的な事柄に余計な神経を使わなくなる。

日常、いろいろな決定や采配にあたまを使う煩わしさひとつをとっても、"二つの世界"ということの理解が、こうした拷問を廃棄してくれる。

身体ということでも、日常の決定そのものは必要ではあるが、要は、それに煩わされないことだ。

黒っぽい服ではなくブルースーツを選ぶ、コーヒーではなく紅茶にする、そんなことはそのときそのときの欲求に従ってすればいい、こういった態度にあなたはなれる。

スーパーマインドという高いレベルで生きるならば、あらゆる意思決定は不要なこととなる。偽りの自己 ー それは相互矛盾するいくつかの欲求のかたまりであるが ー を棄却すれば、およそ満足か不満足かの問題にかかわるあらゆる決定はしなくともすむようになる。たがいに拮抗(きっこう)し引っぱり合う力というものがないのだから、選ぶという心労はなくなる。われわれはスーパーマインドの原理のまにまに、勝利を高らかに謳い(うたい)たのしむつつ生きるということになる。

正しい流れに乗っていれば、ボートを右へよせるか左へよせるかという煩いはない。生がわれわれのために決めてくれる。それをとやかく心配することはない。生そのものに決めさせ、こちらはただボート乗りを愉しめばよい。生の流れに従い、そのプロセスに干渉しない ー これは老荘思想が教えてくれる貴重この上もないアイディアである。

同時に二つの世界で生きている、このことを理解すること。そして必ず内的な世界を優先させること。こうすれば、両方の世界でのんびりと生きていける。

この辺まで読んでくると、あなたはこう訊くかもしれない、「なるほど、これはなかなか魅力的な探究ではある、だがおれはその為に何をしなければならないのか。何をするのか、それをどんなふうにするのか、そこをはっきりと知りたい」と。よろしい、あなたの読むパラグラフはどれも、耳新しいのでずいぶん変った考え方だと聞こえるではあろうが、あなたに何を為すべきかを告げているのである。物語で読んだ大変な秘宝の在り処を示す地図がある、この地図を入れた封筒をあなたはいま開封しようとしている、そう思ってもらいたい。ただ、もうしばらく辛抱して読みつづけてほしい。

秘教的な啓示を獲得するのに、あなたはインドやエジプトを訪ねなくともよい。それはあなたの心のなかにちゃんと在るのだ。まことに奇蹟的な在り方ではある。あなたは探りさえすればいい。探りたいだけ深く探ればいい。それはあなたの望み次第なのだ。

1-④ 人生の真の目的

<人生の真の目的>(P26〜✔︎)

-本来の自己に還ること

蒙味(もうまい)を脱した人はしばしば、非実際的なことを考えている夢想家だと非難される。私は自分の講演会でこうした批判を耳にすることが多いので、ときどき、オブラートで包まず、ズバリと現実生活の実態を言ってやることにしている。

事実を調べてみると、夢想家という非難が当らないことが多い。ヘンリー・デーヴィッド・ソローは、一部の人々からは実務に疎い(うとい)怠け者のように思われているが、親から受け継いだ鉛筆と石墨を扱う商売でずいぶん達者であったようだ。プラトンはエジプトの顧客たちに物を売って成功したセールスマンであった。ヤコブ・ベーメ(ドイツの哲学者1575〜1624)は天才的な神秘主義哲学者ともてはやされているが、同時に彼の故郷ゲルリッツでは大した商売人であり、靴屋として知られていた。アメリカの自然哲学者ジョン・バーローズ(1837〜1921)は有能な銀行監査役であった。

すべては価値観の問題である。あなたは何を価値あることと思うか?これに対する答えは、その人が彼の心的な通貨、つまり彼の内的な思想をどう消費するかであろう。

贋(にせ)ものの価値とは何か?

たとえばある男が、俺の生活は毎日ジャガイモを食べなくてはやっていられないという変な妄想にとらわれていたとする。他の食品はふんだんにあるのに、彼はただジャガイモへの非現実的な情熱に執着している。

この男が多くの悩みに巻きこまれることは必定(ひつじょう)である。彼はジャガイモを制限するような恐れのある人に対しては批判的で疑い深く、喧嘩ごしになるのである。彼は当然「ジャガイモ保護者協会」の理事にでもなれば満足だろう。

滑稽か?だが人間というものは、もっともっとおかしな大義を後生大事に守ってきているのだ!

バカバカしいか?バカバカしい話ではあるが、彼はその人生を賭けてジャガイモのために戦っているのだということを忘れてはならない。

こうした男がどうすればその愚挙(ぐきょ)に目覚めて、その苦悩を一掃できるか?まず彼は自分の苦悩にイヤ気がさしてこなくてはならない。イヤ気がさしてくれば、彼は他に試してみる気になる。そして次第にジャガイモなしで生きられるようになり、ついにみずからの力で真理が見えてくる。ジャガイも熱病(フィーバー)はおのずと消えていく。およそ人為的な、まやかしの価値観が崩れ去る基本的パターンはこれだ。

次に掲げるひとりの研修生と私との問答は、あなたの追求する宇宙的な目標を示唆してくれる-

Q どうすれば自由になりたいという願望をつくりだせるでしょうか?

願望をつくりだす必要はありません。あなたはすでにもっているのです。実際問題として、あなたはどう踠(もが)いてもこの願望からは逃げられないのです。あなたの役割はそれに気づくこと、この願望の呼びかけにますます強く耳を澄ますようになること、そして呼びかけに、大きな声でイエスと答えることです。

Qだけどなぜそれがこんなに難しいんでしょう?

難しいというのは、易しいということが分らないからです。ちょうど発動機があることに気づかずに、一所懸命にボートを漕いでいるようなものです。もし気ちがいのように漕ぐのをやめ、ひょっと頭をめぐらせれば、モーターが見えるのです。あなたは何もする必要はない、ただあるものを見ることです。禅の教えの根本はそれなのです。

Q しかし勉強しなければならぬものがずいぶんあるんでしょう?

A 勉強しなければならない原理原則をどっさり渡されたって気にすることはありません。当分ただ自分にできるだけそれらを気をもまずに、気楽に吸収していくことです。漏斗(じょうご)の入口に詰まったおはじき玉みたいなもので、やがてはひとつひとつ穴から出てきて、はっきりと見え、理解されてゆきます。

Q わたしの人生の目標とは何かということほど迷わされるものはありません。自分の大目的さえはっきりできたら、ずっと息がらくになると思うのですが・・・

A大丈夫ですよ、らくに息をつきなさい。あなたの外部的な世界では、なんでも好きな目標を選びなさい。鉄工会社の重役をめざしてもいいし、アーチストになることでもいい、世界旅行家も結構でしょう。なんという差異はありません。ただあなたの内的な世界については、あなたの天来自然の自己へ還ること以外の目標をもとうなどと決して考えてはなりません。これが大目標であって、これが狂っては一大事です。

1-⑤ 人間とは本当は何であるか

<人間とは本当は何であるか>(P30〜✔︎)

まず出発に当って、われわれは多くの人々の実際の状況を見なければならない。彼らの外観をそのまま現実の姿と見てはいけない。彼らを理想像、すなわちこうあるべきものと見てはならない。

人は分裂した自分自身に苦しむ。人々とのつき合いや財産などに安定を求め、同時にそれらの空しさを感じとっている。人は自分自身を発見したいという熾烈(しれつ)な衝動にかられている。だが同時に自己観察が露わにするだろうものに恐れおののく。人は変貌をとげたがる。だが何度変貌しても依然として彼は同じ彼である。人はこれからなにかえらいことを行なうのだと威丈高(いたけだか)に宣言する。だが舌の根も乾かないうちに全然逆のことを行なう。人は自分自身を途方もない偽造の存在と感づいている。人は自分自身を隣人とわかちたいと猛烈に希求する。だが彼の真の自己自身はわけもたれることはあり得ない。人の微笑は憂いの影りをおびている。人はその不安にたえられず、騒々しい気晴しで不安を消そうとし、同時に気晴しが終ったあとの静寂をおそれる。彼はなにをしようと、なすことはすべて誤りである。

なによりも、彼はびくついている。ひどい不安に陥っている。彼の苛立ちは彼を放っておかない。

彼は、どうにもならず悶(もだ)え苦しみ、せめてこの内的な危機を、一時的にせよ、とり押さえてくれないかと、縋(すが)りたい気持で刺激を求める。だが彼はこの内的不安との戦いには絶対に勝てない。遅かれ早かれ、彼は苛立ちに圧倒され、またも救いのない地獄へおとされてしまう。

医師のオフィスへ向かう途中の患者を想像してみよう。彼は途々、ちょっと興味を惹かれる光景を立ち止まって眺め、また新聞を買って見出しの文字に眼をやり、ぐずぐず時間を潰している。そのうちに、他愛のない気散じも効きめがなくなり、自分の病気が気になりだし、医師のオフィスの方へとにかく彼の足は向かっていく。こうして更に一時間か二時間、逃避と病感とのあいだを往ったり来たりしたあげく、ようやく彼は治癒への道をまっすぐに進むに若くはないと悟るであろう。

人間が本来の全体性を求める姿はおおむねこのようなものである。われわれはスリルに気を紛らわし、衝動的な欲望に身を委せ、誤った原則に眩惑(げんわく)される。だが、いちばん強力な麻薬は、おれは万事これでうまくいっているのだという無意識の偽装である。そのくせ、もちろん彼の内部ではすべてがまずくいっていると密かに感づいている。だがある地点に達すると、苦悩は耐えがたいものとなり、自己欺瞞(ぎまん)は崩れてくる。そしてはっと気づいて嘆息(たんそく)をつき、アソビはやめて、現実という医師のオフィスでの確実な治癒をもとめてまっしぐらに進みだすのである。

これを大いなる変化という。それはどんなにして始まるか?

これまで考えていたものとはまったく違うなにかがあるという覚醒の最初の火花が、あなたの人生の転機となる。以前は、あなたのありきたりの生き方を超えた、あるものなどには気づかなかったし、目もくれなかった。心の痛みはそれを表現するか抑圧するかで処理できると思いこんでいた。だが、ふとしたはずみに開いた、たったひとつの小さな火花が、あなたを、これまでは無縁のものであった新しい可能性へと目を覚まさせたのである。

閃きはほんの一瞬で、あとは続かない。あなたはすぐに再び眠ってしまう。もう一度との火花が現われるまでには一週間、一ヵ月、いや一年の歳月が過ぎていよう。しかし二度目の火花が散るのにどんなに長くかかるかなど気にしてはならない。とにかく一度、ほんの瞬間ではあったが、なにものかを垣間見た、意識が戻った、ということが大切なのである。

意識が戻れば、もはやなにものも以前のとおりではない。あなたはリアリティに掴まえられたのである。あなたは前へ動きだしたのだ。この径を振り返ると、それは新しいショック群、深い困惑、新鮮な驚異、うれしい啓示などのコンビネーションであったことが分ろう。とにかくこの径は長いが、あなたは一歩一歩、あなた自身の内なる静寂へと近づきつつあるのだ。そこは、頭上には波濤(はとう)が荒れくるっているにもかかわらず、深海のように静穏そのものなのだ。

ラルフ・ウォルドゥ・エマソンが書いているー

魂が真理と通じあうという事態は自然界における至高の出来事である・・・・・・このコミュニケーションは神の心がわれわれの心のなかへ流れこんできたということだ•••・・・個人がこの浸透を感じる瞬間はどれもみな忘れ去ることができない。

この大いなる変化に至るまでに、なんと長いこと古びた不満足な生き方をしてきたことよ、と嘆くことはない。要は、暗い部屋に電灯のスイッチを入れさえすればいいのだ、暗い時間がどんなに長かろうと構わない。とにかく電灯はつければ変りなく照りつづけるのだから。教えられる心構えであれ!これだけが秘訣である。

1-⑥ 秘教的真理があなたを高める

<秘教的真理があなたを高める>(P33〜✔︎)

-人間につきものの虚偽性を理解しなさい

「汝自身を知る」ことが根本的な第一歩である。自分のごく表面的な習癖を知っていることをもってこれを自己理解であると錯覚してはならない。われわれの表面的な習癖は、真の自己を代表していないばかりか、しばしば強迫的であり有害であるのに、われわれはこのことを見落している。有害な習癖は、これをはっきりと理解すれば、消すことができる。

われわれは人間につきものの虚偽性を理解しなければならない。虚偽性はわれわれに付着している緊張した、不自然な、不必要なあらゆるものでつくられているからである。

われわれを自発的にさせず機械的にするのは、模倣習癖である。たとえば、男が実際には孤独で妄想に憑かれているのに、みるからに自信にあふれ、パーティに明け暮れする人生を送っているフリをする。女性が社会活動に血道(ちみち)をあげるのは、ほんとうにそれが愉しいからではなく、走り回わるのをやめるのが怖いからかもしれないのである。

こうしたわれわれを救ってくれるものは、われわれの真実の自己、われわれの根本的な本性、またの名をいえばスーパーマインドなのだ。スーパーマインド、それは自然でリラックスしたあらゆるものから成り立っている。

人々が表出する虚偽性の一タイプとして、意志力がある。ふつう、意志力といわれているものは、ひとつの欲望が一時的に他の欲望を押え、支配しているということにすぎない。たとえば、減量のため節食したいと望む、だが一時間もすればキャンディを食べたい欲望に負けてしまう。しかし本物の意志力はもちろん存在する。真の意志力は、われわれが相拮抗する欲望群に翻弄されて生きるのではなく、根本的な自己に立って生きるとき、おのずと出てくるものなのである。

われわれはスーパーマインドについての知識を教えこまれていないから、間違った考え方をし、誤った行動をする。友情、結婚、成功、金、刺激的興奮、セックス、好成績、安堵感、ロマンス、慰め、力、安定感、活力、寛ぎ(くつろぎ)、人気、権力、快楽、その他あなたの頭に浮かぶどんな通常の利得でもいい、そうしたものを獲得するためには誰か他の人にあなた自身を犠牲にしなければならないなどと考えることをやめるのだ。一セントを得るのに九十九セント払ってはならない。

そうしたものを得るのにあなた自身を犠性に供(きょう)することだけはやめてほしい。それをやめてみれば、やめるということがなぜあなたの幸福にとって必要欠くべからざる措置であったかが理解されよう。

知識がないことと知性がないこととを混同してはいけない。知性と知識は違う。知性とは知識を集めて把握することである。宇宙ロケットのメカニズムが理解できないからといって愚かだとはいえない。彼はただ情報を穴いているにすぎない。宇宙ロケットに興味があれば、彼はその知性を駆使して宇宙ロケットについての情報、知識を集めることができる。私が知識と知性の問題をここで持ちだしたのは、自分には宇宙的事実を把握する能力はないと諦めている人があまりにも多いからである。彼らは間違っている。知性とは必要な知識を辛抱づよく集めることだとさえ分れば、誰でも自信をもって、自己変革のための情報を獲得することができるのだ。

だが、秘教的な事実は、それだけでを目覚めさせることはできない。ある事実を心理的に記憶することと、この事実を精神的に理解することとは同じではない。単に記憶された事実は、精神的に理解されたものとは違うのだ!宗数の教義に詳しい人がそのプライベートな生活では不安定だといった事例はこのことで説明できる。こうした人々には、素材としての諸事実を詰めこんでおく記憶庫以上のものが要るのである。彼らには、内的な変革へ導くような精神的な視力が必要なのである。われわれが宗教について千もの事実を知りながらわれわれ自身についてはなにも知らないといったことはザラにある。

最大の悲劇は、だれもが、おれはおれ自身を知っていると思い込んでいるということだ。この誤ちを絶えず匡(ただ)していかなければならない。もっとも痛ましい欺瞞(ぎまん)は自己欺瞞である。

秘教的な真理は暗号で伝えられるメッセージに似ている。メッセージを掴みたいとの熱意に燃えた人はこれを解読しなければならない。

1-⑦ 真の宇宙的な導きへの道

<真の宇宙的な導きへの道>(P35〜✔︎)

混乱した人は叫ぶ、「だけどおれは何を信じたらいいかわからないんだ!」と。

悟った教師は答える、「信じるって、なぜです?見さえすればいいのです!」と。

そうだ、見ることは可能なのだ。そして、見れば分るのだ。ウィリアム・ブレイクの有名な詩句(しく)はこう説明する、「知覚の扉さえ清らかに磨いてあれば、万物はそのあるがままに- 無窮(むきゅう)無限のものに、見えるだろう」

そうだ、その精神的な視力で万物を在るがままに見ることのできる人々はいる。われわれは本書で、多くのそうした活眼の人々に出会う。その内的な光が外界へ投射され、あらゆるものがその在るがままに見えた、有名なギリシャの神秘哲学者プロティノスは、そうした歴史的典型の一人である。

プロティノスは紀元前二〇四年エジプトに生れた。東方を旅行してその秘教的叡智を学んだ後、ローマに定住し、ひとつの哲学の学派を築き、間もなく導師として著述家として盛名を得た。彼の深い知性とおだやかな人格に惹かれて、当時の有名人がこぞって彼の門をたたいた。彼を訪れた人のなかには、ローマ皇帝ガリエヌスとサロニナ皇后のカップルがあった。プロティノスの家は、戦争に明け暮れるローマの緊張と混乱のさなかで、大きな憩いのオアシスであった。

プロティノスの著作集『エネアデス』は、アウグスティヌス、ダンテその他の思想家に深い影響を与えた。それもその筈、次のようなプロティノスのことばを味うがいいー

われわれがかくも浄化された自己自身に出会うとき、この全体的な自己をただひとつの輝き、計測を超えた光輝と見るとき・・・・・真の視界が展けたのだ。この低いところにいてさえ、われわれは高処に到達したのだ、そしてその先の導きはもはや不必要なのだ。

導きはいらない。そのとおりである。秘訣はただひとつ、こうである- あなたの幸福はどうなるかの心配などはないかのように、一時一時を静かに過ごすのである。ふつうの意味の不注意というのではなく、心配は不要だとの叡智の理解があるから、こうしていられるのである。

あなたの内的な世界に関するかぎり、このように理解し、もっぱら静穏を心がける。そうすれば、外界の事柄についてもあなたには行動上の問題はまったくなくなろう。外部的な問題があるというのは、われわれが自我から指針を求めるからである。自我とは混乱、錯覚のかたまり以外のなにものでもないのだ。

フリードリヒ・ニーチェは、多くのものを見るためには、自分を離れて見るようになることが必要だと言っている。

自我を超えて見る、すなわちあなた自身の従来の生き方から脱し得るかどうか?これが唯一の間題であり、唯一の解決である。

あなたの内部には、完全な静止状態で立ち、周囲に起こるあらゆる事どもを静かに見守ることのできる、あるなにものかが存在する。譬(たと)えてみれば、あたりを取りまく荒天へ光を投げかけ、それみずからは嵐にいささかも煩(わずら)わされず、泰然と聳立(しょうりつ)している灯台の回転光束(ビーム)のようなものである。

あなたが物事を真にあるがままに見るとき、外部世界はいささかもあなたの平安を乱すことができない。俺は貧乏で、孤独で、すこしも成功せず、病弱である、だがそれでもなお、おれは幸福である

-百万人に一人にでも、こういう境地が起こり得たら、この人こそまさに真の天才である。

1-⑧ 全てがうまくいっているという境地

<全てがうまくいっているという境地>(P38〜✔︎)

-内部からの囁きに耳を傾けなさい

Qわたしは、あなたのおっしゃる線で自己作業をつづけていますが、いまだに、あれやこれやのいつもの混乱に陥ってしまいます。なぜでしょうか?

A あなた自身の間違った考え方が原因だということが、まだ悟れないからです。間違ったアイディアから手痛い結果を経験するということと、あなた自身を問題の根源と見ることとは同じではありません。あなた自身を、あなたの現状の原因だと悟りなさい。これがトラブルを絶つ第一歩です。

Q御講義のなかで、自分自身をエンジョイせよと強く論されました。ですがどちらを向いても、われわれの周囲には、余りに悲しみや悪がたくさん目につきます。人生がどうして楽しいなどといえましょうか?

A 人生は快く楽しいものなのです。しかし人生についての考え方が愉しくないのです。それは条件づけられた考え方だからです。あなたの人生に対するアイディアが人生そのものだと思いこんでしまわないことです。人生をその在るがままに見ることができれば、それは快楽となります、あなたにとって新しい次元の快楽といっていいでしょうが。

内部からの囁きに耳をかたむけることを学ぶ、このアイディアは次のように譬(たと)えることができる。

ある水夫が、島のジャングルで道に迷い、海へもどれる導きとして遠い波音へ耳をすます。だがどれほど耳をすませても、ジャングルの動物の啼(な)き声や風の音で波音は遮られてしまう。彼はさまよいながら、それでも辛抱づよく耳を傾けていた。とつぜん、一瞬ではあったが、ジャングルが静寂となった。そのとき彼は、かすかにではあるがはっきりと海の音を聞いた。

この瞬間、彼はすべてがうまくいっていると知った。ジャングルの騒音がいっとき彼の耳をさまたげていた間も、彼は海への正しい方向をとっていることを知っていたのである。

曲げられた心が、狂気のように脱出を焦ることをやめて、静かになったとき、われわれは内なる導きの声を聞くのだ。その声は絶えずわれわれに達しようと努めていたのだった。

この光明を見たトルストイは次のように指摘しているー

人はただこのことさえ分ればよい!人はそこでは自由のない万般(ばんぱん)の外部事象に思い悩むことをやめ、自分のエネルギーの百分の一を、彼の前方に立っている真理の認知とそのことの告白に・・・・・・彼自身の解放に、費しさえすればよい・・・・・・

気ぜわしい思案、計画、決定が絶ちきられるとき、不安もまたやむ。条件づけられた心はどんなことにも正しい答をもたない。遅かれ早かれ、われわれはこの悟りに達しなければならない。これが事実なのだと、観察と経験とで悟らなければならない。

あなたの心というロープの端っこにうろうろしているとき、どうしてよいか何を考えてよいか分らぬとき、あらゆる脱出の試みが阻まれたとき、一切が絶望の闇に包まれたとき、あなたの心では解決がみつけられないというのに、どうしてあなたの問題と戦うことがあろうか?どうしてあくまでも思い悩みつづけることがあろうか?ここで、あなたの焦り狂う心をわきへどけることさえできれば、すべてがらくになるのではないかと、あなたはどこかで感じとっているはずである。あなたの、いやわれわれの心のより深いところにある一部は感じているのであるしみずからを解放しようと踠(もが)き苦しむ心こそが問題の根源、いや問題そのものなのであると。

なぜあなたは、黙って静かに、歩みをわきへそらさないのか?そして条件づけられた心がむやみに足掻(あが)くのをやめたとき何が起こるかをじっと見守らないのか?そこまでやってみてごらんなさい、そしてどうするか見守ってごらんなさい。

スーパーマインドは、通常の心のロープが切れるところで始まるのです。

2-① 活力をもたらす10のアイディア

<活力をもたらす10のアイディア>(P41〜✔︎)

1あなた自身の本来の宇宙的本性があなたの頼るべき真の権威である

2地上のなんぴとも、あなたを宇宙真理の真正価値から阻むことはできない

3スーパーマインドの力によって、あなたの誤った自己感覚を洗い流せ

4痛苦(つうく)にみちた心的フィルムの犠牲となることを拒否せよ

5真の力は弱さを認めることからでてくる

6あなたの中心的核である自己は苦悩や悲歎(ひたん)に振りまわされることはない

7秘教的な理解は困惑と心痛を除去する

8宇宙真理は倦(う)むことなくあなたを看てくれる

9スーパーマインドによって生きれば、新しい満足と歓びが得られる

10あなたのスーパーマインドに信頼して委せるならば、もはやあなた自身への苛立たしい関心はなくなる

だいぶ以前のことだが、あるエジプトの女性が、ナイル川の堤防を散策していて、奇妙な彫り痕のある粘土板の破片をみつけ、好奇心にかられた。これは貴重な発見かもしれないと思い、彼女はかけらを専門家のところへ持ち込み、鑑定をたのんだ。粘土の破片はなんと古代エジプト王朝のファラオ、アケナトン(イクン・アトンともいう。前一三七七〜一三五八頃)の書であって、大変貴重なものだと分った。被片を見たときとの女性がもし、「あら珍しいわ」とだけ反応して行き過ごしてしまったら、どれほどの宝を失ったかは到底知り得なかったろう。

何百万という人々のやっていることが、まさにこれである。だから何百万という救いようもなく怯えた人々がいるのである。

あなたはこれを避けなければならない。この章であなたが出会ういくつかのアイディアも、たんに珍しいものと読み過ごしてはいけない。さりとて哲学的な読み方をしてはならない。ただ心からそれらを受け入れてほしい。これらのアイディアを貴重と見なし、徹底して実際的であってほしい。あなたのディナーを賞味するくらい、充分に味わってほしい。

ほんものの哲人とは、空疎なアイディアを引用して歩き回わる人間ではない。ヘンリー・デーヴィッド・ソローが述べているようにー

哲学者であるということは、単に深遠(しんえん)な思想をもっていることではないし、学派の始祖となることでさえない、それはなによりも叡智を愛するということである。その教えるところに従って、簡素、独立、博愛、信頼の人生を生きるまでに叡智を愛して止まないということである。

ソローのキーワードは生きる、ただしフルに生きる、ということであった。

ではどのようにフルに生き始めるか?

脱出することだ。もし必要なら小刻みに離れる、だがとにかく脱出することだ。最初の一週間では成功しないだろう。なにしろあなたの周りにはたくさんの人がいて、あなたがあえて独りで彼らの牢獄から脱けでようとすると、金切り声で喚き(わめき)たてる。彼らはあなたに逃げださせたくない。彼らはあなたを、自分たちとおなじように惨めにして置きたい。あなたの気は彼らの弱さを暴露することになってしまう。

誰か頼れるような人など求めるな。あなた自身を信ぜよ。真の権威はあなた自身の本来の本性だけである。そして、なおつけくわえれば、唯一の純粋に慈悲ぶかい権威なのである。

あなたの探究を、一時どこかへ間違って蔵い(しまい)こんだ宝石の再発見と心得ることだ。

あなたの内奥にひそむ霊的かつ宇宙的な自己はあらゆる人間的な弱みに対抗してあなたを守ってくれる至高の力をもっている。

2-② 人間の主たる幻想

<人間の主たる幻想>(P43〜✔︎)

-誤った自己感覚が妄想を産む

古代の東洋から伝わった寓話に、羊の大群を所有した金持ちで邪悪な魔法使いというのがある。金のかかる柵をつくるのはいや、また牧童を雇うのもご免という彼は巧妙な工夫をめぐらせた。彼は羊をみんな催眠にかけ、羊どものアイデンティティについてさまざまなウソを教えこんだ。一頭の羊はライオン、もう一頭はワシ、等々と思いこませた。更に催眠術をかけて、彼が羊どもにすることはすべて羊どものためで、彼を信じるかぎり、決して危険はないと説いた。バカな羊どもはこうして奸智(かんち)にたけた魔法使いの利己目的に奉仕したというのである。

人間も同様、催眠状態に陥っている。幻想は自分のためだと信じこんでいるばかりか、自分が催眠術にかかっているとはつゆ思わない。

人間は夢をみている間はそれらが夢であることを知らないのだ。(荘子)

人間の主たる幻想は、誤った自己感覚である。これがその他もろもろの妄想を産む。人はおれはこうだと思いこんでいるようなものではない。スコットランドの哲学者、デーヴィッド・ヒューム(一七一一〜七六)は、「われわれが人間の心のせいにしているアイデンティティは仮構のそれである」と指摘している。この考えはぜひとも把握しなければならない重要テーマだから、本書でも繰りかえし採りあげるが、ここ暫くは次のようにだけ言っておこう。

この獲得され工夫されたアイデンティティ、この誤った"わたくし"という感情を放棄することを恐れてはならないと。

この放棄は頭痛を棄てるようなものだ。想像上の"わたくし"は正に大いなる頭痛なのである。

自分は自分がこうだと思っているような人格ではないと疑い始めると、最初のうちはなにか変な胸さわぎがしてこよう。それは無視せよ、なぜならこの不安感を呼びだすのが、偽りの自己のはかり知ることのできないトリックなのだから。偽りの自己は、あなたの迷惑は顧みずに、そのイカサマ師的存在に飽くまでもしがみついていたがるのだ。じっくりと、辛抱づよく、この懐疑のかもしだす不安と動揺に耐えるよりしようがない。そのうちにあなたはもうひとつの異なった、大いなる境地へと進んでいく。それは理解という境地である。これが勝利でなくてなんであろう。

かくて議論の余地なく、次のことが帰結される。おのれの理解を正しく使うものは悲哀のとりことはなり得ないのである。(バルーク・スピノザ)

ふつう惰性的に観念されているような自己自身というようなものはないのだから、人間の強さ弱さ、賢さ愚かさ、成功敗北、善悪、その他こうした両極性の属性というものもまた、ないのだ。なにものもわれわれに属しはしない。すべては神に、スーパーマインドに、あるいは名前などどう称んでもよい、要するに窮極(きゅうきょく)的リアリティに属しているのである。

2-③ 正しい反逆

<正しい反逆>(P45〜)

-人為的だと感ずるもの全てに反するのだ

想像上のアイデンティティは人の心理構造に混沌(こんとん)をつくりだす。二つの銀魚(ぎんぎょ)が打ち合うように、偽りのアイデンティティとアイデンティティは葛藤(かっとう)を産む。たとえば人は、自分は強い"から性欲感情などに頑(わずら)わされないという無意識的な自己像をもっているかもしれない。だから彼の心のなかをエロチックな想念(そうねん)がよぎると、彼はとの想念を”よこしまな"考えと呼んでしまう。これが間違いなのだ。ふと湧いてきたセックスの想念に彼自身の″邪念(じゃねん)”というレッテルを貼っている彼は、罪の意識をおぼえ、みずからに恥じる。そしていわゆる”よこしまな”想念を抑圧(よくあつ)ないし否認(ひにん)しようとする。

そう努めれば努めるだけ、彼の苦悶(くもん)は増す。ほんとうは、それらの想念が心に浮かんだとき、レッテル貼りや是非善悪(ぜひぜんあく)の判断や、弾劾(だんがい)その他の反応はせずに、黙って通り過ごさせなければならないのだが、彼はこの賢(かしこ)い操作を知らないのである。これが分(わ)かってくると、こうした葛藤が起こらない賢明(けんめい)な行動パターンができるようになるのだ。およそ内的な葛藤が生じるのは、人為的(じんいてき)なアイデンティティが現実に起こった事柄と正面衝突(しょうめんしょうとつ)するからである。

考案(こうあん)された、ないし人造(じんぞう)の自己が消えていけば、痛苦(つうく)に満ちた妄想(もうそう)も消えてしまう。妄想は幻影(げんえい)である。こうした幻影のひとつはたとえば、誰かがあるいは何かが鎖(くさり)であなたをしばりつけて、あなたの進歩や人生の享楽(きょうらく)を阻(はば)み、その機会を制限(せいげん)”しているなどと考えることである。こんな間違った思いが浮かぶと必ず、束縛(そくばく)の元凶(げんきょう)と錯覚(さっかく)された人とか事への怨(うら)みが随(つ)いてくる。そうすると反逆(はんぎゃく)が起こる。バイオリンの弾き方が間違って不協和音(ふきょうわおん)を発したのに怒ってバイオリンを叩(たた)きこわすみたいなこととなる。

誰も他人を、″制限する"ことなどできるわけがない。すくなくともあなたがこのことを理解しているかぎり、誰もあなたを制限し、鎖でしばることはできない。鎖は間違った思考のなかにしか存在しないのだ。

だが、反逆 ― 正しい反逆 ― を追求(ついきゅう)する場はある。あなた自身の内部にある、あなたが人為的だと感得(かんとく)するあらゆるものに対しては、反逆するのだ。そしてあなたのあるがままのものとなるのだ!

お分(わ)かりになったろうか ― 偽りの自己が考えるところと、真実の自己が知るところとでは天地(てんち)の差があることが。だから、鬱陶(うっとう)しい部屋へ流れこんでくる涼風(りょうふう)を大歓迎するように、このまやかしの自己の暴露(ばくろ)をよろこんで迎えいれるがよい。カビの生えた自己へ浄化(じょうか)の通風(つうふう)をおこなうのである。あなたがほんとうは何に似ているのかを学べ。そうすればあなたが宇宙的(うちゅうてき)なもの、すなわちスーパーマインドと共にあるとき、ほんとうは何であり得るかを学ぶことができよう。

あなたというものが無(Nothingness)であると知ることは、あなたが想像するほどの惨事(さんじ)ではない。いやそれは実際には充実(じゅうじつ)なのである。惨事に見えるだけなのだ。われわれがぼんとうはエゴに過(す)ぎない自分自身を棄(す)て切れない、恐怖(きょうふ)をともなう躊躇(ちゅうちょ)がある。そのために決定的(けっていてき)な大惨事(だいさんじ)と見えるだけなのである。われわれは、この真っ暗(まっくら)なトンネルを突(つ)き抜けなければならない。突き抜けるためには、まずそこへ入らなければならない。

いったん把握(はあく)すれば、このアイディアほど、あなたを不必要(ふひつよう)な重荷(おもに)から解放(かいほう)してくれるおおいなる助(たす)けはない。不必要な重荷のなかには間違った罪悪感(ざいあくかん)や義務観念(ぎむかんねん)がふくまれる。人間の自己中心癖(じこちゅうしんへき)は地上(ちじょう)の地獄(じごく)である。あなたは今日、総合的(そうごうてき)存在である人間的自己のうちどれほどを剥(は)が落とせたろうか?とにかくそれが今日の成功のバロメーターである。

2-④ われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか

<われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか>(P48〜)✔︎

人間が善あるいは悪であることは不可能だ

心の動きを理解する度合に応じて人生は内部清掃される。人間思考は物事を比較するプロセスといえる。日常の次元では比較は有用である。家を買うとき、われわれは数軒の家を比較し、もっとも適したものを選ぶ。

だがあなたの内的な生という場所では比較の場所がない。あることを良いと呼ぶなら、その反対を悪いと呼ばなければならない。こうなると、悪いものがあなたのところへ来るとあなたは悩む。明るい手紙がくれば、あなたはこれは良いという。そして手紙がこないと、悪いと感じる。肉体の若さを感じて上機嫌になるあなたは、老化という想念につきあたれば憂鬱になろう。

善があるところには悪がなければならない。(陸王之学)

わたしたちの思考がこうした両極性という痛苦にみちたもので左右されてはならない。わたしたちの思考はスーパーマインドの自覚から発してくるものでなければならない。わたしたちは、人間思考がつくりだした善と悪の二つを超えて進まなければならない。超えた先に、新しい善がみいだされるのである。

善悪の両極性から考えられることは霊的な催眠という状態である。この眠りの状態では、人は自分が善いと思うものでありたいと努め、悪いと思うものを避けることで、彼自身を引き裂く。しかし人間が善あるいは悪であることは不可能なのだ。なぜならわれわれ人間の本性には善も悪もないからだ。あるものはただひとつ宇宙的な善性のみである!すべて真の宗教はこれを教える、だがこれを悟る人は少ない。

これを悟るとはなんというありがたい啓示であろうか!それは、あなた自身の思いこんでいる悪について、あなたはいささかも悪いと感じてはならないという意味だからである。思いこんでいる悪こそ悪を恒久化(こうきゅうか)するのだ。悪への恐れとは、あなたがあなた自身を悪と同一視することだ。つまり、あなたがあなた自身の悪だ、とあなたが見なしているというだけの意味なのだ。あなたの本性に関するかぎり、あなたは善でも悪でもない。だがこのことは、その秘教的な意味が分るまで、徹底的に探究されなくてはならない。次の問答を聴いてほしいー

Qこの原理が、友人関係、社会関係といった実際の状況にどう適用されるのでしょうか?

A対立物に分けて考える習慣から解放されれば、そうしたコトバの通常の意味での、誰かを受けいれるとか拒否するとかということはなくなります。拒否に伴う孤独感から解放されます。他の人々とのつき合いから屢々(しばしば)生してくる葛藤や乾業から自由となります。こうなると、誰をも受けいれるという、まったく新しい質の受容性がでてきます。これが純粋の愛というものなのです。

不幸の主たる原因は、私が心的映画と称している心理作用である。心的映画は想像力を誤用する結果である。どうしてそうなるのか、あなたにも容易に分ろう。あなたが誰かとのつきあいで、ひどく痛ましい経験をもったとする、そして繰りかえしこの経験を心に想い浮かべる。あなたは、あなたの言ったこと、彼が為したことを視覚化する、そのときどうあなたが感じたかを想いだす。それが恐ろしい光景であればあるほど、あなたは夜となく昼となくこのフィルムを繰りかえして頭の中へ映しださずにはいられなくなる。まるで恐怖映画を上映中の劇場に閉じこめられたようなものだ。

ここから脱けだすには、あなたが心的映画を映写しているのだと気づくことだ。このフィルム映写という作用が、あなたの心を機械的に呪縛していることに気づくことだ。そして、熟慮(じゅくりょ)した上で、断乎(だんこ)としてフィルム上映をやめることだ。大きく頭を振って、フィルムを拒否する。さあ、そこで、ちょいと視線をまっすぐに向ける。あなたの苦痛はどうなった?もうそこにはないはずである。霧散(むさん)したのだ。あなたはいま、なにか偉いことを成し遂げたのである。あなたは、自力でフィルムを消し、その暴君のような拷問を終らすことができることを証明したのだ。あなたは自由なのだ、いま直ちに自由なのだ。

この方法を自分で試してみなさい。最初はごく一秒の何分の一というほどの短時間の成功だとしても、とにかく完全に成功したのである。小さな成功が可能だと分れば、もちろん大きな成功へとよろこび進むことができる。

2-⑤ 自己探究に成功する秘訣

<自己探求に成功する秘訣>(P51〜)

親しみ慣れたものに対する懐かしさ

わたしたちは正しい質問をすることを学ばねばならない。たとえば、「なぜわたしはこんなふうに行動するのでしょうか?」、また「どうすれば、わたしに自然に具(そな)わっている力を浪費することがやめられましょうか?」などが正しい質問であって、目的は自己発展へむけられている。間違った質問の例をあげれば、たとえばある人はこんな訊き方をする、「わたしは近づいてくる出来事を思い思って神経質になります。そうした状況でどう行動すべきなのでしょうか?」

われわれは、間違ったアイディアや相互矛盾する欲望でいっぱいの心で生きているかぎり、どうすれば正しい行為にでられるか、決して知ることができない。そうした心は常に苛立っており不安定だからである。しかしもしスーパーマインドから発して生きるならば、あらゆる状況でいかに行なうかを的確に知ることとなる。シェリ・ラーマクリシュナ(ヒンズー教の聖者一八三六〜八六)の言うように、黄金はあなたがどこに置こうと黄金なのである。スーパーマインド思考はまずわれわれを不安な状況に近づけないようにしてくれる。

あなた自身の真の利益のために行なうことを学べ。勝利の人生は壁に囲まれた庭園に比較される。

美麗(びれい)と芳香はそこにある、だがそれらは獲(か)ちとられなければならない。公衆のための広い門は設けられていない。そうだったら庭園はたんに好奇心から近づいてくる人達や庭園の豪華さを真に貴(とうと)ぶことのできない人達でたちまちみつけられてしまうからである。この壁は、その人みずからの力で攀(よ)じのぼらなければならない。それが求道者の真摯さのテストになる。その求道者が果して、この庭園に入ろうとあらゆる力をふりしぼるかどうか?もしそれだけの誠実さと熱情があれば、彼の作業が一見どれほど無駄な骨折りに見えようとも、いくら失敗を重ねようとも、必ずや何度も何度も戻って来て、壁へ挑むであろう。そして彼はあらゆる無用無益な持ちものを棄てて身軽になり、壁を攀じのぼり、首尾よくこれを超えるであろう。

ただ求道者にとって大きな難題は、真に頼るべきものと贋(にせ)のそれとを識別することがまず不可能だという点である。彼は途方に暮れ、ひとつの思考方法ないし教師から他へとふらつきながら頼り歩き、あげくは無益なあるいは危険な数説の餌食にされてしまう場合が多いのである。彼の希望はいっときは意気軒昂(けんこう)という丘陵(きゅうりょう)までは高められる。だがやがて彼は再び転落を繰りかえし、更にうんざりするような探索に旅立たなければならない。

だが彼はみずからを助けることができる。ひとつには、彼はいまや本物と贋物とを識別する判断力が自分には穴けていることに目覚める。彼は、自分の不安と焦りとから、急速な救いを約束する教理ならなんでも受けいれたい気持になっていることに、いまはっきりと気づいている。彼はいまや、心の澄明(ちょうめい)よりも情動的なスリルを誤って選ぼうとしていることに気づく。彼自身の絶望状態を観ることによって、彼は自分自身に巨大な恩恵をもたらすひとつの事実を教えこむことができたのだ。彼自身のなかに彼は弱さを発見したということ、これを足場にして彼は真の強さを発見するために進むことができた。

一見して遅々(ちち)たるあなたの進歩に焦ってはならない。いま走れる以上に速く駆けようとしてはいけない。あなたがいま勉強し、反省し、そして努力しているならば、あなたは、気づいていようといまいと、着実に進歩しているのだ。暗い夜路(よみち)を行く旅行者も依然として前へ進んでいるのである。ある日、どこかで、とつぜんに、あらゆるものが展けてくる、ちょうど薔薇の蕾が自然に開いてくるように。

わたしたちが徐々にわが家へ近づくにつれ、家が見えてくる。長いこと訪ねたことのなかった故郷の町へいってみれば、ああこれがあの街並みかと感じられるように、あらゆるものについてなにかしら漠然と親しみ慣れたものに接する懐かしさがこみあげてくる。われわれは、いつも行きつけていたところに、いま改めて近いことを感じとる。ジョン・グリーンリーフ・ホイッティア(アメリカの詩人 一八〇七〜九二)は『ひとつの神秘』という詩のなかでこの感情をみごとに表現している-

わたしを導く記憶の手がかりはなにもなかった

でもあちこちの道をわたしはよく知っていた

親しみなれた事物という感情が一足ごとに高まっていった

2-⑥ 失うことによって得る法則

<失うことによって得る法則>(P53〜)

-無価値なものを喜んで捨てなさい

人間の心が渾身の力をこめて抵抗していたひとつの心理法則をとりあげてみよう。抵抗はしたものの、受けてみて理解すれば、この法則は測りがたい霊的な生をもたらしてくれる。

それは進んで失うことによって得るという法則である。新たに優れたものを獲得するためには、まず古い劣ったものを失わなくてはならない。世俗の世界でも、古い椅子と新しい椅子を同時に同じ場所においておくことはできない。精神の世界でも同じである。心は、真のアイディアと贋のアイディアの二つを同時に容れるスペースをもたない。どちらか一つしかこの場所を占拠できない。

真に価値あるものを得るためには、浅薄(せんぱく)で無価値なものをよろこんで棄てなければならない。ひとつのストーリーがポイントを例示してくれよう。それはサアディー(Saadi ペルシャの詩人。一一八四?〜一二九ー?)がペルシャの古典『グリスターン』(薔薇園)から採って語り直したものである。

二人の友達が、それは二人ともアラブの王族の息子だったが、各々の目的を追求しにエジプトにいっていた。一人は富と政治権力を得るために全力をそそぎ、成功して、遂にエジプトの王族となった。もう一人は、科学と神秘思想の成果を探求したが、同じく哲人として成功しつつあった。王族が友の身分の低さを嘲笑(ちょうしょう)すると、哲人はこう答えた、「わたしは世俗的な富を無視して真の叡智を求めたことをありがたいことと思っています。それはひとつには、わたしには人類を痛めつける権力をもたないからです」

あなたは、新しいものの性質をまず知りたいと望まずに、よろこんで古くて浅薄で無用のものを棄てるだろうか?スーパーマインドをめざして進む一歩ごとに、これがあなたにふりかかってくるチャレンジである。次の問答を読んで、どう進むべきかの参考にしてほしいー

Qあなたは秘教的アイディアはどれも単純だとおっしゃいましたが、でもやはり難しく見えます。なぜですか?

Aアイディアというものは、簡単でもなお明療でないことがあります。アイディア自体は単純なのであって、誤解は心のなかにあるのです。心に曇りがなくなれば、アイディアも明瞭になってきます。

Q どうしたら”自己覚醒”した人になれるのか、わたしにはまだ分っていないのですが、わたしに実行できそうな実際的なテクニックがありましょうか?

A一日のうちにあなた自身の内部で、観察できた強い印象を紙きれに書きこむのです。強烈な、しかも感情についての印象だけを集めるのです。ごく短く書きます。たとえば<天候に悩まされた>とか<よいニュースに奮い立たされた>とか。就寝前に、あなたの観察したその日の印象群を検討してみます。これで意識された内容がふかく心に刻まれ、これであなたは変化していきます。

Qわたしは他の人々を助けたいと思うのですが。

A どうか世界を救おうなどとして飛び回わらないで下さい。あなたにできる仕事は全てあなた自身を救うためなのですから。

2-⑦ スーパーマインド思考に関する基本原則

<スーパーマインド思考に関する基本原則>(P56〜)✔︎

1偽りの自己感覚を認知し解消することは雄々(おお)しい仕事でありその努力は報いられる。

2あなたが必要とする援助は常に得られる。ただしあなたはそれを欲し、受けいれ、誠実に倦(う)まず撓(たゆ)まず努めなければならない。

3あなたの中心的な核である自己は悲歎(ひたん)、混乱、絶望とは全く無縁である。

4.どんな人でも、建設的な自己変容を遂げることは可能である。ただその変り方は現在誰にも見ることのできないちょっと想像を絶したかたちなのである。

5あなたは欲望の満足を求めるのではなく欲望を理解することで、あなたの生を変革できる。

6真の勇気とは、あなたが聞きたくないことをあなた自身に告げることである。

7つまらぬことを、あなたにできる最善のものと誤信して受けいれてはならない。

8実をつける技が幹からでるように、人の真の安定性は秘教的知識からでてくる。

9捏造された価値は絶望を、本来の価値は自由をもたらす。

10結果が好ましくないならば、原因を造るな。

11罰は誤った思考からしかでてこない。だから罰を絶つためには、幻想を棄てよ。

12その日の出来事にたいするあなたの反応がそのままその日を良い日、悪い日にする。

13真実は苦悩へ下される晴天の霹靂(へきれき)である。

14奴隷状態の耐えがたい不満こそ自由が存在することの証明である。

15いまこの瞬間あなたの内部に、あなたの求めるすべてが在る。ただしあなたはまずそれに気づかなければならない。

16宇宙真理、とりもなおさずスーパーマインドの真理以外のものに心を奪われてはならない。

17あなたの状態を変えようと足搔く(あがく)なかれ。あなたのレベルをこそ変え、宇宙真理への目覚め、意識性をこそ求めよ。

18本来のあなた自身を犠牲にしなければ得られないようなものを他人から得ようと思うな、そんなものは手をだすにも値しないものだ。

19あなたは自分にできると思うよりも千倍もうまくやれる。

20人生の大目的はスーパーマインドの宇宙真理に目覚めることである。

『スーパーマインド』の説くところに習熟して、それらを受容し、更に理解へともっていってほしい。一見、そう思えるからといって、聞き慣れないものを無意識的に、あるいは下意識的に、反対し、拒否してはならない。ふつう、欧米の読者は、禅だとかヴェーダーンタ哲学とかの本を読むと、その東洋的神秘思想になにかとりつきにくい奇異なものを感じる。だがそれは初めのうちだけである。読んでいくうちに、西側の思想家の説くもののなかには、東洋の神秘思想がとりいれられ、ないしはふくまれているもののあることに気づく。たとえば、スイスの精神医学者カール・ユングの思想はそうだし、偉大な人道主義者ラルフ・ウォルドー・エマソンの考え方などもそうである。

ある建築家が、友人であり雇用主でもある人から新しい家を建ててくれるように頼まれたという。

なにしろ長いつきあいの友人の依頼だから、建築家は最高の家をつくってやろうと思って、全力を傾けた。上等な素材と並の素材の選択につきあたれば当然に前者をとり、またある部分の工作に特別に日数をかけなければよい結果が得られない場合は惜しみなく時間をかけた。そうして立派に家ができると、雇用主は祝宴を開き、ディナーのあと、彼は建築家に、こういった。

「君の永年の忠実なサービスに感謝をこめて、この家を君に進呈する」

建築家は、自分ではまったく知らずに、しかし事実、彼自身の家を精魂とめて建てていたのであった!

あなた自身のためにベストなもののみを選べ!あなたは、本書の導きに従って読み進めば、何がベストかをおのずと感知するであろう。

2-⑧ 秘教的理解力を得る方法

<秘教的理解力を得る方法>

人間は理解しないで、思い込んでいるだけだ

ロスアンジェルスにいる子供が初めて手紙を書いた。ロンドンの友達宛に書いたのである。郵便制度というものを全く知らないから、どんなふうにしてこの手紙が何千マイルも陸地や海を越えてロンドンに到着するのか気になって仕様がない。思いあまっておとなに訊いた。説明を聞いて、なんとすべてが手紙を書いたボクのために一所懸命働いてくれているんだろうと驚くと同時に、気がかりも不安も安塔へ一変した。つまり、彼は理解したら、もう考えることはなくなったのである。(との大きな真理を忘れないでもらいたい)

この本がなぜ秘教的な理解ということを強調するのかがお分りだろうか?秘教的な理解は苦しい思考を要らなくさせてくれるからである。

世界中の大多数の人々は理解はしないで、ただ思い込むだけである。この事実は、あまり知られていない。ドイツの思想家マックス・シュティルナー(1*)のユーモラスだがどきりとさせるような言葉がよく示している。シュティルナーはコメントするー

人間どもは彼らの住む精神病院の敷地を、そこがどこかを知らずに、大きな顔をしてうろつき回わっている、敷地があまりに広いので、自分がどこにいるかが分らないのである!

あなたの理解しない秘教的な真理に出会ったとき、「ではいったい、これはおれに何を告げようというのだろうか?」と問うことが正しい反応である。

私教的知識は、理解の欠如から生じるあらゆる混乱を解きほぐしてくれる。たとえば世俗的な繁栄ということをとってみよう。宇宙的な進歩のためになにもあなたに、人々を薬てよ、財産や所有物を棄てよと要求しているのではない。ただ、あなたがそれらとの自己同一化を乗てなければならぬといっているのである。言い換えれば、人々とのつき合いや所有物が産みだすところの儚い刺的興奮を薬てよということだ。それができれば、あなたは人々や所有物に対して、霊的な無関心を獲得できる。なぜならあなたは、たんなる刺激的興奮はあなたの永遠なる自己になにものをもプラスしないと悟るからである。あなたはまた、興奮や高揚感情は常にその対立物である痛みの感情への反作用にすぎないとも悟る。人々や所有物に関して、興奮からも苦痛からも自由となったとき、あなたはそれらを失うかもしれないという恐れから解放され、真にそれらを享受するのである。

理解はわれわれを、あの恐ろしい暴君的なフラストレーションから解放する。人は不可能なことを行なおうとするかぎり、フラストレーションは続く。不可能事とは、他人からの賞讃、承認といった誤った心理的欲求へ、みずからの生をあくまでも従わせようとすることである。外部世界でのあなたには、食物、休息、肉体的慰安などの欲求がある。だが内的世界でのあなたの欲求はただひとつ、あなたのスーパーマインドとの一体化ということである。次の問答でこのことが美事に示されよう!

Q わたしがあるひとつの真理を理解したときというのは、どうすれば知ることができるのでしょう?

A あなたが同じ間違いを、たとえば羨望とか要求がましい感情とかを二度と繰り返さなくなったときです。あなたの間違いは誤解が起になっています。あなたがほんとうに、より高いところにある事実に気づき、これを認知できたとき、もはや古い行き方で行動する必要はなくなるのです。舗装道路を見つけたら、泥道を通るのはやめてしまうでしょう。

Qあなたは、われわれは自由なのだ、いつも自由だったのだとおっしゃった。わたしには納得できません。わたしは懐疑と苦悩とから自由ではありません。

A宇宙的な事実と、あなたのそれへの目覚めとの間には文字どおり天地の差があります。トマトはよい食物であるというのは事実です。しかし、人々の中にはかつてはトマトを食べることを拒み、その美味さを経験することができなかった人々もいる。目覚めは万能です。目覚めると、事実は黙ってはいない。あなた個人のために事実が動きだしてきます。

Qあなたのご本のおかげで、わたしはかなりの進歩をなしとげました。でも、長い長い道程です。くたびれたときはどうしたらいいでしょうか?

Aくたびれなどぜんぜん気にしないことです。真理のほうで、くたびれずにあなたとつき合ってくれる。くたびれずにつき合ってくれるものは真理だけです。

2-⑨ あなた自身を流露させなさい

<あなた自身を流露させなさい>

これ以上幸福など追求しないことだ

間違ったものを学んできた人々には、径がはっきりしてくる。ネガティプなものを振い落とせ、ということだ。

たとえば人生が不公平に見えるということをとりあげてみよう。不愉快な連中が富み栄えているのに、自分たちのつつましく誠実な生き方をする努力はすこしも報いられず評価もされないと感じている人々が多い。人によってはまた、他人に親切をしてやったのに、結果は不当に遇されるだけだったと不満に思う。

人間的次元では不公平ということはある。しかしわれわれの目的はそれを超えて生きることだ。

より高い次元では、不公平ないし不当な扱われ方という感情は存在しないと知って、あなたは驚くかもしれない。そうした用語はその意味を失っている。あなたは一切の不平不満という感覚はなくなっている。

これはすべてわれわれが何を愛するかによる。もしわれわれの支配的な情熱がより高い生への希求であれば、他人がわれわれに報いようと報いまいと、評価しようとするまいと、我々には何の関係もない。空を翔ぶタカは地上の動物たちから評価される必要をもたない。

理解が深くなったと分るひとつの証拠は、あなたがもはや不親切な人々や面倒をかける人々を非難せず、彼らを哀れなものたちと感じるときである。あなたは、なんぴとも悪徳の応報を免れることができない、不親切な人々は彼ら自身の罰を免れない、と悟っている。あなたはその新しい洞察によって自己処罰を免れているから、他の人々も同じようにしなければならないと知っている。このようにあなたは、不親切な人々に親切なのである。

ついでに、あなたは、あなたに悪いことをしてあなたを痛めつけた人々に感謝してよろしい。彼らは、なぜあなたが痛めつけられたと感じたかを探索するのに必要な刺激を与えてくれた。そして原因

採究の結果、あなたは不当な仕打ちをうけた心の痛みから解き放たれたのである。

外部の世界でなにかまずいことがおこったら、いつでも、内的世界へ眼を転ずる習慣をつけなさい。

われわれはすぐに熱りたち、抗議しようとする。電話をかけようとする。何かを変えようとする。だが、それは止めることだ。そして、次のように考えることだ、「わたしの内部には、こんな無駄なことはせずに、これをりっぱに処理できるなにものかがあるはずなのだが•・・・・・・」この内的な世界へ眼を転ずる修練を重ねるうちに、そのなにものかがそこに在ることがはっきりしてくる。

人は生にたいする彼の習慣的かつネガティブな反応を超えて生きるとはどういうことかを初めて垣間見たとき、赤いいよろとびを感じる。そしてこれまでのものとは違う、まったく新しい機会があることを感じとるのである。

あなたはこれまで、あなたの心をおわう露を突き破る機会がどうしてもないと感じたことがなかっただろうか?次のように問うととで、あなた自身にこの機会を与えるがよい。

「わたしがわたしの生を生きるための足掻きをやめて、生をしてわたしのために生きるにまかせたらどんな気持ちがするだろうか?幸福になりたい、評判のよい人間になりたい、賢くなりたいとだけ努める、昔にみちた日常の一切を楽てたらどうなるだろうか?何が起こってくるだろうか?」

何が起こるだろうかと想像を逞しくするのはよせ。このアイディアに対して、臆病な、びくついた構えはするな。ただしずかに実験してみるのだ。

いますぐ、あなたがこの本を手にしているこの場で、実験してみよ。この瞬間から、もはやこれ以上幸福など追求しないのだと決意せよ。刺的興奮を求めるとか、友達を訪ねるとか、その他これまでいつもしていたようなことは一切するな。

そのかわり、なんでもするー自然に起こってきたことをなんでも、あなた自身がさせられるままに委せきれ。考えようとするな。あなたの思考をしてあなたのために考えるに委せよ。解き放て、行かせよ。あらゆるイニシアティブを楽てよ。あなた自身を流れるままにさせよ。

初めは、落ち着かなくなろう。うな。不安になるのは、これまでこういうことをやってみたことがないからにすぎない。何時間も、何日間も、この態度を黙って貫け。生きようともがくな。あなた自身をして生かされるに委せよ。

あなたがこの状態に終始すれば、どういう奇蹟が起とるか、私には分っている。私にはそれをあなたに告げることは不可能だ。だが私はあなたに、あなた自身のためにこの実験を強く勧める。実験をあえて行ないたまえ。そうすればこの奇蹟をあなた自身が知るであろう。

2-⑩ 真の自己を明るくしなさい

<真の自己を明るくしなさい>

-内なる権威にたよれ

われわれは自己実現という人生の目標を逸してはならない。もしわれわれが正しい選択をすればおのずと成長はやってくる。もしわれわれが、自己欺瞞のかわりに自己認識を選ぶならば、成長がやってくる。もしもわれわれが苦しみに抵抗するのではなく苦しみを静かに調べるならば、われわれは苦しみから遠ざかる。もしもわれわれが外部の人々の声に借りかかるのではなく自分の内なる権威にたよるならば、われわれは自己を明るくすることになる。

ところが条件づけられた心は、そうしたととはすべてあまりにでき過ぎており、とても真実とは思えないという。

条件づけられた心は、もしそんな奇貴みたいなことがこの場でいま成就できたらどんなによいかとは思う。だが結局、他愛もない理想ではないかと懸念する。

だが条件づけられた心のこんな受け取り方は間違っている。私はあなたに保証する。これらの驚異的な事実はすべて真実なのであり、実現が可能なのだと。

あなたはそこで問うであろう、「だけど、スーパーマインドという高い次元から思考するようになるにはどうすればよいのか」と。

宇宙的意識をめざしての真摯な努力はすべて自己実現のために有効に作用する。だがここでは特に、次のような特殊テクニックを試みてみるとよい。

自分がしゃべったり、行なったりするのに何が必要であると考えているかを観察するのである。このテクニックを忠実に実行してみる。そうすると、あなたのことを隅から隅まで知っている身近な親友が書いたあなたの伝記を読むかのように、ああこれがわたしであったのかと、自分自身のことがよく分ってくる。

自己洞察がどんなふうに働くかの例を考えてみよう。ここまでの数ページであなたは、自分に何が起とるかなどにいささかも心をわすことはいらない、と知った。これは事実なのではあるが、あなたとしてはややこんぐらかった反応を与えられただろう。あなたの中のある部分は、この原理の真実性にスリルをおぼえる。だが他の部分は、あなた自身にとってどんなふうにしてそれが本当だといえるのかしらと、戸惑いを感ずるであろう。これはあなたの抵抗である。そしてこの抵抗に気づくことが大切なのである。

こうして自分の心の動きに気づくことはりっぱにそれみずからの作用を果たしていく。即ち、そのときあなたは真実とともに投げだされる。あなたには真実以外にはなにものも残らない。こうして、自分自身のあらゆる反応に気づいているということは、あなたが遂に自由となったということなのである。

なにかを行なうときの想定された"動機ではなく、ほんとうの動機を発見するよう努力すれば、必ずや急速な進歩が保証される。最初のうちは、真実の動機が想定されたそれとはずいぶんかけ離れていることを発見しよう。だがあなたの自己統一ができてくるとともに、想定された動機と真実の動機は一となり、同一のものとなっていく。

正直ということが唯一の方法である。クリシュナムルティが指摘するごとく、正直は真実を真実として、誤りを誤りとして示してくれる。もしわれわれが、われわれが肩じたいと願うなにものかを掴んで心の慰めとしたいという目的だけで霊的な極致を求めるとすれば、我々は探究しているのではなくて彷徨しているのである。

真摯な求道者のモットーは充分に明白である、「いかなる代価を支払っても真実を」ということだ。

代価とは何か?われわれは、演劇舞台に属する一切を乗てて、特に、われわれはすでに真実を知っているのだといううんざりするような仮装行為のすべてを乗てて、真実を贈かなければならない。

笑うより泣くのがむしろ正直な心である。だがもしあなたが意識をもって泣くならば、遂には笑うのだ、正直に笑うのだ。

真のマジックと質物のマジックとがある。質物のマジックとは、人が何かが欲しいときに、それを手に入れようとしてなにか迷層的な心理テクニックをもちいて、それを獲ちとることである。そして誇らしげに、そのカラクリによって獲ちとったとじるのである。人々は、彼らが欲しいものが祈りによって出現したと、興奮しながらあなたに語る。だが祈りによって出現しなかったことが何十回とあるのに、そのことは伏せている。

真のマジックとは何か?それはスーパーマインドとの調和に生きることである。

人の内的状態は、敵味方両軍がたえず交戦を繰りかえしている戦場に似ている。一方は霊的な勝利を求め、他方はこれに猛烈な抗戦をつづけている。人はこの心のなかの内戦に悩み苦しむ。ちょうど外部世界での永劫の戦いが多くの犠牲者を生みだすのと同じようにだ。一進一退、戦闘は猛りくるう。人は小競りあいでったとき嬉しげに叫ぶ、そして一時間後には敗けて悲しみのうちに打ちひしがれる。

これが人間というものの不可避の、必要止むを得ない宿命であろうか?人生とはこんなものでしかないのであろうか?もうひとつ、なにかがあるのではないか。戦いの上げ潮退き潮を、彼の真のしあわせになるように転向させる第三の力があるのだ。

われわれは次章でとの強力な同盟軍に出会い、それが何をわれわれにしてくれるかを学ぼうとしている。

3-① 銘記すべき10のポイント

<銘記すべき10のポイント>

1宇宙真理への受容性は偉大なる奇をおこす

2あなたの宇宙的成長は不快な状況に抵抗しないことから来る

3スーパーマインドへの受容性が導きと癒しと快楽とをもたらす

4常に自己に目覚めた人であれ

5宇宙真理に反したネガティブな影響力を迎え入れるな

6あなたの誤りに気づくことが真の強さへつながる

7あなたが真理を選ぶとき、真理はあなたを選ぶ

8 あなたのあるがままの姿で来たれ、力はもたず、智慧はなく、ただ建設的な謙遜の心をもって

9スーパーマインドの道は限りなき歓びの道である

10明るく腸気であれ、宇宙的レベルにあるあなたの覚醒は一切の調和をもたらす

 

もしあなたが真に欲するならば、本章の啓示はあなたの人生での大いなるターニングポイントとなり得よう。

求道者たちの発するあらゆる質問のうち、際立って多いのは、「わたしはより高い生を勝ちとりたい、だが、どうしたらいいのだろう?」という問いである。

私は一言で答えたい↓受容することだと。そしてあなたと一緒に、との受容という語の出大かつ豊かな意味合いを探りたいと思う。

3-② 受容性について

<受容性について>

-自発的に失敗しなさい

個人の受容性とそ絶対的な全てなのである。これなくしてはなにものも変らない。これさえあれば、あらゆるものはあなたにとって可能となる。

真理との接触は、人の内部の最善なるものも、最悪のものも引きだしてくる。われわれが真理を聞くとき、それは真の自己にもまやかしの自己にも作用する。もし真理が人為的な自己に接触すれば、真理は拒絶され、歪められ、あるいは無視され、その人にひとつもよいものはもたらさない。だが、もしあなたがよろこび迎える態度をもって真理に接すれば、真理はあなたの真正自己へと降下してくる、そして理解と救いとをもたらす。

受容性は程度の問題である。われわれの務めは歓迎の緋殺をより広くより厚く敷くことである。

こうして受容性に、われわれを助ける力を増してやることである。小さな受容もより大きな受容への道を開く。報いある経験はひとつひとつわれわれに、かつてわれわれの畏れ遠ざけていた真理が、実はわれわれの求めてやまなかった至福であることを示していくからである。

あなたはあなたが真に欲するものを受けいれる能力があるであろうか?もしあなたが、この問いにイエスと答えられるなら、あなたは真に望むあらゆるものを手に入れることができる。

受容性は奇的な働き手である。あなたのあらゆるものの見方を変えてしまう。ふつう失敗といわれていることを例にとってみたまえ。あなたは自発的に失敗し、何度も何度も失敗し、なんの抵抗も恨みもなしに失敗することが必要である。そうして初めて、失敗とはコトバにすぎない、態度にすぎない、感情にすぎない、そのほかの何ものでもない、とあなたは語る。

社会的な接触という世界では、あなたは受容性を大きくして、他人との接触があなた自身についてなにか新しいものを発見させてくれるようにすべきである。最良の教師は、最悪の状態にいる人々

ネガティブで、不平ばかりいっていて、饒舌で、あなたをいつもうんざりさせ、自慢ばかりするような人々である。

3-③ 危機に際して冷静になるには

<危機に際して冷静となるには>

-苦しい経験が教えるものを聞け

どうしたら豊かな受容性が得られるか。ひとつ新しい考え方をお目にかけよう。人は自分の誤ったアイディアへの洞察を得ると、この洞察力の下にこれらの誤ったアイディアは溶解する。外部からの道徳倫理、説教、権威者の論し、すべては無効である。コロンブスが地球は平らであるとする学説にあえて挑戦してその誤りを証明したように、人は彼自身の間違いをあえて証明すべく立ちあがらなければならない。それで彼は正しくなる。

巧みなセールスマンが顧客に、ある長靴がけわしい山を登るのにぴたりだと説得したとしよう。だが、買った客が実際に使ってみると、ごつごつの岩肌を禁じ登るとき足の痛みがひどくて、まるで使いものにならないと分る。真実であると言じたものと実際との差は、自分自身で発見する以外には仕様がない。

苦しい経験がわれわれに教えようとしていることは、まさにこのことである。われわれは、真為の識別がつかないから、人間の希望的な見方と霊的な事実との差が分らないから、苦しむのである。われわれは、足の痛みを満すことのない、いま履いている長靴の不適格さくは目をつぶる!苦しみはあなたに次の事を教えようとしているのだ。

「ごらん、あなたは自分の幻想ばかりを大切にして、現実に従って生きていないではないか。幸福になるには、あなた自身が履いている無用の長靴を脱ぐことだ。その長靴が足を痛めつけていると認めることだ。そんなものは薬ててしまえ。さあ、あなたにぴったりな長靴を履きたまえ。もう痛むことはない」

ドイツの天才的な神秘思想家マイスター・エックハルト(!301)は、次のごとく、求道家の心構えをいくつかのパン塊になぞらえているー

カラス実、大麦、ライ表、小麦のそれぞれの粉だけで練ったパン四つを電に入れたとしよう。

四つに同じ熱を加えたとしても、それぞれ出来具合いに差ができる。不細工なパンの塊を、熱のせいにするわけにはいかない。それぞれに適当な熱に耐えていくパン塊一つ一つの性質に失敗の原因があるのだ。

受容力を減養するには、次のような秘訣がある。

あなたを不快にするような立場や状況を愛することを学ぶ、どこにいようと快適であるためには、これだけが唯一の方法である。危機に際して、決してあなたの内的自己に抵抗しようとしてはならない。危機をして、あなた自身を好きなだけ揺さぶらせるに委せ、あなたはただそばに立って冷静にこの成りゆきを見守るのだ。あなたが完全に無心に危機の揺さぶりを許すようになれば、もはや決して人生から揺さぶられることはなくなる。

真の教師の言うととに、すすんで耳を傾けなさい。われわれは、われわれの誤ったアイディアを教師の前に差しだして破壊してもらわないかぎり、教師が与えようとするものを得ることができない。

手を挟ねき、隠し、議論し、防衛するかぎり、われわれは、彼がわれわれの要るものを与えることを不可能にしてしまう。

3-④ 秘教の珠玉は問うことにある

<秘教の珠玉は問うことにある>

われわれは真の教師に傾聴するとき賢くなる。ペルシャの詩人サアディーが言ったように、賢人が愚者どもと交わることを嫌うその百倍も、愚者たちは賢人と会うことをいやがることを知るべきだ。

あなたが、短気な友人とハイウェーを、たとえばあるレストランを目指してドライブしていたとしよう。あなたは道を知っているが運転しているその友人は道を知らない。あなたが道を教えようとすると、友人は知っていると主張して不機嫌になり、聞こうとしない。十回も二十回も間違ったターンを繰りかえし、彼はなおもあなたの導きを拒みつづける。

あなたはそんなときどうする?その友人だけが彼の問題を解決できるのだと悟り、ただ賢明に沈黙を守るべきである。友人はその度重なる誤りで、本当は道を知らないと遂に認めざるを得なくなり、彼はあなたの導きに耳をかたむけるだろう!そうあなたは望むだけでいい。そのときのあなたの気持ちはどうか?心は澄んで寛いでいよう。けっきよく、あなたは途方にくれてはいないのだ。

霊的な生では万事がこの通りだ。真実はそれみずからを人に強制し、従わせることはできないし、またそうしようともしない。なぜなら人の不自然な部分はいつも、真実を攻撃し、歪曲するからである。われわれは結局、われわれが実際に欲するものしか得ることはできない。われわれがたんに欲しいと言う、あるいは思う、ものは決して得られないのである。だからとそ、真の数師は、求道者からまず求めてこないかぎり、秘教の宝石は与えないのである。次にこの点に関する深い意味合いの問答を示そうー

Q 多くの人々が宗教や哲学を勉強していますが、それでいて彼らがすこしでも幸せになったようには見えません。なぜ彼らの勉強が報いられないのでしょうか?

|まったくの悲劇です。私は毎日そういう例に出会っています。人々は、人生に関して自分にその答えを受容できる能かがないのに、それにはすとしも気づかないで、やたらに人生についての質問をするのです。そして、本当の答えを聞いても結局、それを掴み損い、彼等は答えはないのだと、寂しく思いこんでしまう。受容性のないのが彼等の悲劇なのです。

Qあなたは、わたしが他人のアイディアに愚かに従っていることを気づかせて下さいました。この依存をどうしたら打破できるでしょうか?

Aそれには、あなたの前に差しだされたアイディアのひとつひとつに思いきってチャレンジしてみなければなりません。たとえ世界中の人々が二たす二は五だと肩じても、あなたは答えは四だと知っている、そして勇敢にそれを主張しなければなりません。

Q 生のミステリーにたいする答えはほんとうにあるものなのでしょうか?

Aもちろんあります。

3-⑤ スーパーマインドの導き

<スーパーマインドの導き>

スーパーマインドから発する力の波動はたえず我々に到達しようと努めている。この波動は、導き、癒し、慰めるために、入口を探している。だが、自分の電話でとめどなくおしゃべりしている人には外からの呼びだしコールがカットされてしまっているように、われわれの内部の喧燥と雑音がスーパーマインド波動の有益な影響力を阻んでしまうのだ。われわれは、われわれの偽りの自己認識を棄てることを拒み、われわれの気まぐれな欲望を我鳴りたてて、スーパーマインドを通じて入ってくる宇宙的な善を阻んでいるのだ。

新約聖書の言、「明日のことを思いうな、明日は明日みずから思いわん」の秘教的な意味を私に説明させてほしい。あなたが金曜日に、翌日の土曜日のある場面ではこれこれのように振舞おうと決めたとしよう。何がとの決定をさせるのだろうか?それは金曜日のその時にあなたの心を支配していた特定の欲望が決めたのである。だが土曜日になると、まったく別の欲望が支配権を握り、あなたは予め計画していたところとはまるで違う振舞いをする。あなたの欲望は、あなたに一貫した行動ないし正しい行動をさせる力をもたないのだ。欲望をじてはならない。むしろ、何を語り、どう振舞おうという予断されたアイディアをもたずに土曜日という状況に立ち向えばよい。こうすれば心は清浄となり、預わされず、スーパーマインドの導きをすなおに受容することができる。

どの地点で方向転換すべきかをよく調べなければならない。その地点とは自己敗北的な抵抗がえてゆき、豊かさをもたらす自己受容性が現われてくる地点ということである。これをよく調べることにより、もう他には別の方向をとることができないという時に、はじめて重大な転機はやってくる。

彼の人生の秘められた内なる悲劇を、意識をもって感じとり、彼は生れて初めての脱出の企てへみだすこととなる。

すでにみてきたように、人はすべてを逆方向にとらえるから、欲求不満になるのである。彼を救う力があるものを、彼は拒絶する。彼をゆっくりと潰してしまうものを、彼は狂ったように抱擁する。

彼が充実と思いこんでいるものはほんとうは空虚である。彼が太陽の光だと思っているものは影なのである。彼は歓迎を期待してドアをノックする、だがそこには誰もいない。

しかしわれわれのいう、宇宙真理の探究者だけが、このとき初めて、危機に際して正しい選択を行なう。彼は、自分の選された恐備を超えたその先になにかかあるのかないのか、を採索することを選ぶのである。

ここから、次の突破口へと導かれる。彼は前に言じたアイディアとはまったく違うなにものかを、漠然とではあるが感じとる。それが何か、それが彼をどとへ連れていくか、彼には皆目見当がつかない。だが構うことはない。とにかく彼はその道に出で立ったのだ。

進むにつれてこの道はおどろくほど示唆に富んでくる。内なる世界でのヒロイズムは、外部世界でいわれているそれとは全く異なることがわかってくる。内なるヒロイズムは、賞讃も、金メダルももらわず、新聞に名がでることもない。彼以外は誰も知らない。彼自身だけが知っていることで足りるのである。彼はヒロイズムについて新しい定義をもつ。あらゆる障碍にもかかわらず、宇宙的な完璧さで生きる自己自身へ還る、これが内なるヒロイズムである。

進歩した求道者はいまや、鳴りの偉大さと真の偉大さの区別が分る。世間から偉大であるともてはやされる人が、名声もなく財産もなく群集もいない絶海の孤島に置かれたとすれば、彼はダメになってしまう。真に偉大な人はすべて、自分自身を世界から隔離することによってその高処へ達したのである。彼ら自身の受容性をつうじて悟りに達したとき、その偉大さがおのずと世に知られるにいたったに過ぎない。彼らの隔離は必ずしも公衆から社会から絶縁することではなかった。他の人々のなかに立ち混っても、それは物理的、身体的にであって、内的にではなかった。こうした事例はわれわれもよく知っている。キリスト、仏陀、ソクラテス、ソローなどがそれだ。彼らが偉大であった証拠のひとつは、彼らが、追随者や本者を集めることにまったく関心をもたなかったということである。

それにもかかわらず、彼らの高貴な人格そのものが、磁力のように人を惹きつけたのであった。

われわれのいう真摯な求道者は、瞬間瞬間をただ目覚めた人でいるという以外に何もすることはないということを、次第に深く悟っていく。一瞬の洞察が閃くとき、彼はこれまでのような、計画をめぐらせる、保護する、回避する、見解と立場を変更する、攻撃する、物を掴みとる、しがみつく、後退する、抵抗する、後悔する、心配する、期待する、葛する、主張する、要求する、渇望する、闘う、責める、言訳をする、説得する、じる、そのほか数限りなく湧いてくるおそろしいばかりの強迫衝動を追放する。とろしたうんざりするほどの重荷全体が一掃され、彼はそのすがすがしい空所に、静かなる覚軽をもつのである。

3-⑥ パーフェクトな出発

<パーフェクトな出発>

誰でも、先ずみずから求めないかぎり、心底からそのつもりで求めないかぎり、なにものも与えられないというのは霊的かつ宇宙的な法則である。生を解放するもろもろの事実に抵抗するのは、それらをすでに理解しているとして、理解への努力を拒み、排除することである。

霊的かつ宇宙的なアイディアに初めて遭遇したとき、あなたはそれらの理解を求められはしない。

どだいあなたにどうして理解などできよう。あなたはただ健康な好奇心で観察し、より深く知ろうと欲するだけでいい。こうした正気の、良識的なアプローチが常に利益をもたらしてくれる。

ブラウニング、テニスン、ワーズワース、ホイットマンなどの詩が立証するように、間接的に象徴的に提示されたときに、心は、いちばんよく真理のにじんだアイディアを受容できる。これらの詩人の叡智は、条件づけられた心の抵抗をすんなりとさけ、心の芯にある直観的な自己に到達し、これらのアイディアを真理と認知する。

それゆえ、われわれの最初にしなければならない作業のひとつは、受容しようと努めることではなく、受容への障得を取り除くことである。そうした障碍とは、たとえばネガティブな色合いの想像、機械的な反応、コチコチに凍りついた態度などである。

間違ったものを受容しないことが、正しいものへの受容力を築いてくる。ネガティブな影響力に歓迎の意を表してはならない。あなたにとって間違っていると感じとれたものに対しては、なんにかぎらず、断乎として否と言え。これは、われわれには虚偽性を理解する力がないから、初めは難しい。

われわれは際立って技巧を凝らしたものは大抵”インチキ"であるということが分らないから、人の颯爽とした知恵者ぶりに感歎しがちである。だが、やがて叡智と強さがあなたにはついてくる。若木は嵐から護られなければならないが、充分に成長したあかつきにはどんな嵐にも、どんな疾風のなかでも毅然として立つ。私が洞察力のある研修生のひとりと交わした次の問答を読んで、意味するところを受け容れてほしいー

Q自分に受け容れる用意があるかないか、どうすればわたしに分りましょうか?

Aあなたが、まったく惨めな大失敗に、じゅうぶん素直に号泣する気持でいるときは、受け容れる用意のあることが自分でも分るでしょう。ただし、隠れて泣かなくてはなりません、人前で泣いてはなりません。

Q わたしは自分の内部にある特別な抵抗があるのを発見したとじています。自分が誤っているといわれると防衛的になるのです。なぜでしょう?

Aあなたが誤っているというのが本当か、あるいは本当でないか、どちらかですね。もし感情に動かされずに、あなたが誤っていることが分った場合はあなたに問題はなく、自分を弁護したりはしないでしょう。しかしあなたが間違っていると分っているのに、なおかつ、それを否認するとすれば、あなた自身の危い立場を弁護しなければならないでしょう。この葛藤は、あなたが間違っていたことが原因ではなくて、あなたがりの立場を弁護するから起こるのです。ですから、自分が誤っていることを恐れてはいけない。誤りに気づくことが、この世界で正しくあれる確一の道だからです。

Qでもすることが多すぎて・・・・・・

Aしなければならないことはやれます。それを大袈裟にしないことです。あなたの内部に矯正されなければならないなにかがある、とのことにまず気づきなさい、それが第一歩です。あなたの場合、それがパーフェクトな出発です。

自分そのものが自分に対して問題を起としているのだと感じても、それは無視してしまうのだ。あなた自身が問題であるなしにかかわらず、あなたの内部にはいつもかすかな閃光を発しつづけているなにものかが在るのだからである。エマソンがとう断言している1

あらゆる人の知的な心には、そこへ通じる決して閉ざされることのないドアがある、このドアから造物主は入ってくる。そして絶対真理の探究者であるところの知性が、あるいは絶対善の熱愛者であるところの精神が、そこでは黙ってはいない・•・・•・これらの高次の力がひとつ囁くだけで、われわれはこの俗世間の悪夢との無益な闘いから目覚めるのである。

あなたが真実を選ぶとき、真実はあなたを選ぶのだ。

3-⑦ 宇宙的真理に素直に驚きなさい

<宇宙的真理に素直に驚きなさい>

一切を更新することのできるあるものを人が受けとろうとするとき、いったい何がとれを咀止するのであろうか?根本的な原因は誤ったアイデンティティの感覚である。なぜなら人は、おれは善いおれは賢いという想像された自己像に生きている。それゆえ彼は、それらのまやかしを揺さぶる他人を誰かまわず怒って拒否する。ソクラテスは、彼の声を聞く人々について述懐している1人々からかれらの愛する愚劣さを奪いとってやると、いつもかれらは怒って噛みついてきたものだ。

人がその宇宙的求道に寒くのは、彼が彼自身に邪魔して、彼が求めるところの宇宙的な絶対真理の受容を不可能にしてしまうからである。彼は、真理をあるがままに受容するのでなく、真理の方で彼の条件づけられたアイディアに合致すべきだと主張する。まるで、花が青くなく赤いからといって蜜を採ることを拒む蜂のようなものである。

われわれは自己分裂のゆえに、真理を求め、かつ真理を嫌う。

オランダのコレルーという牧師が同国の無神論者バルーク・スピノザの逞しい思想に接するようになった。しかし、スピノザ哲学が自分の考えとは真向から対立するため、スピノザの著作もスピノザその人をも恐れ、敬遠した。にもかかわらず、その強烈な思想そのものに魅惑された牧師は、スピノザの伝記を書いた。混乱しているこの牧師は、スピノザのような世間の習俗や常識を外れた人間が私的生活ではどうしてあのような高貴な人生を送れるのか、どうしても理解できなかった。

人は〃クンダリニ"とよぶ彼の心のおかしな特性のために、高貴な生から彼自身をシャットアウトする。クンダリニ(kundalini)という語は古代サンスクリット語からきたもので、「幻想的想像力で思考する」つまり自分を購く意味だ。しかし"クンダリニ"は偽りの力である。いやそもそも力などではまったくない。ックンダリニ"の奴隷になっていた人が、自分こそ主人であると目覚めれば、

"クンダリニ"は無害のまま消えてしまう。

あなた自身を改革するための新しいアイディアを拒否したい気持が湧いたら、「わたしのいまのアハディアはどうなんだろう?りっぱに効力があるかしら?」と問うてみることだ。とれは一種のショック療法で、これであなたは新鮮な真理へのドアを開くことができるようになる。

あなたが”オドロキ島”とよばれる遠い楽園から、ことに住まないかと招きをうけたとしよう。あなたはこのアイディアがひどく気に入って、渡航の準備をする。その小さな島がどんなところだか知らないから、とにかくあなたは快適で安定した生活のために必要と思う、あらゆるものを用意する。

衣類、家具類、さらに自動車まで船に積んで出航する。

ところが着いてみると、ッオドロキ島”は文字どおりオドロキであった。道路はない、ただ美しい

椰子の木の並んだ小径がいくつかあるだけで、自動車などはいらないのだ。空気は澄んで香わしく新鮮そのものである。衣類は薄一枚で足りる。あなたは用意した持物一切が無用だと分る。この小島の現実はあなたの空想したビジョンとはまるで違っている。あなたは招待状をもう一度見ると、読み落としていた一行が眼についた。そのままの姿でいらっいかいと書いてある。

これがわれわれの問題である。われわれはあるがままの姿では行かず、こうでなければならぬと思う姿で行く。不注意にもそれが事実だとわれかれの思う無用のアイディア群で、われわれ自身をしばりあげる。

リアリティを新しい驚異たらしめるのではなく、リアリティがわれわれの習慣的な考え方に合致すべきだとわれわれは言い張る、かくて一切を台なしにしてしまうのである。

あなたと私はこうした誤ちは犯したくない。われわれは受容性を欲するのだ。われわれは、在るがままになりたいのだ。理論、立場、権力、虚栄、空想、幻想などはなしでいきたいのだ。一切を所有せずにいきたいのだ。それが一切をよろこばしい驚きにしてくれる。

ここにあなたが直ちに受容できる、従ってすぐに行動へ移れる、珠玉のアイディアを掲げておこうー

宇宙的理解の眼をとおして見るならば、あなたの過去に起こったどんな不幸も、まったく起こらなかったと同じことである。

3-⑧ いきいきとした生への招き

<いきいきとした生への招き>

-感じとる心の大切さ

古代ローマの哲学者エピクテトス(乳)の深い智は、弟子の一人、アリアノス(ご一という軍人の慧い心のおかげで今日に伝えられ、われわれも学ぶことができる。アリアノスはローマ帝国の軍司令官であり指導者であったが、彼のハートは宇宙的啓示を歓迎した。奴隷の出身であった師エピクテトスの壮大なメッセージをアリアノスは感じとり、忠実に師の言葉をノートした。エピクテトスは、愛と人生について語り、「汝が何者であるかを考えよ。そもそも人間とは・・・・・」といいながら常子に説いた。

心には、われわれが理解しなければならない奇妙な一面がある。条件づけられた心は、秘教的な知識の価値が到底分らない。秘教的な知識は、鳴りの自己にもとづいて生きている人には、たんに存在しないにひとしい。小さなこどもは、ダイヤモンドの原石よりも光る小石に惹かれる。ダイヤモンドの価値を知らないからだ。目覚めない人もこれと同じである。彼は宇宙的事実を冷笑するか無視する。彼は自分の無知に気づかない。

受容性とは、たんに秘教的なアイディアについて読むことではない。講座に出席することでも、授業の単位をとることでも、他人に教えることでもない。こうしたことを何年も続けていて、しかも彼ら自身の内部のたったひとつすら変えることのない人がたくさんいる。彼らは、行なうこと(doing)は成ること(being)と同じだという幻想に、無意識的に捉われているのである。だがそうでないことは、彼らの日常における苛立ちや神経症がこれを証明している。

受容性は、これらとはまったく異なるなにかである。それはあなたの価値観を変え、あなたの霊性を高める内的プロセスである。それは虚よりも事実を愛し始めつつある心の境地である。それはあなたが現在この瞬間の、あるがままの、あなた自身を全的に受け入れることである。それは内的な、秘かなプロセスであり、なおつけくわえれば、ほれぼれするようなある魔力である。その果実によってあなたは受容性を知るに到る。あなたは、それがあなたにすること、あなたのためにしてくれるととによって、知るに到る。

改らはまた真理を知らん、しかして真理は次らに自由を得さすべし。(ヨハネ伝八章三二節)

新約聖書は、息子の特実に出してほしいと丁重な招待状を送った王様の家話を認している。(マタイ伝二)王の下僕は国中に招請を触れて回わったが、応じた人はひとりもなかった。人々はそれぞれに言訳をした。あるものは農耕の仕事で手が放せない、別の人は商いで忙しくて、と言った。もっと恩知らずの人たちのなかには、招待をのべた王の下僕に襲いかかるものさえあった。

今日、われわれは同じ状況を見るのに遠くを眺める必要はない。生気あふるる人生への招きは、現代人にとって新約聖書の啓え話にある招請に劣らず温いものである。だが抵抗は同じように多数ある。抵抗の言訳をすとし調べてみよう、そして抵抗の実態を見通した答えを併記してみるー

しかしそれはとても難しい。

1難しいということを不可能と取ってはなりません。

わたしは既に一生を貫く情念をもっています。

1正直にいって、今振り返ってそれがあなたに何をしてくれましたか?

わたしにはどうしていいか分らないのです。

気をだしてあなたの固定観念を楽ててしまいなさい。

しかし秘教的アイディアは効果がありません。

実際にやってみなくてどうしてそんなことが分ります?

しかしこれらのアイディアはみんな愉快な日々を送るという願いに反しています。

あなたは愉快な日々を送っていますか?

わたしはもう、あまりに深い穴にはまりこんでいるのです。

どんなに苦しい状況からでも這いのぼることができます。

わたしはもう誰の助けも、何ものも、要りません。

あなたは、枕に頭をつけて独りでいるときにそう言えるのですか?

だけどどこからスタートしたらよいか分らないんです。

自分自身への無暴なまでの正直さから始めるのです。

しかし本当にまったく新しいなにかがあるのでしょうか?

-あなたは、もう薄うす感づいていないかぎりそんなことは訊きはしないでしょう。

3-⑨ 宇宙的な生き方への目覚め

<宇宙的な生き方への目覚め>

昔から伝わっているこんな心地がある。二人の水運び人夫が道でばったり出会った。

「すみませんが飲み水をくれませんか」

「だっておまえの水恋に水が入っているじゃないか」

「はい、でもこれを飲むと病気になるんです」

幸福になれると期待して徳りのアイディアにしがみついている人々に率直に説いてやるのは容易なことではない。こういう人々には、閉ざされた心が蒙る罪悪感とは、自己対立と自己悲欺ということである、と告げてやらなければならない。これについては疑う余地がない。われわれは、まやかしと戦い、われわれ自身のために作業するか、でなければわれわれ自身に敵対し、まやかしの味方となるかのいずれかである。

人は霊的な眠りの状態にいる、だがそのことを知らない。

彼は驚くほど清新な生へと目覚めることができる。

問題とその解決は右の二つ以上には簡単に表現することができない。

あなたの内部にネガティブなものを見つけだすことは、ポジティブな行為であって、ネガティブな行為ではないーとのことを忘れずにあなた自身を気づけなさい。あなたの弱さと混乱に気づくことは、あなたを強くする。なぜなら意識的な覚醒状態はネガティブなものの闇を追い払う明るい灯だからである。正直な自己観察は、無意識的な眠りという闇のなかでこれまで暴虐をほしいままにしてきた苦悩と圧力とを解消してくれるからである。このことは重要なので、あなたにはぜひ、次の事を暗誦し、反省してほしいと思うー

内なるネガティブなものを看破することはネガティブな行為ではない、それはあなたを新しい人間にしてくれる雄々しくもポジティブな行為である。

ネガティブな反応で特に注目を要するものがある。罪悪感がそれだ。これを徹底的に排除せよ。過去にどんな誤りがあったにせよ、あなたの今現在には自己卑下のためのスペースはないのだ。あなたのいまの習慣すべてをふくめて、あなた自身をその在るがままに受けいれよ。あなたが非難する自分自身を、案山子だと思って、冷静に無視せよ。あなたに責められている自分自身は、古い無用の衣類をきせられた案山子なのだ。間違った観念群で接着された虚構のアイデンティティなのだ。冷静に無視せよ。そして一切の感情はなしに、ただ静かに自己卑下を拒絶せよ。案山子に罪はないのだ、案山子はリアルではないからだ。だが、あなたの内部には、リアルなしかも罪をもたないなにものかがあるのである。

やがては心理的な成熟にまで到る初期の成長プロセスは、晴天の日に、森のなかを歩く人になぞらえられる。森を行くとき、彼は木の蔭の冷たさを感じる。だが林間の空地へでると、太陽の暖さと明るさに気がつく。こうして、進むに従い、彼は明るさと暗さを交互に通っていく。

太陽は常にそこにある。変化するのは、太陽に対する彼の位置関係だけである。霊的な道を求める

旅人も、これと同じく、暗欝から陽気さへ、また疑惑から理解へ、交互に明暗を経験していく。だが長く歩けば歩くほど、林はまばらになり、空地がひんぱんに現われる。暗さは減り、明るさが増していく。次の、問答を考えてみようー

Q霊的なアイディアと絶えず接触していくだけで、わたしたちは進歩していけるのではないでしょうか?なぜ、接触ではなく受容性を強調なさるのですか?

A受容性を穴いた接触は無効です。瓶に入れられた濁った水は、湖面を何年漂ってもきれいにはなりません。清浄にするためには瓶を割らなければなりません。ということは、われわれは、われわれ自身のなかから間違ったアイディアを取り除き、自分自身をきれいにしなければならないということです。

Q いったいどんなふうにこういうことを切り抜けていきますか?

Aいままでのいき方で考えないことです。慣れ親しんだパターンで喋らないことです。いつも感じていた感じ方で感じないことです。習慣に従って生きないことです。

3-⑩ いつも明るい気持ちでいるには

<いつも明るい気持ちでいるには>

-事物をあるがままに見る

宇宙的真理にはどれにもその人間的な物がつきものである。真の幸福に対しての幸福があり、真の進歩に対して擬似的な進歩があり、正しい考え方に対して間違った考え方がある。爽快さはよい状態でもあり必要なことでもあるから、われわれは真の爽快さと物の爽快さとを識別したいと思う。

贋の爽快さは幻想の根から咲く。たぶんあなたは、その外面的な挙動がいかにもあなたをよい気分にさせる誰かに会うだろう。あなたはとの人はわたしを助けてくれると思う。だが親しくつき合ってみると、彼が弱い人でありあなたへ敵意をもった人間だと分る。あなたが彼に対するとき感じていた狭さは、あなた自身の誤解にもとづいていたのだと悟る。

だが真の腸気さというものはある。われわれが事物をそのあるがままに見るとき、ごく自然に、なんの骨折りもなしに、陽気な気分があらわれる。それはリアリティという岩盤に根差しているから、外部世界の流砂に関係なくいつまでもそこに在る。

真の教師は陽気で爽快な特性をもっている。山頂に立ったとき、爽快さを味わわずにいられる人があろうか!シュリ・オーロビンド(デルがつ時いたエ〇)はそうした明るい教師だった。イギリスのケンブリッジ大学を卒業後、インドへ戻り、政界で活動した。しかし遂に大学教育も政治権力も精神の円満な統一を培わないと悟り、彼は神秘思想のへと転回して、宇宙的な秘宝を認識するにいたった。

今日、シェリ・オーロビンドの著作は、その人間的世界と宇宙的世界への深い洞察のゆえに、世界的に高く評価されている。オーロビンドは、実際的な指導に爽快な激励を結びつけて真理を説いた。ととにいくつかのいかにも快い彼のアイディアをあなたに紹介しようー

内的世界の真の生へたえず菌をむけ、そとに帰れば必ずやトータルな勝利を得るであろう。

あなたはあらゆる瞬間に新しく創られる。

あなた自身の霊的な啓蒙のために道を選ぶとき、人生は気楽なものとなる。

それが何であるかを観るとき、あなたは真の魔術をおとなっているのである。

思考と発言で間違ってもけっして自分自身を叱るには及ばない。

よりよいなにものかに漠然とでも気づいたら、陽気にこれに随いてゆけ。

私の径を辛抱づよく歩めば、必要な智慧と力と機会とが顕われてくる。

柔い陶土から花瓶を創り、その形が気に入らないときは、そのままにしておくことはない。花瓶にはあなたがその形を変えるのを阻止する力はない。あなたが主人だからだ。いまの形状は、あなたがそれをどう処分するかには関係がない。あなたの現在は固定されたものではない。未来はあなたの掌中にある。あなたはあらゆるものを、あなたの欲するものへ造りなおす力をもっている。

主導権はあなたのものだ。あなた自身の為めになる選択をせよ。真実だと告げられてきた伝統と習慣の囚人にとどまってはならない。あなたの真実でないものを、真実と認めることなかれ。全宇宙があなたの味方であるととを思え。二十四時間のなかでわずか一秒の何分の一かでさえあなたが目覚めたとすれば、それはなにか歎すべきことを為したのだ。絶えず主導権をとっていけば、この数分の一秒は完全な一秒となり、一分となり、一時間、一日となり、ついには永遠な独立となる。

4-① 隠された痛みと悲しみを終らすには

<隠された痛みと悲しみを終らすには>

1あらゆる悲しみからの解放は、スーパーマインドにおいて可能である

2真の平静と落ち着きを得るために、表面的な快さを乗て、霊的な洞察にたよれ

3スーパーマインドに頼るとき、世間的な答えのないことを恐れてはならない

4個人的な悲しみに抵抗してはならない、怒ってはならない

5苦しみを賢く活用すれば苦しみは消せる

6誰でも苦しみの夢魔から目覚めることができる

7あなたの心にほのかに明け始める宇宙的な道を注意ぶかく観察せよ

8スーパーマインド思考はネガティブな思考を抑え、失敗の苦しみからの解放を保証する

9あなたはスーパーマインドによってあなた自身の治癒者となれる

10大宇宙精神の力が、あなたの勝利への意志を支える

 

内面を見よ。たえず見守れ。あなたの油断なき注意力を使え。たとえば、ソフトなムード音楽を流しながら大声で喋っているテレビ番組を例にあげてみよう。音楽だけに注意を集中すれば、声は遮断され、音楽をはっきりと聞くことができる。同じように、内面を見守れば、外部のノイズに関わりなく、常に平静がある。

もし忍耐をもって、もし見守ることをもって、一条の新しい光老を確保でき、わたし自身の高揚を感じることができるというなら・・・・・一体、わたしは見守らずにおれようか?(ヘンリー・デーヴィッド・ソロー)

本章でわたしたちが一緒に研修するのはこのことである。われわれは、われわれ自身のなかに在る自由解放の光芒を見まもりつつ、悲哀の問題を深くそして真剣にさぐってみよう。

からだの健康をたもつためには、肉体的な疼痛がぜひとも考慮されなければならないのと同じく、心の痛みは霊的な全体性への導きとして用いられなければならない。好運にも、悲哀はわたしたちに、わたしたちがふつう無視しようとするものを吟味させる。心の痛みが消えないとき、それはわれわれ自身を新たに見なおして、確実な処置を発見する機会を与えられたということなのだ。

私は保証する。あなたの特定の悲しみがなんであれ、解放は可能であると。だがあなたは根本的な原理を掴まなければならない。それを次に検討したい。あなたは、仏陀がしたように光り輝く生へ目覚めることができる。人間の苦しみに対する観察と冥想が彼を導いて、ついに苦しみの謎をみずから解いた。 “陀”という語の意味そのものが、"覚めた人"ということである。では探究を始めよう。

4-② 奇蹟はいかにして起こるか

<奇蹟はいかにして起こるか>

トラブルに出会ったとき、われわれは表面的な慰めをとるか霊的な理解をとるかの選択にせまられる。もしわれわれの選択が、たとえば同情を示す人々とのつきあいといったことだとすると、われわれは真の理解を得ることができない。慰めへの要求が霊的な洞察を阻むからである。でなくて、あなたをなんの慰安もなく、まったくの孤独で耐え忍ぶよう強制する理解が選ばれるならば、この理解が突破口をつくる。われわれがいつも慰めではなくて理解を選ぶならば、トラブルから遠く離れて歩むこととなる。なぜならトラブルは誤解が原因だからである。

もしあなたが、自分は万事うまくいっていると知る理由として、たとえば経済的に安泰であるとか家族と友達がいるとかいったことをあげるならば、あなたは到底真の安定をもつことができない。とうしたととに頼るのは危を生む。なぜなら、こうした救いの綱が永続的なものではないとあなたは感じとっているからである。あなたが、万事うまくいっていると言い切る理由をさらさら持たないとき、あなたが一切の心理的な支持をもたないとき、そのとき初めてあなたは全てがうまくいっていることを知ることができる。これは内的な生における一見矛盾とも思える真理だが、あなたはこれを理解しなければならない。あなたになんの支持もないとき、そのときのみ、あなたは支持される。そしてまた、こうしたフリーの状態においてのみ、あなたはあなたの経済状態や家族、友人関係をフルにエンジョイすることができる。なぜならあなたには喪失への恐れはないからである。

人は、自分はいま自分をどうしてよいか分らないと知る気と正直さをもつとき、奇噴は起とる。

これはとみいった発見ではなく、すこぶる単純なことである。あなたは冷静にかつはっきりと、自分は自分の内的な生をどう生きるべきかを知らないし、また決して知らなかったと悟る。本当は万事うまくいかなかったのに、飽くまでもうまくいっていると言い張っていたうぬぼれと虚栄心を、あなたはいま喜んでてる。あなたにはもう戦う力がない。疲れ果て、打ちひしがれている。あなたは恐怖に選えながら、人間的な鎧を脱ぎ、殺されるのを待ってそこに立ちつくしている。

だが奇はそのとき起こるのだ。あなたがより高い力への道を空けたから、その神秘な力はあなたの内部へ入ってきて、あなたのためになんでもしてくれる。あなたはもう生きようと腕くことはしなくてよい、あなたは生自身をしてその生きるに奏せる。あなたの思想、感情、経済状況、結婚生活、家庭、友人関係、すべては魔法のように変貌したのである。あなたはいま、大いなる悲しみとともに、あなたがかって恐れていたあの非常に高い力があなたの唯一の救済であると悟る。あなたはいま幸福である。そしてなにものもそれを奪い去ることができないと、あなたは知る。次の問答から奮い立つ力を得てもらいたい一

。苦しみを満すためになされなければならないことを阻むものとは一体、何なのでしょう?

Aポイントを掴むことができないためです。何がポイントか?痛みは人の内部にある、人はそれをどう処理していいか分らないでいるしただこれだけの単純なことです。人は正しいことを知らないから間違ったことをするのです。

Q間違ったアプローチとはたとえばどういうことですか?

A あなたの苦しみをひとつの事実と見ることを拒み、苦しみに正面から向かうのではなく、苦しみを避けようとする、これが間違ったアプローチです。あなたは圧力から逃れようとして、敵意をもって撃ってでる。苦しみについて知らなければならぬことを知りたがろうとしない。あなたは、全てが間違っているときに、全てがうまくいっているふりをする。これが間違ったアプローチです。

4-③ 宇宙的パワーの奥義

<宇宙的パワーの奥義>

ほとんどの人が気づいていない至高の秘密がある。人間の心の力を超えたひとつの力があるということだ。それはリアリティの、真実の、カーいつもそこにある力である。この力に気づけば、この力はわがものとなる。目覚めは導火線に点火し、意識の爆発へと到る。

あなたの人生を、考え過ぎて込みいらせてはならない。ハートを痛めつけるのは、人生のリアリテ←ではなく、条件づけられた心である。習慣的な思考や理窟づけや並べ変えはあなたに何もしてはくれない、あなたの内的な満足にすとしでも寄与したことはない。習慣的な思考は、休暇の計画とかバランスのとれた食事を考案するとか、日常的レベルの事柄についてはりっぱに役立つ。だが心理的な事象、たとえば幸福とか意味ある人生とかについては、条件づけられた思考はけっして成功しない。

心の力は翔ばない鳥類と同じく、地上的な活動だけに限られている。

人々は見当外れの思考をやめることを恐れる。人々は間違ったことをするのをやめることを恐れる。それをするしかないと誤って思いこんでいるからである。狂気のように心を働かせて追いかけないと、すべてが潰れてしまうと誤解しているからだ。だがこの逆が真実である。人間的思考がとまれば、霊的な目覚めが始まる。人は統一される。霊的な大空へ翔ぶのに地上に縛られた心を使おうとすれば、あらゆるものが墜落してしまう。

幸福とか意味ある人生とかについて考えようとはいないことである。計画と計算をやめることである。幸福となる、意味ある人生を送る、それは可能である、ただし催眠にかけられた心によってではない。イギリスの哲学者ジョン・ステュアート・ミル(※学1七三)は、目覚めた心だけが、真の満足を選択できると借じた。

答えがないことを恐れてはならない。空虚で不安定であることを怖がってはならない。不安感、空虚感、答えがみつからない苛立たしさ、それらは初めは辛く、これを怖わがるなといってもなかなかそうはいかない。しかし暗いトンネルを抜けでなければ日光は仰げないように、これらはまったく自然な通過関階なのである。この濃度に終始せよ。誰からも何からも慰識や安定を求めてはならない。この見ただけでは恐しい暗いトンネルへ、あなた自身を投げてるのだ。そして、何が起こるかを見る。

起こってくるのは、あなたの求めてやまなかった奇貴である。とても言葉では表現できない。個人的に経験するよりほかはない。これがあなたの求める、そしてあなたの持つことのできる、その経験なのだーあなたの真の自己との再会ということである。次の問答のポイントを考えてみなさいー

0人の憎しみには一種の暗黙の申し合せがあるように思われます。人々はそれについて語りたがらない。しかし憎しみはその人の惨めさと手をつないでいる。どうして人間には、こんなに憎しみが多いのでしょうか?

A 憎しみは自己認識への誤った感覚を護ろうとする必死のあがきなのです。男が女を離別すると、女は男を憎みます。それは彼女自身の本来の虚しさが暴露されたからです。憎しみはきわめて熾烈な感情ですから、活発さ、強さなどという為りの感情をもたらします。憎悪はきわめて自己破壊的です。洞察によって為りの自己が褪せていくにつれ、憎悪は消えていきます。

Q 心痛がするのは現在との瞬間の自由のうちに生きていないからだとおっしゃいました。わたしには理解できませんが•・・

A長い鎖につながれた重い岩をうしろに引きずりながら歩いているのと同じです。その岩は、あなたがいまいる地点まで辿りついた旅の必要な一部ではなかった。だのにあなたはそれを引きずっている。あなたが取りすがっている、この記憶という、不必要な鎖のせいで、そんなふうに錯覚するのです。鎖を断ち切りなさい。そうすれば、いまあなたが立っているその場所、つまり、いまこの瞬間において、自由が経験されるのです。ときには、朝、半分眠りから覚めかかったとき、記憶の鎖がまたあなたに取りつく前に、この自由が垣間見られます。

4-④ 苦しみの謎を解く

<苦しみの謎を解く>

-涙のみなもとは心である

どんなかたちのものにしろ苦しみの意味するところはひとつである!われわれが宇宙的調和から外れているということである。調和するようになれば、苦しみはやね。

道路へ駆けだそうとしてもがく幼児は平手打ちにされる。体罰以外の言語が分らないからだ。両親は子どもを愛しているから、わざと子どもの心を傷つけようとして平手打ちにするのではない。子どもが大きくなって理解が進めば、痛い目に遭わなくともすむようになる。

人間の状況もとれである。苦しみは、現実という道路へ飛びだすことの危険をわれわれに告げているのである。しかし、頑な小児的おとなは、自分がなんでもいちばんよく知っていると思い上がっているから、教訓を拒絶し、傷つけられる。毎日毎日、来る年も来る年もそうである。しかし彼のうけた霊的な体職を検討するならば、彼は体罰が不必要な境地へ成長できる。涙のみなもとは心である。心そのものについての自己中心的な概念を薬てることを拒む心である。

痛みから自由になるには痛みの末端まで行かなくてはならない。痛みに抵抗してはならない。怒ってはならない。不幸であることを数き、不幸となってはならない。かくすれば、苦しみは大きな啓示となる。苦しみは、われわれが借りかかっていたぺりの支柱を看破させてくれる。支柱を取り除くと真実がやってきてわれわれを完全に支えてくれる。あらゆることが、われわれがその苦痛を賢く使うか否かに懸っている。

最初にとるべき賢明な行為は、われわれがいかに不幸かを意識的に自覚することである。苦しみは、ほとんどの人々にとって、九十九パーセント無意識的なものである。彼らは地下の業火を見ない。

ときどき火山のように噴出するので気づくだけである。たとえば癇癪ということを取り上げてみよう。人は、怒るたびに苦しむ、だが彼はそれを痛みと見るだろうか?見ないのだ。彼は自分の怒りにプライドすら抱くかもしれない。怒りをあらわすのは強さのしるしと思っているのだ。

私はあなたに、決定的な突破口のみつけ方を教えよう。あなたをひどく困らせていることを取ってみよう。なんでもいい、あなたの人生にかかわっている不倫快な石介者、ある種の心、問題が解決できないための苦悶、その他なんでもいい。

それを充分に意識する。この困窮状態を他の一切から選り分けて、それだけを科学的な好奇心をもって観る。それがいかにあなたを苦しめているか、それがいかにあなたの感じたくないことを感じさせるか、を見てみる。するとあなたにどういう反応が現われるか、この反応に注意を向けて見守るのである。特に、この苦悩がどんなふうにあなたから気易さを奪っているかに注意を向けるのである。

そこで、あなたの苦悶へ反旗を翻してみる。他の人々がするように、苦悶の原因と思われるものへ反抗するのではなく、あなたの内部の苦悶そのものへ反抗を試みるのだ。これは大変肝要な点である。

ためらうことなくとう官言する、「おれはとんな苦しみにとりつかれ、飽きあきした、いやになった。おれは行けるところまで行った。もうこれには我慢できない。おれは忍耐することはしない、忍耐しないんだ。これで終りにするんだ」と。

もしなんなら、これについて感情をたぎらせてもよい。しかしとにかく本気になって、このとおり宣言してみるのだ。それが苦闘の解消のはじまりとなる。

皆しみから遊れようとしてはならない。苦しみは解消できるのだ。それゆえわれわれはいま、苦痛の解消を妨げる大きな誤りを探索しなければならない。

4-⑤ どうすれば悲哀はやむのか

<どうすれば悲哀はやむのか>

-このままの状態から逃げずにいる

苦しむ人々は、荒れくるう川に沿って住んでいる一群の人々に皆えられる。いま提防が決壊しかかっている。

一人は言う、「ぼくはこの家に残って、切手意集に熱中していれば、それで巡れられるよ」。もう一人は考える、「おれは情事に我を忘れて、それで逃避してしまおう」

第三の男は言じる、「わたしが他の人々のために善いことをして回われば、川はわたしを呑みこまないだろう」と。

どの人もポイントを逸している。人類もまさにこのようである。洪水は内部にあるのだ。われわれの注意と努力の注がれるべき場所はそこだけだ。それ以外の行為はすべて危険な気散じに過ぎない。

ある方向へ眼をかけながら、別の方角へ歩いているようなものだ。

妻または夫、友達、よい評判、快適さ、幸福、その他なんでもいい、ある種類の失に悩むとき、われわれはいかにすべきか?まず最初の衝動は、あなたが失ったものの代替物を追いかけて、あなたの頭痛から逃れることであろう。あなたは快楽を失い、それが与えていた安定感を失う。見慣れ聞き慣れたものを失い、あなたは、同じく慣れ親しみ、慰めとなりそうな他のなにかを探すだろう。

だがこれらはどれも間違っている。遅かれ早かれ、この行為はあなたをより深い絶望へ陥しいれるにきまっている。代替物を追いもとめること自体恐ろしい足掻きである。あなたが静かに自己観察をおこなえば、不安を逃れようと焦ること自体がより大きな不安を招くことに気づくはずである。

とすればあなたの為さねばならないことはきわめて簡単である。それが喪失に対するあなたの習慣的反応に逆行するから、最初は難しいことに思えるかもしれない。あなたは喪失のとき、あなたの新しい、慣れない状況へ、驚異の感覚をもって、対峙しなければならない。こう考えるのだ、「なんと奇妙な!いまこの私は、戸惑い、悩んでいる。だけどこれが私の状態だ、戸惑い、悩み、虚ろであるのは。希望はない、期待するものはなにもない、慰めはない。ああ、なんと新鮮でおもしろい経験だろうか!よし、暫くこのままの状態でいよう、逃げださないでいよう、そしてこの状況のストーリーに耳を傾けてみよう」

こうした純粋な驚きの状態にいるとき、あなたは奇的な変貌を可能にするのである。

外部の状況は変るかもしれないし、変らないかもしれない、だがそれは重要ではない。奇は外部世界で起こらない、内部の世界で起とるのだ。あなたが寄質である。そうなれば、もはや爽失というようなものは再び起とらない。起とるのは変化だけである。変化して、リアリティとなる。それは幸福である。

霊的な眠りの呪縛から解かれたいと心底から望む人々は、特殊な型の苦しみに出合う。秘教文学でしばしばいわれる「たましいの闇夜」がそれである。これはウィリアム・ブレイク、マイスター・エックハルト等の神秘思想家をもふくめて、およそ啓示をうけた人なら誰でも経験するところである。

われわれが最初、自分の仮装、自分の虚しさを感じたとき、この苦しみは始まる。われわれ自身のイカサマと意識的に対決させられると、われわれは戦標する。われわれは参禍の淵に、ひとりぼっちで、裸で立っているように感じる。これは大きな危機であり、われわれはこれを超えなければならない、そして超えることができる。外部の権威者、人あたりのよい言葉、にぎやかな場所といった頼りない避難所へ逃げもどるのではなく、ただとの孤独とともに、身の虚しさとともに、じっとやむととである。こうすれば、危機は乗り超えられる。

われわれがなにか新しいことを学ぶことのできるのは、この内なる虚しさからだけでしかない。だが最初から、われわれは意識的でなければならない。そうだ、痛いまでにこの虚しさを意識していなければならない。充実しているという見せかけは進歩を阻む。内なる虚しさとともに生きることで、戦慄をものともせずに、虚しさへ驚きの眼をむけることで、虚しさはそれ自ら新しい洞察と平安とでみたされてくる。それとともに悲しみは終る。

4-⑥ いかにして人生の悪夢を終らせるか

くいかにして人生の悪夢を終らせるか>

-人生は夢である

次の問答が、あなたがいま直面している問題を理解し解消するのに役立つのではなかろうかー

Q 苦痛の解消へ理性的にはたらきかけるには、まずその特定の苦しみだけを取りだして吟味しなければならない、とおっしゃいました。ところが、わたしは自分が渇望しているものが得られず、がっかりしています。どうすればよいのでしょうか?

Aまず渇望というものがどうして起こるのかを見てみましょう。あなたは外部の物、たとえば新車とかホームとか異性とかを眼にする。それらが、それを所有したいという湯望を生みだす。

それが得られないと苦痛が襲ってきます。それとともに、これらの物や人を手にいれたらどんなになるであろうかと想像を運しくします。しかしそれらはあなたのものではない。だから、幻想と事実のあいだであなたは苦しむのです。これに気づいていますか?

Qはい。問題は渇望すること自体にあるので、その外部的なものが得られる得られないということからではない、とおっしゃるんですね。なるほど…・・ではお訊ねしますが、渡しい願望を消すにはどうすればいいんでしょうか?

A激しい願望は誤った自己感覚から湧いてくるのだと知ってほしい。想像された自己というものは、喚きたてる欲望のかたまりなのです。渇望はすべて、との誤った自己が自分であると認めたい、そしてあなたにこの空なる自己が実在していると思わせたいという、空虚な企てなのです。誤った為りの自己なるものは存在しません。それはたんなる幻影であって、あなたはそれを見破らなくてはならない。この地上のどんな事物も、どんな他人も誤った自己など確証できるはずがない、もともとそういうものは無いのだから。われわれが、それはあると思うかぎり、夢中になってそれを追い求める。ですがこの幻影は、求めれば求めるほど、遠ざかっていき、骨董化し、ついにはなくなってしまいます。

Qなぜ鳴りの自己を観察することが必要だと強調なさるのか区識に思っていましたが、いまようやくそれと渇望との怖るべき関係が分りました。

A渇望は、生命力を盗部好智にたけた泥棒です。それは、あなたが存在するためには渇望が必要なのだと思いこませ、一方あなたの純正かつ真実の存在をたえず盗みつづけるのです。

Q しかしもし人が彼の渇望しているものを手に入れたらどうなるんでしょう。彼は幸福になるんじゃないでしょうか?

Aさあどうでしょうか。彼が新しいホームを手にいれた、もしくは新しい配偶者を見つけたとしますか。彼の渇望はその新しさ珍しさ、そして興奮のなかに一時中断されているにすぎないのです。ちょうど刺激的なテレピショーを見ている間はいっとき頭痛を忘れるようなもので、やがてすぐに、珍しさは薄らぎます。またもや古い渇望は彼を襲い、彼を駆りたて、その欲望充足に、たぶんまた別の新しい物を狂気のように追い求めさせます。結局、彼は哀れな悪循環のなかに捉えられ、幸福は到底不可能となります。どうか、私が人生からあらゆる悦楽や面白さを奪ってしまおうとしているなどと取らないで下さい。ところであなたはいま人生が愉しいですか?私はあなたに、恒久的な満足を保証する新しい道があると告げようと努めているのです。

微しい欲望という危険な問題は次のように要約される。

虚溝の自己によって生きるととで、われわれはその虚構の欲望が仕掛けた罠にとらえられている。

こうした渇望を満たしてやることは、頭に描いた馬の飢餓を満たしてやろうとするようなものである。だが、われわれがとの為りの自己を潰してしまえば、その喚きたてる食欲は消える。ちょうど目が覚めれば、悪夢の恐しさが消えるようなものである。

ヘンリー・デーヴィッド・ソローがこう確言しているー

なにか恐ろしいぞっとする夢の中で、いちばん深刻な恐怖場面の一瞬に達するとき、われわれは目が覚める。こうして夜が生んだいやらしい化物はことごとく追放される。

ところで人生は夢である。大恐怖の戦慄が一瞬われわれを刺識して夢を破らせたときも、まったく同じようなことが起こる。

4-⑦ あなたの宇宙的進歩のテスト

<あなたの宇宙的進歩のテスト>

あなたはあなたの思考ではない

進歩のテストは、あなたがどれだけの量の知的な知識を身につけたかではなく、どれだけ多くの心的幻想を棄て得たかである。

多くのことを知っていながら、智慧の足りない人々がいる。(デモクリトス)

リアリティから生きるのではなく、自分が誰であるかの幻想的自己像から生きることは痛ましい。

自分を金儲けの達人と想像している人は、商売が不振であるといった、彼の自己像とは矛盾する事態にぶつかるとたちまち動転してしまう。彼を質わさせているのは商売の不振ではなく、彼のみせかけの自己像と商売不振という事実との間にある葛藤なのである。彼は、単純で、臆断のない、自己統一されたビジネスマンになれれば、こうしたあらゆる外部的な状況に左右されることなくせでいられるのである。

もし、あなたが心底から、物事がいまとは違うようになることを望むなら、以下の論議で明らかにされるいくつかのアイディアがあなたにその道を教えてくれよう。

想像で描かれた自画像はきわめて巧みにできており午智にたけている。だから降りの自己は、この自画像を正視することを拒否する。こうして、不自然な誤った自己はその人を決して目覚めさせない。橋りの自己はいつまでも彼をその不安におののく奴隷にとどめて置きたがる。

想像で描いた自画像の奴隷である状態から返れるには、まずこれらの自画像がすべて自分の内部にあると悟らなければならない。それには正直な自己観察が必要であって、それが想像の金縛りを弱めてくれる。われわれがこの想像された自画像を意識するようになると、それらは落ちて消える。クサりの落ちる音はこころよいミュージックである。

われわれが、まやかしの価値観のすべてを携えた偽りの自己を防衛するのを磨める瞬間に、進歩はたしかなものとなる。エゴのかたまりである鳴りの自己を防衛する苦しさを贈えるならば、洞窟のなかに大変な財宝が隠されているとウソつきの友達から囁かれたある老兵のようなものだ。そんな財宝は存在しないのに、友達はもっぱら利己心から、この老兵をおびきよせて洞窟の前に立たせたのだ。

老兵は真大な報酬を約束されて家を出て、洞窟の前に立ち財宝の番をした。彼は夜も昼も、洞窟に近づく人々を誰かまわず攻撃した。彼の安否を訪ねてくる人々をすら追い払った。幻想を真実と居じこみ、彼は疑いぶかく、敵対的になった。

しかし数週間たつと、彼は緊張に疲れはて、なぜ約束の報酬を友達が持ってきてくれないんだろうかと思った。で、彼は洞窟に入って調べてみて、インチキが分った。彼は自分の置かれたまやかしの立場に目覚め、そこから解放された。その後の彼は、行きたいところへいき、自分のしたいことをして暮した。

エゴ自体の抱く、想像された価値をてるだけの英気をもった人間には、このような解放が起とる。彼はいたるところへ出歩く。何ものにも束縛されず、何ものをも渇望せず、あらゆるものをエンジョイする。

あなたはあなたの思考ではない。思考はあなたの心を流れている小川でしかない。あなたは、あなたの思考をコントロールしようと闘うことはない。あなたのしなければならないととは、あなたの心という舞台を横ぎるあらゆるものを静かに受けとる受動的な観察者となることである。あなたが客席にかけていると、俳優がつぎつぎと舞台に登場してくる。一人の俳優が凶悪なモンスターを演じたとしても、あなたはすこしもびくつかない。もう一人の俳優が、すべてが破壊へ近づいていると憂替な声で叫んでも、あなたはそれはすべて演技であってあなたを害することはできないのだと理解するだろう。

あなた自身をあなたの苦しさの滲んだ思考と同じだと思ってはならない。「おれは怖ろしくなった」とか「おれは憂際だ」とか言ってはならない。「ひとつの場面がおれの脳祖を横ぎった。だけどこれはおれの真の自己の一部ではない」と言うべきである。あなたがそう言うとき、それが宇宙的真理の宣言なのである。いまのあなたがそれをそうとは感じなくとも、それは宇宙的な真理なのだ。それをはっきりと見詰めなさい。そうすればおのずから純正の感情が流れだしてくる。

4-⑧ 巡礼者は進む

<巡礼者は進む>

-驚異の世界を垣間見て

ジョン・バンヤンの『天路歴程』は面白い読み物であると同時に霊的・心理的洞察につらぬかれた古典文学である。この物語は、一切を薬てて危険な旅立ちをし、美の都”へ着くクリスチャンという人の冒険の話である。彼は、性格にマッチした名をもついろいろの変な人々に出会う。たとえばス

1パースティション(迷信)、鶴善的なトーカティブ(饒舌家)、おそろしいジャイアント・ディスペ

ア(巨きな絶望)など。彼はまた歯難の丘"屈辱の谷""自惚れの国"などにぶつかる。

だが敢なとの巡礼者は着実に進む。すとしずつ、ひとつひとつ、障碍は彼の背後に落ち去っていく。幾多の恐怖、失敗にもかかわらず、彼は挫けずに旅をつづけ、ついに夫の都"に着く。

この寓意物語では、苦難と危機とはクリスチャン自身の内なる心理状態を暗示している。バンヤンは、あらゆる宇宙巡礼者がいかに敢に旅立ちをし、内なるネガティブなものを克服しなければならないか、そして内なる洞察へと到らなければならないかを示そうとしているのだ。

スーパーマインドの採求を志すわれわれの理解を助けるため、ここにクリスチャンの経験した二つの冒険を見てみよう。

クリスチャンとその道伴れのホープフル(有望)とは、ある川べりにんで、打ちひしがれている。この道は荒れてごつごつしていた。二人はもっとらくな径はないかと思った。見回わすと、ある牧場と平行して走っている小径が眼にとまった。その径が気にいって、クリスチャンはホープフルを説き伏せて、この径をいっしょにいこうと言った。ホープフルはこんな径をいったんでは迷ってしまうのではないかと顔を曇らせたが、クリスチャンは自たっぷりに、すべてうまく行くと予言した。

小径は初めこそ歩きやすかったが、そのうちにだんだん唆くなってきた。それもその筈、間違った経だったのだ。嵐のなかで二人は径に迷い、転びつまろびつ術徨ううちに、ようやく避難小屋をみつけ、そこで眠った。翌朝、さらに悲しいことが起こった。二人はジャイアント・ディスペアに捕まり、ダウティング城(疑いの城)へ幽閉された。

ここで二人はあれこれとじっくり思考を巡らす。クリスチャンは真実の径をてて、楽な径と見えた小径を採った自分の愚かさを認める。そしていま、彼は彼自身の愚行から逃れて物事を正しく遂行しようと決心する。彼の衣服のなかに、プロミス(約束)という名の鍵を見つけ、彼は牢獄のとびらを開ける。こうして再び彼とホープフルは、まっすぐに美の都"へ面を向けて進むことになる。

とするとこれは、あらゆる霊的な巡礼の旅が成功するという示唆に富む物語である。われわれの間違いによって、われわれは心理的な牢獄へ投げまれる。だが内なる鍵によって、われわれはこの牢獄を脱出し、巡礼の旅を続けるのである。

もうひとつの冒険は、ディレクタブル・マウンテンズ(愉しい山)で起こる。クリスチャンとホープフルはナレッジ(知識)、エクスペリエンス(経験)、ウォッチフル(見張っている)、シンシア(真摯な)という名の四人の羊飼いに出会う。巡礼者二人は、どうしてこんなに遠くまで来れたのですか、他の巡礼者はみな失敗しているのに、と訊かれる。嬉しげに事のあらましを伝えると、二人はどうぞ泊って憩んでいって下さいといわれる。翌朝二人はクリアー(澄んでいる)という名の丘の上へ案内された。特殊な望遠鏡を借りて、二人は遠くに拡がる驚異の世界をおぼろげながら眺めることができた。元気づき、力が増して、クリスチャンとホープフルは親切な羊飼いたちに別れをつげ、更に旅をつづけていった。

示唆されているとおり、どんな辛抱づよい巡礼者も休養を受けいれ、驚異の世界を垣間見て、愉快に旅をつづけていくのである。

4-⑨ 高貴なる宇宙的アイディアの源泉

<高貴なる宇宙的アイディアの源泉>

一正しい方向はおのずと開けてくる

ここに、宇宙的ガイダンスを求めているある人と私との会話を掲げる。この真実を衝くことばに耳を籍してほしいー

Q なぜわたしは次から次へとぶざまな窮地に陥るのでしょうか?どうぞ、あけすけにおっしゃって下さい。

A あなたのトラブルが際限なく続くのは、あなたが冷静な洞察をもってトラブルの痛みと対決しないからです。そのかわり、あなたはトラブルを避け、それから逃げようとしている。

Q どんなふうにですか?

Aこんど野地に陥ったら、あなた自身を見守っていてごらんなさい。あなたの内部での反応を考えてみなさい。あなたは他人を責め、恨みがましくなり、憂酵になってしまう。そういうのは間違った反応で、問題をただ永く引きずるだけです。

Qでは正しい反応とはどういうものでしょうか?

A単に、こうした間違った反応を意識することです。止めようとしてはいけません。ただ見守ることです。

Qでも、ただ自分の反応を意識しているというだけで、どうして変化が起こるのでしょうか?

A その点はあなたが自分で発見しなければなりません。答えをだしてあげてもよいのですが、あなたが自分で経験するほうがはるかに有利です。

私は小さな石をひとつ大事にしている。一見ふつうの石と変ったところはないが、私にとっては特別なもので、私の裏庭にたくさん置いてあるふつうの石以上に、特別に大事にしている。それは私が陸軍にいたとき太平洋のグアム島で拾って持ち帰ったものだからである。

あなたも、あるアイディアについては、それがどこから来たものかを知れば、他のアイディアとは異なった特別の関心をもつはずである。どこから来たか、それはあなたの内部にある特別の場所から、すなわちあなたのスーパーマインドから来たアイディアだということだ。騒音を発する日常的な心、ひとつの混乱を別の混乱と入れ替えることだけしかできない普通の心からでてきたものとは天地の差がある、高いところに起源をもつアイディアだからである。それらは極めて内奥の、あなたの自己から来る。それらは雄大であり高貴であり、正直で、恩沢に満ちている。それらはあなたを内奥へ向けて大きく変えるひとつの意味をたずさえている。

ではここで、実際的な価値をもつある秘教的なアイディアを紹介しようし人々は、自分では骨身を削らずに、物事を自分のためにうまく運ばせようとして彼らの人生を浪費している。物事を自分のためにうまく運ばせるしたしかにそうした道はある。ただし、それは正しい方向でその人自身が努力したすえに、おのずと開けてくるだけである。それは凧が場がるのに似ている。吹く風にむけて凧を支えるというあなたの処置が正しければ、凧は自然に、それみずからのカで物ぶ。さて、人生そのものがわれわれの支えであり、吹く風なのだ。われわれは正しく風に乗って揚がらなければならない。正しくなければ場がらずに落ちる。ということは、われわれは、僕によって生きるというのではなく、スーパーマインドの示すところによって生きるという真の生き方をみつける必要があるということだ。

東洋の叡智の本『道徳経』(老子)がこの点をコメントしている。人が道" に従って生きれば、彼の満足は無限であると。

小さな子どもが風を揚げたいと思うが、風についてはなにも知らない。凧を地面に立て、一折断命に口で風へ息を吹きつけている。フラストレーションの場句、子どもはようやく、年上の子どもが風について教えてくれることへ耳を傾けるようになった。こうして間違った努力をやめて正しい方法に従ったところ、なんの苦労もなく、彼の凧は揚がっていった。

4-⑩ 宇宙的パワーは常にあなたと共に

<宇宙的パワーは常にあなたと共に>

われわれに近い誰かのした愚かな行為が原因となっている悲しみについてはどうか?

人がバカな振舞いをしたとき、なぜそんなことをしたのかと問い質しても無駄である。本人もなぜしたか分らないのだ。分れば、そんなバカはしなかったはずである。彼は眠って”いるのである。

強迫的な動因と破壊的な強迫観念の奴隷になっていることが見えないのである。無自覚というベッドで居眠りをしていながら、愚行だけは、新しいヴァリエーションはあるが、やたらに機械的に繰りかえすのだ。これはどんなにしても治らない。彼自身が呪縛のクサリを断つ以外にはない。

それゆえわれわれはここではっきりと、その精神的な暗さが彼にどうしてもよい行動をさせないようにしている人から、よい行動を期待することをやめるべきだ。どんな人からも、その人のできる以上のよい振舞いを期待してはいけない。多少の努力をすれば、もっと行儀のよい人になるだろうか、などと思ってはいけない。その人は彼の現在の精神構造の性質を行動化するよう強制されているのだ。もし彼が彼のスーパーマインドの助けをかりて、彼の洞察を高めるように努めるならば、彼の行動は変ってこよう。しかし現在のところ、彼は彼が彼であるとおりに行動するよりほかはない。五歳児の行動が五歳児であることを示すように。

想いだして欲しい。スーパーマインドの教えるところは他でもない、われわれは、絶対的な明瞭さで、われわれの現在の自己と、われわれがこれまでありつづけた自分との差を知りたいのだというととである。

外部世界での間違いをあなたの内的世界での事故とさせてはならない。外部世界と内的世界のあいだに霊的な壁をしつらえておくのだ。その意味はこういうことである- あなたが自動車を運転していて、もうすとしで衝突事故になるところだったエラーをおかしたとする。そのとき、あなたは怒り、動転し、あるいは神経を昂ぶらせるといった情動的パニックに陥ってはいけない。なぜ、エラーが起こったかを、澄んだ心で分析するのだ。たぶんあなたの交通判断力が、白日夢によってもうろうとされていたからであろう。外部的なエラーをあなたの内部へとりいれてあなたをネガティブにする、この行き方を拒否すれば、あなたの自己コントロールは維持され、あなたはもっとよいドライバーになれる。

次に掲げるのは私の講演のあとでおこなった短い質疑応答だが、短いとはいえ、そとには宇宙的理解の宝石が包まれている!

Q あなたはたくさんの人々に教えてこられて、彼らが新しい生き方を見つけるのに得となっているものでいちばん大きいのはなんであったとお考えですか?

A 自分で分っているとその人が想像しているそのものを彼は知らない、これを分らせるというのが大きな仕事でした。人がその自己欺瞞と虚栄心とを観察するということがいちばんの根本です。虚栄心が与える物の快楽を、たえず一貫して薬てるように努め、真実の人間であることの本当の喜びへもっていく、こうすることで新しい生き方が発見できるのです。

Qなぜわたしは、自己発見の努力がこれほど一貫しないのでしょうか?

Aひとつには、トータルな治癒をではなく、たんに目前の苦しみからの解放をもとめるからでしょう。痛みがあれば、あなたは医者へ駆けつける。しかし痛みが去ると、もう一度痛みが襲ってくるということはうっかりして忘れてしまう。首尾一貫という態度は、苦しさにうんざりしたときに来るのです。あなた自身が痛みそのものであり同時に医師なのだと、ついに悟ったとき、あなたは家にとどまって、自分を自分で治すことができます。

あなたはこのととを理解し、歪んだところを真っ直ぐにしたいと望む。それはできるのだ。一波の背後に広大な海の力が潜んでいる。あなたが勝利を収めたいという熱意の背後には、大宇宙に遍満するコズミックな力全体が控えてバックアップしているのである。

5-① 本章の要点

<本章の要点>

1あなたはまず自己を変えようという深い願望からスタートしなければならない

2あらゆる経験があなたに自己認識と宇宙的目覚めを教えるのに委せよ

3自己変革をあなたの人生の大冒険とせよ

4目覚めというわれわれの霊的なレベルを高めると、われわれは新しい豊かさを引きつける

5真の安定は、条件づけられた思考を拒否することから来る

6スーパーマインドによって生きるとき、倦怠はあり得ない

7宇宙的意識のなかでは万事すべて真に正しい

8あなたがスーパーマインドと共に新しくなったとき、一切は違って見えてくる

9われわれはわれわれ自身についての想像上の、条件づけられた観念を棄てなければならない

10宇宙的真理を個人的欲望に優先させよ

私は初めて秘教的なアイディアに出会う多くの人々の心中を読むことができる。彼らはいう、「だけど、自己覚醒とか自己観察とかいった述語の意味がわたしにはよく分りません。あなたのおっしゃる、エピクテトスとかスーフィ数とかいう、教師や思想体系のことはほとんど耳にしたとともありません。おっしゃることはみんな、漠然としてしか分らず、とても難しいようです」スーパーマインドの径へ出発するのに秘教的原理の予備知識は要らない。ただあなた自身を革新したいという誠実な熱意だけでスタートすればいい。難しいと思われる新しいアイディアにぶつかったからといって困惑してはならない。アイディア同士の一見矛盾した言い方に類わされてはならない。

特に、あなたに分るものだけがすべてなのだと考えてはならない。はるかに多くのものがあるのである。

探求の出発点においては、智慧は閃光であって光機ではない。

プラトンが語った洞窟の囚人という有名な寓話をもう一度想いだしてみよう。一人の囚人は敢にも洞窟を飛びだして日光の下へでるが、もちろん彼は眼にしたこともない強烈な太陽の光に、眼がくらんでしまう。これは、無意識的な虜囚の状態を脱しようと決意した誰でもが感じる混乱と不安に似たものである。自由の光輝はまったく新しく、束縛状態とはたいへんに違うから、習慣的な心では認知することができない。脱走した囚人は、初めは、この変化に恐れおののき、惑乱する。だが次第に、彼の精神的な眼が輝きに慣れてくる。彼はこれがリアリティなのだと分る。以前の彼は暗がりが正常な状態とばかり思っていたが、いまようやく、そうでないと悟ったのである。

新しく目覚めた覚醒状態がどういったものかを想像することはよしなさい。想像をこととする心は、古い心的フィルムしか映写できず、新しいフィルムを映しだすことができない。われわれにできるのは非覚醒状態の結果を知って、そこから先へ進むことである。覚醒のない状態、あるいは精神的な暗さの証拠はわれわれの身辺のいたるところにあり、圧倒するばかりに多いので、われわれはついそれは気づかないでいる。しかし見つけようと思えばすぐに見つかる。早い話が、いまこの瞬間に、あなたを悩ませているものは何か?それが精神的暗さの証拠だ。それが何であれ、あなたはそこから、宇宙的な知性とスーパーマインドによって、その心の闇夜から、すぐに目覚めることができる。

5-② 新しいあなたになるには

<新しいあなたになるには>

-理屈をつけたり、分析してはならない

バイオリストがピアニストとなるためには奏法の癖を変えなければならない。もしロンドンの人がニューヨークに住みたいと思ったら、彼の生活習慣を変えなければならない。これを精神の問題に置き換えれば、成功への鍵は次のようなこととなろう。霊的な願望が充足されるためには、内的なもののあり方を変えなければならない。霊的な願望は、変化について考えたり、喋ったり、読んだりすることでは達成できない。社会改良や教会活動では達成できない。

自己変化の意味はただひとつだしみずから変化するということだ。

知的な理屈づけや分析をつうじてでは、恩恵のある変化は起こり得ない。この変化が起こり得ないのは、あらゆる思考は条件づけられているからである。人間的な思考は、ただ歪められた自己関心からしか考えることができない。繰り返せと教えてまれてきたことをオウム返しにできるだけである。

エマソンは、人々は、どこへいっても、その理解するところからではなく、ただ彼らの記憶からしか喋っていない、と場破しているが、これはひとつの大いなる宇宙的真理を衝いている。

外部世界ではたとえば、政治家は、「われわれは国際平和を維持するためにはわが国の外交政策を変えなければならぬ」と力をこめて宣言する、ところがまた別の政治家は、わが国の現在の外交政策は堅持すべきだと主張する。

どちらも愚かしい。なぜなら、どちらにしても、こういう外部的な行為では、霊的に目覚めていない人間の本質である、戦闘的な傾向を変えはしないからである。人々は常に、彼ら自身をもふくめて、人間というものの隠された邪悪性という一面を考慮しようとしない。われわれ各個人がオウム返しのように平和平和と唱える機械のような存在から真に霊的な人格へとわれわれ自身を変えないかぎり、国際的規模においてなにもよいことが起こるはずがない。

もしあなたが、「どうすればわたしは変ることができるでしょうか?」と訊くならば、答えはどんな真の教説のなかにも見いだされる。用語とその使い方は異なっている、しかし、次に掲げるいろいろの宗教と哲学者の人間観、宇宙観を真剣に精察するならば、意味するところはまったく同じである

ヒンズー教汝の真の自己を発見せよ。

道教  事物と共に流れよ。

ジョージ・グルジェフ  目覚めよ。

新約聖書  新たに生まるべし。

禅  心をして静かならしめよ。

ウィリアム・ジェームズ  純粋に実際的であれ。

クリシュナムルティ  あなた自身に油断なく気づいていなさい。

仏教  我欲を棄てよ。

キルケゴール  真の個人主義者であれ。

神秘思想  事物を真にそれらのあるがままに見よ。

5-③ あなたへの二つの問いかけ

<あなたへの二つの問いかけ>

かえでの木がその樹液を創るために土壌と空気とから必要なものを取るのと同じく、われわれは日日の経験を活かして心の新しさを創りだすことができる。何事であれ、あなたに起こる一切の事物は、あらゆるものを平静に受けとることを学ばさせてくれる完全なる教師である。

天国をあらゆるものに優先させることによって、他の一切はやってくる。これは確かなことである。これは薄っぺらな宗教的感傷ではない。天国は椅子などよりは実際的である。われわれは天国を、あらゆるものの上に、特にわれわれ自分のみせかけの叡智よりも高く、価値づけることで、正しく天国を最優先させることになる。この、より高い価値づけは、霊的な生を人間的事象とはまったく次元を異にするあるものと認めるにつれて、おもむろにやってくる。

真摯な自己作業があなたに、世俗的な成功のもたらす刺激的な興奮が消え失せてもなお永続するなにものかを、価値あるものと認めさせてくれる。あなたはそのなにものかが、あなたの人生に入りとんでくるのを感じとることができる!ちょうど太陽がいっとき雲の裏にあってさえ、あなたが太陽のあたたかさを感じとることができるように。

との新しいなにものかを一瞥すると、あなたは更に高く基じのぼる力が薄いてくる。必要な知識はより速く来るようになる。われわれはネガティブなものに、以前ほどは臆せずに立ち向かうことができる。自己敗北的な態度はその力を失う。われわれが以前はあらゆることを辛い辛いとこぼしながら行なっていた同じ場所で、物事をすべてわれわれ自身のための気軽なものにしてしまう。人生は、そうあるがためにあなたに与えられているとおりの、おおいなる冒険となる。

繰りかえし繰りかえし、次の二つの問いへ戻ってほしい、これはあなたが自分自身に問える最も価値ある問いである!!

一、わたしの実際の状態はどうであろうか?

二、どうすればそれを変えられるか?

あなたの実際状態については、習慣的な臆断によるのではなく、あなたが実際に現実にあるとおりのあなた自身を見るように努めることである。誠実な自己観察をつうじて、たぶんあなたは、自分が自分自身のことをこうだと以前認めていたよりは自がなくなっているのに気づくだろう。このように自分について正直であること!そこからおのずと光は射してくる。

観察されたあなたの状態を変えるためには、スーパーマインドの諸原理にそって自己作業すればよい。

5-④ あなたの運命は変えることができる

<あなたの運命は変えることができる>

-安定欲求は自己発見の大敵

あなたの運命観を、次の問答に見られる思想へ同調させなさいー

Qわたしはときどき、運命についておそろしいまでの徒労、空しさを感じます。この気持がこわいのです。

Aいやまったく素晴しいです。徒労感を意識的にとらえることが絶対に必要なのです。ほとんどの人がそれをしない、だから暗闇にとどまっている。そのいまの感情をそのまま、おそれるととなく、より強く意識するようになさい。なんという素晴しいチャンスでしょう!

Q一般に宿命とか運命とかといわれているものについてひとつコメントをおねがいします。

A確実に、運命は変わり得るものです。あなたはほんとうにそれが変ってほいいか?これが唯一の問いです。そう急いで、変ってほしくて堪らないと私にいわないで下さい。あなたが悟らないものについては、ふつう大きな抵抗があるものなのです。あなたはほんとうに、あなたの古い行き方にとどまるよりも新しい運命が欲しいのですか?あなたはどっちだって選べます。あなた自身のために、いい方を選びなさい。

われわれは、そう決めたものがそのとおり得られる、それ以上でもないしそれ以下でもない。あなたは他の人々や出来事を、あなたの心理的レベルのものを、引きよせる。あなた自身のレベル以上に高いものはなにものをも引きよせることができない。あなたにはあなたのレベル以上には価値認識ができないからだ。

ある女性が、間違った男、こんなはずではなかった男どもと、しょっちゅう深い関係に陥って悩んでしまう。彼女自身が心理的に間違った女性であるかぎり、どうしても間違った男との関係で人生を空費してしまうほかはない。

あるビジネスマンは次から次へと財政上のヘマをやらかしてしまう。彼はその原因を彼自身の内部に発見しないかぎり、ヘマをおかしつづけざるを得ない。

もしわれわれが優れた質が欲しいなら、何が優れたクォリティかを知ろうと要求することなく、まず劣ったクォリティを乗てなければならない。これがすでに知る人には馴染みのふかい、空無に関するスーパーマインド原理である。食料棚を本物の果実でいっぱいにしようと思ったら、まず食料棚のなかの順製の果物を一掃しなければならない。

問題は、人間が安定を求めるということだ。人は、どうしたって間違うおそれのない、はっきりと標識のある道でないと行かないと頑張る。だが現実はそう易しくはない。何故ならいくつかの間違いをしでかし、屈辱を経験しないうちは、本来の家へもどれる本当の道を見つけだすことができないのが現実だからである。

スイスの精神科医であり秘教原理の研究者であるカール・ユングは、安定欲求は自己発見の大敵であるという。安定性は存在する。だが安定性は、変化していない心がこうだと思うようなものでは決してない。真の安定性とは、なんの安定もない状態である。人間の自我が徹底的に粉砕されてしまい、安定性と安全性への渇望がもはや無い状態である。道教の導師、荘子が説いているし

もし人が彼自身のなかから彼自身を追いだして空っぽにすることができるならば・・・・・・・いったい

誰が彼を傷つけ得ようか。

5-⑤ 宇宙的アイディアの日常的な意味

<宇宙的アイディアの日常的な意味>

本書のあちこちで触れる教師やシステムはいずれもそれぞれに異なるアプローチを堅持しているが、どんな人も新しい生き方を学ぶ能力があるという一点では合意している。まことに、重要なポイントは学ぶプロセスである、たとえばフランス語会話を学ぶのと同じである。だが、新しい生き方を学ぶプロセスは尋常の修行ではないから、そこにはおのずから吸収すべき特別の教えがある。

まず、スーパーマインドへの径で遭遇する、もっとも破壊的な意外な敵のひとつについて調べてみよう。それは、秘教的なアイディアは敢えてわれわれから幸福を奪おうとしているというたいへんな膠見である。私自身、私の講演に集る人々のなかで、秘教的な事実をひとつ披露すると、その顔に満疑の色を走らせる人々に気づいたことが何度あるか知れない。

「あなたはわたしから何かを奪い去ろうとしているんですか?」と叫びだしそうな不安な眼色である。ところが、私の意図はまさにそうなのだ。私は、人生を破綻に追いやる誤ったアイディアを取り除こうとしているのである。

ときとするとあなたは、たしかにあるアイディアは真理だ、だがあなた自身に対してそれを有効に働かせるすべはない、と思うかもしれない。人の泳ぐのを見ながら、自分はどうしても泳ぐことはできないと諦めるようなものだ。だがこれは励のきざしではあっても落の因ではない。あなたの観察と実修とが続くならば、理論は行為へと移ってくる。あなたはエマソンとともに感知するようになるー問題は、われわれがわれわれ自身の新しい世界を創るのではなくて、既成の体制へはまりこむことではないのかと。

この、より大きななにものかをちらと覗き見るという機会が、あなたの世界をあなた自身の満足がいくまで造りなおす作業へと通じていく。

宇宙の諸原理についてのあなたの理解程度からすると、それらは経済や暮し向き、つきあう人々、ショッピング、家庭生活等々といった日常的な出来事とはあまりに無縁のものに見えるかもしれない。だが私は保証する、それらはあらゆるかたちでつながっているのだ。その結びつきは、いまは漠然としている。だが次第に明瞭となってきて、日常生活の助けとなる。次のやりとりは、私がある人が、その宇宙的アプローチを彼なりに組み立てるのを手助けした例であるし

Qわたくしは理解に努めていますが、スーパーマインドについてのアイディアの多くはわたしを避けて通る。それらが深い意味をもつことは感じます。だけどどうしても、どう扱ったらいいか分りません。

Aあなたが巨匠の描いた大きな油絵の前に立っていると想像してごらんなさい。その絵は、わずかな隅っこ以外はベールでわれています。この絵を理解するにはベールを取り払わなければなりません。いいですか、スーパーマインドのアイディアはどれも、あなたを助けてこの宇宙的絵画を隠しているベールを剥がしてくれます。一度に全部と思わず、一時にひとつの新しいアイディアだけを学ぶようになさい。そのうちに徐々に、人生のカンバスがいったい何を描とうとしているのかが分るようになります。

Qだけど、真の教師を発見してその人のことばに耳を傾けるということで充分じゃないんですか?

A あなたがあなた自身の内部に、すくなくともひと粒の洞察の種子をもっていないかぎり、真の教師に出会っても、真の教師と知ることができません。真珠がどのようなものかを全然知らずにどうして真珠を見て真珠と分りますか?あなた自身をある地点まで開発していって、そのときようやく、あなたの進歩を更にスピードアップしてくれる真の教師を確認できるのです。

Q スーパーマインドのアイディアについて他の人々と議論するというのはどうでしょう?

A私の長年の体験から引きだした私自身のルールがあります。スーパーマインドについて議論するには、誠実な関心をみせた人たちとだけすることです。あなたのアイディアを立証しようという気持ちではなく、たがいに探検しようという精神で議論することです。決して言い争ってはなりません。あなたを啓発してくれるあなた自身のスーパーマインドひとつに頼りなさい。

ポイントからはみでないようにすること。他の人たちとの議論で費された一分間に対して、自分自身との対話に一時間費してごらんなさい。

5-⑥ 宇宙的観点から見れば、全てはうまくいっている

<宇宙的観点から見れば、全てはうまくいっている>

-自分自身をことごとく把握しなさい

地上の人間はだれも、次の三つの観点のどれかひとつに拠って生きている!

一、万事正しい。

二、一切が間違っている。

三、万事すべて真によし。

圧倒的に大多数の人々は第一の観方を日にする。だが心からそう思ってはいない。他にどうしてよいか分らないから、仕方なしに万事がうまくいっているフリをする。どこへでかける当てもなしにドレスアップしている。

小数の人々は次なる、"一切が間違っている”の段階へと進む。もはや自分自分をいていることができないから、彼らの運命を賭けておそろしい未知のものへ挑戦する、そこではあらゆるものが失われているかに見える。神秘思想のある教えはこの状況を、破れた船へもうかが注ぎんできているのに・••・・と表現している。たしかに、これらの人々は、もう絶望と分っているのに、とにかく岸へ向かって波を冒して進もうとするのである。

ときたまにではあるが、敢な人が第三の受階へと雄々しく夢みたつ。終りまで耐え忍べとの新約聖書のアドバイスを心に秘めつつ、彼自身に正直に対面した彼は、いま彼自身をことごとく把握している。もはや自己分裂はなく、一波がその下の大洋の一部であるごとく、彼は大宇宙と一つである。

彼の勝利は、「万事すべて真によし」と言い表わされる。

こういう問いが起こってこよう、「しかし、同じところをぐるぐる回っているだけかもしれないのにわたしがちゃんと前へ動いている、とどうして知ることができるのか?」と。あなたはそれを、あなたが前へ進んでいくなにかこれまでとは違ったものを感知することで、知るであろう。それはあたかも、遠くにおぼろげな姿で立っている一本の間が、それへ向かって歩いていくにつれ、あなたの眼にますますはっきりと見えてくるようなものだ。

幾百という徴候がみられる。そのひとつは、あなたの努力が一貫性を増してくることだ。あなたは、より長時間をこの径を歩くのに費す。懐疑と抑欝のムードは徐々に減っていく。小量の苦悶を解するのにその洞察を使ったあなたは、より大きな成就がすぐ前方に待っていることを知る。のどの贈いた動物が何マイルも先から見えない水を嗅ぎつけるように、あなたは眼に見えない壮大華麗ななにものかを感知するであろう。

あなたの霊的な理解はおのずと広がっていく。あなたは、低い次元の人間性があなたの日々の営みへ入りとみ、あなたを引きずり降ろそうと遊くのを知る。だがあなたの理解はその悪しき魂題を見抜き、詐術を払いのけ、否という。

直観的な知識がどんなふうにして来るのかあなたは気づいたことがあるだろうか?あなたはある本のあるアイディアを六回読んだ、だがその次の七回目を読んだところで、あなたは理解する、そういうものなのだ。

あなたが新しい人間となったとき、あらゆるものが違ってくる。前は強く見えたものがいまは弱くみえる。巧みと思われたものがいまは愚劣だと分る。空虚は充実となり、避けていたものは大切にされ、健康なものは病的となり、知性的なものはバカバカしいものとなる。闇は光に、スリリングなものは退屈なものに、友好的なものは敵対的なものに、荒あらしいものは優しくなる。

物事が好調となっても自己作業をやめてはならない。途中でやめ、結局、遊び仲間かなにかに傷つけられて戻ってきた例を、私はたくさん見ている。万事がうまくいってるときに自己作業をやめると、人生が難しくなったときに必要な叡智をくことになる。あなたのスーパーマインドから生きることを学びなさい。そうすれば、あなたはどとにいようと春風路蕩としていられる。

5-⑦ あなたの内なる世界を変えよ

(あなたの内なる世界を変えよ>

1結果ではなく、原因が変更されねばならない

人々は、「だが俺はどんなにしてこのゴタついたところから脱けだすんだ?」と訊く。

神秘思想は答える、「もし君が意識性という高いレベルにいるなら、もともと君はそんな混乱のなかにはいないのだ」と。

真の教師はめったに外界の事柄をどう扱うかについてはアドバイスしない。洞察があまりに深いからそういうことはしないのだ。結果ではなく原因が変更されなければならないと知っているから、真の教師は求道者にとのことを伝えようとする。混乱した人に職業を変えたまえ、変えてはならぬ、ひとつの人間関係を断ちなさい、残しなさいと助言するのは無意味なのだ。霊的睡眠のあいだに為されたことは、たとえやり直しても、また次の新規の壁に衝突してしまうだけである。人間というものが、霊的な眠りから目を覚まさずに、何年間も何年間も、二度三度、繰りかえし壁にぶつかるのは、まことにいたましいことである。

あなたの意識ないしは覚醒の内的レベルがあなたの外的な状態を決めるのだ。あなたの外的世界を変えるには、あなたの内的世界を変えなければならない。

だからといって、あらゆる変化した状態が高いレベルの生き方から来るというわけではない。外的事象の変化はまた、人間の欲望と自暴自葉が付け火となって、偶発的にも起こる。淋しい男と怖わがっている女とが、やけになってパーティーへ行き、そこで得然に出会う。彼らはスリルを経験するかもしれない。だが、たとえ結婚しても彼らの得るのはスリルだけである。孤独感と恐れとは依然としてある。ただ二人がたがいに紛らわしあうから隠されているだけである。人間的レベルでは二人の人が出会えば派手な炸裂音を発するかもしれない。だがそれは空砲なのである。秘教的レベルではまず内的変化が来、ついで外部が変るのだ。

われわれがたんに住所や職業や配偶者を変えるだけでは、なにものもプラスされない。荒涼とした孤島に漂着した人が、もうすこし快適になろうと思って島の反対側へキャンプを移した。風景はなるほど変ったかもしれないが、漂着してひとりぽっちだという事実は変りはしない。われわれはだれも、この程度のことは感得する。しかし自己変革のなかにある真の解放ということについてはあまり知ってはいない。

純粋な充足はひとつの心理的な状態であって、外的な活動からの影響ではない。もし内的な快適さがあれば、外的な活動に従事してそれをエンジョイできる。自己充足を失いては、あなたの世俗的な満足追求活動がいかにスリリングであっても、必ずや頭痛が伴ってくる。

私はこのあたりで、あらゆるものを変えることのできる外的状況について、ひとつ特別の秘訣を挿入しておきたい。

こんど、あなたがある状況を支配できないで気が動転するようなことがあったら、自分が本当に、正直に、実際上、それを支配する必要があるのかどうかを問うてみるとよい。次の会話のなかからいまの重要なポイントを汲みとってもらいたいー

Qなぜわたしはこうも自己変革の努力に一貫性がないのでしょうか?ある時には秘教的アイディアにぞくぞくした関心をもちますが、次の瞬間には、まったく無関心になってしまうのです。

この気まぐれはなんでしょう?

A あなたには自分を変える作業をしたいという欲求がひとつある、だがそれとは無関係の欲求が九十九もあるのです。その自己覚醒という欲求ひとつにあなた自身をしっかりと結びつけ、この欲求を奮いたたせることは何でもやりなさい。そのうちに、活気にみちた欲求が二つとなり、怠惰な欲求が九十八となります。ついでまた誠実な欲求が三つ、間違った欲求が九十七となり、だんだん真剣な自己作業の欲求がふえていきます。

Qわたしたちは、自分は強いのだ自層に満ちているのだという積極的なイメージを築く方法について、ずいぶん本を読んでいます。強いという心像を維持するーとのアイディアをどう思われますか?

A それはおよそあなたがあなた自身にしてやれる最悪の処置です。それはイメージにすぎないので、それ以上のなにものでもない。なにも達成されません。ただもっと弱くなるだけです。スーパーマインドの目指すものはあなた自身についての想像上のアイディアを破壊することなのです、築くのではなく。この空無のなかから、リアルなものが成長してくる。このリアリティ

5-⑧ 自己変革はいかにして始まるか

<自己変革はいかにして始まるか>

-人間は真に欲する道を選んではいない

有利な変化への径はある。「幸福になるためにわたしは何を得たらよいか?」と問うてはならない。

「不幸であることをやめるためには何を楽てたらよいだろうか?」と問わなければならないのだ。

破壊的なもの、破滅へつうじるものは何構わず楽ててよい。たとえば、内的にはまったく同じでいるくせに、明日は今日とは違うだろうといった誤った考えは薬てるがよい。

楽しみであり、なくてはならぬものであるかのごとく装っている無用無益な活動はやめて差し支えない。ヘンリー・デーヴィッド・ソローは古典的な名言を洩らしている、ほとんどの人は静かな絶望の人生を送っている、と。だが、誰にも何もしてやらない公共活動みたいなものに関わって、騒々しい絶望の人生を送っている人も多いのだ。

他の人々がその利己的な目的のためにあなたを利用しようとする、それを許すのもやめたがいい。

彼らがそうするのは、あなたがオーケーをだすからだ。意識的にはあなたはそんなことを許していないのかもしれない。しかし理解できないため、あなたはついついあなた自身が傷つけられるような手口に屈服してしまう。ほんとうは弱い人から餌食にされ、最後には捨てられてしまう惨めさから逃れる方法はひとつしかない。それには、人間の本性を実際のとおりに見ることだ。表面そう見えるからといってそう思ってはいけない。

ある農夫が、雨が降って、野菜類が成長し、変化し、新鮮なものになって欲しいと望んでいるとしよう。だが彼は、芽のでかかっている小さな苗の群のすきますきまに、大小さまざまなバケツを置いていたのだった。これでは慈雨がその自然の落ちつき先である大地へ達しないことは明らかだ。受容性のないところには変化はないのである。

第3章で見たように、自己変革への魔法の鍵は、より高いアイディアに対する心の受容性である。

人間は彼らの選ぶ行き方で生きる。だが彼らが欲する行き方では生きていない。両者の間には大変な差がある。われわれは、われわれの獲得された条、習慣、趣味の観点から選ぶ。われわれがこの友人あの意見を選ぶのは、それらがわれわれの、あらかじめ考えられた、だがふつう間違っている、最善の行き方と調子が合うからである。それがわれわれを何度歎きへまっすぐに導こうとも、われわれはそれらを悪知恵のある裏切り者とは見ないのである。それで、われわれは依然として、心的な眠りのなかで躓くのである。

ところが、人は、彼が選ぶものとはまったく違ったなにものかを、根本的には欲している。彼は調和、新鮮さ、平和を欲している。それでいて彼は眠っているから、ついまっすぐ先へ進んでしまい、彼の選んだ道がとれらをもたらしてくれると思い込む。ところが絶対にもたらしてくれるはずはないのだ。彼の飢えは残る。彼の飢えを、彼の選んだ、いわば人為的な食物で満足させようといくら試みても徒労に終る。

さて、こうした状況がどう扱われたか、次の問答をみてほしいー

Q わたし自身を変える方法を示して下さい。

A自己変革は、あなたが正直に、真実を欲望よりも優先させた瞬間に始まります。あなたは社会的な名声を望みますか?名声など空虚なものだという真実を直視しなさい。あなたは、その心のなかに、他の誰かがあなたを虐めている、もしくは不当に扱っている心的フィルムを映写したいですか?心的フィルムが破壊的なものだという事実を悟りなさい。あなたは宗教や哲学の教理から安定性を得たいと望みますか?人間のつくった教義など、どれだってあなたを救うことができないことを悟りなさい。

Q そうすればわたしは変った人間になるとおっしゃるんですか?

A個人的な欲望よりも宇宙真理を大切にすることです。そうすればあなたのためになるある大きな力が動きだします。あなたはまず飛行機へ自分を乗せなければならない、そうして初めて飛行機は、あなたを自然に上空へとつれていってくれるのです。

6-① 本章の要約

敗北と失敗を終わらせるには

<本章の要約>

  1. 宇宙的現実には、失敗は存在しない
  2. 真の成功とはスーパーマインドから生きることである
  3. 霊的な目覚めをあなたの経験へ導きいれよ
  4. 霊的な目覚めで、いわゆる敗北の痛みは褪せていく
  5. 世俗的な定義づけを自己と同一視しなければ、あなたのために驚くべき恩恵がでてくる
  6. 他の人々がすることを気にするな、宇宙真理に照してみてあなたにとって正しいことを行なえ
  7. 霊的な成功を求めよ、それのみが真の満足すべき価値をもつ
  8. エゴの干渉なく、あなたの内的な生をあるがままに流れさせよ
  9. あらゆる状況で真の平静さを獲ちとるまで、スーパーマインドに固執せよ

この章でわれわれは敗北と失敗のミステリーを解こう。われわれに与えられるヒントは秘教的な教えと神愁思想の教説から得られたものである。天空が大地とは違うようにこの解決がふつうの解決とは違うのがあなたには分ってこよう。

英雄とドラゴンの話はいくつも古典的な伝説があるが、そのひとつにジークフリートの物語がある。多くの伝説がそうであるように、この物語は、深い心理的洞察をふくんでおり、これらを噛みしめれば益するところが大きい。

ジークフリートは、グリッタリング・ヒースに住む恐ろしいドラゴン、ファーヴニルを退治するようにと要請される。初め、自分の技倆に疑いをもったジークフリートは尻込みするが、ついに真の英雄精神がためらいを克服する。彼の特別に鍛造された刀剣を手に、名馬グレーフェルに打ち跨り、彼はグリッタリング・ヒースへと旅立つ。

旅そのものはもっと弱い人だったら震えあがるに足るものである。いたるところで危険な断崖、簿猛な野獣、不毛の荒地に出会う。だがジークフリートはこれらの災難をひとつひとつ克服し、ついにこの遠征のクライマックスに達する。火を吐き、翼を打ちふるわせる怪獣ファーヴニルとの決闘、ジークフリートにとって運命の一瞬である。だが彼はヒロイックに心が定まっているのを覚える。彼は特別記えの名剣を引き抜き、激闘のすえ遂に怪物を退治する。

シークフリートの冒険は、スーパーマインドへ向かう真の旅人が経験する一段階に似ている。われわれが既見たように、霊的な探求者は、様々なドラゴンに遭遇する。彼の務めはその日が勝利に終わるまで戦場にとどまることである。でわれわれはいま、失敗という名の特殊なドラゴンを狩りだし、対決し、これを征服するのだ。伝説のドラゴンのごとく、失敗という感情は、ヒットエンドランをする曲者である。われわれがビジネスあるいは結婚の危機に出会うとき、もしくは野心を抱くとき、このドラゴンは姿を現わす。目にもとまらぬ迅さで襲いかかり、退き、身を隠す、そして再び意外な方角から打ちかかってくる。

6-② 失敗なるものは存在しない

<失敗なるものは存在しない>

-成功も失敗もたんなる観念にすぎない

失敗の感情は無用であり不必要である。その正体は、われわれが次のことを知るとき、明らかになる

一、失敗の感情はわれわれの内部にあり、外部世界にはない。

二、それはそれ自身では力ももたず意味もない、われわれが不注意にそう思っているだけである。

私が、自の隣りにあるお化け屋敷にいるとしよう。暗くて気味悪く、おそろしい。私は闇が嫌いだから、棒で闇を叩く。だがそれで灯りが点くだろうか?点かない。私は無駄な戦いはやめて、自分の家の燈火の下へ入らなければならない。

失敗もこれと同じだ。昏さと幻想というお化け屋敷にいるかぎり、私は常に自己先を感じるだろう。だが自分の家へもどれば、灯があり煖炉がある。

そこで、アイディアとなる。私がそのお化け屋敷にいたとき、闇を打っても取り除けなかったからといって、自分自身を失敗者と感じるべきだろうか?ノウだ。私の隣人たちが私を失敗者と呼ぶだろうか?ノウだ。言葉はなんの意味ももたない。お化け屋敷で私が成功しようと失敗しようと私の仕事ではなかったのだ。私の為すべきことはただそこを脱して家へ帰ることだけであった。

この意味がお分りだろうか?

あなたがある出来事ないし状況を失敗と呼ばないかぎり、それはあなたにとって失敗ではない。ということは、その出来事にしろ状況にしろ、それが他人をどう悩ますかに関係なく、いささかもあなを預わすことはできない。そこでわれわれは、なぜわれわれがあるものを失敗と呼ぶかを調べてみなければならない。それは、われわれがそれらをわれわれ自身と結びつけて考えてしまっているからだ。われわれはそれらがわれわれにお金かメダルをくれればいいがと願う、そしてわれわれが自分自身を金持だ有名人だと思い描ければいいと思う。だがすべては空しい。たとえお金やメダルを得たとしても、われわれの真の自己に対して、何も寄与したことにもならない。

人がいちばん恐れることは、自分がまったく無価値だということへの恐怖である。だから彼は彼自身を成功という観念に結びつける。自分を成功者と呼びたいからだ。しかし成功も、はたまた失敗もたんなる観念にすぎないから、彼は永久に失意から浮かびあがることができない。難かしく聞こえるかもしれないが、われわれは自分自身についての想像上の観念を一切来てねばならない。われわれの空想、幻想、想像を超えたところに、われわれの真に欲するものがある。これが充分に理解されたとき、

人生はもはやミステリーでも、悲惨でもない。フランソワ・フェノロン(豚2対9、場。職

が、われわれが自分自身を乗てれば来てるほど、われわれはより大きな平和をみいだす、と書いたとき、彼はこのことを見抜いていた。

このことをテストしてみよう。ここに、あなたがなんら関心をもっていないプロジェクトのことを考えてみよう。たとえば科学者になるという計画、そんなものにあなたは全然関心がないとする。この計画の成否があなたに心配の種子になるだろうか?ノウである。われわれがわれわれ自身を成功失敗に関わらせるのは、自分にダメージを与える自己関心の場合だけだ。だから自由であるためには、あらゆる有害な自己関心は薬てなければならないのである。

といってこれは、あなたが豊かな生活の資を稼ぐことができないとか、人生における通常の事柄をりっぱに遂行していくことができないとかいう意味ではない。事実あなたは日常的なことはずっと上手にやっていけるだろう、なぜならあなたはどのようなかたちにしろ失敗ということには頂わされないからである。あなたは、内的葛藤なしに、ただ自分のやることをやっている。

おかしなことに、有害な自己関心がなければ、あらゆることに関心が湧き、しかも何ものにも囚われない。ちょうど、大海を好きなように航行し、好む港に立ち寄り、また気が向いたときにいつでもそこを離れる気ままな船のようなものである。

6-③ あなたは常に宇宙的覚醒に到達できる

<あなたは常に宇宙的覚醒に到達できる>

-現在の生き方が生き方の全てではない

あなたの失敗は、次の問答のように烈しい調子で扱わなければならなかったある研修生の失敗に類似のものだろうかーー

Q わたしはこの径のどこかで失敗しています。わたしの行動はときどき自分でもひどくおぞましいものになります。

そうでしょう、それはあなたが眠っており、それに気づいていないからです。しかし、あなたの本質は、おぞましい行動から成り立っているのではない。行動は霊的な眠りから来た結果です。あなたは目覚めるとはどういう意味かを理解しなければならない。それが理解されれば、おぞましい行動はやみます。

なぜ行動的な人生よりも霊的な目覚めの必要ということを強調なさるんですか?

A それは夢遊病患者はどこへいこうと、どこへも到達しないからです。

Qわたしはなぜ、こうした奇妙な霊的仮眠にいることが分らないのでしょうか?

Aあなたはまだ、眠りと意識状態との差が分るほど長くは自己作業をしていないからです。あなたの知っていることがすべて眠りのなかのことに過ぎないとしたら、目覚めた状態がどういうものか、認知するすべがないではありませんか。

あなたの現在の生き方は、生き方のすべてではない。われわれは、習慣の重荷がのしかかっている心のうえへ超えて昇り、まったく新しい、いままでとは違った、優れた生き方を見つけることができる。次のストーリーはそのポイントをついている。

昔、大きなリンゴ園が沢山ある国があった。この国の産業はさまざまな色のリンゴ、あらゆる品種のリンゴの栽培でなりたっていた。この国のリンゴは世界中で名を知られており、国民はこれを誇りにして、もっぱらリンゴのみに関心を示し、その他の果実は栽培しなかったし輸入もしなかった。

リンゴの国のある市民が、よその国へ長途の旅にでていたが、ある日の午後、疲れはて、またひどく腹がへってきた。道路わきで休んでいると、遠くから声をかけられた。このあたりの果(園経営者で、うちで食事でもしてゆっくり休息をとっていきなさいと親切にいってくれた。そしてリンゴの国の市民の眼の前へ、一と山の新鮮な果物が差しだされた。リンゴの国の市民は礼はいったが、果物には手をつけなかった。でも、「ずいぶん珍しい果物ですね、なんというものですか?」と訊くと、果樹園の主人は、「モモ、ナシ、ナツメヤシ、パイナップルです、新鮮だし、おいしいですよ」と説明した。

腹のへっているリンゴの国の市民はまだ我慢してためらっていたが、ついに眼の前の果物に手をつけるか、空腹で倒れるかの瀬戸際にきた。そしてとうとう見たこともない果物へ歯をあててみると、それはいわれたとおり、すばらしい味の果実であった。との市民は、この日以来もはや、リンゴだけがこの世界で唯一の果物とは思わなくなった。

われわれは、いまの生き方しか生き方はないと考えてはならない。

人は、つぎのようなステップを踏んでいくうちに必ずや自己実現に到達するのである。

-自分自身にどとか間違ったところがあるとおぼろげながら感じる

-もはやそれを無視するわけにはいかないと悟る

-答えを探す

-失望とフラストレーションに突き当る

-勇敢に探索をつづける

-自分の内部になにか新しいユニークなあるものが存在しているとかすかに感じる

-内的に変り始める

-彼の外部的な生き方を変えていくより自由に、より幸福になっていく 

-そのまま引き続いて、真理が彼をみちびいて新しい人間にしてくれるに委せる

 

6-④ 敗北感情の確実な救治法

<敗北感情の確実な救治法>

一つの感情がいま通りかかっている

設化と失政の感情は、われわれが誰であり何を成就すべきかについての不自然な観念で生きるときにのみ存在する。これらの誤った考え方が、霊的な知性の光にあたって融けてしまうと、敗北と失敗感は永久に消える。

望と承認をもとめてあくせくと駆けずりまわる、これがひとつの誤った固定観念である。なにかよいととが転がりこんできたとき、俺のせいだ、俺がしたんだと自然れることをやめるようになると、その後いつなんどき不運や災難に見舞われても、エゴが傷つけられたことでは苦しまなくなる。

自惚れや自負心がなくなれば、阿責、自責などの自己非難も克服できる。賞場と非難とはすでにわれわれが第二章で検討してきた典型的な両極性である。言い換えれば、自由の境地は、失敗/成功、自己承認/自己非難という狭くるしい限定を超えでたところに存在している。次の問答を見よ-

Q わたくしは人々がわたくしに注目してほしい、わたくしが関係しているものに惹かれてほしいと思います。この成功観念のどこがおかしいのでしょうか?

A なぜ他の人々があなたに惹きつけられることを願うのですか?

Q いい気分になるからです。

Aいいかえれば、あなたの喜びの源は他の人々のあなたに対する態度にある。

Q ま、よろしいでしょう、先生がおっしゃるんですから。ですが、なぜそれがよくないんですか?

A あなたが他の人々の気まぐれで踊らされている、それが分らんのですか?彼らの行動、誤要があなたにある感情をもてと命令している。あなたはその奴隷状態に気がつかないんですか?

Q しかしほかになにがあります?ほかにどうすればわたくしがいい気分になれるというんです

か?もしれをやめたら、隔離と孤独のなかでわたしは立っていられないでしょうよ。

Aあなたの原初の自分自身に還れば、隔絶も孤独もなくなるはずです。

Q それはありがたいです。でもどうすれば原初の自分自身に還れるんですか?

Aわたしたちは、それを検討しようという訳です。ま、ついていらっしゃい。

孤立感と絶望的な位しさについては確実な救治法がある。こういうムードから解放されれば、心身症というかたちで現われる憂欝ムードの落し子からも、あなたは自由となろう。

基本的な考え方は、抑替感情を自分だとは思わないこと、それを根本的な自己の一部分だとは取らないことである。そうではなくて、気象学者が黒い雲を調べるように、わきに立って客観的に精査することである。黒雲を調べたら気象学者が憂欝になったというはなしは聞いたことがない。霊的な科学者を志すあなたは、抑感情を観察して抑替にとらわれてはならない。

その感情がどんなふうにして起こるかを観察しなさい。その感情は、しばらくは重くのしかかる。

が、最後には消えていく。あなたはそれへ反応しないよう、反応を一時宙に浮かして置く。「おれは憂欝症になっている」などと考えてこれにとらわれるのではなく、「ひとつの感情がいま通りかかっている」というふうに客体化することである。

このテクニックを修練すると、あなた自身をある程度まで絶望感から引き離すことができる。絶望感を弱めたのだ。絶望感は前のような微しさではけっして二度とのしかかっては来なくなる。これを絶えず実習するとおどろくべき成果があらわれる。この同じテクニックを、パニック感情とか倦怠感とかという他のネガティブな感情の解消に使うこともできるようになる。

神秘家たちは何十世紀もこのアイディアを実践してきた。古代では、たとえばプラトンの後継者であるアテネのアルケシラオス (皿三)はこう言っている。

「融感は静彼を伴ってくる」

訳注。吊懸(Suspension)とは是非の判断、感情的反応をいっとき中止し、いわば宙吊り状態にしておくと

6-⑤ 絶望感なく敗北を処理する方法

<絶望感なく敗北を処理する方法>

出来事に対して条件づけられた心で反応しない

奇態なすばらしい生き方をひとつ紹介しよう。それは絶望感を伴わずに敗北のうちに生きるということだ。このアイディアを注意ぶかく調べてみる。

ことごとに負かされ、しかも絶望感で反応しないということになったら、あなたの日々はどんな姿となるだろうか?敗北がなかったのと同じではなかろうか?

今日一日をあなたは生きる。だが一つの出来事で敗れる、またも別の事で負けてしまう。洋服にコ

1ヒーをこぼした。自動車が壊れた。どうしたらいいか分らなくなった。必要な決断がどうしてもつかない。長続きすると思っていたスリルが消えてしまい、空しさだけが残った…・・・・等々。

条件づけられた心でこれらに反応するのではなく、これらの出来事があなたに起こるままに委せる、こうすればもはや敗北も絶望もなくなるではないか。敗北感も絶望感も、条件づけられた心が或る出来事にたいしてするたんなる反応にすぎない。

あとでもでてくるが、アルトゥア・ショーペンハウエルは、負けることで勝つというこの奇妙なテクニックについて次のように言っている!

こうした状況でいったいどうして内的な統一が可能なのか?......いや、できるのだ。いちばんいい方法は、彼のなかのどの部分が、敗北という現象でいちばん傷つくかをよく確かめて、この部分に常に勝たせてやればいい。これは理性を使えばいつでもできる。彼にその自由意志で、他の部分の敗北が巻きこませた苦痛を味わってみようと決心させるのだ。この彼というのは、つまり人格である。

たとえば、こういうことがあろう。あなたは、なんの説明もなく、不当に誰かから責められたとする。よろしい。あなたは不当に責められた。だからどうだというのだ?なんということもないではないか。どの広い世界全体のなかで、敗北感というものも創りやせるのは、あなた自身の、助地へのじこみだけなのだ。とれが分っているからあなたは平気でいられる。ショーペンハウエルはこのあなた自身を人格とよんだのである。それはまた人生を救う叡智でもある。

絶望のない敗北に生きるとはどういう意味かを学ぶ。そうすれば何が起ころうと構わないのである。そのときは分らないかもしれない。だがほんとうに、全く構わないのだ。そのうちにあなたにも分ってくる。次は問答形式での、これに関する深い真理だ!

◎この真理をわずかではありますが一階できました。でも、次は何をするのかが分りません。

A こんなクヨクヨした気持でいる必要はないとそう感づいている間も、しばらくはあなたがネガティブな状態にあるということは充分あり得ることです。それが純粋の進歩なのです。あなたは海で遭難して彼にのって、遠くに岸が見えた水夫のようなものです。

Q分りました。では自己作業のためのはっきりしたアイディアを教えて下さい。

物事があなたの望むようになるべきだという誤った考えを払拭してしまいなさい。

Q それで物事が変りますか?

A 物事の真相を露わにしてくれます。

6-⑥ 霊的成功への十の秘訣

<霊的成功への十の秘訣>

一、あなたの内なる真髄

言葉、思想、行動、野心、確、それがスーパーマインドというあの確かな内的真髄から湧いてくるのでないかぎり、これらはすべて無意味である。蜂蜜は砂糖、香料、着色剤、水分をふくんでいる。だがこれらの成分をミックスしても蜂蜜にはならない。蜂が花のミツ腺から採ってきたエッセンスがなければだめなのである。

二、自己統一

自己統一された人は、自己分裂した人では難しいもしくは不可能なことをやすやすと成就する。内的統一は、人生のあらゆる領域での成果を拡張してくれる。われわれはもはや一時にブドウー粒を摘むのではなく、房ごと収穫するのである。

三、自分自身を責めるな

あなたが自分をひとつの身体的欠陥と同一視しないならば、つまり、仮にたとえばあなたに腕一本がないとして、この欠陥をあなたの本質の一部と見なさないならば、そんな身体的陥はないる同然である。即ち、心理的にはそれはないのだ、だからあなたを悩ます力はないのだ。それゆえ、自分自身をうるさく責めるのはやめなさい。自分自身を放っておいてやるのだ。黄金律(特徴、一歳)の逆もまた等しく価値がある。

「・…・・・すべて人に為られんと思うととは、汝自身にもまたその如くせよ」

四、すばらしい真理

人間についてのもろもろの恐ろしい事実を超えたところにすばらしい真理がある。だが、恐ろしい事実をまず直視することなしにすばらしい真理を見つけたものは一人もいないし、見つけられはしないのだ。われわれが地獄と見るものを存分に、しかも抵抗することなく経験してみて初めて、われわれは天国を見る。

五、過まちをただす

あなたは、自分の行為が正しくかつ必要だと過まって思いこんでいたからこんな大失敗を犯したのだと悟る。それであなたの過まちからその熱を抜き去ることができる。間違った考え方に立った行為からは間違った結果しか得られない。いまはしかし、スーパーマインドから行動するから、すべては以前とは違ってくる。

六、希望というもののミステリー

あなたの希望を保存して置くな。思いきって、これらの希望を完全に潤らしてしまえ。早ければ早いだけいい。なぜなら、希望をつなぐかぎり、希望はあなたを緊張状態におく。あなたは希望のなかに不安の影を見たことはないのか?人間的希望とは愉しいものではない、それは目立たない奴隷状態なのだ。打ち砕かれた希望の彼方に、あなたの真に欲するものがあるのだ。この真の生では希望や期待の必要はない。だれも晴れた日に太陽を希望しはしない。

七、洞察はいかに作用するか

あなたが何かをするとき、まず何かを見て、それから行なうというならば、あなたの行為は正しい。事実、見るは行なうなりなのだ。このミステリーを解決したとき、もはや人生は相も変らぬ悲しいものではなくなる。

八、気晴らしを避けよ

ただの気晴らしなどよせ。しきたりだとか見映えのよい見解だとかいう無用のものへ眼をそらすな。成就できるかできないかを気にするのも無益なことである、ただ努めることを続けよ。ひとつの教えから別の教えへと追いかけまわすのは無意味だ。あなた自身のなかに求めよ。他の人人が人生をどう送ろうと決して気にするな。あなたにとって正しいことのみをなせ。

九、より豊かな生

人は真理から遠ければ遠いほど、他人の前では真理におべっかを使いながら、真理に無関心となり、もしくは敵意すら抱く。人は真理に近ければ近いほど、真理を歓迎する。霊的に豊かな人はますます霊的に豊かとなり、貧しい人はますます貧しくなる。

十、帆を上げて前進せよ

帆船が帆をある角度に据えて、向い風のなかを進むように、われわれもまた、正しい洞察をもって、一見反対と見えるものを選いで進むととができる。反対を忘れよ、洞察を忘れるな。

6-⑦ スーフィ教実際的な智慧

<スーフィ教の実際的な智慧)

どんな神秘思想も同じことを教えている

あまり遠くまで手を伸ばすことはしないで、自分にできる小さなことだけをする。それであなたは、霊的なアーティストとしての技倆を示すことになる。たぶんあなたはまだ、手を伸ばしすぎる習癖を破れないでいる、だがその心的な原因を調べることはできる。たぶんあなたはなぜ次から次へと挫折感にぶつかるのか理解できないだろうが、出来事を失敗・挫折とレッテルを貼ることが、挫折感を起とすのだということは分ろう。あなたはまだ自己非難をやめることができないかもしれない。しかし、スーパーマインドの教えは吸収できる。

いつでも、あなたのできるなにかはある。だからそれに努力を集中するとよい。小さな仕事、りっぱに遂行された小さな仕事は、もうすこし大きな成功があなたにできることを証明している。水の入ったボウルへコップ一杯の水を加えたら全体の水位はあがる。同じように、たとえばさらりとしたカ

まないやり方がおどろくほど効果的だというような、小さな洞察がひとつ得られると、弾んだように、他のいろいろのことが理解されていく。

こうして真理への自が増していくと、見わたすかぎり、ダイヤモンドがころがっている中へ放された人のように、あなたの探究は明るくなり、活気にみちてくる。スーパーマインドが差しだすあらゆるものを受けようとする。

このあたりで多くの研修者は、昔からのあらゆる神秘思想家たちの教説を比較しはじめる。ところが驚くなかれ、どの神愁思想家も、本質的には同じととを教えているのである!あなたの内部にすでに存在いている至高の微習い、嬉々といてあなたのその手を差しのべなさいと。

スーフィ教の中には、宗教哲学上の真理が見出される。スーフィという語は、アラビア語のSufi

という毛織物を意味する単語からきており、初期のスーフィ教徒たちのまとっていた羊毛の皮衣を指している。スーフィ教は、イスラム教の一派として十世紀に興った神秘主義の哲学で、特にペルシ+、インドで勢力を得た。スーフィ数は愛、心の光明、霊魂の平和を強く説く。

最初のスーフィ教大導師はハッラージュで、この人は宗教の善を糾弾し、人々にみずから真理を発見せよと叫んで説き、捕えられ処刑された。その後、アル・ガザーリーの神秘主義的教説がでて、この人がスーフィ派哲学の主峰となった。だが、あらゆるスーフィ教徒のなかで最も有名なのはオマル・ハイヤームである。彼の詩『ルバイヤート』は美の最高峰へ達している。

次の五つは、スーフィ教の哲学文献から拾った代表的な珠玉である。他の諸宗教の思想とちょっと比較しただけでも、それらの教旨がすべて根本的には同一であることが分ろうし一、にがいものも愛によって甘くなる。

二、人間行為の理想は、暗黒の汚れから解放されることである。

三、世界を去れ、そして次自身のための世界となれ。

四、もし次が自己への心労により鎖につながれているならば、同時に世界は汝にとっての覆衣となろう。(訳注。自分のことばかりにクヨクヨしていると、その苦しみからの逃避として、騒々しい世間に眼がいき、世間をベールにして、自己が隠されてしまい、自己洞察ができなくなる)

五、あらゆる人のうちに財宝がある。

 

6-⑧ 成功についての考え方を変えよ

<成功についての考え方を変えよ>

人為的な成功観念をはるかに超えたところに霊的な成功があり、これだけが価値ある成功である。

霊的な成功は、深い変化をもたらすところの新しい叡智の獲得である。それはスーパーマインドの叡智をもつという意味だ。

われわれがわれわれ自身から受ける幸福は、われわれが周囲の事物から得るものよりも大きい、

と知ることである。(メトロドロス〔酒確物群」))

真の理解がどれほど事物を変えるものか、実際的な例をとってみよう。私が選んだのは競争というあの頒わしい状況である。まわりを見るがいい。誰もがたがいに競いあって、友人関係、ロマンス、顧客等々を求めている。だがわれわれに今関心があるのはエゴの競争である。これが怒りとフラストレーションの主因である。

外部世界で、あなたは自分の商品を買ってくれる顧客をもとめて他のものたちと競争している。しかしもしあなたが内的な世界からも生きているならば、エゴの競争のないコマーシャル競争に自由に従事できる。内的世界は外部世界よりも高いところにあるから、たとえ競争相手がビジネスのほとんどを固めてしまっても、あなたはなにも頑うこともない。すぐに羨望や念識で反応する為りの自己が除かれてしまっているから、あなたはどういうととが起ころうと関係なく、愉快にビジネスをやっていく。

どうしてそんなふうになれるか?それは愉しいけれども甚だ非実際的な夢でしかない、とあなたは思うだろうか?いや本当はあなたはそれを夢だなどとは考えていない。競争相手があなたにすばやいパンチを喰らわすからとの理由だけで、心的に情動的に自分自身を引き裂いてしまうなど、悪夢にも似たナンセンスだとあなたはいま分っているからである。

あなたのスーパーマインドから生きる。これが一切である。そうすれば、敗北、失敗、競争はあなたにとってなんでもなくなる。次の問答でこのことがよく分るー

Q 人生はなぜしばしば無駄に見えたり、無意味なものに見えたりするのでしょうか?

Aわれわれが、無価値な野心や目標に価値があるかのように装っているからです。

Q重要な人動になろうといったことですか?

それも一つですし、その他、財産を持ちたいとか、人間のつくった機関や組織に展していたいとかという野心もそうです。それはまるで、自分へ宛てて空っぽの小包を発送し、自分自身にまた友人たちに、これには値打ちのあるものが入っているとるようなものです。彼は密かに小包が空であることを知っている、そこから無意識的な絶望感がでてくる。思いきって小包を開き、空虚さを直視するなら、彼は真の価値あるものへ向かって前進できるはずです。

Q失敗についての秘教的教理をかいつまんで教えて下さいませんか?

A失敗は存在しない。あなたが、なにが成功かについて自己中心的な考えをもっているため、失敗はあると思うのです。もし成功についての条件づけられた信条を爽てるならば、二度と失敗の感情に苦しむことはなくなります。

だけどどうやったら失敗感情がてられましょうか?わたしは成功に憧れます。

そうではない、成功についてのあなたの観念に憧れているのです。それらはあなたを閉じこめている牢獄です。社会はあなたに、成功とは階段のトップにある何かだと告げる。だから、あなたは、階段の底辺にいると思うと悲しくなる。そうかんたんに言いふくめられてはいけません。階段などはないのです。人間のつくった成功とか失敗とかは無意味なものです。あなたが一切でありすべてなのです。

6-⑨ いかにして正しい行為をなすか

くいかにして正しい行為をなすか>

ふと正気に返って、正直に見詰めると、人は自分自身をどうしてよいかまったく五里霧中なのだと気づく。まことに辛い状況である。何かをしたいと熱情が湧いてきているのに、その何かがなんであるかがすとしも分らない、わずかの知識すらも穴けているということだ。彼は困惑の果て、機械的な行動へ移る。鈍くしびれた絶望のうちに、彼はけっきょくいつもしていたことをする。

このミステリーを解くためには、行為というものの移教的な意味合いを把握しなければならない。

この意味での行為とそ唯一の恩恵にみちた行為である。秘教的な意味での行為は、歪んだ願望とエゴイスティックな野心から発生する有害な行為とはまったく違ったものだ。

あなたの為さねばならぬことはただ、あらゆるものを、あなたのために為されるままに委せるというととである1!とのことが分ったとき、あなたは物事の本質に迫る至高の洞察を遂げたことになる。その自己中心約な自己の末端にまで達し、そして自分の真の自己をして、彼または彼女という生身をつうじて、その本性をフルに生きるに委せる。このような人に、このしあわせな洞察は到着する。

もしあなたがなにかをすれば、間違いをしでかす。もしあなたがなにもしないなら、ただひたすらにあなたの内的生をいて、エコの干渉なしに、起こるに委せるならば、けっして間違いは犯さない。

これはあなたにとって価値あるなにものかを放棄する意味ではない。これは真の価値をみいだす意味だ。人間のもつ密かなる恐怖は、多くのことが彼には起こるけれどもリアルなものはなにひとつ起こらないということなのだ。彼に起こることは、新奇で、エキサイティングで、満足なものでさえあるかもしれない、だがそれは、より深い彼の自己にとっては本物ではない。あなたがあなたの真の、かアルな自己であればあるほど、あなたはリアルでないととはやらなくなり、それだけ一層幸福になる。

人々が繰りかえし繰りかえし、間違った行為で苦しみながら、なおそれを問題にしないとはなんと不思議なことであろうか!物理的な外部世界では、われわれは充分に実際的である。ディナーの味が落ちていたら、あるいはビジネスのプロジェクトがうまくいかなかったら、われわれは調査し矯正する。だが、内的な生では、実際的である人がいかに少ないことか。

なにかが間違っていると感づくだけで充分である。われわれはなにかが間違っていると知っている。正しい行為を始めるには、相も変らぬパニックや倦怠感に飽きてこなければならない。充分イヤ気がさしてこなければならない。正しい行為は、りの自己を観察してこれを除くことで、スタートする。

内的前進への正しい行為をプランすることはいらない。あなたが正しいと思いこんでいる間違った行為をやめるだけでいい。そうすれば、条件づけられた思考を伴わない行為!それは常に正しい行為だしへのスペースが塗く。数は、目覚めた人について、彼は計画せず、工夫せず、計算しないと言っている。あなたに、太陽が天空を横ぎってその自然の道をとおるのをプランする必要はあるまい。あなたが何が起こるべきかについて予めなにかの観念を抱かないときに、あらゆるものは起こるべくして起こるのだ。

自分はこの人生でどこへも行き着こうとしていないと感じたときは、いつでもすぐに、こう自分自身に問うてみるべきである、「だけどおれはほんとうにどこへ行きたいんだろうか」と。するとあなたはたぶん、表面の心がすぐに大急ぎで飛んで、あなたに偽りの答えを運んでくるのに気づくだろう。たぶん、あなたが新しい友達あるいはお金をもっと欲しがっていると、あなたの表面の心は示唆しているのだ。だがこうしたごまかしの答えの下に、あなたのスーパーマインドがある。そしてそれらをごまかしと見抜く。あなたの務めは、鳴りの声に気づくことだ。これに気づくと、腸が当って露が消えるように、偽りの声は潰れてしまう。どこにも行き着くところがないという不安がもう一切なくなる時がこよう。あなたはすでにそこに行き着いている、いや既にそこに居たのだ、と分るであろう。

あなたが真摯に宇宙的な諸原理を理解しようと努めるとき、あなたは確実に正しい行為をしているのである。

6-⑩ 秘教のすばらしい事実

<秘教のすばらしい事実)

-なにも持たないことの意味

スーパー・マーケットへ入ると、金があるだけなんでもどっさり買うことができる。百万ドルだせば、店にあるストック全部を運び去ることもできよう。同じように、金さえあれば、霊的なマーケットを全部買い占められる。この場合の金とは何であろうか?それは物質世界とは逆のものだ。あなたの霊的なキャッシュはあなたの持っているなにかではなく、不思議なことに、あなたの持っていないあるものだ。新約聖書が繰りかえし言っているように、あなたはなにも持たずに来なければならない。ことが真理の美しさである。

さてわれわれはなにも持たないととの意味を発見せねばならない。それは内的な生について、われわれが知的な意見、記憶された観念を持たずに、の意味だ。言い換えれば、われわれはここに、あらゆる脳教的アイディアのなかでももっとも魅力的なもののひとつに突き当ることとなる。なにもないことが豊かさである!

言葉を知ることは、意味を生きることとは同じではないことが分ろう。私が救急箱の印刷された説明書を丸暗記しているとしよう。それは私が救急治療をしてやれるという意味ではない。私が何も知らないと認め、知ろうと努め、実習し、成功したときに、そこで初めてとの説明書の意味が充分にあとまと入ってくるのだ。自分の知性を鼻にかけ、ある宗教書の全章を暗記していると豪語している人

人を、私は知っている。だが、それは知性ではない。その同じ人が、ときどきあなたに、自分はすぐに辞去しなければならぬと言いながら、戸口で小半時もぺちゃくちゃとお喋りをしている。

それゆえわれわれは霊性へむかって緊張する必要はない。そうした努力はおそろしい重荷である。

純粋に霊的な人とは、あるものになりたいという願望を一切棄てた人である。ただし彼は、レッテルもなく言訳もなく、ただ彼がいまあるがままにある人である。彼は彼があるところのものであり、それが彼の全てであり、そこに彼の全体がある。このような人は分割されていない、複雑にこみいってはいない、彼は充ち足りている。

人は自分自身をみつけたいとして、宗教思想や哲学の考えなどと交わるかもしれない。しかしこれだけではなにものをも達成しない。むしろ、却って彼をその真の本性から隔離してしまうかもしれない。なぜならば、自分が霊的な人、ないしは権威的な人であるといった偽りの自己イメージによって生きるという罠に落ちこむかもしれないからだ。彼は、ある役をあまり長く演じていて、自分をその役柄と同一視してしまっている俳優のようなものだ。彼は自分がその虚構の自己だと思っている。そういう人は、その権威を質されたとき苛立つから、あなたはすぐに見抜くことができる。

われわれは、リアルな人間になりたいという唯ひとつの願望に集中したい。ここで成功することは人生で成功することである。私は、たとえば次のような問答で、このアドバイスを質問の答えにしてきたー、

Qしかし、もしわたしが惨めな気持に圧し潰されかかっているとして、どうすればこれを防ぐことができるのでしょうか?

訪ぐことはできるし、防がなければなりません。あなた自身を降伏させてはいけません。あなたは勝てるのです。

Q わたしにごく近い人が、霊的な問題にひどく敵対的なんです。どうすれば話を聞かせることができるでしょうか?

A あなたがその気になれば天が助けてくれます!二つの法則を忘れてはいけません。ひとつ、誰も、欲しくないものを与えられることはあり得ないということ。ふたつ、あなた自身の開発に力を注ぐことで、他の人の反対に煩わされることはなくなります。

Q 内的な光明とか霊的な進歩向上とかの言葉は何を意味しているのですか?

: きわめて簡単でかつ到達できるあるものなのに、何百万という人々が湯仰しながらなかなか達せられないものということです。定義を複雑にする必要はありません。不自然なもの、パニック、疲労町態、そういった重荷を着実に落としていくと同時に、陽気さ、気軽さ、安らかさなどを積んでいく、そういう意味です。

7-① 愉しい人間関係のために

<愉しい人間関係のために>

  1. あなたのスーパーマインドは、あらゆる状況であなたのためにいかに行動するかを心得ている
  2. あなたの宇宙的覚醒レベルを高めよ、そうすればおのずと調和が来る
  3. 人々は彼らの見かけとはまったく違うものだと悟れ
  4. あなた自身を理解すれば、他人をも理解する
  5. あなたの隣人との接触を霊的成長の糧として活用せよ
  6. スーパーマインドで生きる人生では、あなたは誰からも、またどんな集団からも、支配されない
  7. 充実した生き方をするためには、人間的論理からではなく、あなたの間違うことのないスーパーマインドをもって思考せよ
  8. 宇宙真理においてリアルであるとは、誰もが願望するところのあらゆるものであるということだ
  9. どんな人もどんな出来事もあなたを飯つける力をもっていない

人生をうまくやっていけないのは、その人が本来存在しない解決法を探すからである。人間関係ほどはっきりこれがいえるものは他にはない。人の心は川を流れていく硬い氷塊のようなもので、しょっちゅう他の氷塊にぶつかる。プラトンは、人間関係の正しい原理は宇宙哲学にもとづくと指摘している。人が自分の浅薄なルールだけに固執するかぎり、彼は必ず人と衝突する。

しかしすべては変えられる。われわれには宇宙哲学を学ぶことができるから。

われわれは不愉快な人間関係へ正しくも誤っても反応できる。

ことに、スーパーマインドによる成功の道があるし一、あなた自身のいるところから一歩退き、あなたの反応を見守れ。

二、その反応に抵抗してはならない、糾弾してはならない、変えようと求めてはならない、ただ静かに、反応の来たり去るのを見守れ。

たぶんあなたは悪いニュースを聞く。よろしい。辛い想念と感情とがあなたを捕え、不快へと締めつけるのを見守っておればよい。あなたはそれだけすればいい、たんに見守り、気づいていさえすればよい。そういうネガティブなものをあなた自身のそれと呼んではならない、そうではないのだから。それらはあなたへ無理に入りこもうとする外部の侵入者なのだ。だがそれらはなんら本当のパワーはもっていないのだ。

不快感が起こったらそのたびに二つのステップを繰りかえし行なう。やがてあなたの内部にびっくりするような変化が根づく。あなたは物事を違ったように見る。外部的な出来事は、つけ、怖わがらせ、戸惑わせる力を失う。あなたは、不快感とは戦わなければならないなにかではなく、理解すべきなにかに過ぎないと悟る。

7-② 指揮権を執るには

<指揮権を執るには>

-あなたは何を指できるか

内的な強さを築くのに、起こったものがなんだろうとそれに対するあなたの反応の全責任をとるという、この単純な訓練ほど確実かつ迅速な方法はない。この中には、本書で出会う新しいアイディアに対するあなたの反応ということも含まれる。

あなたはなにを指揮できるか?あなたの霊的レベルより低位にあるものなら何にかぎらずあなたはその指揮者となれる。もしあなたが、あなた自身の内部にある残忍性より上にいるなら、あなたは他の人々の残忍性に支配されることはない。もしあなたのレベルがヒステリーより高次元ならば、闘手と欺瞞というかたちで自己表現する人類のマスヒステリーから、免れている。

なにがあなたを指揮するのか?あなたは自分の霊的レベルより上にあるどんなものにも指揮され支配され統制されている。だからこそ、秘教的理解の足りない低レベルにいる人が、彼自身とだけでなく他の人々とも問題を起こし問題をもつのだ。彼のもつさまざまな葛藤は彼のレベルより上にあり、たとえば嵐雲のように、彼の手の届かぬところにある。

自分が他の人々や出来事に支配されていると感じたら、まずあなた自身を気楽にくつろがせることだ。いつでもあなたのコントロールに服しようと待機しているひとつのパワーがあることを想起する。あなた自身の澄んできた心がそれである。

あなたは心だ。あなたの心は、あらゆるものをコントロールできる、その至高の力があらゆるものに正しく反応するからだ。外部世界では、たとえば不公正な課税といった例で見られるように、他の人々があなたへ支配権を輝うかにみえるかもしれない。しかしなんぴとも、外部事象にたいするあなたの心的反応をコントロールすることはできないのだ。外部世界のなにものも、その内的世界からフルに生きている人に手を触れることはできないのだ。

状況は心が那ぶ通りになる。だが、もし条件づけられた心がある状況を善いとも悪いとも称ぶととを拒否すると、何が起とるか?何が起こると思う?まあ、一種の奇蹟が起こるのだ。すなわち、その状況は、街つける力もなく一時的な興奮を与える力もない、ある中立な出来事となる、ただしそのあと、不可避的に憂欝の雲がおおってくる。

だから、条件づけられた心ではいけないのであって、秘教的な事実へあたたかい歓迎の手を差しのばし、また特に誤ったアイデンティティ感覚を消すことによって、より大きな洞察をつうじて自分の存在レベルを高めるよりほかはないのだ。こうして初めてあなたは真の指揮者へと成長するのである。

『スーパーマインド』の諸原則を熟読玩味してあなたの情報ストックを日に日に増していく。なにかを始める前には必ずその性質を知らねばならない。あなたが学ばなければならない情報を学ぶことで勝利への変容は可能となる。

7-③ 他人との摩擦を避ける方法

<他人との摩擦を避ける方法>

一己れを知ることだ

人は見かけとは違う。家屋の内側と外側とは違うように、人の外見と内面とはたいへんな差がある。誰かに初めて会うという場合、あなたはそれを経験する。あなたが彼をこんな人と思っているのとは、彼がまったく違う人だということを、あなたは会ってみてはっきりと分る。

間違いはわれわれ自身の誤った思い込みなのである。たとえばわれわれがある人を冷静なタイプだと思いと部。ことで二つの過まちを犯している。まず、彼が他人の前で一所感命にその情動の乱れを抑えていることをわれわれは見ない。第二に、われわれが彼を観察したその時には、たまたま彼のパニック状態を誘起し、それを外面にあらわすような特定の事件が起こらなかっただけなのに、それがあなたには分らなかった。たんに表面的な冷静さは遅かれ早かれ崩れて爆発する。多くの花嫁、花婿があとで気づいても遅いのだ。

われわれの務めは人々を、われわれがそうと見たい、そう見なければならぬようにではなく、彼らのあるがままを見るということだ。そうすればけっして過まちは犯さなくなる。

どうすればこれができるか?他の人々は、心理的に言ってではあるが、われわれには見えない存在なのである。ではどうすればわれわれは彼らをその在るがままに見ることができるのか?

それは、われわれ自身を理解することで、できる。あなた自身の動機を率直に理解すれば、あなたは彼らの動機が見える。あなた自身の願望と行動とを理解すれば、他の人々がなぜあんなことをしているかが、あなたには理解できる。己れを知ることが、他の人々への洞察を開けるキーである。たぶん、ほんの一瞬の強烈な自己正視によって、人は彼自身のなかに鷹揚さの仮面をつけた利己的な動機を発見する。それだけ彼はより健全により幸福となるだけでなく、同じような仮面をつけた他の人々にたぶらかされることはなくなる。

これは二様に働く。あなた自身を理解するように、他の人々をも理解する。あなた自身の行為への洞察を獲得すると共に、他人の行動もあなたにははっきり分ってくる。

社会に生きるあなたに起ってくる出来事はなんであれ、それが、あなた自身を照らし出し、浮きぼりにしてくれるという意味では、きわめて有意義である。他の人々との出会いは、われわれの固定観念への願ってもないチャレンジだ。最良のチャレンジは、われわれを、われわれが思いこんでいるほど高貴な人間ではないと晒けだしてくれる底のそれである。なぜなら想像された理想像の粉砕は不可

視の鉄鎖の粉砕だからだ。

われわれが自己観察をつうじてわれわれの本性を知ると同じく、われわれは他人を彼の日々の行動のなかで見守ることによってその人について知ることができる。たんなる好奇心や批判的観点からではなく、人間についての事実を知りたいという純粋な欲求から、われわれはこれを実行しなければならない。

たとえば、ある人が、なにかについて責められたとき、どう反応するかを見守れ。この非難が正確であろうとなかろうと、それがその人の心の中に怒り、價怒、あるいは仕返しの想念を誘起するのを注視せよ。エゴの少ない人、そのスーパーマインドから思考している人は、防衛すべきなにものももたない、従って動転しない。だが卑小な人、彼自身と彼のスーパーマインドとの間に深い燃隔のある人は、攻撃的にかつ禦的に反応する。

アルトゥア・ショーペンハウエルはもうひとつテスト法を教えてくれているー

人というものは、ごく些細なことを扱うときに、ついその格を暴露するものだ。そんな場合には醤戒心がないからだ。このととは、人間の人格にある底知れぬエゴイズム、他の人々にはひとかけらの思いやりもないところを観察するまたとない機会になることが多い。もしこうした小さなことで陥が現われたら、あるいは彼の一般的な行動にその陥が見えたら、なにか重大な事柄についても彼の行為の底にはとうした久陥がそのもととなっていることが分る。彼はただ事実を上手に偽っているだけかもしれないのだ。・あなたの戸口から先では彼を用してはならない。

7-④ 他の人々に依存するな

<他の人々に依存するな>

-あなたはあなた自身と共にある

着実な自己観察により、われわれは社会のそれとない要求に従って生きるのと、われわれ自身の中心から生きるのとの違いを見ることができる。われわれの感じる不快感はすべて、われわれにこの違いを示そうと努めているのだといっていい。

なにものをも乞うてはならない。誰をも追い求めてはならない。あなた自身をトレードすることを拒否せよ。あなたのいるその場所にとどまれ。自分のリビングルームに坐っていて、「家へ急がなければ」と考えている人のようであってはならない。あなたは、工場にいようと農場にいようと、いま現在にいるのである、あなたのまさにいるところにいるのである。あなたはあなた自身と共にいるのだ。そしてこれだけがあなたに必要なすべてである、もしあなたにこのことが分るなら。

われわれは、他の人々と上手につきあうには、彼らを引き寄せることも薬てることもできなければならない。他人とのつき合いがどうしても要るという強迫状態は、自己支配の穴如を示すものだ。それは、われわれが必要だと思うなにかを獲得するために、われわれ自身を他の人々の意のままに任せることである。もしわれわれが、どのようなかたちにせよ、こうした人間的弱みを利用しようとはしない人に出会ったとしたら、われわれは百万人のなかに稀有な一人を見つけたのだといっていい。

神経質な人もしくは不愉快な人とは決して彼の条件で取り引きしてはならない。あなたの条件で取り引きするか、でなかったら全然取り引きしないことだ。これは、外部世界ではその人との人間関係は継続するが、内的世界に関するかぎり、その人との関係を絶つということだ。あなたの内的な完全さを他人のために犠牲にしてはならない。いついかなるときも、いかなる状況においても、いかなる人のためにも。私が質問に答えた、次の真理を心にとめてほしいー

Q なぜわたしは他の人々と気楽につき合えないのでしょうか?

A それはあなたが、あなた自身を喜ばせようとしないで、彼らを喜ばせようと振る舞うからそうなるのです。他人を喜ばせようとするのは、あなたの不安に根がある。あなたは他の人々からなにかの恩恵が欲しいのに、それを得ることができないのではないかと恐れ、それでその人々を喜ばせようと努める。人々が人々から得たいと思うものって、たとえば何でしょうか、例をあげてごらんなさい。

Qああ、それは際限なくありますよ。金、セックス、友情、承認、賞讃、受けいれてもらうこと、安定、みんなそうです。しかしこうしたものを望むことは間違いですか?

Aそうしたものを得るためにあなた自身を犠牲にするのが間違いだというのです。そうした自己犠牲は自己嫌悪を生み、苦痛と敵対心を生みます。他人の精神的支配下で生きるととの苦悶を理解しようと努めてごらんなさい。他の人の承認、その人からの手紙、あるいはその人の現われるのを待っている焦立たしさを考えてごらんなさい。そんなふうにして生きたいとはあなたも思わないでしょう。それとはまったく違った生き方があるのです。

フランソワ・フェノロンは、あなたの嫌いな人々への尊敬をつづけるためにどれだけの苦しみを耐えなければならぬというのか?と問うて、人間の陥っている状況に鋭い洞察を示した!

あなたの友情の多くがぜんぜん友情などではないということに気づかなければならない。あなたがその内約な宝をすぐに壊れるオモチャと取り引きしていると悟らなければならない。このような認識があればあなたはもはや他の人々が投滑にあなたから要求するものを与えなくなる。するとその人達はあなたを楽てる。こういう人達はいつもそうだ。あなたから得られるだけのものを捲きあげて、彼らは去っていく。

あなたの務めは、あなたの孤独からくる一時的な不安と動揺に雄々しく耐えることだ。辛抱づよくあれ、梅むな。あなたは正しい必要なことをしたのだ。松葉杖を棄てると、最初はよろめくかも知れない。だが万事はなんということもないのだ。あなたの孤独とともに静かに耐えていく、するとついに孤独はあなたにその至高の秘密を告げる。必ず告げる。

7-⑤ なぜ友情が崩れるか

<なぜ友情が崩れるか>

欲望に基づく人間関係は愛ではない

この地上の誰もあなたのためにあるいはあなたにさからって何かをする力をもつものはいない。この事実の深い意味があなたに分れば、配属者、友達、見知らぬ人とのあなたの関係は輝かしい変化をとげる。あなたはもう他の人々を支配することは求めなくなる、あなたは彼らがあなたを好こうと好くまいと決して気にかけなくなる、あなたは誰とでもおだやかに平和につき合える、たとえ相手があなたといっしょでは落ち着かないときでさえ。だがこのことは、人間的な論理や条件づけられた理屈づけからではなく、霊的な心、すなわちスーパーマインドから見られなければならない。

われわれは他の人々がわれわれを助ける力があるとじたい、そして信じる。それはわれわれが彼らに対して願望をもっているからである。だがそこに摩擦が生じる、なぜなら他の人々はわれわれの願望とは逆の欲望をもっているからだ。他人への願望は、その他人がわれわれの欲するように振舞うべきだ、振舞わねばならぬとする無意識的な押しつけを生みだす。相手がそのとおりにしないと、われわれは瞞されたと感じ、怒る。われわれは、この心の傷は他の人の利己心から来ていると誤って取る、ところが事実はわれわれの誤った願望からきているのである。われわれにもはや誤った願望がないとき、痛ましい失望は存在しえない。

他人との人間関係がなんであれ、その人への心理的な愛着をあなたの内部に形成してはならない。

彼が来ようと去ろうと、あなた自身が自由に彼の為すがままに委せるべきである。彼あるいは彼女をあなたのところへ引きとめようとしてはいけない。物理的に拘束しても、彼の心は遠く去っておりそれをあなたは痛みをもって感じるであろう。あなたのスーパーマインドから生きるとき、人間関係の持続も終想もあなたによるものではなくなり、その他人の考え次第となる。ということはあなたは自由だということだ。

どんな人からも心理的には離れていなさい。どんな人からもというよりは誰からもである。これは冷淡な無関心ということではない。それは通常のレベルを超えた温さー純粋な愛なのだ。これができれば、あらゆるものが変ってくる。もうあなたは他人に対して意識的にも無意識的にも要求しなくなるからだ。奇妙なといってよいかもしれないが、あなたは人間関係をまったく律しないからして、人間関係を律しているのである。

婚姻関係や友人関係の破綻がこれほど多い理由は、二人の間のどちらもが、相手が与えることのできないものを受けようと努めるからである。二人が出会う。相手が新しい人であり、珍らしいから、スリルがある。興奮が去ると、そう、興奮はいつもすぐに去るものだー興奮が去ると空しさが見えてくる。すると絶望がやってきて、別の新しい方向への人間関係を捜しもとめ、こうして際限なく悪しき循環がつづく。

新しい人間関係を求める人は、彼自身の内部に発見されなければならないものを他人のうちに見つけだそうとすることの徒労に気づかないのである。たとえ、ある悲しみに沈んだ淋しい人が、高いレベルの愛をもった誰かに出会ったとしても、この人間関係の探し主はそれを認知することもできないし評価することもできない。われわれが他人のなかに真の愛を認知できるのは、われわれが自己自身の内部にすくなくともその味わいを経験しているときに限られる。

欲望にもとづく人間関係を愛という名で称ぶのは愚かである。われわれはとかく、そう称ぶことがロマンチックに響くからそう称ぶだけなのだ。愛は欲望とはなんの関係もない。純粋の愛はまったく別のものである。目覚めた人だけが愛することができる。

7-⑥ 人がほんとうに欲するもの

<人がほんとうに欲するもの>

-リアルであるということ

あなたが欲求しないあるもの、もしくはあなたに関心を感じさせないあるものから、あなたがわされるということは絶対にあり得ない。だからしてわれわれは、りの欲望から自由であることの必要を強調するのである。欲望とは何かを理解することは、東洋の神秘思想家たちがタンハー(tanha)とよんでいるもの、すなわち痛ましい渇望、もしくは愛執、妄執、渇愛を滅却する。

あなたが平和という名の二服の薬のいずれかを取れと言われたとする。一つは、物事があなたの欲するように展開したときだけ、あなたを安らかにさせる。他の一服は、どういう出来事が起ころうとそれとは関係なく、あなたを完全に幸福にしてくれる。さてあなたはどちらを選ぶ?もちろん後の方であろう。

だがいまとの瞬間に、何千億という出来事のなかに嵌まりこんでいる何百万という不幸な人々は、最初の一服を選ぶ。なぜ彼らを不幸にする一服を選ぶのか?ととのところはよく聴いてほしい。それは後らが、何が彼らを幸福にするかということについて誤ったアイディアをもっているからである。幸福は友達をたくさん持っていることから来ると主張するなら、それは誤ったアイディアであり、苦しみを生む。配偶者もしくは社会に倚りかかることで、気楽な人生が得られるとじるとすれば、われわれはショックを待ちうけているようなものだ。

言い換えれば、われわれは、欲しいものが手に入れば幸福が起こってくると誤って思う。

だが起こるのはスリル、自己満足、あるいは威力感などであって、それらはどれも幸福ではない。

トルストイは、質の幸福がピークに達すると悲欺に変ると言っている。世俗的な成功をついに射止めた人々が突然に絶望に転落する、その訳がこれで説明される。彼らが立派な山だと錯覚していたものが、その錯覚を打ち消す黒雲に変ってしまうのである。

ここで、あなたが絶えず反省の材料にできるすばらしいアイディアをひとつ披露しよう。このアイディアの意味を十二分に把握することをあなたの仕事にしてほしい一

どんな人もほんとうは、彼が渇望しているものを得ることなどには関心がないのである。ほんとうの関心は、彼が彼自身と平和でありたいということなのだが、それにはどうしたらよいのかというその方法が分らないのである。

だからして、スーパーマインドから考えることを学ぶにつれて、あなたの欲望と野心とは変ってくるのだ。あなたがこれまで価値あるものと思ってきたものが、いま無価値なものとなる。これまでバカバカしいと考えていたものがいまは貴重との上もないものとなる。

あなたがあなた自身のためにしてやれる最大の助けは、リアルであるということだ。リアルであることはあらゆるものであることである。質物の破壊は匹物であることの発見から始まる。リアルな人間となる方向へとの道を進みだすにはどうするか、そのひとつの行き方は- あなたが他の人といっしょにいるとき、自分の内部状態を観察するのである。自分はいま苛立っているか、意しているか、あるいは物を言わなければと強制されるものを感じるか?

次には、あなたがまったく独りきりでいるときに自分自身を観察する、独りでいるときのほうが、内面的にはもっと気楽だろうかと。正にそのとおりだとあなたは気づくだろう。そこで、次のように実行する。他人といっしょのときも、自分独りきりのときと同じように寛いでいる、この訓練を試みる。他人がいるというだけで神経質になることを拒否する。こうしていくと、徐々に、だが着実に、あなたは、他人といっしょにいるときの強迫的な行動を追放することができる。あなたはいつまでもリラックスしていられるようになる。

あなたがリアルな自己の境地を達成するのに障碍はない。想像された障得というのは、誤った思考の蜃気楼でしかない。

他の人といっしょにいるからといって緊張したり、もしくは落ち着かない不快な状況というものは、本来はあり得ないのだ。その場合、あなたを苛立たせるのは、あなたがその人になにかを借りている、負い目があるかのごとく誤って考えるからなのだ。その人にある態度を示さなければならない、納得のできる説明をしなければならないなどと感じるからなのだ。

あなたはリアルであればいい、リアルであること以外に他人に対してなんの負い目も、義務もないのだ。他人もまたあなたに対してリアルであること以外の義務は負わない。あなたは誰からも何ものをも期待してはならない。他人はあなたのために真に価値あるものはなにも持ってはいない。あなただけが、あなた自身に、真に価値あるものを与えることができる。

7-⑦ 誰もあなたを傷つけることなどできるはずがない

<誰もあなたを傷つけることなどできるはずがない>

-真の自己から生きなさい

あなたに加えられるいろいろのかたちの攻撃にどう抵抗するか、次の問答で、その方法を考えてみてほしいー

Qなぜわたしは他人からこんなにプレッシャーを受けるのでしょうか?

A あなたが間違って彼らにあなたを押さえる力を与えてしまうからです。

Qそうだとしても、わたしはそんなことまったく気がつきません。どうして彼らに力を与えるというんですか?

A彼らにその力があると、あなたが誤って思いこんでしまうからです。純粋な力は、あなたの真の自己にあるのです。あなたはまだこの真の自己と一体となっていない。そのため、あなたは間違って、人々との交際、金、興奮、等々に力があると思いこんでしまうからです。

Qおっしゃることが分ってきました。わたしは半生をなにかを求めて追い回わってきましたが、すべてはすこしも変りません、むしろ悪くなっているみたいです。が、最初の質問へ戻ります。

どうすれば他人から傷つけられないようになれるでしょうか?

A他の人からでる傷つけるような言葉や行為を、あなた自身のネガティブな部分へ落とさせないことです。そこへ嵌まり落ちることを断平拒否する、内的に拒否することです。こうすれば、あなたの傷つけられた感情というものは起とり得ません。いやな、見知らぬ男が来たとき、あなたの家のドアを開けてやることを拒否すれば、相手は入ってこれません。ですからつまり、あなたは無意識的に、他人から傷つけられることを承認しているのです。どんな人の言う、あるいはするどんなことも、あなたの本質を、真髄であるあなた自身を害することは不可能であることを、あなた自身に想い起とさせなさい。それらが傷つけるのはあなたの為りの自己に対してだけです。しかし、その為りの自己が傷つけられても、あなたは徐々に、想像上の自己を識別することができるようになります。そしてあなたの原初の自己に拠ってのみ生きることを知るようになります。

Qすると、われわれが傷つけられることから解放されるのは、われわれの真の自己から生きるととによって、ということでしょうか?

Aそうです。灯台からでる光束は、荒れくるう雨風に痛めつけられますか?ビームは然自若としており、いささかも嵐で揺さぶられはいたしません。あなたの真の自己もそれです。あなたがとのことに意識をもって気づいておれば、いかなるものもあなたを害し得ないのです。

Qわたしは、心からこれを把握したいと思います。

A把握しなさい。そうすればあなたは全く変ってしまう、そしてあなたの以前の自己を認めなくなってきます。

あなたの対人関係は、あなたが自分のスーパーマインドから思考することを学べば、変ってくる。

あなたが変化するから、対人関係は変るのである。おのずから起こる自然のプロセスである。古い友達は去り、新しい友人は来たる。あなたは彼らからいささかの充足をも求めることなく、その期待なく、送りだし、迎えいれる。あなたはもはや、浅薄な世間話やおしゃべりには、人為的な活動や運動には、関心をもたない。しだいにあなたは、ある種の人間関係は、あなたにそれを受けいれるスペースがないことに感づく。この境地は、あなたの霊的成功がより高いレベルへ達したからである。この高いレベルでは、あなたはもう低次元での遊戯には関心がなくなっているのだ。

自己開発の進んだある時点で、あなたはひとつの面白い発見をする。それはあなたの他の人々との関係は、あなたによるのではなくて、もっぱらその人々からのものであるという発見だ。あなたの周囲に、いろいろの人々が来たり去ったりする、それはあなたの欲求によってではなく、彼らの欲望に従って彼らは出入りするのである。

7-⑧ 対人関係への七つの指針

<対人関係への七つの指針>

自己認識へと通じる鎖の環

インドの神秘思想導師シェリ・ラマクリシュナが次のような警え話をしている一大きな丸大がガンジス川につかっており、外からは見えない。水中で一本の鎖が丸太を川岸へ繋いでいる。あなたがもしこの丸太へ近づきたいと思ったら、どんなふうにするか?あなたには鎖が見えないのだから、川へ飛びこんで鎖を伝っていくであろう。鎖の環をひとつずつたぐりながらいけば、丸太へ近づけるだろう。

自己調和へ到る鎖のひとつの環は、他の人々との日々の経験である。本章でのべる原理は、たんに対人関係、家庭関係の調和のための指針ではない。こうした対人関係や家庭の愉しい状態は、より深い淵源、すなわち自己調和という根本原因のごく自然な表現にすぎないのである。

われわれが誰であるかというととがわれわれが何を経験するかを決定する。この事実はあまりに容易に忘れ去られる。それゆえ、人間の内的変革をその中心テーマとすることを怠ったいかなる教説も深究システムも無用である。そこからは平和についてのおいかぶりがでてくるだけで、実際の平和は決してでてこない。そして、もちろん、個人についても、内的変化をその主目的としない求道は的を外れている。

われわれはこのことを念頭において、自己認識へと通じる鎖の環をいくつかたどっていくことができる、そしてこの自己認識が、最終的には人間的調和へと通じていくのであるー

一、過去にあった誰かとの出来事についての記憶で動揺したら、あなた自身にこう問うてみる、「しかし現在のわたしに、いったいそれが何の関係があるのか」と。

二、あなたがある人を獲ちとる獲ちとらないを一切顧慮しないときにのみ、あなたは正しい意味で彼を獲ちとるのである。

三、他人があなたにどう振舞うにしろ、それに反応してあなたの彼に対する振舞いを決めてはならない。憂替に対して憂酵で応えてはならない、軽率に対して軽率をもって応えてはならない。あなたの自己から反応し、振舞え。

四、われわれが下意識的に他人のために望むことはすべて、われわれがわれわれ自身のために望むことなのだ。欲望は霊的なブーメランなのだ。われわれは送りだしたものを受け取るのだ。われわれはただ、他人とわれわれ自身との両方に善きことをのみ望まなければならない。

五、その誤った欲望を超えて思考することのできない人は、彼の真の欲求の達成を無意識的に阻止している。

六、先のことをゆめ期待してはならない。近づいてくる社交的な集りへの期待と興奮のうちに生きるな。それはあなたに真の喜びをもたらしはしない。現在ただいまをフルに生きることによってのみ、人生にある唯一の純なる喜びをもって生きることができる。

七、あなたがスーパーマインドから生きていると、あなたは次第に、あなた自身が困惑した望まない状況にいる度合いが少なくなっていくのに気づく。あなたはあなた自身がますます、あなたが真にいたいと思う状況にいることが分ってくる。

7-⑨ 難しい人々をどう扱うか

<難しい人々をどう扱うか>

ー射かけられた攻撃の矢からはあなたは安全である

敵対的な人々は誰に対しても何に対しても攻撃する、特に誰かのうちに弱さを発見するときはそうだ。とのととを理解していると助けになる。彼らはやたらに矢を放つ。それがあなたに当ったとしても、まったくの偶然なのである。あなたに的が絞られていたわけではない。敵対性はできるだけたくさん的をもつ必要があるのだ。

あなたは的でいることはない。敵意に対しては立ち上がればいい。ただし攻撃的にではなく、射かけられた攻撃の矢から、あなた自身は完全に安全なのだという悟りをもって立ち上がるのである。敵対的な人は弱い人なのだ。あなたを彼の神経症的な欲求のために利用できないと分ると、彼はただちに弓と矢を下げてしまう。

あなたが難しい人の要求に従えば従うだけ、彼の自己中心癖をあなたが増大させることになる。彼のエゴティズムを指えば培うほど、あなたは彼をより恐ろしい人間にしてしまう。それだけではない、彼の要求はますます拡がってくる。あなたは、弱い人が慈善を施されると感謝する、とほんとうに思っているのか?われわれはお人好しであってはならない。人間のエゴは感謝などとは無縁なのだ。エゴは怒って、もっと強要を募らせるだけだ。弱い人々に奉仕するのは無益でもあり不道徳でもある。なぜなら、弱い人々に奉仕することで、あなたは彼らの破滅を助けることになるからだ。次の会話では、この点をはっきりとさせる幾つかの論拠がみられる-

Qおっしゃるとおりです。ほんとに、なぜ人々はこうまで恩知らずなのでしょう?何かをしてやると、もっともっととせびってきます。

A人々が他人から貰う贈物に感謝しないのは、それらが彼らのほんとうに欲しがっているものではないからです。贈物は一時的なスリルは与えますが、それはすぐに褪せてしまい、浅薄なスリルを、もっともっとと欲しがる欲望をつくりだすだけです。たとえば真の知識といった宇宙的なギフトだけが、感謝の念を起とさせ得るのです。

Q他の人々から受ける不愉快な激情をどんなふうに扱えばいいのでしょうか?

A微情を理解しなさい。誰かが微怒したら、それを彼のまやかしの自己が爆発したんだと受けとりなさい。微しく怒っている人は、現実との関連がない誤った役割を実際に演じます。彼は、人生は彼の要求に従うべきだという不健全な信条をもっているのです。怒った男を理解しなさい、しかし決して甘やかしてはいけません。甘やかせば悪くさせるだけです。

Qわたくしはしばしば自分の人生がぜんぜん自分のものではなく、なにか不可視の力に従属しているように感じます。

A あなた自身を取戻しなさい。あなたの生は事実においてあなたのものであり、あなたの獲得された習慣や社会の要求や、ましてや急げ急げと呼ぶ苛立たしい時間感覚に従属しているのではありません。

Qわたくしはどうしても分りません。ある人のことをとても大事にしているのですが、彼はときどき、ひどく残酷になるんです。

Aあなたがペットの犬をとても可愛がっているとしても、ペットは病気のときはあなたに咬みつきますよ。

たとえそのために交友関係が断たれても、あなたの真にあるがままに行動することである。誰かを支配しよう、押さえておこう、かちとろうとして、あなた自身を抑圧してはならない。あなたがリアルでないとき、あなたの受ける報いもまたリアルではない。別の言い方をすれば、他人があなたにとう振舞えと望んでいるとあなたが思うようには決して振舞ってはならない。あなたが振舞わなければならぬとおりに振舞うべきだ。あなたがほんとうに為し、あるいは持たなければならぬもので、他人あるいは習俗に対する従順さを要求するというものは絶対にないのである。

7-⑩ 真の航海者の冒険

<真の航海者の冒険>

人生という名の船が港という名のその目的地へ出帆した。船にはどんな遠洋航海にもみいだせるようなさまざまな船客が乗っていた。

猛烈な嵐にであい、船は舵を失くした。船客たちはパニック状態となり、甲板を走りまわって救助を叫んだ。土官であることを大いに誇りにしている高級船員たちは、どこといって本当にどうにもならない故障はないのだと、乗客たちを鎮めようとした。

「どうかわれわれを倍頼して下さい。みなさんにはどうということなく、万事うまくおさまりますから」と彼らは繰りかえし説得した。

しかし、一人の真の航海者がいた。彼はどこかがおかしいと疑いを挟んだ。事情はすこしもうまくはいっていない、彼はそれを知っている。彼がオフィサーたちに、なぜ舵の修理をしないのかと訊くと、彼らはあいまいな返事しかしない。

「君らは修理の仕方をほんとうに知っているのか」と強く訊ねると、自分たちの言葉を疑わないでもらいたいとぞんざいに答えるばかりだ。

真の航海者は甲板の手摺りによりかかって、陸地が見えないかと数時間、海上をずっと探していた。

その間、オフィサーたちは混乱している船客たちのために相談会を開いていたのだった。ピカピカした金ボタンのついた、きれいにプレスした制服に身をつつんだハンサムなオフィサーたちは、笑いながら船客にアドバイスした、「舵のない航法が自然の航法なのですよ。あなた方の素人考えで心配なさることはありません。みなさんはよい専門家たちの保護下にあると安心なさって下さい。わたしたちはみなさんの面倒をみます。ハーバーについてお訊ねですが、これはわたしたちに頼して委せて下されば、必ずそこへ着けます。なにか疑問がありましたら、わたしたちのところへ訊きにきて下さい。でも決して疑いを募らせて、旅行を台なしになさってはいけません。充分に船上生活を愉しんでいて下さい」

真の航海者はときどき他の乗客を説得して陸地さがしに参加させた。これを耳にしたオフィサーたちは怒った。彼らの濃酒な土官室では、彼らの微笑は省え、黒い怒りに変っていた。だが、オフィサーたちは、真の航海者のことについて船客たちに注意しようとして甲板に立つと、いつもの微笑にもどって言った。

「みなさん、あの男には気をつけないといけません。何も知らぬ未熟な男ですから。みなさんは、いままでどおり、一所懸命にみなさんの面倒をみているわれわれオフィサーの指示に忠実に従って下さい。われわれはみなさんのことをなによりも大切にしています。みなさんが自分であれこれと心配なさるご負担は、けっしておかけしたくないんですから」

オフィサーたちのきらきらする金ボタンに眩惑され、船客たちは感謝をこめて一斉に頷いた。

ある日、真の航海者は、海のほうを見詰めているとき、ついに陸地を発見した。彼は他の客を呼んだ。船客たちは今日も集会で、甲板にでていた。だが船客はみんな、催眠術にかけられたかのように、硬ばってチェアに掛けたままだ。彼等の顔はオフィサーたちの金ボタンの眩光を反射しながら茫洋としている。

船客たちが彼の声を聞き得ないと知った真の航海者はそこを離れた。そして手摺りを越えて海中へ眺びとみ、ゆるぎなき大地へ向かって泳いでいった。

8-① 第8章の基本原理

<第8章の基本原理>

1.混乱から脱出する道はスーパーマインドの示すまったく新しい方向にある

2.あらゆる問題に対する答は、宇宙真理に根ざした澄んだ心のなかにある

3.あなたの内なる宇宙的叡智の源泉へとより近く来たれ

4.あなたの霊的成長へ、峻厳な自己責任をとれ

5.スーパーマインドをもってあなたが自分自身に与えたものは、あなたから決して取り去られることはない

6.スーパーマインドは、誤った思考の引き起こした病いを治癒する

7.スーパーマインドと手を握ったあなたの魂の内的な空虚を怖れてはならない

8.内なるネガティブな衝動はおのずから外に表われる

9.あなたのなすことを変えるためには、いま在るあなたを変えよ

あなたの一日から悩みを取り払おうとするいつもの努力が成功しなかったとしてもがっかりするには及ばない。あなたは落胆するべく生れてきたのではない。あなたはただ、まったく新しい方向に脱出の道があることを悟りさえすればよい。この新鮮な道は、ほとんどの人がめったにトライしない道なのだ、だからこそほとんどの人が依然として悩み苦しんでいる。

人生への答はある。このことについては問題がない。唯一の問題は、われわれがいま答として受けとっているものよりも、真実の答のほうを望都かどうかということである。

われわれは、「スーパーマインド』が第一義として掲げる原理をもう一度検討してみなければならない。

人はおぼろげにも気づいていない、特殊なかたちの霊的な眠りの中に住んでいる。だが彼は目覚めることができるし、目覚めなければならない。そうして初めて人生への答を知ることができる。

レオ・トルストイ伯は、霊的催眠下での彼自身の人生を次のように描写しているー彼は流れの中程に浮かぶボートのなかにいた。彼は遠くの岸を見ることはできたが、知らないところなので、躊躇した。どうしたらよいか分らないので、流れに浮かぶ他のボートへ眼をやった。

ボートはみな下流へと漂っていく。どのボートもどうするかをちゃんと心得て漂っているのだと思い、彼もまたオールをゆるめ、他のボートと共に、夢見心地で下流へと漂っていった。だが、とつぜんすぐ先に恐ろしい急流があるのをみて彼は恐怖に震えあがり、他のボートを振り切って自分のボートをとめようとした。ひとりきりで、彼は死にものぐるいでオールを掻き、最初に見た安全な岸辺へと漕ぎもどることができた。

その岸辺は彼の霊的な運命であり、彼の宇宙的な故郷だった。オールは正しい行為という彼の力であった。彼は前にこの力を放棄して、漂う人々特有の不注意なものの考え方に身をゆだねていたのだが、専びオールを取りもどして彼自身の救いに役立てたのだった。

われわれが目覚めるとき、混迷の謎を解く答をもふくめて、他のあらゆるものがつけ加わる。もしわれわれが、目覚める前に他のあらゆるものをつけ加えようと努めても、永久的な価値のあるものはなにひとつ身につけることはできない。それはちょうど、流れを漂っていた人々のなかの一人が、微流へ引きずりとまれる直前に目覚めて、ボートのなかに一枚の金貨をみつけるようなものだ。

8-② 澄明(ちょうめい)な思考方

<澄明な思考方法>

-およそ混乱の不可能なおどろくべき単純さ

澄んだ思考によって解決できないような人間的困難はない。そうだ、あなたの行く道をよい道にするためには、澄明な心をもってあなたの道を行く以上のことは要らない。

というと、これはあまりに単純なアプローチと見えるかもしれない。われわれはそれほど、複雑な理論や学者風なもっともらしい結論を探しもとめる習慣のなかにいる。それらは不必要なものだ。われわれに必要なことは、われわれの心から心的な雑草を刈り払い、実りある成長を可能ならしめることだけである。本書でわれわれは深奥な宇宙的諸原理を勉強し合っている。われわれはクリシュナムルティやグルジェフのような人々のアイディアを探究し、禅やスーフィ教のような思想体系を検討しつつある。また本書では、スーパーマインドという特別の術語が創りだされた。

われわれがこれらのことをやってきたのは、ただひとえに、心を澄明となし、人生が変えられるようにという目的からであった。

そこで問題なのは、多くの人々が、自分たちはすでに澄明な思考をしていると考えていることだ。

なんど悲劇や惨めさに出会っても、人々は彼らの心的プロセスにどこか狂ったところがあるとは、決して倍じようとしない。彼らは葛藤の教えてくれる教訓を決して学ばない。彼らはひたすらに新しい教説、ポピュラーな摂楽、親しみなれた顔を追い求め、決して来ることのない解放を待望している。

それは砂漠のなかで方角を失い、パニックに陥って更に遠くへ彷徨し去ってしまう人にも似ている。

もしあなたが経済上の損失を蒙ったとしたら、あなたの解決法はこのことについて澄明に考えることで、それ以外にはなにもない。あなたがこれを受けいれようと受けいれまいと、私はただこれが事実だとあなたに確言する。もしもあなたが孤独に嘘まれているとしたら、孤独感の入りこむことのできない思考という港がある。もしもあなたが自分はどうなるのだろうかと恐れているなら、スーパーマインドからの澄んだ考え方が、そんな恐怖を追放してくれる。あなたがもし自分の人生をどうしていいか分らないといえば、およそ混乱が不可能な、おどろくべき単純さで思考することを学ぶことができる。

心がいかに人間を変えるかの例として、われわれはアウグスティヌスを見ることができる。アウグスティヌスは、若かりし日の彼の愚かさを想いださせるような卑小な人々からいじめられ、嘲られて

いた。だが彼は、自分の性質そのものが大きく変り、愚劣さがもはや彼の一部ではないことを知っているから、卑小な人々の嘲りを、ネガティブな反応なしに、心静かに受けとめていた。次の問いと答とのやりとりは、まるでアウグスティヌスが参加したといっていいくらいであるー

Qあなたはいつか、スーパーマインドは過去の過ちを購すととができるとおっしゃいましたが、どうして歴史を変えることができるのですか?

A自己の歴史は心が作るとおりのものです。あなたはあなたの心を変えることができる、従ってまたあなたの自分自身についての観念をも変えることができます。過去の過ちの記憶にあなたを制する力を与えてはいけません。記憶は元来そんな力はないのです。あなたは実際にあった出来事は憶えていられる。ですが、それが今日のあなたとなにかの関係があるなどと考えてはいけません。あなたは一秒毎に新しい人間なのです。

Qわたしの人生はフラストレーションにつぐフラストレーションです。わたしはいつも、それをすればわたしに利益があると希望しながら物事を行なっております。しかしいつも、スタートした地点へ戻って、それで終ってしまうのです。希望が大きければ大きいほど、失敗もよりこたえるのですが、どうしてでしょうか?

Aあなたは、自分は何が自分のためによいかを知っていると、誤って思いこんでいる。あなたはどうしたらあなた自身に恒久的なよいことをしてやれるかを、現時点では知っていない。間違った念から行動するのは、漁網を砂漠に張るようなもので、まったくの徒労です。あなた自身の心の働き方を学びなさい。

Q しかしわたしの獲得した信念に従ってみて、なぜ進歩することができないんでしょうか?

A それは道路が間違っていれば、間違ったところへ行ってしまうのと同じです。シカゴへいく道路を走ったのではニューヨークに着けません。

8-③ 宇宙的自己のうちに夥(おびただ)しい富がある

<宇宙的自己のうちに夥しい富がある>

-自分自身のためになるように思考する

あなたの抱えている問題がどれほど波濤のように荒れていようとも、なにものもあなたをいまいる場所にとどめる強制力はない。あなたの真の自己とのコミュニケーションを切断しているその嵐は一時的なものにすぎない。スーパーマインドの澄明さから生じる自由な生は、いつでも、どこででも、誰でも、生きることができる。

誤解ないし錯覚という、霊的なものを咀む壁は、これを突破する道はある。もしあなたが紙の壁を破ることができるなら煉瓦の壁をも破ることができる。だがまず紙の壁から始めなければならない。

われわれは、自分自身のためになるように思考するのにどこから出発できるだろうか?幸い、どこからでも出発できる。決心のついた栄者がどこからでも海中へダイブするのと同じだ。あなたが望んでいることが、真のあなたのために最善なことと同じものでないのではないかと疑うことから始めることもできる。これは一見そう思えるほど容易ではない。しつとく満足をもとめる欲望は真正な欲求らしく仮装することに巧みだからである。

われわれはたんに幸福について考えることと実際に幸福に生きることは違ったものであると分るようになれる。この差は、美しい牧場を想像するのと実際にその牧場に立つこととの違いである。もしわれわれが不注意にも、想像されたイメージを実際の生きている現実と思うならば、それは無意識的にわれわれ自身を購していることである。多くの人々がまさにこれを行なっている。ここから脱出する道は、心的イメージはイメージ以上のものではないと疑うことだ。ときには、鋭いショックあるいは意しい苦しみが、われわれの内部に、たんなる思考を超えたリアルななにものかの存在を匂わすことがある。

あなたの努力をこの簡単なテストにかけてみる。「俺は本当に、前よりすこしははっきりと物事を見ているだろうか?」と。もし答えがイエスなら、それは純粋なプラスである。もしノウならばどうするか?心の霧を払う努力を辛抱づよく続けるだけでよい。

あなた自身を、あなた自身の内なる秋かな根源へより近くさらに近くと絶えず接させてゆく。その根源自体があなたの新生となる。それは川べりにある糊々の柮に似ている。一本一本の醤の緑と生命力とは、それが川という根源に近いという事実で保証されている。

あなたは、われわれが自己責任とよぶ崇高なパワーを穴いてはいかなることも為し得ず、持ち得ず、達成し得ない。あなた自身を乗てて、あなた自身の豊かさを期待することはできない。貧困といい、富裕といい、それらは全て自ら招いた結果なのである。

8-④ スーパーマインドはいかにして問題を解決するか

<スーパーマインドはいかにして問題を解決するか>

-条件づけられた心があらゆる問題の原因である

次は、人為的に条件づけられた心のメカニズムについて、ある質問者にした私の説明である-

Qあなたは、人々のもつおそろしい葛藤について度々お話しになりますが、人生には多くの悩みがあるのに、ほとんどの人は意外と冷静に見えますね。

Aとんでもない。人々が冷静だというのはまったくの幻想です。幻想をつくりだす原因は二つある。第一は、人はみんな盛りの仮面の背後に深刻な葛藤を隠している名優なのだということ。

第二には、危機が現われないかぎり、だれでも自己コントロールを保持した姿で動き回われるということです。しかしほんのちょっとした緊急事態で、彼はすぐズタズタに崩れる。あなたには、自己コントロールがあるかに見える人々の隠された恐怖が分らないのです。

Qしかしそれはすとしペシミスティックな見方じゃないんですか?

A医師が病気を病気と見るとペシミスティックですか?病気の人を健康者だと見たら、彼は無能力な医師ということになるんじゃないですか?そして、彼のいわゆるオプティミズムは治寮の成功にとって障碍となるんじゃないですか?

Qそう、もちろんです。

A 工夫されたオプティミズムは、ペシミズムなのです。

われわれは、条件づけられた心には問題解決の能力がないと悟らなければならない。条件づけられる心があらゆる問題の原因である。条件づけられた心はそれ自体を治すことができない。条件づけられた心とは何か?われわれはこれを、借りものの観念、個人的な野心、まやかしの論理などから成りたっている心の意味にとる。こうした固定化した心は何がベストかを見いだし得ない。それは、それが是非とも持たなければならないと思うものを、狂気のように探しもとめることしかできない。

固定した態度の重荷を背負った人がどんなふうに問題解決をするか見てみるとよい。彼は、誰かに裏切られたと感じる、あるいは感情を害されたと感じる、といってよかろう。彼の最初の間違いは、出来事に彼がどう感じるべきかを言わせてしまうことだ。出来事は彼に、怒れ、ナーヴァスになれ、動転しろと命令する。彼は命令に摺れ伏す。それはすぐに次の舞台となり、彼の傷つけられた感情を正常へもどす方法を考えるという悲劇の第二幕が始まる。彼はみんなに、自分がどんなにひどい扱いをうけたかを告げる。彼は内なる方向へ、彼自身にこぼし、気の毒だと思う。もし報復が可能なら、それを行ない、一方自分自身を正当化する。もし打ち返す方法がなければ、彼の心に復讐の心的フィルムをまわす。

なんたる悲劇だろう。もしあなたが彼に、君は君自身にこんなことをしているのだ、と説明してやっても彼は耳を傾けるだろうか?ノウだ。彼は、彼の支払う犠牲の大きさを知らず、彼のネガティブな反応からむしろ奇妙な快感すら得るのである。

さてことでわれわれは、同じ裏切りの出来事をとりあげ、自分のスーパーマインドから思考している人がどうこの事例を扱うかを見てみよう。まず、そういう人は、出来事に彼の感情の性質を指示させない。彼は外部的な事象でこっちへあっちへと操られる人形ではない。彼は自己指揮者である。次には、裏切りというものは彼には存在すらいない。エゴだけが裏切られたと感じる。偽りの中心だけが不当不公平という感じを抱く。スーパーマインド思考の人には真に手がつけられないのである。贋物の中心を持たないから、彼は誤った反応はしない、怒りや苦悩で反対しない。

見た眼での裏切りにいきりたたないからといって、このスーパーマインド人間が弱いとか無関心だとか思ってはならない。彼は強いから、真に強いから、自分に攻撃が加えられてもただ肩をすくめるだけである。裏切られたと感じるのは弱い人である。

とうしたことはすべて、われわれに、われわれ自身に対する、またわれわれの日常的事象に対する考え方の変革を迫るものである。われわれは、ほとんどの人々がするようには反応したくない。彼らは惨めだ、あなたは彼らのようでありたくはない。あなたは変りたい、違うようでありたいと思う。

8-⑤ スーパーマインドの自覚による力

<スーパーマインドの自覚による力>

-答のいらない状態

消防署は賢明にも火災予防に最大の時間を割き、あらかじめ火災を少なくするようにしている。賢明な人は、まず第一に問題が燃えあがるのを予防する方法を発見する。

スーパーマインドの行き方は、問題と次から次へと戦うのを不必要にする。あなたはあらゆる問題を超えたところにいるのだ。これはあなた自身がかくあるはずと、ずるような理想像というものではなく、あなた自身を形成しているところの事実そのものなのである。

やみくもに問題を回避しようとするのは誤った行き方である。問題を理解しようとする熱意が正しい道である。

外部世界で苦しい状況に置かれたとき、足掻く必要はない。超然たる観察者として、ただ問題とともに流れていけばよい。何が起ころうと動転することなく、静かにしておればよい。事件から離れて、あなた自身の内なる世界に立って、沈黙して理解に努めておればよい。こうすれば、この状況のもつ毒のある燕はすべて抜き去られてしまう。

るしあなたの生における大目的が目を覚ますことであるならば、あらゆる出来事はあなたにとってプラスの契機である。それはあなたを一歩一歩と自己覚醒へ近づけるからである。逆に、もし、あなたが、間違った目的にしか役立たない誤った追求目標しかもたないなら、あなたに起こることはすべて自己敗北へつながってくる。

ほとんどの人々は、物事が善いとも悪いとも見えるのは彼ら自身の態度のせいなのだということがなかなか分らない。との無明をただすひとつのテクニックは、なにか小さな気怒りの種子をとりあげ、まったく別の観点から静かに見てみるという実験である。忘れてはならないことは、あなたが気づいているいないにかかわらず、このテクニックは事実だということである。この新しい解放手段は、工夫されたものではなく、既存の専実だということである。あなたはただ自分の力でそれを発見するだけなのだ。

いま現在あなたの抱いている初の見方の当否を問うこと、これが自己変革の絶対要件である。あなたの古い、馴染んだ考え方に反逆しなければならないということである。他の人々とは正反対の方向で、考え、行ない、感じなければならないということである。『天路歴程』のなかでクリスチャンが言っているように、もしあなたがわれわれといっいょに行こうというのなら、風や測に辿って行かなければならないのである。

人生を新しい行き方で見、かつ生きるというのがスーパーマインドの行き方の要である。ととろで、あなたの現在の行き方は、あなたに何を与えてきたか?たぶんあなたは次のように問うていたことに気づくであろうー

Qあなたの秘教的アイディアがとても実際的であることがわかりました。そこで、わたしの悩みである不眠症についてお訊きしたいのです。どうすれば錠剤を飲まずに眠れるようになりましょうか?

A 不眠と戦うのをやめなさい。眠らないことを恐れる気持そのものが、あなたを眠らさずにおくのです。あなたの心と肉体が眠りたくないというのに、なぜ反対することがあるんですか。眠ろうが眠るまいが、そんなことを気にするのはよしなさい。

Q先生は前に、わたしはわたしの問題について何もする必要はないとおっしゃった、それからまた、わたしはわたしの問題についてなんでもすることができるともおっしゃいました。もうすこしご説明をおねがいします。

A相矛盾する欲望と誤った見解とで成りたっている条件づけられた自己は、けっきょく何も解決することができず、ますます深く端に落ちこんでいくだけです。しかし、新しいあなた、スーパーマインドそのもののあなた、つまりあなたの宇宙意識は、あらゆることについて答を知っています。この新しいあなたは、答の要らない地点に到達できます。なぜなら、新しいあなたには問題そのものがないのですから。

 

8-⑥ 問題はその本来の無へ至る

<問題はその本来の無へ至る>

-真実によって幸福となるか真実なしで不幸となるか

あなたの思考、言語、行為が、あなたの内なる真髄、つまりあなたの真の自己と一致しているならば、すべての問題は消えてしまう。不協和音は、真なるものと、誤って真なるものと思いとまれているものとの間にある矛盾と摩擦なのである。

肥りすぎという問題がある。これは間違った中心がその人を管理してしまうから起こる。われわれが、心をしてではなく、肉体をして、何を食べるかをわれわれに告げしめておれば、肥満などは起こらない。自己をよく知るということがいかに大切か!

金につながる問題も多い。自己統一がなされている人は自己分裂の人とはまったく違った金との関係をもっている。ひとつは、彼がはるかに実際的だということだ。彼はほんとうに要るものだけにしか費しない。所有欲が起とす人為的ニーズのために金を要うととはしない。金さえ使えば力が得られるという感覚への強迫的欲求はもたないから、彼の満費は少なく、彼はあまり金を要しない。彼は富に惹かれず、金に誘惑されず、買収されることがない。これが彼の享受している平和な自由のひとつである。

ゴルディオスの結び目という古い伝説物語からわれわれはあることを学びとれる。大昔、小アジアにフリュギアという小さな王国があった。この国が有名なのは、ただ、宮殿の中庭のひとつにあった特別な戦車のせいであった。戦車の職は艶き馬の木に、ゴルディオスの結び目といわれる大変に解きにくい結び方でつながれていた。

訳注。ゴルディオスはフリュギアのただの百姓であったが、自分の馬車でゼウスの神殿へ駆けのぼった最初の男がフリュギアの国王となるというゼウスの神託によって、人民から選ばれて、王となった。彼はとの馬車を後でゼウスに献じた。ゴルディオスの馬車を挽き馬にむすんだ綱はミズキの樹皮を編んだものだったといわれる。

ある神託によると、この結び目を解いたものは世界を征服するとされていた。だがゴルディオスの結び目は、あたまのいい、そこらじゅうの王や戦士の挑戦を尻目にかけ、解かれないままに百余年が過ぎ去っていた。

ここにマケドニアの若い王、アレキサンドロスは、自分の腕を試してみようとフリュギアへ旅立った。指定されたその日、中庭には物見高い見物人がいっぱいだった。百年の余も、多くの挑戦者がこの結び目に挑んだが、みんな失敗だった、いったいアレキサンドロス王はどんな新手をもちいるのかなと、観来は固唾をのんで見守っていた。

そのアレキサンドロスは、館の鞘を払い、ゴルディオスの結び目をきれいに真っ二つに切り放した。

私がこの伝説を取りあげたのは、との章の冒頭にのべたポイントを強調するためである。われわれは、解きがたい困難な問題を打ち破るには従来とはかけはなれたまったく新しい方法を学ばなければならないということである。新しい方法のさわりは、この新しい方法が存在するのだという点である。それはあなたの想像するところとは全く違った、あるなにものかである。もしこの答が想像上のものであったら、真に正しいとはいえない。あらゆる人間的苦悩の解決は、想像力の問題ではなく、事実の問題なのである。事実だけがわれわれに偉大さを与える。

あらゆる人々は偉大なことをやりとげられる、もし偉大なこととは何かさえ知っているならば。

(イギリスの小説家、批評家。一八三五〜一九〇二)

人は、霊的な生によって幸福となるか、それなしで幸福になるかの選択ができる、と多くの人々は陽気にそう思いこんでいる。だがこうした選択はあり得ない。われわれは真実によって幸福となるか、真実なしで不幸となるかのいずれかなのだ。折衷はないのだ。

遅かれ早かれ、あなたは立ちあがって、あなた自身の内部にある暴制にこれ以上票まれるのを拒否しなければならない。心的誠実さに妥協はないー これをあなたの人生のモットーにするがよい。

8-⑦ スーパーマインドは好戦的な大将軍をも変えてしまう

<スーパーマインドは好戦的な大将軍をも変えてしまう>

この地上の平和は?あらゆる個人に影響するグローバルな諸種の問題についてはどうであろうか?

個人の内的変革が、社会的平和への唯一の道である。これはもちろんあなたと私との変革である。

しかし大多数の人々は社会的な病薬を彼ら自身の社会的不適応の投影と見ることを拒否する。人は、原因は彼自身の外のどこかにあると自分に言い含め、彼個人の責任を回避しようとする。人はよい方へは変化しない。彼はただ悪い部分を並べ変えるだけである。これは病院にいる患者をベッドから別のベッドへ移し、それで病気が治るものと希望するようなものだ。

結局、人間の心はリアリティよりは、はるかに深く強く虚構に従うように造られている。(エラスムス)

古代インドの『育王は、個人の内的変容をつうじて社会平和を実現した完璧な事例である。若いプリンスとして戦争のなかで教育をうけた阿育は、その後近隣の国々を征服し、戦争につきもののしい犠牲と歎きとを見なければならなかった。彼はそれから秘教的な教えを受け、そのなかには仏陀の教えも含まれるが、深い省察のうちにまったく新しい人間に変化した。彼は戦争と残忍とを棄て、霊的な洞察による人間的強さの権化となり、理想的な帝王となった。ここであなたが持ちだすと思われる質問に、次のように答えることにしようー

Qわれわれは人類世界の狂気をはっきりと見つめなければならない、とおっしゃいましたが、これはおそろしい考え方じゃございませんか?

A それは重要な問いです。恐ろしい考え方なんかじゃありません。あなたが見ないとき、あなたが世界の狂気の真の原因を把握しないとき、ひどく恐ろしい考え方と思えるだけです。はっきりと見て分れば、恐怖はあり得ません。自由な人は、社会の狂気を、感情を交えず、自分がどうという個人的意識はなく、冷静に見ます、ちょうど檻のなかのトラが爪で掴み合うのを観察するようにです。

Q たとえば窃盗といった犯罪のような社会的な問題に対するスーパーマインドの解決策はどういうふうなものなのでしょう?

A 犯罪はすべて霊的な催眠状態が原因です。田園地方の原野を数人の人が歩いているとして、その一人がコブラを見たと思う。恐怖のあまり、別の男の杖を盗んでコブラと戦おうとした。だが視力が澄んでくると、コブラと見えたものは縄に過ぎないと分った。彼はもう杖は要しないから、盗みはいたしません。誤った自分が誤った欲求を生み、それがまた誤った行動を生みだすのです。

Qわたしはこの教えを勉強したいと思っています。しかし様々な教師たちやシステムが錯綜し、しかもそれぞれに教えるところが矛盾しております。どれを傾聴すべきでしょうか?

Aもしもーダースもの人があなたを囲んで、同時に喋っていたら、あなたはとても注意力は集中できない。彼らの話を聞くのをよしなさい。あなた自身に耳を傾けなさい。彼らのうちの一人が真理を語っているかもしれない。しかし、あなたの内にわずかでも、彼のもつ叡智がないのなら、彼の叡智の認知も評価もできません。他人にたよることは無益です。あなたが真の叡智を聞いたとき、それと認めるようになれば、真の教師に耳を傾けてそれ以上の導きを得ることができます。

8-⑧ 人生に本当の意味を与えるには

<人生に本当の意味を与えるには>

-何がベストであるかについてあらかじめ決めた見解をもつな

あなたはとの道を行こうかあの道を採ろうかとしきりに考え、際限なくいろいろと計画する。あなたは決して間違いをしでかさないと確をもちたい。これやあれやと何度も苦しげに方向転換をおとなったあげく、ついにこれをやろうと決心する。それが気に入ったように進めば、あなたは自分の賢明な決定に自分自身におめでとうという。もしうまく行かず、傷つけば、あなたは自己嫌悪に陥る。

あなたに分らない道理はこれとあれとの間に差はないということなのだ。差がでるのはあなたの反応の仕方にある。あなたが最初の結果に喜びをもって反応するのは、それがあなたに、間違ってはいなかった、正しかったという護感覚を与えてくれるからである。あなたはそのときは安全だと感じる、だが次はどうしようかと心配する。

受げ薬てなければならないのは、正しくありたいという死に物狂いの欲求である。自分が正しいか間違っているかを心配することなく、結果がどうなるかを懸念することなく、なにごとによらずあなたのやることをすれば、それは達成されるのだ。スーパーマインドから生きるときは、あなたは自分が正しいか間違っているかを心配しない、だから不安や焦燥はない。

形勢を一変させるのは、われわれにとって何がベストかについてあらかじめ決めた見解はもたずに、トータルにあなたの人生へかかわるときである。こうした、全身全霊で生へかかわっている生き方のなかには、エゴの興奮はなくエゴの苦痛もない。ただ一途にリアリティのみがそこに展開していく、それは至高の境地である。

しかし、もし生をよく見ない人が、彼に警告を与える"残しに対し、ただそれらにもっとづいていくだけならば、そしてそれらを調べるならば、それらにとってもまた彼が幻にすぎず、リアリティではないのだ、と悟るであろう。(レオ・トルストイ)

あなたがその内的世界から生きるとき、外部世界のどんな状況もあなたを願わせることができない。どの候補者へ投票するか、あなたの経歴はどうか、結婚するかしないかなどすべては立ちどころに答がでてくる。アルコールをとるかとらないか、給仕にいくらチップをやるか、正しい服装は何かなどの問題、あるいはまた官をどう扱うか、カロリーはどうするか、アンバランスな人々をどうするかなど、すべて即座の解答のでない問題は、あなたにはあり得ない。

この世界に生きることは望みながらも、その混乱にはいささかもかかわりたくないとする多くの現代人にとって、古代ギリシャの神思想家ヘラクレイトス(前五三五?〜四七五)は一つの生き方を示している。

王家の生れであるヘラクレイトスは生国エフェソスの人々の社会的政治的葛藤のなかに抜きさしならず巻きこまれていった。多くの野心家たちの唱導する理想はすべて彼らの利己的な欲望とその達成とを隠す巧妙な仮面でしかないことを、彼は早くから見抜いた。彼は自分の内的な純潔と誠実を犠牲にすることができず、エフェソスの市を薬て田園生活の静寂を選んだ。彼はそこから、この世になにかよりよい生き方を求める人々へその霊感に富んだメッセージを送った。ヘラクレイトスは、個人の平安と社会の安定とはいずれも、人類が宇宙的知性から生きかつ考えるときにのみ可能となると宣言した。宇宙的知性を採究するある熱心な求道者はかつて私にその答えを求めてきた-

Qそれにしても現代人の生き方の騒々しさは狂いすぎていはしないでしょうか?

A 現代生活と内的な目覚めとの間に葛藤を許すことはないのです。電子計算機とテレビセットはそれ自体敵ではありません。それらは、われわれがそれらを偽りの神々とするからこそわれわれを悩ますのです。自己発見を成しとげたビジネスマンは小うるさいコンピューターの前に立っていてしかも完全に冷静で気軽にしていることができます。

Q人生の意味は何でしょう。ある日わたしはそれを発見したと感じることがあります、ですが翌日は再びがっくり気を落としてしまいます。人生に意味はあるのでしょうか?

Aどうか理解して下さい。あなたの質問は不安から発せられている、不安があなたの理解を阻んでいる。しかしそこで考えてみましょう。あなたが、条件づけられたアイディアにもとづいて、その人生に意味をもたせたいと望んでいるかぎり、人生の意味はあなたを素通りしてしまう。真実ではないアイディアにもとづいた努力は偽りの意味しか生みださない。偽りの意味は崩れてしまいます。あなたは、熱心な採究をもってすれば、あなた自身の問いに答えることができます。人生に意味を与えようと、思いつめた狂気の努力は薬てなさい。進んで、さらりと薬てなさい。そこに生じる空虚を、そのままにしなさい、そこに放置しなさい。そうすればおのずと理解がやってきます。

8-⑨ 霊的探偵

〈霊的探偵〉

外的条件を変えても新生を獲得することはできない

人々は彼らの問題をほんとうには解決しない。彼らはたんに一つの解決試案を他のそれへ変えていくだけだ。あらゆるものはそのままでしかない。なにかが変ったというのは彼らがそうじるようにとり繕うだけである。なるほどそういうことではないかとかすかに気づくことが、この種のうら悲しきを終わらせる第一歩となる。

人は彼がどういうたぐいの人であるかに応じて、彼のもつ種々の問題を惹きつけるのだ。彼のネガティブな性質が、彼がどこにいようと、外部へそのまま複写され、投射されて、問題となって現われるのだ。争うことの好きな人は、不可避的に、他の人々と喧嘩してしまう。他人が自分につけこむのではないかと感じている人は、実際に人からつけこまれ、利用されてしまう。人生の霊的な事実を拒否する人々は、次々と拒否に出会うような選択をするしかない。

あなたは、あなたのあるがままになすのだ。あなたのすることを変えるにはいまのあなたというものを変えるしかない。

ネガティブな性質をもった外部的条件をひっさげて何かをしようとしても徒労である。ネガティブな外部条件、それはその人の内面にあるオオカミが落としている影でしかない。影と戦ってもむだだ。影を蔽いかくそうとしても徒労だ。オオカミそのものを潰すしかない。それがスーパーマインドの仕事なのである。

あなたの訪れる場所は、あなたの霊的なレベルを示している。あなたは、あなたがそういう人であるからして、あなたがいるその場所にいるのだ。ディナーに、講演会に、ピクニックに、ビジネス会議等々に、あなたが出席している、加わっているということは、あなたの意識レベルと結びついている。あなたの自己覚醒レベルが上がるにつれ、あなたの訪れる場所はその性格を変え、より健全なものとなる。その内的世界での彼の生がいかに外部世界での彼の活動を決定しているかの、これらはよい実例である。荘子は言うー

この真理さえ内部にあれば、それは外部で霊的な力を輝う、だからこそわれわれは真理をかくも重んじるのである。

熱心な求道者は、これらのととを心に秘めて、いかにして彼自身のための作業にとりかかるか?

彼の考え方と彼に起こることとの間の関係を見つけることで、彼は有能な霊的探偵となれる。彼は自分の問題の起源を彼自身の内部にあると見抜くことができる。彼は外的条件を変えて新生を獲得することが不可能であることを知る。彼はそのテレビセットを変えることで新しいテレビ番組を得ることができる。彼は彼の内部に、ネガティブな事態を繰りかえす癖のある反復的な勢力が存在しているととを理解する。

人は彼の無意識的なネガティブ感情と言動に対してどれほど恐ろしい代価を支払っているかに現実に気づくとき、それらをやめる。だれも意識的にみずからを傷つけはしない。われわれはいつも、われわれのほんとうの利益に反したことを行なうとき、悪かったと思う。これが自己矯正へのおおいなる契機となり得る。問題、悩み、苦しみは、常に自己を傷つける思考、行為によって起こる。われわれの内部には、われわれの目を覚まさせようとしているなにものかがある。われわれは眼を開こうと努めることで、このなにものかと協力することができる。

庭造りの道具類を使って時計を作ろうとしてもムダだ。だが時計を作るための正しい道具は存在するのだ。あなたは今日、あなたのスーパーマインドという正しい道具を使って広々とした人生の創造へ出発することができる。

9-① 貴重な秘訣

<貴重な秘訣>

1.あなたは、無益ででまかせな想念のとりことなることはない

2.おおいなる宇宙的秘儀は、 りの自己感覚を棄てることである

3.あなたは自分で思っているよりずっと賢いのだ

4.自分の悪性に純粋に気づいているだけで善性がもたらされる

5.あなたは偉大さのすぐ間近まできている、だから思いきって跳

6.あなたの知る真理を、あなたの感じる願望の前に据えよ

7.あなたの霊的な力をなんぴとにも抜きとらさせてはならない

8.独居をしてあなたの賢い教師たらしめよ

9.真のパワーはスーパーマインドにその源がある

10.あなたの心をしてそれみずからに問わしめよ、そしてスーパーマインドをもって宇宙真理へ飛翔する力を与えよ

あなたが劇場にいったとする。芝居が終って、あなたは立ちかける。もうかなり強いし、あなたは家に帰りたい。そのとき突然、シェイクスピア劇の衣裳をつけた俳優が一人舞台へ飛びだしてきて、あなたの注目を要求し、だらだらと退屈な演技をやり始めた。

あなたの本心では、もうお芝居など見たくない。だが観覧席は心地よく、家までは長い道理だ。

で、あなたはそのまま坐っている。しかしなにかしら違ったところにいるような、居心地の悪さをどうすることもできない。

ようやく長ったらしい演技が終って俳優は退場した。あなたが帰ろうとすると、また別の俳優が舞台へ飛び出してきた。こんどは占い師で、あなたに坐れ、聴けと言い張り、自分にはあなたの運命を予言する力があると宣言する。聴きたいムードではないが、占い師のパーソナリティにはなにかしらあなたを惹きつけないではいない一種の強制力が感じられる。仕方なく、あなた自身のよりよき判断に逆って、あなたはとにかく彼に喋らせ、彼の演技を見守ることにした。あなたはなんとなく落ち着かず、ただ彼のとりとめもない予言に聞きいったが、彼のいうことがまやかしであることはすでに感づいていた。

占い師が舞台を去った頃にはもうあなたは疲れきっていた。もうどうしても家に帰らなければと立ちかけると、第三の俳優が現われて、またもあなたの注視を求めた。だがもうあなたはウンザリしている。もうたくさんだ!あなたは振りきって、劇場を出、家に帰った。

人生では、幾千何百というナンセンスに近い思考やアイディアがあって、次々とぼんくら俳優みたいに、あなたの心という舞台へ姿を現わしてくる。それらはもっぱら利己的な立場から、あなたの時間と注視を強要し、挙句のはてあなたを退屈にし、うんざりさせて突き放す。ほんとうにそうか、それはあなた自身で観察してみるとよい。この頃わしさ、この苛立たしさが、あなたの静かな霊的ホームから、あなたをどれほどたぶらかし、注意力を浪費させているかを見るとよい。

あなたはとうしたバカげた演技者のために、囚われた観来のひとりにとどまっていることはない。

そのインチキを見抜いたら、あなたはすぐに立ちあがり、出ていっていい。スーパーマインドの秘儀があなたにその力を与える。

9-② あなたは自分で思っているよりも賢いのだ

<あなたは自分で思っているよりも賢いのだ>

誤った自己感覚を露わにして破砕するのに、あなたはどこまで深く掘り下げるか?どこまでであれ、その深さで、あなたは純粋なるものを知るであろう。しっかりとした岩盤の上に家を建てる目的で、その上にある砂まじりの土を掘っているのだ。

たしかに、こんなに長いこと、こんなに一所懸命に作業したにしては報いのなんと少ないことか、これではあんまりだとあなたが感じるスランプの時期はたしかにいくつかはあろう。以前の低次元へ戻りたいという願望があって、更にあなたの失望はたまらないものになっていく。だがあなたは引き返せないことを知っている。沈みかかる船から海へびこんだがまだ陸地が見えない遭難者、そんなふうにあなたは罠にかかったような気になる。

だがちょっと待って。そのままでよいのだ。構わないのだ。あなたはそこまでよくやったといえるのだ。あなたには理解できなくとも、理解しているなにかがすでにあるのだ。

ことのところに、混乱した心をはっきりとさせる秘教の極意がある。混乱とともに生きるのだ、混乱に逆らわず、混乱がそれみずからを破壊するまで、混乱と同居するのだ。

あなたは自分で考えているよりは賢いばかりでなく、賢いことを知っている。トラブルに陥った人人が、彼を救える宇宙的な事実そのものに対して激しく戦う訳は実はここのところだ。彼の洞察が、彼が言い争う根拠そのものなのだ。彼の誤った自己が、盗人が官にその盗品を取り戻されまいとがんばるように、その為りの地位を防御しようとするのだ。

あなたのスーパーマインドにあなたのことを考えさせよ。

スーパーマインドの洞察が得られるについては、ちょっと奇妙な特色がある。洞察が得られる以前に、すでに自分で理解しているとわれわれは確する。しかし真の洞察を得ると、何も知らなかったことを悟るのだ。この関係は、ティーンエージャーが、若気の至りで自分で持っていると思いこんでいた大きな叡智にたとえられる。

スーフィ教の諺に、「銅は金になるまでは、自分が銅であることは知らない」というのがある。言い換えれば、われわれは、目覚めはじめるまでは、眠っていたことを知らないのだ。

ここで人間性についてのあまり理解されていないひとつの特徴を申しあげたい。あなたの理解が、多くの謎を解き、新しい解決法を教えてくれる。

人間は、おれは一個の統一された個人であると考えている。だがそうではないのだ。彼の内部には何ダースもの異なった自己が棲んでおり、それぞれに矛盾対立している。Aという自己がいまおれを支配している、が次の瞬間、自己Bにとって代わられる。自己Bはまたすぐに自己Cに支配権を渡す。

ふつうわれわれはこれをムードの変化、態度の変化とよんでいるが、あるひとつの自己が他の多くの自己を一過的に支配するのだと考えると分りやすい。人はあるときは自分でうまいと思う発言をする、すぐ後で、その発言を悔む。二つの自己がここでは関係しているのだ。ある女性は、今日あるプロジェクトにひどく情熱を湧かしている。だが明日になるとけろりと薬ててしまう。これは違った日にそれぞれ違った、矛盾した自己が彼女を支配していたためである。

人間は、こうした矛盾したいくつかの自己を見ることができない、いや見ない。それで混乱し、右左に裂かれ、誤ちを犯してしまう。それはーダースもの水夫が、おれが船長だとかわるがわる言い張るようなものだ。一人が舵を握り、船は南進する。すると別のがでてきて船は北へ向かう。どれも、次のものに斥けられるまでの束の間、操舵しているだけだ。船はどこへも着きはしない。

しかし自己統一は可能である。この本のなかでいわれているすべては、自己統一をつうじて、自分が自分の船長となるよう、あなたに協力しているのである。まず自己分裂に気づくことから始める。

それをはっきりと自分のうちに見る。混乱に気づくことが、あなたの澄んだ指揮権を回復するのだ。

9-③ スーパーマインドによる新道徳観

<スーパーマインドによる新道徳観>

-人間の造った徳目は人間の邪悪を押さえこむだけ

スーパーマインドはわれわれをまったく異なった善の感覚へと導いていく。われわれは人造の教理に従ったのではそとへは昇れない。ふつう社会が賞護する外部的な徳日を機械的に実践していくよりもなお悪い。こうした世上一般に広がっている教理教説は、霊的な上昇については、せいぜい交通規則がドライバーに対して持つぐらいの効果しかもたない。イエスは、隠された偽善をもつ表面的な道徳性を繰りかえし戒めた。

目覚めていない人々は、彼らの層じる社会的外部的な徳目の犠牲者である。私は、"善い"人になろうとする努力ほど苦痛の多い仕事を知らない。私は、善い”人々ほど避けられるべきものを他に知らない。彼らは非常に悪いからだ。

だから、善い人と正義の人に誓戒を怠ってはならない!彼らは、みずからの徳目を考えだそうとする人々を十字架にかけるからだ・・・・・・(ニーチェ)

人間の造った徳目は、人間の邪悪を押さえこめておくだけで、その手が緩めば、たとえば戦争のときのように、すぐに人間を元へ戻してしまう。われわれはすぐに、こうした命令された善と、宇宙意識から昇ってくる真の徳性との差異に気づく。目覚めていない人が表面的な善を維持できているのは、ある種の悪行が彼にもあまり魅力がないためか、あるいは社会一般の道徳嗜好に服従しない場合の結果をおそれるからにすぎない。恐怖にもとづく道徳は深いところでは不道徳である。

しかし自己統一のできた人には宙吊りの善というようなものはない。彼が善であるのは、善である以外のものが彼には起こり得ない、ただそれだけの理由からである。目覚めた人だけが真に道徳的なのである。

まことにこの世界は、邪悪な世界だ、われわれの思っているより遙かに悪い。エラスムスは彼の古典的な著書『愚神礼讃』のなかで、この世界は愚者たちが他の愚者たちによって賞讃される世界だといっている。ション・アクトン(イギリスの歴史家、宗教家。一九三四〜一九〇二)がいうように、偉人はみんな悪いのだ。

われわれは人間悪を、感傷癖に左右されず、われわれ自身の為りの善感覚の投影などに影響されずに、ありのまま明瞭に見なければならない。いったん見れば、悪の害から自由になる。それを明らかに観るということは即ちもはやその一部ではないということだ。

われわれが他人の悪の深さに気づかないのは、われわれが第一、われわれ自身の内部にそれを見抜かないからだ。われわれは、底のほうには恐ろしいドラゴンをいくつか隠しもっているのに、表面は、愉快で、高尚で、愛すべき人間だという夢のような自己イメージのなかに生きている。しかし、われわれ自身の悪性に目が覚めれば、そとからは自由となり、また他の人々の悪性からも自由となる。

いったん自由が成就されれば、われわれはもう世界の悪を糾弾しない、ただ明徹な心で理解するだけである。われわれはまずわれわれ自身を赦したから、他人をも赦すのだ。

人間の邪悪さは、その霊的な催眠と自分の真の本性への無知とからきている。

われわれ一人一人がみずからを目覚めさせるよりほかに解決はないのだ。

9-④ 虚偽はおのずと消えてゆく

<虚偽はおのずと消えてゆく>

-静かに観察し、見守れ

スーパーマインドがいかにして罪と悪の両足を縛りつけてそれらを無能力にしてしまうかについて、次のような問答をここで挿入しようー

Qでは、『スーパーマインド』では罪と悪をどう定義するのですか?

A罪は、偽りのもの、真実でないものすべてです。別の言い方をすれば、霊的催眠下で行なわれる自己敗北的な行為はすべて罪です。スーパーマインドからでなく、偽りの自己から生きることで、われわれは愚かなことどもを行なうのです。内的な光の黎明とともに、われわれが自分の真の本性から生き始めるとともに、焦りも邪悪も消えていきます。そうして、ことばのあらゆる意味で、善となります。彼は正気となり、優しくなり、明期になります。

Q しかし悪というものはほんとうに存在するのでしょうか?

A存在し、かつ存在しないのです。この一見して矛盾接着した論理に煩わされてはなりません。

あなたは、あなたが邪悪なコブラを見たと思い、打とうとする、だが、コブラと見えたものが実は縄であったと分ったら、どこに邪悪がありますか?目を覚ませば、邪悪は人から消滅するのです。

Qわれわれ自身の悪からどうすれば目覚めることができるのでしょうか?

A自分の悪なるものを、道徳的な判断はまじえずに静かに観察することで、それはあなたの眼の前で変っていきます。道徳的にあれこれと理屈をつけること、これだけは決してしてはいけません。自分から決して浅薄なお説教に耽ってはいけません。もしあなたが自分の悪さを見、かつ自分は善いはずだがと想像すれば、あなたは二つの観念に挟まれて苦しみます。非難と糾弾はせずに静かに気づいていること、これが善悪両方についての人間的観念を破壊してくれます。そうすればあなたは葛藤がなくなります。

修行の途中で困難にであっても恐れてはいけない。抑替、大失敗、絶望、自分の悪といったものと戦ってはならない。「悪しき者に抵抗うな」。

悪にとってどうしても耐えきれない一事は、あなたがそれをあなた自身のうちに静かに、自己科弾もせず、パニックにも陥らず、戦うとともなく、黙って観察していることなのである。

人間は自分のネガティブな衝動力によって動かされ、それが行動化され外部に現われはするが、彼自身の中心であり真髄である彼の本質は決してネガティブな衝動の団塊ではない。われわれは、ネガティブなものはそれ自身なんの力もないのだということ、われわれが誤って、あるいは不注意にそれらに与えた力しか持たないのだということを理解しなければならない。この理解に達するようにわれわれは修行しなければならない。人間が自己分裂による罰則を受けるのは、彼が自分自身を正しく扱わない、正しく面倒をみることを怠るからなのである。

自己分裂がなく、内的なものと外面的なものとが一であるとき、人間はなんという素晴しい人格たり得るであろうか!

ネガティブなものからの自由は不思議で確実なプロセスで達せられる。われわれは、それが真の自己との結合をもたないことを知るには、その前に先ず、ネガティブなもの、たぶん敵対感情というものに気づかなければならない。それゆえ、第一ステップとしては、敵対感情を抑圧したり否認したりしてはならず、合理化してはならず、非難すらしてはならない。敵対感情をただ静かに観察することが大切なのである。静かな観察をおこなった後は、敵対感情との自己同一化をやめなければならない。敵対感情をわれわれ自身のもつものと呼んではならない。敵対感情を自分という個人に属したものと見るととなく、ただそれに気づいていればよい。こうした意識化によって、われわれは濃霧を抜けでる船のように、澄明な境地へ達することができる。

すでに言ったとおり、このプロセスは不思議というほかはない。われわれ自身がすこしも恐ろしい存在ではないと知るためには、われわれ自身がどの程度恐ろしい存在であるのかを知らなければならない!

繰りかえす。われわれの内部にあるネガティブなものへの目覚めは、数氣山であれその他なんであれ、次のようなプロセスをとる。

まずまったく気づかれない、次に認知される、ついで認知はショッキングな感情を伴う。こうしてようやくネガティブなものからの解放となる。

9-⑤ あなたのスーパーマインド王国

<あなたのスーパーマインド王国>(P224〜✔︎)

-それは現実に存在する

なんという奇妙な状況であろうか!スーパーマインドという貴重この上ない特権を所有する人間がここにいる、だが彼にはそれを自分の為に使用することができないとは。彼は幻想と妄想に曇らされた心をもっている、だがこの曇った心は、正しい努力によって、眩いばかりの誘導燈に変えられるのである。

彼がただ、ふと立ちどまって無数の星が耀く大宇宙へ驚歎(きょうたん)のまなこを向けさえすれば!彼自身の内なる広大な大宇宙に驚嘆しさえすれば!

彼がただ、彼の秘密の王国を発見しさえすれば!

そこでは一切万物が、美事な諧調(かいちょう)のうちに静かに息づいている。ただ見えないだけだ。しかしこのわれわれのこの秘められた王国というのは、果たして現実に存在するのであろうか?あなたは気がつかないかもしれない、しかし存在しているのだ。その消息について、四人の証言に耳を傾けよう。

この四人は時代も国も互いに遠く離れていた、だが同一の啓示に達したのだ。

レオ・トルストイ伯は、若い頃に自分が懐疑主義に陥っていたことをはっきり認めたうえで、その後、この王国の発見という大いなる啓示をこう伝えているー

わたしはその光を知らなかった、そして、人生には確実な真理はないと思っていた。しかし、そうした光だけがわれわれに生きる力を与えるのだとの認識に達したとき、わたしはその光の源をみつけようとした。そして遂にみつけた。ようやくその光源に辿りついたとき、わたしはそのすばらしさに目の眩む思いであった。わたしはそこに、わたし自身のみならず人はすべて何のために生きているのかという、人生の目的に関するわたしの多くの疑問に対する充分な解答をみいだしたのであった......

シャンカラ(インドの哲学者。七〇〇一七五〇頃)の東洋的叡智は、この内なる天国へは到達できると説く。いかにしてかーー

真理の実現は認識によってもたらされる、千万の行為を重ねてもいささかももたらされることはない。

老荘哲学の師、荘子は、この秘なる王国の住人は、何を為すべきかを知っていると説く- この道"を知るものは、物事のプロセスに現われる原理原則をよく心得ている。これらの原理原則に親しい彼は、あらゆる変転する状況において自らの行動をいかに統(す)べるかを理解している。

彼はこの理解に達しているから、物事が彼自身を傷つけることを許さない。

ラルフ・ウォルドー・エマソンは、次のことばでこの秘なる王国に来たり住めと優しく呼びかけている-

われらはこの壮大なるものに極めて近くまできている。もう一歩で、われらは安全となる。この一歩を踏みださない手があろうか?

どういった種類の人が真の偉大さへ飛翔(ひしょう)するのであろうか?それは、あらゆるものを顧みることなくこの跳躍を試みようという熾烈(しれつ)な意志をもった人である。この見たこともないなにか違ったあるものを初めて垣間見た人は、暗いトンネルのなかにいる人に似ている。すぐ前に、かすかな光があるのだ。あまりに微かだから、自分の眼のせいではないかとときどき疑う、だが彼はとにかく前へよろめきあるく。孤独と失望に襲われ、息切れがする。いったいこれでいいのか、進む値打があるのかと首をかしげる。だが彼は歩みをとめることができない。彼はとうとう俺は正しい方向へ向かいつつあるのだという、内なる囁きに励まされて進む。彼は自分の責任はただひとつ、その光へ眼を向けつづけることだと悟る。なぜなら、その光はけっして揺れないからだ。こうして彼は遂にこの光への道をみいだす。

誰でもこの通りにいけるのだ。秘なる王国をみつけようと充分に熱心であるならば、彼はけっしてこの探究に裏切られることはないのだ。

9-⑥ 奇蹟をもたらす十二の単語

<奇蹟をもたらす十二の単語>

人間関係の調整に混乱することがあったら、次の問答で明らかにされたポイントがあなたを助けてくれようー

Q わたしは、われわれがお互いに相手にひどく失望していることに突然気がつきました。なぜわたしたちは、失望ではなく、深切であることを単純に選ぶことができないのでしょうか?

Aあなたの混乱は、人間というものは、もし別のあることを選びさえすれば、違ったように行動できるものだと思いこんでいるからです。そうはいかないのです。目覚めていない人は、ネコがネコとして行動する以外にないように、行動の選択はできないのです。彼は彼の現在の性質どおりに行動するよう強制されているのです。違った行動をするためには、目覚めなければなりません。

Qあなたは、彼には選択の力がないとおっしゃいましたが、でも彼は悪く行動する選択はできるのじゃないんですか?

A いや、それすらできないのです。彼はあらゆることを機械的に、無意識的にするのです。

Qしかし、なにかの動機があるでしょう?

Aそのときたまたま彼の心を支配していた欲望が動機です。欲望が起これば、なんであろうと彼はこれに従わないではいられない。彼には欲望の選択はない。欲望に従うだけなのだ。彼は、ある欲望の選択をしたと思う、そしてその選択の責任をとっていると思う。ところが事実は違っています。ひとつの欲望が湧いてきて彼を捕えてしまうのです。自由でない心は、欲望にそった以外の行動ができないのです。このことすべてを、あなた自身の内部に観察してごらんなさい。それであなたは違った人になります。

イギリスの神秘思想家で詩人、画家であったウィリアム・ブレイクの絵に、『空しい欲望』というのがある。一人の男が梯子に登って星層に近づこうとしている絵だ。間違った欲望でもって天上のどこかへ行とうとしたって空しい徒労であるとこの絵は語っている。

こうした間違った欲望のひとつに、前にも言ったが、他の人々が自分にどうしたらよいか教えてくれればいいという願いがある。しかしなんぴとも、あなたに何が正しい為すべきことかを教えることはできない。それはあなた自身以外にはあり得ない。それゆえ、あなた自身に、何を為すべきかを告げさせなさい。こうして自分の心で考えて十年間へマばかりしたとしても、他人からの心的支配の下でその十年間を暮すのに比べれば、むしろ豊かな経験だといえる。真実の、正直な、豊かさをもたらす権威は何か?それはただひとつ、あなた自身のスーパーマインドの内的な権威しかない。

汝をして次自身のための灯火たらしめよ。汝をして次自身のための隠れ家たらしめよ。汝自身を外なる隠れ家へ赴かしむことなかれ。(仏陀)

もうひとつ空虚な願望は、たとえば読心術とか運命判断といった奇妙な霊的経験を求めることだ。

こうした願望を抱いてはいけない。それらはあなたの目標を示すものではないからである。あなたの目標は、もうすこし高いところにある。ウィリアム・ロウ(イギリスのメソジスト技師にして神秘思想家。一六八六〜一七六一)もふくめて、多くの真の教師は、こうしたものにはまったく無縁だった。きわめて純粋であるあなたの目標は、幸福で健康でバランスのとれた人間となることである。それらのすべてを、エマソンとともに、簡略化して、わたいは真実の、自由な人になりたい…・・・・といおう。

真の願望と偽りの願望とをどう見分けるのか?ほぼ最善といっていい方法は、あなたの望むものを実際に手に入れることだ。もしそれが偽りのものであれば、そしてもしあなたが抜かりなく見張っておれば、あなたは以前とは違うこともなく、以前よりも幸福にはなっていないことが分ってこよう。

私はたったの十二語を使って、今からあとの一時間をいかにして真のマジックに変えるかをお教えできる。

あなたの知っている真理を、あなたの感じお欲望の前に置きなさい。(Place the truth that you know before the desire that you feel.)

9-⑦ 孤独から救われるには

<孤独から救われるには>

独りという状態にレッテルを貼らないこと

誰も彼も口にする悲しい告白のなかで、次のようなものほど哀れな言葉はない!「まったくの孤独なんです、とても耐えられません。それはもう、しょっちゅう衝きあげてくる、いたたまれない孤独感です」。中にはこうつけ加える人もいる、「わたしがどうしようと、だれも気にかけてくれる人はいないみたいなんです」

寂しい人々はふつう、新しい友達をつくるとか、新しいなにかの活動をするとかの方向へ切り替えよと助言される。ただしこのアドバイスは、彼ら自身の隔離感覚と正面から対決したことのない人々のそれである。金持ちにとっては、貧しい人に、金だけがすべてではありませんよと言ってやるのは易しい。

たしかに誰にとっても、バランスのとれた生を送るためには友人や活動などは有益な要因ではある。われわれはただ、それらは孤独という悩みの真の解決にはならない、解決の力はないと言っているのである。それらは、あなたを一時的に孤独感の痛みから気を逸らしてくれるだけである。あなたが自分の心へ戻ってくると、そしていつでもあなたはそこへ帰らざるを得ないのだが、再び孤独はあなたを苦しめる、そうではないのか?では、どうすればいいか。ヒントは、孤独は心にあるのであって、それ以外にあるのではないということだ。ここがわれわれの、スーパーマインド的解決への出発点である。

あなたは独りだ。何も起こらない。電話は鳴らないし、郵便配達夫は素通りしてしまう。あなた自身だけがあなたの仲間でいる。さてここで、この独りきりだという状態を、あなたの心が不注意にそうしてしまわないかぎり、自動的に「孤独」と翻訳することはできない。たとえ独りでいても、あなたがその無意識的な心がそれに孤独というレッテルを貼るのを許さないならば、孤立、隔離といった感情は起こるはずがないのだ。この感情を活性化してトラブルを起こさせるのは、無意識的なレッテル貼りないし命名なのである。

独りでいることにレッテルを貼らないこと、これで独りきりの状態は純粋に保たれ、穢(けが)されることはなくなる。このことを証明するには、寂しく感じたらいつでもこのテストをしてみるとよい。そして結局、最後にはスーパーマインド思考が孤独感情を絶対不可能にしてくれる。

もしあなたが白いシーツに身を包んだ人の姿を見て、それを幽霊だなどとはよばず、たんに白いシーツの人影とだけ見るならば、別に怖わくはない。名前さえつけなければ、「幽霊」という語にまつわる恐怖の観念連合は起ころうはずがないのである。

孤独感は、他の人々に囲まれていてさえしつこく自己主張する、なぜならわれわれはそれを恐ろしいと称(よ)び、この恐ろしさから逃げだそうとするからである。しかし、孤独感から逃げられるはずはない、なぜなら、孤独なるものはもともと存在しないのだから。在るのはただ、誤った反応が創りだした幻想だけなのだ。幻想から逃げられないのは、そこにいない虎の襲撃から逃げることができないのと同じである。逃げられはしないが、振り返って、虎などはいないと知ることはできる。そこであなたが無意味な逃走などをやめるだろうことはもちろんである。

スピノザはこれを理解して、書いているー

・・・・・わたしは、わたしに不安や恐れを起こさせた事物はすべて、それ自体ひとつも善いとか悪いとかはないのだと分った。ただわたしの心がそれらから動揺をうけたというだけのことである・・・・・・

9-⑧ 孤独から利益を得よう

<孤独から利益を得よう>

-生の全体と一であること

独りきりだということは必ずしも孤独感を意味しないと分ったわれわれは、更に進んで孤独ということから豊かな報酬を得ることができる。最初の証言は、ショーペンハウエルのそれだー

ほんとうによい集まりは必然的にきわめて小人数のものであらざるを得ない。豪勢な祝典や喧噪をきわめた饗宴(きょうえん)には、いつもその底に空しさの感覚が瀰漫(びまん)している。偽りのトーンがそこにはある・・・・・

孤独は、人間たちの交錯する影響力によってわれわれの生命力が無意味に放出されるのをストップしてくれる。孤独は、心がそれみずからにとって本質的なもののみに集中することを許してくれる。

社会一般は常に、ネガティブな人々は特にそうだが、より高いレベルを求める人々からその強さを吐きださせ涸(か)らそうと努める。この心理的なプロセスに気づくことである。より低く弱いレベルの人々は、いつも、より高くより強いレベルにいる人々のエネルギーの流れに只乗りしようとする。弱い人人にあなたの強さを盗むままにさせることは自然の法則に反している。決してこれを許してはいけない。

あなたがたった独りでいる時間を活用してスーパーマインドの諸原理について深く思いを致すとよい。あなたはこれらのアイディアを経験へ適用するまたとない機会に恵まれたのだ。健康の問題ひとつを取ってみるがよい。一般社会の人々が、心が身体に強い影響力を及ぼすことを理解してきたのはついこと十数年のことである。しかし二千年も前にすでに、病気と精神的障害とのあいだの密接なつながりを、エピクロス(ギリシャの哲学者。前三四二〜二七一)は明瞭に指摘している。アテネとミュティレーネにあった彼のサナトリウムにいた患者たちが健康を回復し明るく元気になったとき、エピクロスはその治療者として盛名を馳せていたのだ。それゆえあなたも、この孤独のときの反省期間を活用して、あなた自身と宇宙的原理との密接なつながりを考えてみるとよいのだ。

あなた自身だけが仲間だというのは大いなる啓示になる。それはあなた自身を在るがままに見るパーフェクトな機会だ。とうして得た自己認識を実際の目的に活用することができる。私は、感情がすぐに他人によって傷つけられると自分で認めているある女性と話をしたことがある。私は彼女に訊いた。

「あなたは他の人々に、あなたはこのように感じなさいあのように感じなさいとあなたに命令するのを許しているのです。そのことに気がつきませんか。なぜ自分の感情を他の人々の影響下へ投げすててしまうのですか?」

彼女の表情を横切るものがあった。彼女は自分の問題への洞察を得たのだった。もし彼女が黙想と反省のために恵まれたといってよい独りきりの時間を、より大きな自己教育に活用していたなら、何年にもわたる苦しみはなくてすんだはずである。

孤独は賢い教師だ。古い弱点をあらわにしてくれ、新しい力を届けてくれる。あらゆる状況下に、自分自身に対してゆるやかな態度を維持させてくれる。デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールは、霊的成熟をしめすひとつの徴候は、独りきりのときに快適でいられる能力だと言っている。

最後に、孤独は、われわれがどうしたって絶対に残りきりではないことを証明する。われわれは、スーパーマインドにおいて、生の全体と一つなのである。

9-⑨ 真正の力へ到る道

<真正の力へ到る道>

大宇宙にある超人間的な力

真の力と偽りの力とがある。為りの力は、まったく破壊的であるのに、抜滑にも真の力と似たような姿を呈しており、何百万という人々を購す。本物のパンとパンの写真との差のようなものだ。人々はこのことが分らないから、りの力に頼ろうとし、霊的な栄養失調に陥る。

偽りの力は偽りの自己から、不自然な無明の人間から発する。

真の力は、その根源はスーパーマインドにあり、大宇宙にある超人間的な力からくる。それは害する力はもたない。

われわれは、人間の弱さのもつ属性、この偽りの力を、かんたんに検討できる。弱さは、攻撃と防衛の欲求で、そとには終りがない。それはただ攻撃、防衛、攻撃、防衛の繰り返しである。弱い人はしばしば強さの外観を呈するが、ごくわずかな挑戦にこの表面的な強さは崩れてしまう。西部の半野生馬に贈って、馬がおとなしい間は、制御していると購いてはいるが、ブロンコがすこし荒れるとすぐに振りおとされてしまう乗手に似ている。

偽りの自己には人生行路に出会う邪魔物を取り除とうとする力はまったくない。人々はとのことが分らず、失敗に失敗を重ね、それでもなぜだか分らない。幻想にとらわれた自己は現実に即した働きができない。飢えを満たすためにはほんもののパンが要るのだ。

ついでに、われわれが多くの人々にみいだす感情の乱れの多くは、この攻撃と防衛に原因がある。

あなたがほんとうに強いときは攻撃も防衛もなく、あなたはエネルギーを温存する。

全宇宙にみなぎるコズミックな力が、解放されたあなたの味方になっていることが納得できたとき、あなたは世界の虚偽に対して教然と立ち向い、これを撃退していきさかもつくことがないのだ。

であるから先ず、あなた自身の内部に全宇宙のコズミックな力が存することの認識から始めよ。

とのことが理解されないかぎり、人生はどうしてもはかなく、無力であり、フラストレーションに終らざるを得ない。言い換えれば、このことが把握されたとき初めて、人生は目的あるものとなり満足すべきものとなる。あなたの味方である新しい力について、スーパーマインドの立場で、次の考え方を胸へ叩きこんでほしいー

一、あなた自身をあなたの味方につけよ。

二、あなたは自分の霊的な放射能力に従って、あるものは惹きつけ、あるものはける。

三、自分には新しいガイダンスが要ることを確認し、進んでこれを請い求めることは事敢な行為である。

四、実際にはなされていない非難に対して想像的に自己衛する、そんな浪費はやめよ。

五、自然なものはすべて力に溢れている。

六、弱い状態はあなたにとってパーフェクトである、もしあなたがそれを、あなたの通常的な強さとは違うなにかで満たしさえすれば。

七、真理だけがあなたに言える、「吾、断じて汝をば見捨てず」と。

八、地上的なあらゆるものについてあなたがもはや決して古い行き方へは戻らないとなれば、それは突破作戦が成功しつつある確かな徴候である。

九、成功させたか否かに拘泥らないとき、あなたは成功したのである。

十、不撓不屈と持続とが最後に勝つ。無数の岩石に阻まれた流れが、じっと耐えて力を蓄え、一気に障碍を超えて溢れでるがごとし。

9-⑩ 相拮抗する強迫観念を超えるには

<相拮抗する強迫観念を超えるには>

-反対物を超えて生きること、

私は自分のクラス、講演ではしばしば、聴衆の質問に次のように答える-

Qわたくし、こぼしているみたいに聞こえるといやなんですけれども、わたくしってどうしてこんなに失態ばかり招くのでしょうか?

A あなたが失態といっているものは、けっしてあなたがそう思いこんでいるような失態などではありません。その考え方が変らなければなりません。一つの事態に対してあなたがネガティブな反応をすれば、それが自分の反応に過ぎないのに、出来事そのものにネガティブなものがあると断定することになるのです。しかしあなたにはそれが分らない。あなたの習慣的なネガティブ思考を破れば、同じような事態が起こっても、もうそれは失態とは見られなくなります。

Qとおっしゃると、善い運と見えるということですか?

Aいいえ、あることを善いとよべば、その反対を悪いとよばなければならない。ビジネスで大儲けするのがすばらしいと思うと、大損をした場合は恐ろしい事態と見ることになるでしょう。大事なととは、反対物を超えて生きるということです。

Q 理解できません。

A 理解することが重要です。たとえばあなたが、戦闘中の二軍の間に挟まれたとします。あなたはA軍へ近づく。するとA軍はあなたに発砲する。あなたはB軍へいこうとする、B軍もあなたを攻撃する。すると暫くはA軍のほうが友好的に見える、だがまた突然にあなたに打ってかかる。あなたは結局両軍のあいだを往ったり来たり、どちらがあなたの味方か分らず、混乱し、よろめくだけです。そこでようやく、どちらもあなたの味方ではないと悟り、パニックに陥る。この危機的な瞬間に、あなたは上空をヘリコプターが一機通るのを見た。ヘリコプターは戦う両軍をはるかに超えてあなたを運んでいってくれる。

Q しかしその戦闘を超えた状態とは何なのですか?

A それは、あなたがそれを超えて昇ったときに、おのずと分ります。

このエソテリズムの有効な秘密を再検討するため、読者は第2章の、「われわれはなぜ人間思考を超えなければならないか」と題された節を参考にするとよい。

われわれは正しい方向に眼をむけることを学ばねばならない。金鉱を探す探鉱者は、足下に転がっているものを探すのに雲の方などへ眼を向けはしない。われわれも同じことだ。人生の黄金はここにあるのであって、あっちにあるのではない。

だから、あなたの心をそれ自身へ向けさせ、問わさせなさい。われわれは、知識は他の人々から獲得するが、叡智はわれわれ自身から獲得するのだ。スーパーマインドがあなたに知識を授ける、それをあなたは、受容性というマジックパワーによって、あなたを導くところの叡智へと変えるのだ。

独立不羈の採究者になりなさい。他の人々から離れて、自分独りだけになること、これが、最も豊かな機会のひとつとなる。それはあなたがあなた自身である絶好の機会だ。

あなたはどこまで自分自身に素直であるか?あなたの安心と満足とはそれで測られる。

幸福な人生とは人生そのものの本性に随った人生である。(セネカ)

それからまた、自己との調和によって、本当の美が訪れる。美について心であるいは日でお喋りしないときに、そのときにのみ、本当の美をわれわれはエンジョイするのだ。

10-① 本来の安らかな生に生きるために

<本来の安らかな生に生きるために>

1.われわれはスーパーマインドをもって正にわれわれ自身のために働くことを学べる

2.圧力は条件づけられた誤った人生観から生じてくる

3.単に"起こった"というだけの事象に振り回わされることはない

4.あなたのスーパーマインドが、あなたの静謐によりその全霊能を顕わすのを許せ

5.あなたを苦境から解放してくれる宇宙的なパワーそのものに抵抗するな

6.スーパーマインドはトータルな心的健康状態である

7.あなたは善性を創りだすことはない、ただ善性を顕わにせよ、そうすれば善性はあなたをおおいつくすであろう

8.怖れ、不安の原因はまったくない

9.あなた自身を正しく喜ばせるような生き方は学べる

 

スーパーマインドからの思考には緊張が伴わない。川のそばに住めば、いらいらと雨水を乞いはしない。

アマゾンのジャングルで道に迷った探険家を想像してみなさい。パニックに陥り、右方向へまた左方向へと走り、転び、つまずき、四つん這いとなり、転倒し、失神する。これではどこへも行き着かないと悟り、「そうだ、走り方がのろまだった、スピードを倍にしよう」と考える。だが倍の早さで走っても、もちろん転落のひどさも更に倍加されるだけだ。

冷静にわきへ退けなければならない社援な推論とはまさにこれである。努かはそれ自体では意味がない。間違ったことを為し、これを猛烈に為せば為すほど、ますます間違ったことをより多くするだけである。努力だけで成功できるのだとすれば、所詮努力で成功するのだ。だからたとえ小さな努力でも、正しい努力をすれば正しい結果が生まれる。

つまり、ただ猛烈に働くというのではダメで、正しく働かなければならぬということである。間違ったやり方での作業は完全にやめなければならない。正しい仕事と間違った仕事とは同時には両立しない。正しい仕事か、でなければ間違った仕事かである。これが宇宙法則である。

ほんとうはしたくないことは、思いきってやめるーとの気を持て。したくないことかどうかあなたには分るかどうか?じっと綿密に注視するのだ。いなければならか、すべきだと感じながら渋渋やっていることがどんなに多いか、あなたにはそれが見えるだろうか?注意深く見守るのだ。あらゆる行為と反動とを調べてみよ。あなたは自然にそれをしているのか、それともしなければならぬと強制されるものを感じるからしているのか?もしも強制的なものを感じたら、するのをやめよ。

強制されることは奴隷となることだ。たとえば、群集といっしょにいやいやながら行動するのはよしたがよい。

10-② 宇宙的理解で生の苦しみは消える

<宇宙的理解で生の苦しみは消える>

治癒力はあなたの内部にある

ここに悩みをもった人がいる。どんなふうにして悩みを治しているんですかと訊くと、「屋根の雨帰りをいま修理しているんです」とその人が答えた。私は言ってやった、「だけどそれでどうして悩みが治せるんですか?あなた自身について作業しなければなりませんよ」

不安も同じである。外界の作業に身をいれることで自分のイライラを治そうとするほど見当外れなことはない。治癒は問題と同じ場所に、つまりその人の内部にあるのだ。

不安は、われわれが自分自身の霊的な故国から遠く迷いでているから、存在するのである。人間は健忘症の機牲者みたいなもので、ぜんぜん知らぬ他国へさまよいでて、そこではことごとくが彼の本来の立場と食い違っていて途方に暮れているのだ。奇妙な風俗が彼を混乱させる。彼のもっている金は通用せず、知らない法律が彼を緊張させる。ソローはとのような男を、彼自身の自己像の奴隷であり四人だと述べている。だがとの男も、自分の真のアイデンティティに目覚めると、彼の故国と調和とへ戻るのである。

キルケゴールは不安について深い洞察を見せている。彼は言う、「不安は常に、愚かな自己敗北的な行動に先行する」と。それゆえ、もしわれわれは不安、懸念を摘み取ることができれば、自己敗北も摘み取れるのである。

こうして、自分というものと地上における生の性質とについてのりの観念から、種々の圧力が生まれてくる。この為りの観点とはどういうものか、これを探ぐるのは益するところが大きかろう。

焦りのアイディアのひとつは、誰でもあるいは何でもあなたを傷つけ得るというそれである。出来事はあなたの評判を落とし、あなたの金を奪い、あなたをいじめ、あなたに復讐し、あなたを購し、裏切り、薬てることはできる。だがあなたを傷つけることはあり得ない。あなたは、善いととであれ悪いことであれ、あなたに起こる出来事よりはずっと貴重なのだと思うようにしなさい。ちょうど桃の木がそれとは離れた桃の実より貴重なように。

われわれの人生にダメージを及ぼすわれわれの態度というものは、もともと他の人々から拾い集めてきたものだ。彼らは話し好きで混乱しているにもかかわらず、そのことには気づいていない。しかし、あなたも私も、他人の口からでた単なる言葉だけに縋りつく愚かさに気づいている。借りものの平根は生長しないことをわれわれは知っている。われわれは、自分の内部にあるリアルなものと協力する必要を知っている。だからエピクテトス(ローマの哲学者。六〇〜一三八)もわれわれにこう問いかけている、「かれかれいついで宮骨をすお着魚をもつこの人は、それではいったいぜんたい誰なのか」と。われわれはこれに対してこう答えるのだ、「真理そのものの外にいかなる権威もありはしない」と。

不安の主たる原因は善についての為りの観念にある。人々は、自分は善い人でなければならないと神経質にはなっても、本当の善とは何であるのか全く分っていない。

10-③ 安心と満足に至る道

<安心と満足に至る道>(P243〜✔︎)

-代替物にだまされる人が多すぎる

偽りの観念がどれほどダメージを与え得るとしても、われわれは決してそれらを恐れてはならない。

既にお分りのように、偽りの観念は不安の沃野(よくや)に繁茂(はんも)する。そこに為りの観念が人間の心を捉えてしまう仕掛けがある。それらはあなたを脅かして従わせようとする。だが、拒否するのだ、勇敢に。それらの網を切り開いていくのだ、一歩また一歩と。スーフィ教の神秘思想と共にこう宜言するのだ、「おれは偽りの衣をかぶって千里を行く、それはただこの旅の最後の一歩のところで真理を発見するためなのだ」と。

われわれは、われわれに降って湧いたものの奴隷にはならない。われわれが、われわれ自身のネガティブな反応の言うがままになるのは、われわれ自身にそれを許すときだけである。許す必要はない。他の人たちがどんなにひどくあなたを扱ったとしても、決して彼らへ注意を払ってはならない。

そうではなく、彼らの言ったこと、したことへのあなた自身の反応をよく調べるのだ、なんといってもそれはあなたの問題なのだから。虐待とは、あなたが虐待というレッテルをあるものに貼った瞬間から存在するのだ。そのため、あなたは、偽りの自分がつくりだすありたけの苦痛にみちた感情でこれに反応するのだ。

ここで第9章でのべた、人は何百という異なった自己から成り立っているというわれわれの発見を想いだすとよい。あるものは恩恵を施こすが、他は破壊的だ。だがこういう無数の自己のなかに、ひとつだけ特別の自己がある。それは、あらゆる出来事を、あたかもそれが起こることを望んでいたかのように、受けとる。この自己がスーパーマインドなのだ。このものは、どんなことにも驚かない、動転しない。あなたの目標は、この自己に栄養を与えて、より強いものに育てていくことだ。これが決まれば、あらゆるステップは燦々と陽のかがやく旅となる。

安心と満足をみいだす一つの方法は、安心と満足でないものはすべて、一貫してやり過ごしてしまうことだ。綿密に観察すれば、純粋の安心と満足は、われわれが以前にそう思っていたものではないことが発見される。それは自己満足ではなく、威力でも、刺激的興奮でも、肉体的活動でも、世俗的成功でもないことが分ってくる。贋物(にせもの)を棄てて本物が得られる。紛失したダイヤの指輪を庭に探すようなものだ。指輪のかたちをした細枝をみつけても、まさか本物のダイヤの指輪とは思わないだろう。キラキラしたガラスの破片をみつけても、探しているものだとは思わないだろう。で、結局、たったひとつのもの、実際のダイヤの指輪をみつけるまでは探しつづけるだろう。代替物でだまされる人が多すぎる。自分が代用品を受けいれているか否かはすぐに分る。自分が本当に幸福かどうか、自分に訊いてみればよい。

オリジナルな自己という庭のなかで、純粋そのものを探すのだ。もろもろの誤った、贋物のアイデイアという雑草のなかに、そのどこかに、われわれの求めているダイヤモンドは見つかる。見つけるまで探すのだ。

あなたの理解は、経済上のことであれ、友人関係であれ、健康についてであれ、あらゆる種類の不安を癒す。コロンブスの実験的な航海が、地球は平らであるという、誤った諸説を粉砕したのだ。スーパーマインドによるあなたの航海は、偽りのものを背後へ斥け(しりぞけ)、ある新しい世界を啓示してくれる。

結合(コネクティング)とでも呼ぶべき方法を使うとよい。たとえば、なんでもいい、あなたが克服したいものをひとつだけ取りあげてみる。不安でもいいし、短気でもいいし、内気でもいい。それを、「スーパーマインド』でみつけた、いろいろのアイディアに結びつけてみるのだ。たとえば内気なら、内気というのは偽りの自己の一部であって、まったく不必要なものであり、それに気づけば、新しいかたちの大胆さが得られる等々といった発見である。

10-④ 日常生活での重苦しさの原因

<日常生活での重苦しさの原因>(P245✔︎)

一習慣的な反応を捨てなさい

真摯な探究者が直面する、まことに奇妙な不安というものがある。彼はなんらかの真理を首尾(しゅび)よく経験するのではないかと恐れるのだ。

そうなのだ。成功することが恐いのだ。真理への到達に成功するためには偽りのものを棄てなければならぬ。ところがこの偽りのアイディアは、われわれが慣れ親しみ、それがあるために快適さを感じ、人生に目的を与えてくれたかに見えるから、大切にしているものなのだ、それを棄てるのが恐いわけである。

われわれを自由にしてくれる筈のものに抵抗する、それに縛られることが怖いから!開いた扉の前で、とわくて立ち竦(すく)む囚人みたいだ。

この特異な不安が、人類がなぜに多くの真の教師を無視するか迫害するのかを説明してくれる。人類はこれらの教師からのギフトを凶器と見誤るのだ。

このおかしな状況を譬(たと)えたスーフィ教の寓話(ぐうわ)がある。偉い王様に飼われた鷹が、豪華な宮殿に棲んでいた。鷹は空を翔んでいるうちに、フクロウどもの棲んでいる荒れ果てた廃墟へ降り立って休んだ。フクロウたちは賢くなかった。席が自分たちの荒涼(こうりょう)としたこの廃墟を乗っ取りにきたのだとフクロウたちは思った。鷹は、「俺は立派な宮殿のなかに巣があるのだ、こんなみすぼらしい場所にはぜんぜん関心がない」と説明したが、フクロウたちは首背(うなず)かない。宮殿の生活など知らないから、彼らは鷹がうまい口先を使って、ここを盗もうとしていると口々に罵った。

日常生活での圧力感はごく簡単に説明できる。われわれは新しいものへのチャレンジに対して、不自然な、獲得された、古臭い反応の仕方で接する。これが日常的な重苦しさの原因である。解決はおのずから明らかだ。われわれは習慣的な反応を棄て、チャレンジをたんに意識しておればよい。条件づけという膠(にかわ)で固められてはいない澄んだ心をもって接すれば、そこに見いだされるのは、チャレンジであって、粘っこい圧迫感ではないのだ。これがスーパーマインド思考である。

することに代って見ることをもってせよ。最初の千回失敗したとて気にするな。失敗したとしても、それは成功なのだ。なぜならあなたは、古い、機械的な、無益な反応はしなかったからである。

スーパーマインドとは、トータルな心的健康状態を指し、それ以上でもそれ以下でもない。この新しい状態では、心は強迫観念、迷信、困惑などという通常の境界線を遙かに超えているのだ。この新鮮さと全体性とかを生きるとき、われわれは初めて生きるのである。

人の生は、理知的な意識が出現したときにのみ始まる・・・・・・(レオ・トルストイ)

10-⑤ 自然な生活こそ宇宙的生活

<自然な生活こそ宇宙的生活>(P247〜✔︎)

-あなた自身でありなさい

いつだったか、私がある庁舎のビルに入っていったとき、そこでは一人の男が公務員としての役割を演じようと一所懸命に働いていた。市民や上司の期待する、機械的動作と顔の表情は完璧だった。

そこへ幾人かの小さな子どもが現われた。陽気で束縛されず、まったく天真爛漫な子どもたち。するとその公務員はたちまちリラックスして本当の彼となり、さきほどの人とはまるで人間が変ってしまった。彼は子どもたちに気軽に自然に話しかけた。子どもたちの自発性がしばらくこの男に乗り移ったかとさえ思われた。

本書で、人間のオリジナルな自己、その真の自己、彼の内的存在などというとき、それらは同じものを指している。ここではもうひとつそれを、人の自然自己(ナチュラルセルフ)と称んで、この問題を新しく探究してみよう。

陽気なくつろぎは、大自然そのものがくつろいでいるのとまったく同じく、人間の自然の状態である。滝はそれ自らであることだけにしか関心がない。それが滝にふさわしいと思うような何かをすることになど全然関心がない。滝はわれわれに、滝について考えよなどと強制しない。滝はわれわれの注目をもエネルギーをも要求しない。われわれに贈り物をくれと倚(よ)りかかりはしない。われわれから一切求めない、乞わない。滝はその滝が在るところのものを示しているだけだ。滝を滝そのものであるに委せてそれで充足している。だからこそわれわれは滝のすばらしさをエンジョイするのだ。

こういう在り方をふつうの言い方では、「あなた自身でありなさい」という。もしわれわれが突っぱっており、不安定であるならば、われわれはこの単純明快な助言に従っていないということだ。緊張、不安定などは、不注意に採用された習慣やら観念やらを寄せ集めてくっつけた、人為的な合成自己の産んだ酸っぱい果実だ。

失策、悪さ、愚かさなど、通常このように分類されているものはすべて、不自然さといったほうが、はるかに正確な定義となる。これが人間の間違いのほんとうのあり方なのだ。われわれの本性の正常な流れに反して、不自然に生きているためなのだ。次の問答にはそれが示されているー

Qわれわれが自然のスーパーマインドから考えると、いろいろのネガティブなものが落ちていく、これには順序があるのでしょうか?ネガティブなもののうち、あるものは他のものよりも早く落ちていくか、ということです。

A 順序は個人個人で違いますが、一般的なルールはあります。あるネガティブなものが、その人が彼自身についてもっている不自然な観念と強く結合していればいるほど、このネガティブなものは、不自然な観念に、死にものぐるいで取りつきます。自惚れと虚栄心が膠(にかわ)でくっつけられているみたいになかなか落ちないのはそのためです。

Q どういうものがいちばん先に落ちるのでしょうか?

真実を指摘されたときの小さな忿懑(ふんまん)とか、陰気な話を耳にしたときに起こる抑鬱感情などに対しては、早めに勝利が見られることがしばしばです。とにかく、あなた自身のなかにある健康な回復プロセスをよく見守ってごらんなさい。ちょうど枯れ葉が枝から落ちるようにはっきりと、あなたの不自然さが落ちていくのが分ります。

この径(みち)には千万の敵があるかに見えるが、あなたには一人だけ信頼できる味方がいる、自然そのものであるスーパーマインドがそれだ。われわれが不注意にスーパーマインドのまわりに築いた人為性の壁を、スーパーマインドは絶えず打ち破ろうとしている。ロバート・ブラウニングが言った、この

*牢獄に閉じこめられた栄光"をば助けて、脱出させるのだ。

神秘主義の教師、J・P・ド・コーサードは述べているー

われわれがしなければならないことは、われわれが与えられたものを受けること、それだけだ。

われわれが与えられているものとは何か、それは自然さである。誰かを愛し、危機に際して冷静であり、自己敗北的な示唆は無視し、明朗であり、他人を赦し、優しく、助けの手をのべ、煩(わずら)うことなく、勇敢であり、精力的であるという天来の自然さ、これがもともとわれわれに与えられたものなのである。

これらの自然な徳目のたったのひとつだって、あなたが創りだすことはいらない。このことを理解すると助けになる。すでに創りだされており、スーパーマインドの内部に具(そな)わっているものを、あなたはただ、あなた自身に啓示する必要があるだけだ。秘教的な意味では、啓示とは創造なのである。

このアイディアを把握しなさい。そうすればあなたは、急に視界が開けたような気分になるであろう。

10-⑥ 不安の扱い方

<不安の扱い方>(P250✔︎)

-なぜそんなことでイライラするのか

不安は空虚感から起こる。もしあなたが、空虚感を充分に意識し、抵抗せず、またそこから逃げようとはせず、ただ空虚に気づいてさえおれば、それはなにか新しいものに変っていく。ただしこの新しいなにものかを経験しようと望んではならない。ただ空虚を意識するのだ。そうすればマジックはおのずから起こる。

その空虚さを彼自身から隠そうとして人為的な活動を死にものぐるいに造りだす人は、「だが次に何をしたらよいか、いいものが見つかるだろうか?」という彼自身の衝(つ)きあげてくる問いに恐れおののく。ここでもまた、この状態に鋭く気づいていることが、苦しみにみちた神経の昂(たか)ぶりと人為的活動との両方を破壊していく有効なスタートとなる。

意識性というものにわれわれの気づいていないもろもろの圧力を破壊する力があると知ることは素晴しいことだ。圧力(プレッシャー)は、われわれがそれを意識していないから、われわれを苦しめる力をもつのだ。圧力というものの大多数は水面下の雷のようなもので、気づかずに船がそこへ来ると、爆破する。気づかれない不安のひとつに、他の人々が恵まれているのに、自分だけが退けものにされていると思いすごす妄想がある。われわれは高い給料とか長い休暇とかをもらっている人を羨しがり、自分だけが瞞(だま)されていると感じる。それに気づくことで、このような自虐から自由になる。

びっくりするような実験を教えてあげよう。こんど、ある人があなたに、自分がどんなにイライラしているか、困っているかを告げたら、こう答えてやってごらんなさい、「状況は正にあなたのいう通りかもしれない。しかし、なぜそのことでそんなにイライラするのか教えてくれませんか?」と。

彼があなたの質問をほんとうに聞いたら、ドキッとするだろうことは間違いない。彼は返事をするだろうが、答えは決して冷静でも正確でも現実的でもないだろう。感情は昻(たか)ぶり、吶(ども)り、顔をしかめ、あるいは溜息をつきながら答えるに違いない。

彼の答えが現実的でないのは、現に、彼がイライラしなければならぬ理由はないからである。彼には分らないというだけではない。リアリティを直視すれば、そんな理由は存在しないのだ。だからして彼は、彼の混乱した情動と、人生についての誤ったアイディアの両方にもとづいた、非現実的な返答しかできないのである。

イエス、老子、ソクラテス、その他、達人といわれた教師のすべてが諭(さと)した、まさにその教えがここにある。

「なにものについても思い煩(わずら)うな」

10-⑦ 怖れを癒すには

<怖れを癒すには>(P252✔︎)

-人間は彼の虚偽性を彼自身と思っている

怖れの癒し方について助言をもとめる人が多いのには驚かされる。ここに問答を掲げてあなたへのガイダンスとしたい-

Qあなたのご本のお蔭でわたしは初めてなにかを理解することができました。わたしは自分が非常に怯えていることにいま気づいています。実際に怯えているのです。怖れの原因とその治癒について相談したいのですが・・・・・

A.問題全体をできるだけ簡単に説明しましょう。人間というものは、彼自身についての想像上の観念群、誤った道徳観念、神経症的な欲求などから成りたっている砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)に生活しているのです。彼はどんなことについても誤った意見をもっている、人間関係であれ、世俗的な成功であれ、宗教であれ、すべてについて間違った考え方をしている。その上彼は、誰か他の人がやってきて、また何かが起こって、彼の誤った楼閣を打ちこわしはしないかと恐れている。彼は脅威となるものに対しては、なりふりかまわず抵抗する。こうして彼は怖れに満たされるばかりでなく、疑いぶかくなり、敵対的になるのです。

Q 彼自身の虚偽性が壊わされることを恐れている、とおっしゃるんですね?

Aそうです。彼は勘違いしていて、この誤ったアイデンティティを彼自身と取っている。彼は、彼のアイデンティティがこれらの想像上の観念の束からできていると思いこんでいる。本当はそうではないのに、そうだと思っているから、彼のそばへ近づいてきて、彼の偽りのアイデンティティを破壊しようとするものに対しては、相手が人であれ、ものであれ、猛烈に戦うのです。彼は自分では、おれはおれ自身を救おうとしているのだと本当にそう信じている。あにはからんや、彼は事実上、彼自身の惨めな境地を恒久(こうきゅう)化しつつあるのです。彼の真のアイデンティティがやってくる前に、まず彼の誤った自己感覚が去らなければダメなんです。

Qでは、どうしたら彼はその虚偽性を放棄できるのでしょうか?

Aそれは、砂上の楼閣が崩れるのを黙許(もっきょ)し、かつリアリティの波が押しよせてくるのに抵抗しない、この二つで達成できます。砂上の楼閣が崩れると、防衛すべき虚偽性の構造体をもはやもっていないのですから、彼は怖れなくなります。われわれが怖れるのは、人為性を防衛しようとするとき、又はなにものかをかくそうとするときだけです。

Q例を示して下さいませんか?

A たとえばあなたがある事が起こってくれればよいがと望んでいるとします。それが起こらないと、あなたはイライラしてくる。たぶんあなたの通常の反応は、憤りを感じるか、誰かを責めるかでしょう。しかしあなたは、いま、理解したいと望んでいる。だから、あなたの内面へ眼を向けます。すると、あなたがその出来事の実現を望んでいた本当の理由は、それが刺激的な興奮とか安定感とかをもたらしてくれると思っていたからだということを、あなたは発見する。あなたは、この誤信を悟る。なぜなら、外部的な出来事は、なにごとであれ、あなたのためには何も為し得ないからである。それであなたは、誤った安定感への欲求を投げだしてしまう。その瞬間、怖れはやむのです。

Q ご指示をいただいた通り、このことの理解に努めたいと思います。

A 結構です。そうすれば、どんなことについてもけっして怖れをもつことは要らないのだと分るでしょう。

あなたが採れるひとつの態度がある。この態度を採れば、新しい境地への着実な前進が間違いなく保証される。それを示す前に、この態度のもつ深い意味を信じてほしい。それは到底ことばでは表現できない深い意味を含んでいる。多くの人々の内的状態を一語でいいあらわすとすれば、"凍結した"といえるということは前にもお話した。しかしあなたはもはや、凍結した心から立ちのぼる痛みは欲しない。あなたは、川のような流れる自由さが欲しい。

誰かを何かについて責めるな、そうすれば解放と安らぎがみつかる。あなたにどういうことが起ころうとも、何かをあるいは誰かを見つけて責めることはやめよ。他人を責めることは治癒力のある洞察を切りとってしまうことだ。他人を責めないことで、自己責任が増大し、従って自己成功が増す。

他人に対する非難のほとんどは下意識でなされているから、われわれはそれに気づかない。しかし、神秘思想家、エックハルトが指摘したように、地表の下にある石は、見える石同様に重いのだ。重荷を棄てるためには、一切を責めるな、そしてなぜ物事がこのように降って湧くのかの理解を求めよ。

10-⑧ あなた自身を喜ばす生き方

<あなた自身を喜ばす生き方>(P255〜✔︎)

-自己を喜ばす人は解放された人である

自分がどれほど自分自身を喜ばさないような生き方をしているかを知ったら、誰でもショックをうけよう。これは大きな問題だ。彼は自分の一日一日が、苦痛への無意識的な奴隷状態のうちに、自分で必要なことと勘違いしている偽りの願望への奉仕に、あまたの懐疑の海に、欲しはしない旧套(きゅうとう)と習慣への拘泥(こうでい)に、費されつつあるのを悟らない。これらのネガティブなものすべてが、あまりに彼に身近なため、彼はこれ以外のどんな境地があるのかさえ、考えることもできない。こうして彼は、絶望と秘かな反抗とを撚り(より)あわせた彼自身の鉄鎖(てっさ)にくくりつけられている。

しかしながら、これが分ることのショックはまた幸福な啓示でもある。われわれがいまいる道への覚醒は、この道を変えることができる。スーパーマインドから生きている人は、彼自身を喜ばす生き方をしている。彼の内なる王国以外になにものにも依存することのない彼に対しては、あなたは何ものをも与えることができず、何ものをも彼から取り去ることはできない。彼は賞讃にも非難にもまったく無関心である。

彼は彼自身を喜ばすために生きている。しかしこれは想像されるような、利己的な生き方ではない。全然逆だ。これこそ雅量(がりょう)なのだ。唯一の真の雅量なのだ。自己を喜ばす人は、解放された人であり、他の人々に至高のギフトを贈る。即ち新しい生き方を経験するという招きがそれである。

あなたは自分自身のことを霊的な求道者だと思う必要はない。霊的な人、宗教心の篤い人という自己イメージをたずさえて生活するというのは骨の折れる重荷である。人は、霊的であるとは何を意味するかなどという条件づけられた観念をまったく抱かないとき、純粋に霊的なのである。リアルであることが即ち霊的であるということだ。ネコが正常なのは、誰もこのネコにお前はトラでなければならぬといった神経症的な観念を植えつけないからである。

インドの悟達(ごたつ)した導師、シュリ・ラマクリシュナが面白い譬(たとえ)話をしている。数人の男がマンゴの林に入って枝と葉を調べた。だがもう一人別の男はずっと賢かった。彼はマンゴの実を食べてみたのだ。これこそわれわれのしなくてはならないところだ。われわれは、ポイントを外れた神学で心身を擦り減らしてはならない。秘教的な話題を際限なくあげつらって貴重な時間を潰してはならない。われわれは果実そのものを食べなければならない。

次の霊的法則を銘記し、力づけられるとよい。ひとつの宇宙的真実は、それがわれわれを畏怖(いふ)させることが深ければ深いほど、その治癒力は大きい。もしわれわれがこの事実を避けたり抵抗したりはせずに、この事実に勇敢に立ち向かうとき、この霊的法則がわれわれを全き(ぜんき)人間となすのだ。たとえば、自己観察でわれわれの内部にある嫉妬心が露呈されたとせよ。これはひどく不愉快なことだから、われわれは顔をそむけ、否認したくなる。だが、もし単純にこの嫉妬を直視し、嫉妬を本質的な自己の一部とは見ず、単にひとつの獲得された習癖と見るならば、われわれは嫉妬心の呪縛を弱めることができる。

自己覚醒は闇を払う魔法の光である。

進歩をするとはあなたが必ず人生の揺れを表面的な冷静さで受けとめることを意味しない。ほとんどのケースでいえることは、危機に際して冷静でいるかに見える人々が内部では痛烈なショックを受けており、ただ静寂の外観を呈しているだけなのである。われわれが本当はどんなに困っているかを知り、生がわれわれをその好きなようにゆさぶるにまかせ、しかしながら「わたくし」というフィーリングをいささかも見失うことなくゆさぶるにまかせる、これでわれわれは進歩するのである。あなたはゆさぶられることはあり得ない。条件づけられた「わたくし」だけが傷つけられるに過ぎない。

正しく生きるには、まずフルに生きなければならない。あなたは勇気をもって、あらゆる出来事に、あらゆる人に、あなた自身をさらけださなければならない、あなたの現在の信念に何が起こるかを知ることなく、もしくは顧慮することなくそうしなければならない。防衛的態度がフルに生きる機会を妨げる、それこそがあなたを自由にするというのに。自分の防衛的態度こそ自分の城なのだと思っている人は、本当は、牢獄のなかにいるのだ。彼の城は、彼が思いきってドラゴンどもと出会い斬り棄てようと決意したときに遂に見出されるのである。

あなたが前に喧嘩した友人をなんとなく避けるとすれば、あなたはやはり彼を怖わがっているのだ。なんと言おうか、どういう態度でいこうかなどと予め考えることない、その友人と会う気持になっているとすれば、あなたは恐れを打ち破っているのである。

自分自身を喜ばすように生きるとは、日常的に湧いてくるあらゆる欲望を満足させるということではない。非常な違和感をおぼえるアイディアではあるが、これをまずなんとかして把握しなければならない。もともとわれわれは満足の伴わないことをするのを怖れるからである。われわれはすべて満足はわれわれを益する(えきする)と錯覚する。この錯覚はきわめて強力であって、われわれはほんとうは有害な欲望をなんとか満足させようと頑張る、そして欲望の満足により自分が破壊されるのだ!

他の人々に、こちらを満足させるような振舞いをさせたいという誰にでもある欲望をとりあげてみよう。こちらを満足させるとは、たとえば相手にこちらを尊敬してほしいということだ。ところが相手が、そうした態度にでない場合、われわれはひどく動揺する。なぜか?彼らの不遜(ふそん)そのものが原因ではない。われわれの、彼らがわれわれを高く評価すべきであるという欲望=強要が満足されないからである。われわれが他人に彼らの好きなように振舞うことを許すならば、われわれは自由なのだ。もはやわれわれ自身の欲望の奴隷ではなくなるのだ。

われわれが満ち足りているならば、他の人々がわれわれをどう扱おうと構わないではないか。いや、まったく構わないはずだ。森の中を翔ぶ鳥は、木の影に煩(わずら)わされるだろうか?

偽りの自己感覚という、この自由な生への敵をもう一度吟味してみよう。

人はその真実の本性から生きてはいない。彼は、彼自身についての何ダースもの夢幻(むげん)的な自己像から生きている。夢幻影像は、人がこれを本物と受けとるから、彼の情緒を支配し、彼の行動を決定する。かくてすべては彼を劣化、堕落へと導く。

ビジネスマンは自分の会社の中で自分が重要な人間であると思っている。それで、会社の中のなにかのプロジェクトになんらかの役割を依嘱(いしょく)されないと、不当に扱われたと感じる。それはもっぱら、自分が重要な人物でなければならないと思っているからである。もし彼が、自分が重要人的であろうとなかろうと全然意に介しなかったら、不当に扱われたと知っても、ただ肩をすくめるだけであろう。

地上におけるすべての問題と苦悩の原因となっている幻想というものの、ちっぽけではあるが、これは一つの典型である。自分には別のアイデンティティがある、自分は宇宙全体から離れたなにものかであるという自己中心的な幻想というやつだ。この幻想は圧力、忿懣(ふんまん)、他人への不信やすもうをつくりだす。本体とは離れたアイデンティティという誤った自己観念は、表面的には本土から離れてはいるが水面下ではちゃんと本土とつながっている離島に例えられる。

映画製作のスタディオへいってみる。家屋が並んでいる路地を歩いていく。そこまではよろしい。

だが、一軒の家のドアを開けて中で憩(やす)もうとするとどうなるか?憩むどころではなく、不快となる。家屋のセットは見せかけだから、そこでのくつろぎなどは不可能である。

われわれに起こることはすべてこれだ。偽りの見せかけのなかで生きているから、そこで落ち着とうとするとショックを受ける。

われわれは、自分でそう思っているような自分ではないのではないか、と疑い始めなければならない。われわれは目を覚まさなければならない。

偽りの自己感覚を消すことを怖れているかぎり、人間はあくまでも附きまとうその代償を支払わなければならない。しかし彼自身に関するあらゆる虚偽を進んで解き放つならば、彼は爽快という新しい生を生き始めるのだ。

まるで錠(じょう)のかかっているドアを叩くように偽りの自己と気狂いのようになって戦うことはもうないのだ。それはガラスのドアなのだから、透けて見えてしまうのだ。

10-⑨ 実際的な利己主義

<実際的な利己主義>(P260〜✔︎)

-自分自身のしたことに喝采を送ればよい

あなたがスーパーマインドから物事を考えるようになったとき、生における日常的な圧力はどんどん解消していく。驚くばかりである。たぶんあなたは、後で悔むに違いない約束を他の人々にしている自分自身に気づくだろう。出来ない約束、これがあなたの絶えざる苛立ちー多分無意識的なーの源となる。あなたは板挟みになって苦しむ。憤り、後悔しながらも、約束を守るべきか、罪の意識をおぼえながら、約束をキャンセルすべきかと。

だがあなたはいまや霊的なアーティストとなりつつある。あなたは万事をいままでとは違ったやり方でしている。もはや他の人々に、彼らから好いてもらいたいからといって、あるいは困った立場から脱する安易な方法だからといって、あなたはもう、他人に約束するようなことはしなくなっている。あなたはもはや、何が自分にとって正しいかの内的な直感以上に、他の人々の承認、是認を尊ぶことはしなくなる。あなたははっきりと、勇気をもって、自分の時間と労力を自分のものだと宣言する。こうして自己分裂と自己圧迫とは褪(あ)せていく。

あなたは毎日、あなたの本来の姿か、他人の承認か、自分はいったいどちらを欲するのかを決めなければならない。そしてあなたの本来性を必ず優先させなければならない。だがそれには蛮勇(ばんゆう)が要る。なぜか?もしあなたがあなた自身の生を生きるために、他人を喜ばすことをやめるならば、他人はあなたをもう利用できないと知ってむくれるであろう。彼らはあなたを利己的だとして非難するかもしれない。だが構わないではないか、気にするな。彼らは憤然(ふんぜん)とあなたの許を去っていく。あなたは、あなたが自分自身のためにしたことに喝采を送ればよろしい。

11-① 自由について

<自由について>(P262〜)

1.自由とはあなたのスーパーマインドの力についてあなたの心が澄んでいる境地である

2.われわれのネガティブな諸面をコントロールするのはポジティブな処置である

3.宇宙的自由という単なる言葉を超えてその経験へと到れ

4.条件づけられた心が静止するとき、真の解放が現われる

5.あなた自身についての神経質な関心一切を棄てよ。明日の災厄について思い煩うな

6.宇宙的な目覚めは、心身のあらゆる病いに対する確かな救いである

7.スーパーマインドによる自由に向かっての、あなたの真摯な努力のすべては成功である

8.幸福は、条件づけられた偽りの自己からの自由のうちにみいだされる

9.たえずスーパーマインドの原理原則をもって修行すれば、あなたは常に成功を勝ち取る

あなたが友達と二人きりで飛行機に乗っていて、人跡の絶えた荒野へやむをえず着陸したとしよう。あなたが歩き回わっていると、友達が足の親指を岩石にぶっつけてしまって、「ここには岩がごろごろしている。ぼくたちは岩をみんな小石に砕くプランを構てたほうがいいと思う」と言うのを聞いて、あなたはびっくりする。

数分後、ドシャ降りに遭った。すると友達がまたおかしなことを言いだした、「ここはひどく雨の降るところだな。なんとか降雨量を調節する方法を急いでみつけなけりゃ・•・・・・」こんどは二人が、野獣に追いかけられた。逃げおおせてーと息ついたところで、友達は言う、「もうひとつことの改善策をてなければならんな。野獣を馴らしておとなしくさせなくてはいかん」そして悲しそうに頭を振って、「とにかくこの場所はぼくたちにとって厭なことが多すぎるよ」とこぼした。

そとであなたは彼に言うに違いない、「もちろん、あらゆるものが間違っている。そもそもぼくたちは間違ったところに来ているんだ。ことの場所の状態を変えようとするのは無意味だよ。ぼくたちの仕事は、ぼくたちのこの場所に対する関係を変えることだ。ぼくたちは自由の土地へ戻る方法を考えださなければならない。そうすれば万事が解決する」

そのとおりだ。この場所と戦ってもムダだ。われわれはもうすこし知性に恵まれているはずだ。われわれが心的に間違った場所にいまいるのだということを、われわれは知ることができる。われわれは、人々と出来事とがいっぱいのこの世界に対して、われわれ自身の心理的な対応を変えることはできる。われわれは、野蛮な人間性という岩石や冷雨の犠牲となるのをやめることはできる。われわれは、荒野から脱けでてわれわれ自身の自由へと進めば、これらを成就できる。エミリ・ブロンテ(イギリスの小説家、詩人。一八一八ー四八)はその詩のなかで、彼女の神秘的な経験をこう語っている一

すると不可視の世界がみえてきた

霊的なものがその真姿を顕わした

わたしの五感は去り

わたしの内的実体(エッセンス)のうずきが感じられてきた

その翼は自由で

その棲家と避難港はみつかった

それは淵の深さを測り

屈みこんで一気に最後の跳躍をこころみた

11-② あなたにとって自由とは何か

<あなたにとって自由とは何か>(P264〜)

-あらゆる機能の完全調和

「愛」ということばもそうだが、「自由」ということばほど無造作に使われ、理解されるところの少ない言葉はないのではないか。

霊的な観点からすると、経済的な自由、政治的な自由などというものはない。

あなたは億万長者で、自由の国に住み、静かな田園に邸宅をもち、しかもなおあなた自身のネガテイブな心的年のなかに囚われているということがある。自由はひとつしかない、それは自己自由である。その他一切の自由は仮装であり虚構である。私はそれらをうんざりするほど見てきた。私は、豪荘な邸宅に住み、心的な牢屋に生きている人々によばれて、話をしたことが幾度かある。

決定的なポイントだけは明らかにしておかなくてはならない。口先だけでこのポイントをそうだといい、ほんとにそのとおりだと讃えるだけではなんにもならない。

内的な富だけがすべてだということは誰しもが即座に諾う。だが、口にだされた賛意は、もしそれが物質的な富への無意識的な渇望と矛盾しているならば、まったく無意味である。ノウと頭は振りながら、口先ではイエスといっているようなものだ。われわれは、そのことの真の価値を理解した上で、なるほどそのとおりだという意識的な合意で事を進めなくてはならない。それだけがわれわれを変えてくれる。それだけが、われわれの日常的な行動をまったく違うものにしてくれる。「真珠を見つけることのできる人は、立ちどまって貝殻を拾いはしない」といわれる。

雲がわれわれの視界から太陽を遮るように、間違った思考がわれわれをリアリティから切り離す。

妄想の雲を払うべく努めて、その先の光輝をわれわれは見ることができる。曇りなき心は自由そのものである。だからこそ、あなた自身を自由とするためこは、ふつう記過という意来のことはなにもする必要はない。たんなる活動と行動のうちに自由をみつけようとしてもダメだ。われわれは、非自由を理解しようと努めなければならない。との努力は報いられる。あなたはほんとうは、為したいとは思わない。あなたは在りたいと欲するのだ。

で、われわれは自由ではないとは何の意味かを知ろうとする。われわれは、内的世界と外部世界の両方で、きわめて実際的な意味にこのことばを使う。非自由とは、苦しい心的フィルムを断ち切れないこと、マーケットで長い行列のいちばん最後にいるときの苛立ち、意気銷沈していること、他人から与えられる以上に他人に与えていることへの腹立ち、なにかいいことをしてくれるのではないかとやみくもに希望して人々を追い求めることなどを指すのだ。こんな生き方をしている人が自分を自由だなどと思えるだろうか?

非自由は、人が多くの相互矛盾する部分部分に分裂しているときにある。彼の一つの部分は新しい車を買いたい、だが他の部分は協力を拒む。一つの欲望は彼を襲楽の場所へつれていく。だが別の欲望はひとつも楽しまない。

自由とは、思考と情動と身体の動きの三者が明るく同一のことを行なっている、内的な調和である。それらは相争うことなく、合致している。上手なプレイヤーが弾くギターの、ばらばらの絃が産みだすハーモニーのようなものだ。

あなたがスーパーマインドによる霊的な音楽の原理原則を体得しているならば、あなたの内部のあらゆる機能が完全に調和のうちに反応するのである。

11-③ 言葉とその意味

<言葉とその意味>(P267〜)

-人生を定義してはならない

人間は愛してもいないのに愛について演説をぶち、慈善の心などないのに慈善についてお喋りし、地上的な儲けについて考えているのに天国の問題を論じる。フレンド教会の創立者、ジョージ・フォックス(イギリスの説教者。一六二四〜九一)は、言葉の荒涼についてこう説明している。

言葉はそれらの公言するところのものを所有してはいなかった。

ととから言葉の崇拝という問題がでてくる。自由を希求する人々の陥ってはならない影である。調子の高い、理想主義的な匂いのする言葉は、偽りの自己が使う隠微なトリックであり、物を本物として提示する。言葉の崇拝者は、目覚めていないため、自分自身の推着により奴隷化される。ちょうど、「わたしはいつも正しいとは限らないかもしれない、しかしわたしは決して間違ってはいない」と公言した人のようにである。

われわれは言葉のあそびをはるかに遠く超えて、基本的な心的全一性へ、ウソを言わない誠実さへ、宇宙的意識へと赴こうとしているのである。われわれはそれ以外のなにものをも欲せず、また必要としない。

愛以外のものはすべて言葉でしかない。(アバス・エフェンディ)

われわれはまず、内的な生命活動を説明しようとするとき、言語というものの不適切さを噛みしめよければならない。にとえば、この本で何度も使ってきた、『識出また避職という用語をどう定義づけたらよいのか?まあ、これだけは言えるだろう!との二つは、そのときわれわれが物事をそれが真にあるがままに見るような、そうした心的状態を指すのだと。だが、これが更にまた説明を要求する。即ち、心的状態というものは、言葉で説明し尽せるものではなく、個人個人が経験しなければ知ることのできないものであると。言葉は、理解への道をつなげる橋梁として、明確ではあっても、限られた使用範囲しかもっていない。

最善のものは言葉では説明され得ないのだ。(レオ・トルストイ)

言語に対するあなた自身の反応を見守るとよい。ある種の言葉は強い情緒を誘起する。セックス、金、神、愛、憎いみなど。だが、とのとき、あなたはあなたの獲得された、それらの物事についてのアイディアに、その単なるレッテルに、反応しているのであって、物事そのものに反応しているのではないと悟るように努めてみることだ。すっきりとりなく行動するためには、過去のことから築きあげられた連想的な思考を放棄しなければならないのである。

数人のハイカーが、彼らの行とうとする方向を指示した道標のところへ来たとする。だが彼らは、先へすぐには進まず、道標そのものについて文句をつけ合った。一人は、道標はもう一フィート高く設けられるべきだという。他の一人は、道標に多少の装飾をつけてもよかったのではないかという。

われわれま、スーパーマインドへの道で出会う道標を、立ち止まってあげつらっていたのでは、先へ進むことはできない。言葉は言葉であってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。人が神についてしばしば語ったからといって、すこしでも彼を神々しくするわけではない。太場のことを喋ったからといって、彼を一条の太陽光線にするわけではない。エックハルトが次のような有名な科白を吐いたとき、彼はこのことをはっきりと心に含んでいたのである。

もしあなたが完全になりたいのだったら、決して神についてお喋りをしてはならない。

人生を定義しようとしてはいけない。あなたが、もし人生をばからしいと呼ぶとすれば、あなたは人生があなただけの特殊な観点に従った意味あるものでなければならないと主張しているのである。

もしあなたが人生は意味ぶかいと主張するとすれば、なにか予期しない出来事が起こって、あなたの快適な現状を覆えしたら、あなたはすぐに気持ちが変るに違いない。むずかしく思索することはよしたがよい。生をそのあるがままに委せるのだ。生は、われわれの言葉による定義づけや限定を必要ともしないし、顧慮しさえもしないのだ。

スーパーマインドの宇宙真理に従って生きよ。われわれのしなければならぬことはただそれだけだ。他になすべき何を求める必要があろうか?このフリーな境地にいれば、あなたの一日はばからしくもないし、意義深くもない。生の一日はただそれがある通りにあるだけである。これこそ、まったく新しい種類の霊感である。との認識は、恐怖にも、フラストレーションにも、その他人間がしがみつきやすいあらゆるネガティブなものに頒わされることのない澄明なインスピレーションである。

11-④ 恐怖からの自由を達成する

<恐怖からの自由を達成する>(P269〜)

-恐れている間にも前へ進め

舞台の催眠術師が一人の被術者に、自分が狼に追いまわされていると思いとませたとしよう。技術者は恐怖にかられて逃げ回わる。この人を助けるのに、あなたはもっと速く走れとか、棍棒で狼に打ってかかれとアドバイスはすまい。あなたは彼にただ、眼を覚ませと言うだけだろう。

われわれも正に目を覚まさなければならない。物事に対して、それをあるがままに見るように、目を覚まさなくてはならない。

怖れは完全に追放されなくてはならない。純化された魂はなにものも恐れない。(プロティノス)

怖れないように努めるな。それは不可能なのだ。むしろ、怖れている間にも、進め。恐れを消す秘訣はそれだけだ。

スーパーマインドはわれわれにいささかの自己関心をも持つなと教える。あなたに何が起ころうと、起こったのは誰か他の人に対してであったかのように、あなたは行動しなさい。

ある人が私に訊ねた、「あなたは、現在の瞬間は恐怖から自由である、今の瞬間には平和がある、とおっしゃいました。もしそうならば、いま現在、わたしが心安らかでないのはどうしてでしょうか?」

私は答えた。「いま現在の自由を悟らないからです。あなたはまったく無意識的に、過去の痛みの記憶で考えている、そして現在を記憶のベールで蘇っている。いま現在以外には何ものも存在しないのだと悟るように努めなさい。あなたの恐怖と、過去の恐ろしい出来事の記憶との結合を見詰めることから始めなさい」

たぶん人は混乱を恐れるのだ。人が混乱にどう反応するかを見守れ。彼がいかに熱心に彼の圧力を軽くしようと努めるかを注目せよ。混乱が他人との意見不一致をもたらすとき、どんなに早く彼がロを開き、言い争うかを見よ。これでは彼は解決は見つけられない。これでは、防衛的な意見ばかりの条件づけられた心を動員させるだけである。それはまるで平和団体を設立するために攻撃的な兵士の部隊を呼集するようなものだ。兵士らは平和という主題はまったく知らないのだ。

新しい自己覚醒が求められる。新しい自己覚醒は、人が混乱と戦わないで、静かにしているときに、現われる。生の昏迷に対する解答は、固定した心では見つかり得ない。解答は、条件づけられた心がなにも言わないでいるとき、なんの骨折りもしないでいるとき、やってくる。

私はここであなたに、いま何百万人という多勢の人々を苦しめているひとつの恐怖についてお話しよう。

この恐怖は、でてくるときは常に無意識なそれであるから、人々はこの恐怖が自分達にどういう悪さをしているか分るはずがないのだ。あなたはこのアイディアを研究してほしい。そして、これと同じことがあなたにも当てはまるかどうかを調べてほしい。

さてこの恐怖は何も起こらないことへの恐怖なのだ。

そこを観察しなさい。いまあなたの心を占めるようなものが何もないとき、あなたに何も起こらず、何も起こりそうもないとき、あなたの心にひとつの漠然たる不安が湧いてくるのをあなたは気づいただろうか?

この空虚を感じると、人は何かをする。空虚の苦しみから逃れるために、何でもする。しかしそれは気散じにすぎない、紛らわしにすぎない。遅かれ早かれ、騒々しいパーティーは終り、前と同じ恐怖が玄関の入口からまた入ってくる。

逃避を求めるのでは解答にはならない。逃げないことが解答なのだ。

11-⑤ 恐怖にみちた努力をやめるには

<恐怖にみちた努力をやめるには>(P272〜)

-あなたが頼りにしている一切を失え

あなたはそこにじっと静かに坐っていて、何も起こらないことへの恐怖を調べられるか?この恐怖から逃げようとしないでいられるか?逃げる逃げないといったって、あなたの脚で走ってあなたの身体から逃げられはしまい、それと同じだ。逃げられはいないのだ。だが理解はできる。理解は逃けるとととはまったく別のことだ。

いわゆるあなたの安全、安定を風にくれて投げすててしまうのだ。あなたにそれができるかしら?

あなたが頼りにしている一切を失え!外部的な出来事をもふくめて一切を失う羽目へあなた自身を追いこむことだ。あらゆる気ぜわしい神経質な企てと関心とを投げすてよ。何もするな、何も持つな。無であれ。あなた自身を安全にしようという企てはやめよ。自分が安全か安全でないかの心配すらもあなたは薬てられるかしら?もし薬てられたら、あなたは近い、一歩近づいたといえる。

静かでいる心には全宇宙が屈服する。(荘子)

新たな決意をもって宣言せよ、「わたしはこれへの解答は知らない。わたしは分っているだけだ、わたしが知らないということを、そしてよろこんでそのままでいくのだということを。わたしはわたしの習慣的な考え方で解答は求めないのだ。わたしは解答なしで行くのだ。わたしはストップする。

黙ってストップする。それで全部だ、それで全部だ、それだけだ」あなたが解答を求めないとき、解答はそこにあるのだ。スーパーマインドによって、それはあるのだ。

11-⑥ 永遠の喜びに至るには

<永遠の喜びに至るには>(P273〜)

-あなたの理性的な心のみを使う

内的な自由への進軍は、家へ着くためにいくつもの川を渉らなければならない人のようだ。これら一連の川にはいろいろの名がついている、頑迷、模倣、不自然さ、臆病など。もし彼が水に入り、渉ることを拒むならば、家庭の快適さから遮断され、いまいるところに止まっているほかはない。しかし、との意に挑戦し、彼自身を超えて進むならば、彼の心からの願望達成へと一歩一歩近づくことになる。

われわれが食欲と性欲による痛ましい渇望を超えてきたとすれば、なるほどそれは長い道をあるいてきたわけだ。こうして自由へと解放された人は自分自身に対して、おれは何が要るとは告げないし、また告げる必要もおぼえない。彼は彼の欲求を生自体に裂ねる。生は常にそれみずからが何をしつつあるかを心得ている。彼は手をのばして欲しいものを掴もうとして、生に干渉はしない。彼は生が差しだしてくれるまで待つ、そして受けとる。彼は食物からもセックスからも駆りたてられはしない。食物もセックスも、彼の支配者として上から君臨しているのではなく、彼の下僕として彼の下で奉仕しているのだ。

プロティノスはこのことを次のように説明している

起とってくる欲望は、それがなんであれ、決して下劣な方向へは進み得ない。疲労回復のための食物や飲物ですら、魂の注目を外れたところでおとなしく横たわっている。そして性欲もまた同じだ••・・・・それは自然の実際的なニーズに応じており、まったくコントロールされている。

われわれが人間的な定義による成功を超えて上昇しなければならないことは、すでに学んだ。では、『スーパーマインド』の成功の定義はどうか?秘教的な事実を理解しようとするくつろいだ、親しみにみちた努力は成功である。あなたの努力の結果などは忘れることだ。なぜなら、結果はそれみずからでやってくるのだから。努力だけが、これのみが肝要なのだ。純粋な勢かは成功である。

天上的な成功へ達するテクニックはすこしも複雑ではない。困るのはただひとつ、人間が辛抱づよく修行することを嫌うことだ。たとえば、われわれは自分自身のなかの自己敗北的な行動に気づいて、これを弁護することを拒否するかどうか?このテクニックひとつでも奇瞔を生みだしてくれる。なぜなら、正直ほどこの地上で健全なかつ清新なものはあり得ないからである。

人間は獲得されたネガティブな性癖を解除することを拒むため、重苦しい生を生きている。ちょうど重たい魚をくわえて翔べないカモメのようなものだ。

しかしマイスター・エックハルトは、自由な心はあらゆることを成い遂げるかをもっていか、とわれわれを激励している。

実際の状況では、それはどんなふうに作動するのだろうか?ここで、不愉快な仕事を気楽な煩わしさのないものにするすばらしい方法をお教えしよう。これを、あなたの情動を使ってではなく、ただあなたの心を使って行なうのである。家事であれ事務であれ、事業であれ、あらゆる仕事は、心でなされるべきであって、決して感情でやってはならない。あなたの情動が支配権を握ろうとするのを拒否すれば、何をやるにせよ、あなたは仕事を嫌ったり、それへ向かって腹を立てたりすることはおそらくはできなくなる。やってみることだ。あなたの理性ある心のみを使うこと。仕事は仕事であることをやめてしまう!

あなたを自由に解き放つ真理を理解し、かつ経験することは、純粋な永遠のよろこびである。

11-⑦ 他人の支配からの自由

<他人の支配からの自由>(P275〜)

-自由な人は彼自身が法則である

私の講義後の質疑応答から抜いた次の問答は、ネガティブな支配から自由になる方法を示す-

Q他の人々からの自由とはなにを意味するのでしょうか、ご説明をおねがいします。

Aごく簡単なことです。あなたは、あなたが誰かから何かをしてもらいたい、あるいはあなたが自己満足を誰かに頼っているという場合、あなたはその人に縛られています。あなたが誰からも何も求めない場合、あなたは誰からも自由です。スーパーマインドの原則は、他人は誰もあなたに本当の豊かさを与えることはできない、本当の豊かさはあなた自身の内部から来なければならない、というととです。これがはっきりと理解されれば、あなたの人間関係は正しくなります。

Qわたしは、わたしより強そうな人々にはすぐ弱気になって屈服してしまうのです、自分ではすごくイヤなのですけれど。わたしは、怒っている人が特にこわいのです。

A怒っている人は強くはないのです、弱いのです。目覚めていない人に、あなたに対して怒りを爆発させるとか当てこすりを浴びせるとかの機会を与えてはいけません。あなたが弱そうに見えるとき、あるいは彼が、あなたが彼から何かを欲しがっていると感じるとき、そうしたときはいつもあなたは彼のワナに陥りがちです。人間にある動物本能は常に誰かが攻撃してこないかと見張りをしています。攻撃の的になることは拒否しなさい。

Q ある人はわたしに対して無礼な振舞いをけっしてやめようとしません。

Aある人が引き続きあなたに対して失礼を働くとすれば、それはあなたが、無意識的にではあるが、なにか彼の悪い振舞いに対して褒美を与えているからです。褒美を与えることになるというのは、あなた自身の内部にある、ある誤った欲求のせいです。との誤った飲求を見詰めるように努めなさい。それが無くなると、あなたはその美を撤回するようになります。撤回するとあなたの内部に一種の危機が生じるでしょう。それは相手の人があなたを非難し、たぶんあなたを突き放すからでしょう。ということは、あなたはそこで、独りきりで立つだけの勇気をもたなければならないというととです。こうして遂には、あなたの自由のためにはとの危機が必要だということが悟れるでしょう。

たとえ誰かがあなたを拒絶したとしても、あなたの内的なものがこの状況を理解すれば、それであなたは自由のままでいることができる。しかしもしあなたが誰かを拒絶したとしたら、あなたは心理的に彼に鎖でつながれることになる。われわれはある人を、われわれの想像された自己感覚への脅威であると感じるとき、必ずといっていいほど、彼を拒絶する。しかしこの質の自己が溜されてしまえば、誰も脅威とはならなくなる。この境地であなたは、人々の間に好きなように立ち回り、あるいは去り、彼らがあなたをどう扱おうと、いささかも傷つけられることはない。

悟りに達した人が享受しているひとつの自由は、彼自身のルールに従って生きる自由ということである。彼の行動はすべて彼のスーパーマインドから発してくるので、真に道徳的であり、温厚そのものであり、純粋に隣み深い。彼は自分の好きなように振舞う。不自然な欲望からの突きあげの次隷となっている人々については到底とうしたことはいえない。囚われた心はそれみずからの偉さという幻想の意のままとなっており、かくてまた幻想のご褒美を受ける。

また、あなた自身という存在のもつ自然法則に従って生きるときは、コマンとある愚かしい人為的諸法則の圧力からは自由である。自由な人は彼自身が法則である。だが彼自身の法則は、対社会的反抗とか傲慢な態度とかを特徴とする質物の独立不羈ではない。それは静かであり、まったく目につかず、謙虚そのものである。人が霊的な真議を知っており、ことさらそれについて、論う(あげつらう)必要もないとき、彼は真に知っているのである。

11-⑧ 自己関心を無くす方法

<自己関心を無くす方法>(P278〜)

あなたは何事をも決定しない

自分に起こることについてまったくなにも気にしないとき、あなたは自由である。あなたは日常の出来事に乗って静かに運ばれている。それらがあなたにどういう影響をもつかなどについて一切の個人的関心がない。なにものもあなたを預わさない。好きだ嫌いだという境地ではない、抵抗する承認するという心境ではない。それはただ自然のままに流れる生き方である。

スーパーマインドの極意を把握している人、たぶんオランダの神秘思想家バルーク・スピノザのような人なら、こう指摘するであろう、「生きようとしてあがけばあがくほど、乏しくしか生きられないのだ。何をしているかが確かでなければという執心は薬てよ。あなたの内にあるリアルなものに身を委せよ。あなたの内のリアルなもの、それだけが確かなのだ。星が地上よりは遙かに高くまたたいているように、あなたはあなたを悩ませ苦しませるあらゆるものを超えて存在しているのだ。だがあなたはまずこのことに気づかなければならない。目を覚ますのだ!」あなたのために何が善いか何が悪いか、すべて何が正しいか何が間違っているかの最終判断は、条件づけられた心ではなされ得ない。習慣になずんだ心はそれ自体の混乱以外のなにものをも発見することができない。こうした心はいつも、刺激的興奮、エゴの満足感にもとづいてしか決断ができない。ということはそこではあらゆる決定が誤っているというととである。目覚めていなければ、何がよいかを決めるととができないし決める必要もない、なぜならどだいほんとうには知っていないのだから。それゆえ、われわれはただ、われわれが自分のやり方だと思いこんでいる方法から脱けでるだけでいい、そして最終判断は、常に狂いなく正しいところのスーパーマインドに委せればよい。

あなたはなにごとをも決定しないという理を悟るようになさい。いつも決定をくだすのは、その瞬間のはずみの、そのときたまたま支配的な欲望なのであって、それはけっしてトータルなあなたではないのだ。これで、あまりにしばしば聞かされる、「いまの瞬間わたしはこれが欲しい、だが次の瞬間にはあれが欲しいのです」という告白の謎が明らかになる。

あなた自身をどういたらいいかなど知らなくてもよい!としたらなんと幸福な人生であろうか!

このことをよく考えて欲しい。

生からのチャレンジに直面したとき、「わたしはどうしたらよいか分らない」という言葉には二つの全くニュアンスの違った言い方がある。一つは無益であり、他は平和である。

無益な言い方は、二つあるいは二つ以上の相矛盾する欲望の板挟みになったときの、「わたしはどうしたらよいか分らない」という言い訳である。この本当の意味は、「わたしは幾つかの選択に迷いどう決めてよいか分らない」ということである。しかし自由な人が「わたしがどうしたらよいか分らない」というとき、彼には苦しみや葛藤はない、もともと相矛盾する欲望というものがないからである。彼はどうしてよいか分る必要はない、なぜなら分るべきなにものもないからである。彼はすでに平和である。知らないということは彼には悩みではない、なぜなら起こることは何ごとであれ、すべてはよろしいと彼は悟っているからである。

われわれは、漂う後のような欲望をあれこれとつくることでではなく、すべての教えこまれた欲望を散らし、それを超えて泳ぐことによって、心から混乱を一掃するのである。こうして力泳すれば、秘教の導師たちが、「あなたは何も知らないときにあらゆるものを知っている」という言い方で暗示したすばらしい岸へ行き着くことができる。だから、ひたすらに力泳を続けるのだ、一つの勝利から次の勝利へと。もし求道の途中で出会う不快なものへ敢えて立向かっていくならば、その新しい岸辺には、敢えて立向かわなかったものたちの知り得ない、別の種類の快適さが発見できる。

それゆえ、ある霊的なもしくは心理的な真理に出会ったら、それを解釈しようとしてはいけない。

コメントはせず、新しい種類の花に出会ったときなんだかんだとは言わずただ黙って観察するようにただそれを観察する。ひとつの真囲に、あなたの判断に従っておまえはこうであろうと告げてはならない。真理をしてあなたに、それが何であるかを告げしめるべきだ、真理にのみ委せて、真理は、ものいわぬ自己の内にみいだされるのである。

目覚めはだんだん進んでいくと、電燈をスイッチひとつでせるように混乱を無くせる境地へまで達することができる。混乱は霊的な睡眠のひとつの産物にすぎないのだから、眠りを断ちさえすれば、自由はやってくる。

11-⑨ あなたの解放がほのかに見えてきた

<あなたの解放がほのかに見えてきた>(P281〜)

-世界は花園となってあなたを迎える

われわれは解放を帰還と見るべきである。われわれは加をつけられていない自己へ、機械的ではない自己へ還らなければならない。

自由でない行動というものは常に、機械的な無意識状態のなかで為される。機械的な無意識状態は不幸を示す。いつだったか、私はある店に入って、欲しい品物のことを訊ねた。私が女店員に品物の説明をしている途中で、彼女は首を振って、ストックされてないと言った。彼女は、私の求める品が何かを知る前に、ハウと言ったのだ。そして最後まで私のととばを聞くと、彼女は品物のある方に案内した。

このちょっとした出来事を検討してみよう。事実を聞かないうちになぜ彼女は首を振ったのか?

たぶん彼女の深く浸みこんだネガティブな性質が、外的な状況へまで機械的にそれみずからを延長させて、過ちを犯したのだ。この出来事ひとつで、彼女の内的な状況について多くの情報が明らかになる。彼女は不幸だ、なぜなら機械的なネガティブな反応は常に不幸だからだ。彼女は考えない。彼女は植えつけられた習慣に従って機械的に反応するだけである。その他いくらでも挙げられる。

あなたが次のようにすると解放がほのみえてくるーー

刺激的興奮よりも真実を選ぶ

反応する前に立ちどまる

あなたが最後に会った人の影響力を洗いおとす

自己が自己に教えることをゆるす

傷つくまでに自己に正直であること

リアリティを装っている感傷的な演技はやめるこれ以上あなた自身の外に安堵を求めない

偽りに対する報復は即座にやってくると悟る人前でのみせかけの敬愛を見破れ

真理をほんとうにあなた自身の真理にする

あなたが自由でありたいと望む特定の領域を指示しておくことは賢明な手続きである。あなたがはつきりと自由を奪われている領域を選ぶ。その領域とは他人からの承認が欲しいという追い立てられるような欲求なのか、罪の意識と感情なのか、または強迫観念ないし強迫行動なのか?あるいはその領域とは、決して達成されない目標の追求をどうしてもやめられないということなのか?

とにかくとうした領域をひとつだけ選び、手に入れられるかぎりの知識と叡智の最後の一オンスまでも注ぐこと。

ある領域からの解放がまた他の幾多の領域からの解放をももたらすことを、あなたは知ろう。というのは、ある大きな技を切り落とすと、それに付いている小技もすべて一緒に落ちるからである。

個人的な解放へむかって、どこをどう打つべきかを指摘してみよう。どういうかたちの危機であれ、その危機の際にはいつも、「スーパーマインド』のなかの適切な原理を想起すること。この方法は、物事がすべてスムーズにいっているときに行なった反省の十倍も有効である。あなたが意識的かつ意図的に、あなたの心を危機から引き離してスーパーでハンド原理へ移すときに、霊的な催眠は破られるのである。危機があなたをあなた自身への怒りあるいは罪の意識へ追いやるような場合、あなたがあなた自身の善でもなく悪でもないという原理を想起する。これが実際に認識されると、あなたは山の頂上に住むような自由と解放の爽快さへと変る。

あなたの洞窟から抜けだせ、世界は花園となってあなたを待っている。(ニーチェ)

あなたは内に秘められたる自己をもっている、あなたは自由で全体的で、花園に生きる自己をもっている。との自己はなにものについても梅まず、なんぴとからも厚意を求めない。との自己は、それが何をしているかを知っている。この自己はそれみずからの静謐さのうちに安住している。この秘なる自己とはあなたのスーパーマインドなのだ。

終章-① 全ては正しくなる

終章 全ては正しくなる(P284〜✔︎)

見当外れの活動だとか騒々しい関わり合いとかという、人がそのほんとうの心の奥底ではしたくない多くのいやなことどもを、われわれはこれまで調べ、研究してきた。では、人間はいったい本当は何を勝ちとりたいと希求(ききゅう)しているのか?それは次のどれか、あるいはすべてである-

自己認識 自己統一 自己偷楽 自己支配 自己覚醒 自己信頼 自己平和

スーパーマインドがもたらす大いなる変容をわれわれが歓迎するならば、これらの境地は易々として訪れてわれわれのものとなる。

歓迎のための自己訓練は次のようなことだー

今日一日を、あくまでも物事をあなたの望むように起こらせようなどとは努めずに過ごすこと。

あらゆることを、起こるがままに起こるに委(まか)せ、ただ気楽にあなたのビジネスを行なうこと。

誰かを、あるいは何かを、あなたの欲する方向へ向かわせようと意図することをやめること。

なにものをも欲求しないこと。

満ち足りていること。

行動者とはならず、生起(せいき)するあらゆるものに従う静かな随順者であること

以上のことを、たった一日でよいから、実験的にやってみるとよい。なにか根本的に違ったものが、あなたの内部でうずきだすはずである。なにかがある、とあなたは感じるだろう。そのなにものかは、ひとつの高次の力なのだー 宇宙真理のリアリティなのだ。あなたの欲求する自己を受身にさせて、この自己に、あなたを豊かにすべく作動するひとつの機会を与えてあげなさい。

終章-② 秘中の秘

〈秘中の秘〉(P285〜✔︎)

ー健全な受容性

あなたは友達の家にいっている。そこでは友達の若い娘さんが彼女の初めてのピアノリサイタルの練習をやっている。上手に弾いている。だがまだ練習生だから一つか二つ間違った鍵(キー)を叩く。またタイミングも不完全である。弾き終えると、あなたは心から拍手を送る。彼女の失敗に対してはすこしも批判の気持はない。そのときあなたは、ほんとうは何に対して拍手したのか知っているだろうか?

それは彼女の正直な努力に対してなのだ。彼女は自分でできるだけのことをしたのだ。上手にピアノを弾とうとして自分のベストを尽くした、この誠実な若いレディを見たとき、あなたには純粋な優しさの気持があなたの内奥から湧いてでたのだ。

自己向上をめざした正直な努力を見ることほど心からの喜びがこみあげる爽快さを私は他に知らない。

だから、受容的であるとは、スーパーマインドに向かって熱心に勤めるとはどういうことかを知らなくとも、あなたはすこしも心配しなくてよい。自分が何をしているのかまるで見当がつかなくとも、ただ気持をらくにしておればよい。あなたの第一の務めは知ることではなく、知らないということをはっきり悟ることである。これはあなたにも、いまこの瞬間にでもやればできることである。

あなたが知らないという事実を素直に肯定せよ、そしてそのままに委(まか)せよ。これが健康な受容性という行為なのだ。この種の降服は勝利なのだ。

あなたは、「おれはこのことについて何をすべきだろうか?」としょっちゅう自問する。この昏迷(こんめい)が翌月もまた次の月も、そして更に年毎に繰り返される理由は、同じ問いを発してはまたも間違った解決をするからである。あなたは、牢獄で条件づけられた心で、自分の問いに答えようとする。条件づけられた心はいつも答をもっている、ただし常に間違った答である。

そこでだ。先ほどのあなたの「おれはこのことについて何をすべきか?」との問いに対し、それまでとは違うまったく新しい答え方がある。それがスーパーマインドの答え方なのだ。

あなたのいつもの生活をそのまま構わず続けるのだ、ただし、現在のところ、おれは何をしていいか分らないとはっきり自覚した上でだ。お分りだろうか!大切なのは、あなたが何をするかというその行為ではないのだ、あなたが何を深く理解したかということが大切なのである。このことを把握するように努めてほしい。

ここでわれわれは、みずからの内部に見られるプライドだとか格好や見栄とかをわきへ斥(しりぞ)けるまたとない機会をもつことになる。なぜなら、そうしたものは新しい答を阻む障碍(しょうがい)だからだ。プライドを真理に優先させる人はすべて、この障得を突き破っていくことができない。だがあなたも私も、プライドの圧迫を超えて進みたい、だからわれわれは嬉々(きき)としてプライドを傍(わき)へ斥ける。

秘訣のなかの秘訣は?これだー

あなたが知らないという事実に屈服せよ、それをそのままに残せ、それが健全な受容性の行為なのだから。

終章-③ 新世界の建設

<新世界の建設>(P287〜✔︎)

-新鮮な素材はすでに用意してある

幸福な人生は、自由で真直ぐで、たじろぐことのない、しっかりと腰を据えた心にある、恐れや欲望の影響を超えている心に。(セネカ)

この名言は一語一語言っているとおりのことを意味していると受けとるべきだ。現在のところまだその意味を全面的には把握できないからといって、その意味を弱めて受けとってはならない。研修生の質問に対する私の答えを見ていただきたいー

Qスーパーマインドについての教えのなかでもいちばん不可解なのは、われわれは希望のなかで生きてはならないとおっしゃったことです。だってなにかもうすこしよいことがあれば・・・まったく希望をもたないで生きる人生なんて、耐えられるとは思われません。

A真の希望と偽りの希望があります。たとえばあなたが誰かに会おうと思うのは、その人があなたになにかよいことをしてくれると、あなたは切ないまでに希望しているからだ。あなたは彼あるいは彼女に、熱い希望をつないで会う、その結果は希望が挫(くじ)かれるだけです。あなたはいま傷つけられている、それはこの人があなたの欲求を満たしてくれると希望していたからです。

Qでもみんなそうして生きているんです。なんということでしょう。しかし他にどうすればいいんです?

Aあらかじめこうと予想した希望は一切もたずにどんな人とでも会い、どんな事態にも出会うことです。いいですか、あなたに傷を与えるのは挫かれた希望であって、結果そのものではありません。偽りの希望をもたずに生きる、そうすれば真の希望の勝利ということが分ります。

Q真の希望って?

A それは、あなたが遂にはあらゆることを正しくするようになるという直観的な洞察とともに湧いてきます。

もしあなたの世界が条件づけられた思考のために分裂したとすれば、結構なことだ。それはたいした世界ではなかったのではないか、結局のところ!

そこであなたは、スーパーマインドにもとづくあなたの根元的な知性を使って、新しい世界を築くことができる。だが、あなたの古い世界の廃墟をば、たんに起こし直しただけでそれを新しい世界と勘違いしないよう、よくよく気をつけなくてはならない。新築は古いものの再建ではない。新しい世界を築くとは絶対的なゼロからの出発である。そして新しい世界が、それみずからの素材を使ってみずからを築きあげるのを許すことである。新鮮な素材はすでにあなたのために用意されている。たとえあなたが皆目知らなくとも、それは既にあるのだ。

われわれの目的はスーパーマインドによる新しい知である。新しい知をもってすれば、疑惑は永久に消える。この新しい知は、みずから進んでわれわれの疑惑のなかに入っていき、それらの原因である誤った観念群を超えでるときに訪れてくるのだ。

終章-④ 霊的成功とは何か

<霊的成功とは何か>(P289〜✔︎)

-擬似的な権威は棄てなさい

まず初めに、真のアイディアを虚為のアイディアからあなたはいつでも引き離すことができると思ってはいけない。それはできないのだ。それを残念と思ってはならない。ただなぜかを理解するように努めるのだ。もしも、おれはすでに真のアイディアと贋(にせ)のアイディアの区別がつくと思い込んだら、あなたは条件づけられた心の罠にはまってしまう。古い、固定された規準に従ってアイディアを受けいれたり拒否したりすることになるからだ。 偽りのアイディアをたんに新奇(しんき)だからあるいはポピュラーだからといって受け入れたり、真のアイディアを、聞いたこともない変なものだ、なにか不快なものに思えるからといって拒否してしまうかもしれない。

スーパーマインドへの道程(どうてい)で騒音をがなりたてているもの、豪華なショーのようなものを求めないことが、あなたのためになによりも大切な心掛けである。真理は黙(もだ)して作動している。ただし確実に作動している。外見の派手な人からそのアイディアが発せられたら、真珠をふくんでいる牡蠣はまずないことを想起すべきである。そういった人は、間違ったものへまっしぐらに進み、あなたを間違った方向へ導くかもしれない。

霊的なことがらではすべて、あなたの真髄である自己の外にはいかなる権威も存在しない。借りもののアイディアから行為するのと、正しいものに対する内的感覚から行為するのとの差を見分けなければならない。擬似的な権威は薬てなければならない。あなた自身から生きることだ。あなたは、あなた自身の報酬を勝ちとることができる。また必ずそうしなければならない。自分で勝ちとるのではない報酬を得ようとすれば、与えるものも与えられるものも、傷をうける。

なんぴともあなたを審判する権利はない。あなたがあなた自身の審判官でなければならぬ。そしてあなたはその審判を正しく行なわなければならぬ。かくして、あなた自身の全体性が拡大され伸張(しんちょう)されるに委(まか)せなければならぬ。

もしもイージーな道を選び、他人にわれわれのことを考えさせるというような行き方をすれば、結局は辛く苦しい道を歩まねばならなくなる。もしもわれわれが最初から辛い苦しい径を選び、われわれ自身の心的誠実さを貫こうとするならば、われわれは遂には楽な径へと出ることができる。

スーパーマインドへの径にははっきりと標(しるし)がついている。あなたの思考で、あなたの感情で、あなたの反応で、あなたのよろこびで生きることだ。

われわれはいまここで、有史以来人類に与えられてきたあらゆる真実の教えの、大いなる格言に出会う機会を得る。それは、いにしえの叡智に近代心理学の成果を、東洋のテクニックに西洋の知識を結びつけた結実(けつじつ)である。あなたがこの本のなかで、これらの原理原則以外にはなにも学ばなかったとしても、それだけで立派に天なる王国への鍵を持ち得たこととなろう。

一、偽りの自己感覚から偽りの欲望が起こる。

二、偽りの欲望から偽りの行動が起こる。

三、偽りの行動から偽りの問題が起こる。

四、偽りの問題から偽りの悩みが起こる。

これが人間の実状であることは疑う余地があるまい。疑いもなく、人間は昏迷し、途方に暮れている。だがそれはまだ話の半分でしかない。このプロセスを逆にして、人間の生きる道の明るい半面へ眼を転じよう。

一、偽りの自己感覚を失くして偽りの欲望を失くせよ。

二、 偽りの欲望を失くして偽りの行動を失くせよ。

三、偽りの行動を失くして偽りの問題を失くせよ。

四、偽りの問題を失くして偽りの悩みを失くせよ。

このようにして、人間は彼自身を救うことができる。

終章-⑤ 具体的な救いへ導く一般的思考

<具体的な救いへ導く一般的思考>(P292〜)

一、いったん真に理解すればすこしも辛いことはない。

二、生を自分の流れにひきこもうとする気ちがいじみた試みが生を閉めだしてしまうのだ。

三、自分がこのようにしなければならぬと思うような行動などいっさいしなくともよいとしたらこの世はなんとリアルな世界となることであろうか!

四、世界の狂気を、それには一切関わることなく、静かに観察することは充分に可能である。

五、外部的な活動がいかなるものであろうとも、もしもあなたが意識をもってそれを行なうのであれば、その瞬間はあなたはフルに生きている。

六、ベッドに寝て、ネガティブな心的フィルムが心のなかに映しだされるのを許していてはならない。

七、何が正しいかがもはやどうしても分からなくなったとき、いやそのとき初めて、あなたは努力を要せずに、真に正しいものに従っていけるようになる。

八、あなたのためによいことをしてやりたいという人々からは遠ざかっておれ。

九、微しい苦しさを、われわれ自身の気分をそらすことで軽くしようとすれば、将来の苦しみを予防するまたとない機会を失ってしまう。

十、まったくなにもすることがなくなったときに、あなたのすべきことが分ったとすれば、そのときすでにあなたは黄金づくりの勝利の門へ入っているのである。

十一、すべてはあなたがよろこんでどこまで行こうとするかにある。

十二、植えつけられた人間的知恵を棄てるという恐ろしい過程をあえて通ろうとするものはだれでも、骨を折らずに宇宙的な叡智に運んでいってもらえる。

十三、ひとつの獲得された、もしくは条件づけられた意見をもうひとつ別のそれと交換することは、飢えを満たすために蠟の林檎をプラスチック製の林檎に替えるよりも無駄なことだ。

十四、あなたに"咬みつく”ものはすべてあなたの内部にある。

十五、あなたに起こったものではないことに対して不平や不満は抱くな。そうすればあなたは何百人もの人々の知らない平和な秘境を知るようになる。

十六、受容性は真理へ開け放した態度であり、物の受容性である浅い好奇心はネガティブなものへ開け放したドアである。

十七、偽りのアイディアにもとづいて人生を美しくしようとすることは、鋼鉄製の罠に花束を置くようなものだ。

十八、宇宙的な愛はわれわれに、われわれが欲しいと思うものは与えない、われわれが真に必要なものは与える。

十九、単純であれ、そうすれば至高へ到れる。

二十、あなたが耳を傾けさえすれば、いまのこの瞬間にも、あなたは自分自身からよい報せを聞くことができる。

二十一、紐つきではない真の贈物は、あなたが求めずとも来る。それは求めても来るものではない。

二十二、誰もあなたになにかをしてやらなければならない義務などはない。それはどんな人間も、あなたのためになるような真に価値あるものは有していないからである。

二十三、あなたの幸福のためには他の誰かに頼らなければならないといった秘かなじこみを克服せよ。

二十四、あなた自身からあなた自身を隠すものが少なくなればなるほど、あなたは健康になっていく。

二十五、あなたの最終ゴールは、人生をあなたの流儀で送らなければならないという狂気の我執を乗てて、生をしてその思うがままにあなたのなかを通過させることである。

終章-⑥ スーパーマインドとともに

<スーパーマインドとともに>(P295〜)

-心の灯を自分の意志で拒否するな

人間の悩みは、挙げて、心の死を知いているためである。ころしてわれわれはパニックのうちに駆けずり回わる。まるで夜陰、敵の陣列の背後に紛れこんだ兵士のようにだ。われわれは明々白々たる事実をすら見損う。たとえば百万ドルの資産家が成功者などではなく、たんに百万ドル持っている人にすぎないといったことすらわれわれには認識できない。

心の灯がないというのは、灯を頑強に、しかも自分の意志で拒否するということであって、そこから自己矛盾が生じてくる。人は自分が準拠して生きている言条にあくまでもしがみつき賞讃すらする。だが本当は悲惨な人生を送りながらだ。そのような人をどうして知的だといえようか?こうした場合、彼の自己敗北的な人生態度が彼の日常的なルールになっていることはいうまでもない。われわれは見たくないものは見ることができない。見たくないのは、われわれ自身をそのあるがままに見ることの不安を、一時的な不安を恐れているからである。

われわれの災厄の根拠が、心の誤用にあると知ることはよいことである。心を正しく使えばわれわれを正しくすることができるということだからである。

あなたの炉に盛んな火を燃えたたせるためには、ある種の手順が必要である。マッチで紙に点火し、鐘層に炎を移し、それから芽へ燃え移させる。その後適宜に芽を一本一本と追加する。最初にマッチでの点火がうまくいかなかったからといって、あなたは火を起こす努力は薬てない。火の回わりが遅いからといって諦めはすまい。辛抱づよく、根気よく続けなければならない。そして最後には、炎々と火はそれみずから燃え盛っていく。

同じように、あなたは、あなたの内的な火を絶えず『スーパーマインド』の秘教的なアイディアで燃え盛らせなければならない。そのためには、熱心な、同じような心をもった人々とのディスカッション、そして毎日の自己観察が大切な作業である。こうしてある地点に達すると火はそれみずから燃え上っていく。だからといって、研鑽を緩めてよいという意味ではない。より高い、より実りある努力が必要なのである。

初めは自分自身へ若干のストレスをかけることもあるが、しばらく経てば、あらゆることを易々としてまた歓びをもって行なえるようになる。(トーマス・ア・ケンピス)

『スーパーマインド』を再読するうちに、あなたは、自分のために特別な意味をもつと思われるいくつかのアイディアに突き当るだろう。これらのアイディアは、愉しい省察を更に加えていけば、ますます価値が増してくる。ファイルノートのスペースへ、自分のことばでそれらを書きこんでいくとよい。もっとページを加えて、更に書きたすのはあなたの自由である。これらを愉しみながら、熱心に、あなた自身のインスピレーションとガイダンスのため絶えず参照するようお奨めする。

では一

訳者あとがき

訳者あとがき(P297〜)

スーパーマインドとはまた壮大な用語を造ったものである。マインド(心)といえば、何千年も使いなれている語だから誰にも分る。だが突きつめて考えてみるとやはり分らない。難問を凝縮したような客体であり主体である。哲学・科学・宗教が必死になって探究しているが、まだまだほんとうの正体は掴めていない。その分らないマインド(心)に、スーパーをつけたら尚分らなくなるではないか。だが著者はこの心なるものはどうしても宇宙的観念から見なければ悩むことができないとして、これを使ったという。との心なるもの、確かにコズミックのなかに入っている。これだけは疑うことができない。コズミックというと、この小さな惑星の人間どもを無限の遠くから、また顕微鏡的に直かに、見降し見詰めている絶対者の感じがする。われわれは、太陽を仰ぎ星を眺め、月に涙して、コズミックなものに憧れている。人間的存在のエッセンスである心は、通常の用語では充分象徴的にかつ直観的に表現できない。言葉を使うとすれば、スーパーマインドと叫んで直指するより他はないのだ。半年との本と取組んで、私はそう思った。

ふと玄関へいってみると、日めくりカレンダーがかかっている。「賞めよ讃えよ、神性が発揮される」と大きく書かれている。これだと私は膝を叩いた。スーパーマインドとは神性なのだ。ハワードはヴェーダンタ哲学の文献から引用して、それを巧みに、寓意的に表現しているー

同じ木に二羽の鳥がとまっている。一羽はいちばん高い枝に、他は下校にいる。上の鳥はあたりの様子を静かに平和に眺めながら停まっている。その黄金の羽根のとおりに、彼は荘厳華麗な姿で憩っている。

下の鳥は神経質に校から枝へとび移り、木の実の味みをしている。甘い実に出会うと興奮してにぎやかに尊るが、酸っぱい実にぶつかるとがっかりして沈みこんでしまう。この鳥はときどき見あげ、上の鳥の堂々たる態度に、漠然とではあるが感心する。神経症の鳥は上の鳥の不思議な静謐さの秘訣を知りたいと憧れるけれども、新しい実が目にとまるとすぐにそれへ注意をそらされて、静かさへの渇仰を忘れてしまう。

下の鳥は前後左右へ、上から下、下から上へと数分ごとに飛び移り、甘い実から酸っぱい実へ変わるたびに、上機嫌から失望へ、笑顔から泣き顔となる。甘い実だけを求めているうちに、彼は甘さの後では必ず普さがくると悟るようになる。彼がどう努めようと、っぱさは甘さにつづいてくる。彼は上を見上げ、平和そのものの鳥へ憧憬の眼をむけるが、すぐにまた強迫的にその狂気のような探求にもどってしまう。

しかしついに、彼は日一杯にひどく渋い実を食べて、もうとれ以上我慢できなくなるときが来る。危機が来たのだ。彼はいままでとはまったく違ったなにかを選ぶか、でなければ正気を失うしかない。で彼はおずおずと上へ上へと移り、平和な鳥のそばへそばへと近づいていく。

意腐なアプローチをつづけるうちに、ある時点で育費が起こる。下の鳥は、彼自身がるとからその上の鳥なのだと悟るのだ!彼にはただ分らなかっただけなのだ。幻想に曇らされて、彼は別々の二羽の鳥があると思っていたのだ。しかしいまは違う。一羽しかいないのだ、彼の統一された自己自身しかないのだと彼はいまにして知る。

その死にものぐるいの枝務りが催眠的幻想の中のものだといまにして分った、そして彼自身があの王者のような鳥だと知った彼は、いま興奮と悲欺を抜けだしている。彼はもはや彼自身の外には幸福を探さない。彼の真の自己が幸福そのものなのだ!

われわれの人生の目的はスーパーマインドを通して宇宙と一となることなのだ。ハワードも、読者のあなたも、訳者のわたしも、みなスーパーマインドをもっている。スーパーマインドは一即多的実体なのだ。これらの交流が愛である。百万人がもつ千億万億の悩みも不安も、スーパーマインドがいっとき隠れていて、われわれはそれに気づかず、偽りの、限定された自己像に捉われ、ときに動物的本能にのみ駆使されているからである。なんとすばらしい肌えではないか。汗牛充様も只ならぎる人生書も宗教書も、すべてことをめざして説いているのではないのか。われわれ人間努力の一切が、あらゆる文明文化が、スーパーマインドの実現への努力ではないのか。

最後に、出版事情により、三章を割愛してこのページ数にするしかなかった。原著者および読者のご諒承を得たい。先に掲げた、ハワードのヴェーダンタ哲学の引用は、この割愛ページから拾った珠玉である。

(一九八〇・十ー・十ー 川口正吉記)