# 第1章_この世でもっとも素晴らしい秘密



# 心配とは無縁の幸福な暮らしが待っている

「人々が苦しんでいる問題には、どんな原因があり、どんな解決法があるのでしょう?」

いきなりそう問われても、困るかもしれません。なにしろこの質問は、難問中の難問なのですから。

では、これから本書の中で、この問いに対する答えを探していくことにしましょう。

私たち人間は、新天地をもとめて大移動している集団のようなものです。人々は乾いた不毛の地から列車に乗り、天高くそびえる山の頂上を目指します。

では、ガイドブックを開いてみましょう。「頂上に近づけばそれだけ見通しがよくなり、土地も豊かになるだろう」と書いてあります。

頂上までには、数多くの駅が設けられています。乗客はどこで列車を降りて、旅を終えてもかまいません。旅を途中で切りあげるのも、終点までの旅路をまっとうするのも、すべて乗客の自由です。

最初の駅で降りた人々がいます。目の前に広がっているのは、荒涼とした土地です。彼らは内心がっかりしながら、そこに新たな家を作りました。

もう一つ二つ上の駅で列車を降りた人々もいます。ここは、一番下の場所よりも少しましですが、それでも人々はどことなく不満げに、それぞれの居住地に向かいました。

まだ旅をつづけているのは、ほんのひと握りの我慢強い人だけです。

実は、旅が始まってまもなく、彼らは面白い発見をしたのです。たしかに旅は苦労の連続ですが、先に進むにつれて困難さがやわらいでいるのです。つまり、忍耐と粘り強さが報われているのは間違いありません。それを知った者は、ひたむきに先を目指すことができるのです。

やがて残った旅人を乗せた列車が、頂上に到着しました。そこには、心配とは無縁の幸福な暮らしが待っています。心底からほっとしながら頂上に降り立った人たちは、なかったものを見つけました。それは、目の前にあるまぎれもない現実……。彼らは現実を手にしたのです。

# 絶望に浸りつづける囚人のように……

人はさまざまな仮面をつけています。にこやかな仮面、いかにも賢そうな仮面、生き生きした表情の仮面、超一流の成功者の仮面……。だれもかれもが、自分や他人に仮面の演技が現実だと信じこませようと必死です。

けれどもいずれは、劇は終幕を迎えます。演じるものを失った役者は、所在なげにたった一人、ちっぽけなステージにとり残されるのです。

人は何を望んでいるのでしょうか? それは漠然とした感覚としてしか理解されません。

人は解放されることを願っているのです。では、何から? 頭痛、苦しみ、自分では払いのけられない欲求、だれかにひどいことをされるのではないかという恐れ、過去の過ちをひそかに悔やむ恥や罪の意識……。逃れたいものはいくらでもあります。

ところが、自分を解放したいと思っても、解決策がどんなもので、どこで見つかるかは容易にはわかりません。それでも不安に駆られた者は、なんとか自力で探そうとします。でも、行き着くのはたいてい見当外れの場所です。

それで、仕方がないので、こう言って自分を慰めます。

「明日になればうまくいくだろう」

ところが、期待は裏切られます。それでやっと悟るのです。同じ場所を探しまわっても、またがっかりするだけだということを。

プラトンが師ソクラテスの言葉として伝えた「洞窟の比喩」は、そんな状況をうまく説明しています。

暗い洞窟の中に、大勢の人間が鎖でつながれています。その周囲では火が赤々と燃えており、おどろおどろしい影を作っています。人々は、その影を実体のある恐ろしい敵だと思いこんで、手も足も出ずに身を縮ませています。

ところがそんな状況に、うんざりした一人の囚人がいました。囚人は勇気を出して、何がなんでもこの洞窟から出て行こうと決心します。

どうにかこうにか暗闇をつき抜けると、そこは太陽の光がふりそそぐ現実の世界でした。囚人は、ついに自由の身になったのです。

では、囚人がまた洞窟に戻って、この素晴らしい発見について他の人々に話して聞かせたら、どうなるでしょうか? 苦しみの元凶は自らが作り出した幻にすぎず、洞窟の外にはまるっきり違う新世界が待ち受けていると伝えたら?

よくぞ教えてくれたと、手を打って喜んでもらえるでしょうか? とんでもない! そんなことをしたら、人々がせっかくつかんだと思った真実を放棄させることになるのです。自己満足を妨げるのですから、感謝されるはずはありません。かえって馬鹿にされ、嫌がられて、裏切り者呼ばわりされるのがオチです。

囚人たちはいつまでもひっそりと絶望に浸りつづけるのです。

では、「宇宙のセオリー」は、そのような人々をどのようにして救うのでしょうか?

# 出口はすぐそこにある

人は、おびえた迷い人と同じです。目につくものに気をとられて、それ以外のことは目に入りません。

それでも、出口はあるのです。出口にたどり着きたいなら、本当の自分を知らなくてはなりません。別離や孤独感、疎外感の痛みから解放された人がいたとしたら、必ずこの出口を通っているのです。

生まれた直後に、王宮からさらわれた王子がいました。王子は貧困にあえぐ村で育てられ、成長すると貧しい境遇を憎むようになりました。彼はそこから抜け出すために、慎重に計画を練り、王座をわがものにしようとしました。陰謀と戦いが繰り広げられ、王子はついに王位を手中にしました。

ところが、新王は疑心暗鬼にとらわれ、だれにも心を許すことはありませんでした。毎日が苦しみの連続でした。

ところがある日、王は自分が何者であるかを知りました。彼は、はじめから王となるべき人間だったのです。

いるべき場所に自分がいる。それを知ったときから不安や恐怖心は去り、王は穏やかな君主となりました。

本当の自分を知ろうとすれば、だれもが王者たる資格があることに気づくはずです。他の何者にもなる必要はありません。あなたは、ただ本当の自分を理解すればよいのです。生まれながらの本物の王であることをです。

「王のように恐れるものがないとしたら、どんな気持ちになるでしょうか? そんな気持ちになってみてください。だれにも自分を傷つける力がないと知ったら、どのように人に接しますか? そういう態度を示してみてください。

世間でいう不運もたいしたものではないとわかったら、どう反応しますか? そのように振る舞ってみてください。自分はどこをとっても大丈夫だと考えていたら、自分をどうとらえますか? そういう考え方をしてみてください」

こうして、王としての自覚ができあがります。このような自覚がある者は、王にふさわしい人生を歩むのです。

# この世でもっとも素晴らしい秘密

この世でもっとも素晴らしい秘密とは、いったいどんなものでしょうか?

「宇宙のセオリーとつながりをもった者は、まったく新しい人生を歩むことができます。それはこの場の現在だけでなく、別世界の今後にも通じることなのです」

これが、この世でもっとも素晴らしい秘密です。

宇宙のセオリーの先には、高次の新しい人生があるのです。

私たちは、どのような一日を過ごしているのでしょうか? 振り子のようだと言ってもよいでしょう。

たとえば、昇給や昇格などの外部的によいことが起こります。すると、私たちはおおいに気をよくします。ところが次の瞬間、昇給も昇格もまるで意味のなかったような落ちこみ方をしてしまうのです。

自信と不安、有頂天と憂鬱、平静さといらだち、穏やかさと怒り、決断と優柔不断……。一日のうちに私たちの気分は極端から極端へと何度も行き来するので、かなりくたびれてしまいます。

どんなに上機嫌になっても、それは一瞬のこと。砂漠をさまよう旅人の前で消える蜃気楼のようにはかないものなのです。

ところが、これ以外の生き方もあるのです。

これからお話しする宇宙のセオリーの基本原則を心にとめていれば、実体験を通してあなたの確信は深まることでしょう。どんな人間も、どんな環境的要素も、その新しい人生のスタートを妨げることはできません。

違う自分になりたいと望んでさえいれば、自分でも止められないのです。目をそむけずに真実を吸収すれば、人生はそれだけ大きく変わります。

必要なのはただひとつ、耳を傾けて、新しいことを学ぼうとする姿勢だけです。それだけで、何もかもが可能になるのです。

# 宇宙のセオリーとはどんなもの?

ではそろそろここで、宇宙のセオリーの正確な意味づけをしておきましょう。それは、この言葉が乱用されているという事実もさることながら、私たちの目指すべき方向性を明らかにする必要があるからです。

宇宙のセオリーとは、

(a)內面的啓蒙の進んだ状態

(b)現実との統合がなされた状態

(c)成功して心から満足している状態

(d)まったく違う生き方について洞察できる

(e)論理的な思考を超えて真実を直観的に把握している

(f)幸福で健康的な人間であることを知る個人的体験

これこそが、正統派の宇宙のセオリーというものです。

宇宙のセオリーは、快活な輝きに満ちています。たとえ物事がうまくいかなくても、宇宙のセオリーの実践者は穏やかさを失いません。

宇宙のセオリーは、魂の旅または実地体験、あるいは単純に豊かで意義のある人生を実現する方法ととらえればよいかもしれません。

# 宇宙のセオリーで見つける「真の自己」

同じ朝焼けを見ても、人によっては違う描写のしかたをします。宇宙のセオリーと既成の哲学や宗教のあいだにある相違も同じようなものです。両者の違いは、ただ表現方法にあるだけなのです。

アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズは、宗教と宇宙のセオリーを次のような言葉で融合させました。

「個人的な宗教経験というものは意識の神秘的状態にその根と中心をもっていると言える、と私は考える。（中略）少なくとも私は、この問題となる状態が実在しているということを、そしてその状態の果たす役割がきわめて重要であることを、諸君に納得してもらうことができるのではないかと思う」（ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』岩波文庫、桝田啓三郎訳）

どんな宗教を信じても、悟りを開くことは可能でしょう。インドの神秘主義者シュリ・ラーマクリシュナなどは、生涯で何度も改宗を経験しました。彼はキリスト教からヒンズー教、回教へと信仰をきわめたうえで、いずれの宗教も同じ真理に行きつくことを知ったのです。

宇宙のセオリーは、テーブルに置かれたコップのうちのひとつではありません。いくつものコップに注がれたすべての水なのです。

あなたは自分自身のために、これからの探求を行おうとしています。宇宙のセオリーをたどる目的は、つねに『自分』に限定されています。その目標とは、人生の真理を知って幸せになり、あなた自身が元気な人物となることなのです。

# 人の中には「二つの自己」がある

宇宙のセオリーには、基本原則があります。ここで紹介するのはそのうちのひとつで、これから本書の中で何度も引き合いに出されるものです。これを理解すれば、何もかもがすっきりと説明がつくことでしょう。

人の中には、二人の対立する自己が住んでいます。それは、「真の自己」と「偽りの自己」です。

偽りの自己には、その人の悪いところがすべて詰まっています。嫉妬深さ、ふがいなさ、怒りっぽさ、自暴自棄、心配性、意地の悪さ、いい加減さ、思慮の浅さといったその人の性格は、幸せに背を向けるものばかりです。

宗教ではこの偽りの自己を、「悪魔」とか「罪深さ」と呼んでいます。哲学では、「低次元の本能」と考えます。心理学では、「幻想に棲むエゴセルフ」と表現するようです。

どんな名称がついているにせよ、あらゆる内的圧力の根源になっているのは確かです。そして、これが外に向かって暴発すると、戦争や犯罪などの社会的悲劇が起こるのです。

偽りの自己に乗っとられた人は、自分の人生を歩んではいません。偽りの自己に追い立てられているのです。強迫的な欲求に追いまわされ、押さえようがない自分の怒りに苦しめられ、現実ではない空想におびえています。

なぜなら、自分とこれらの恐怖との見境がつかなくなっているからです。それは、偽りの自己が本当の自分であると勘違いしているからです。そうなると、この絶望はいつ果てるともなく続きます。

しかも、そうした悪しき本性をなおそうとしても、徒労に終わるだけなのです。どんな方法をとっても改善は望めません。人がつまずくのは、いつもこの部分なのです。

「よし、偽りの自己なんか自分の力で変えてみせるぞ」と、あなたは思うかもしれません。でも、無理なことは無理なのです。偽りの自己のもつマイナス志向は、火が熱いのと同じくらいに動かすことができない事実なのです。

では、私たちにできることはあるのでしょうか?

# 幸福の壁を乗りこえる

偽りの自己を変えることはできないし、そうする必要もありません。ただし、跡形がなくなるまで消して、そこに真の自己を登場させることはできます。偽りの自己を変えようとするのは無理でも、本質的な自己に置きかえられるのです。

偽りの自己はあくまでも偽物です。それを頭に入れておいてください。つまり、実際にはないものだということです。

新約聖書では、真の自己は「天の国」だといっています。それは、より高いレベルにあるあなたの自己で、人に備わっている神の属性なのです。

そもそもこの真の自己は、だれにでもあるものなのです。では、真の自己を意識することによって、どんな可能性が広がるのでしょうか?

きっと好ましくて楽しくて、満足がいくことが、山ほど起こるのにちがいありません。

ここで取り組むべきことは、想像上の自己を跡形もなく消し去って、現実にある自分の存在を中心にして、忠実な生き方をすることです。健康になる方法は、それ以外にありません。そして、これほど確かな治療法もないのです。

難問につきあたったときに「答えがわからない」と正直に認められれば、途方もなく大きな「力」がはたらきます。手も足も出ない状態への対処を「力」に任せれば、答えに導かれるのです。

これは、糸玉をじゅうたん織りの達人のところにもっていくようなものです。この達人は糸玉を引き取って、これまで私たちが織ってきたものよりはるかに美しい織物を作り上げてくれるのです。

けれども、この呪縛を解く方法はあるのです。それについては、次の章で述べることにしましょう。

# 真の自己の発見がすべてを変える

人は、偽りの自己が本当の自分だという間違った自己認識をしています。自分は真の自己なのに、それに気づいていないのです。

深い絶望の先には、必ず偽りの自己を本物に見せかけようとする空しい努力があります。人にほめられたい、賞賛されたいという強迫的な欲求が、そのよい例でしょう。そうです、エゴイスティックな自己は拍手を望んでやまないのですが、本当は、人間はエゴセルフとはまったく独立した存在なのです。

ただひとつ責められるべき点は、真の自己を知らない、または気づかないために、自分という人間を誤って認識していることにあります。真の自己が望む生き方をすれば、それだけ苦しみや愚かさが抜け落ち、穏やかさと知恵がもたらされるはずです。

「だけど、世間は悪意に満ちているじゃないですか。そんなに素晴らしい人生が実現するとは、とても思えないのですが……」

「雑草だらけの地面でも、チューリップの球根を植えればいずれは花が咲きますよ」

偽りの自己との決別は、こんなふうにして行われます。長いつき合いでも、厄介事ばかり起こす知人がいるとします。あなたは自分の人生からこの知人を追い出そうと決心します。すると、知人は背を向けて歩き出しました。

その姿を見て不安で仕方がないのは、どんなにはた迷惑でも、他に自分と親しくしてくれる人などいないのではないかと思われるからです。けれども、そうしているうちに思いがけないことが起こります。慣れ親しんできた偽りの自己が歩み去ると、別の方向から新しい人影が現れたのです。

悪い知人が離れれば離れるほど、この新しい人物は近づいてきます。そして最後には、これが新しい信頼に足る友人、真の自己であるとわかるのです。

# 無理に理解しようとせず、とにかく読み進める

心の中に急に侵入してきた新しい考えは、それを邪魔するたくさんの要素とぶつかります。小部屋の壁に勢いよく投げつけられたボールのように、新しい考えは、硬直化したものの見方や意見とぶつかって跳ねかえります。

ここまでに本書で出てきた考えも、あなたの固定観念とぶつかっているかもしれません。新たな概念は、なにやらうさんくさくて、非論理的に思えたりもします。だとしても、いきなり結論に飛びつかないでください。そうなると、その過程で出てくる問いをいっさい封じこめることになります。

それよりは、むしろ新しい考え方を携えて冒険の旅に出て、それに慣れ親しもうではないですか。

ぜひこだわりを捨てて、本書を読み進めてほしいものです。心をオープンにして受け入れようとしてください。そうすれば、パターンに陥った思考も解放され、新たな考えを吸収できるでしょう。

とにかく、はじめは重要なことを逃さず、理解したいと望むだけでよいのです。これは頭の良い悪しの問題ではありません。だれにでも十分な理解力はあるのです。

「でも、私はすぐにめげてしまうんです」

「がっかりすることはありません。ただ単純に、まだ理解が及ばないことがあると考えるようにしてください。知ろうとする姿勢を崩さないでください。それでうまくいくはずです!」

本書にはじめて目を通すときは、違和感を覚える箇所があっても、あえて理解しようとしないで、とにかく読み進めてください。中断して、あれこれ頭をひねるのは好ましくありません。

もし満足していないなら、新しい列車に乗りこむ自分を思い描きましょう。山を登るのは十分に可能です。一時間ごとに列車は出ているのですから。

では、列車に乗って出発です!

# 第1章のポイント

[1]自由で楽しい生活をしたいと、みんな心の奥底で望んでいる。

[2]この世でもっとも素晴らしい秘密(=宇宙のセオリー)は、どんな人でもそういう人生を手に入れられるということ。

[3]その証拠に、あなたはもっと豊かになれる生き方を模索している。

[4]宇宙のセオリーは、簡単で感覚的に理解できて、しかもあらゆる分野の成功に確実につながっている。

[5]問題やわからないことに答えを見出せるようになる。

[6]真理の探求は正しい方法、つまり宇宙のセオリーにもとづいて行う。

[7]正しい知識を得て、偽りの自己を消滅させ、真の自己にそった生き方をする。

[8]解決法がわかっているような気にならないことが肝心。

[9]宇宙のセオリーをたどる探求の旅には、心を十分開いてのぞむ。

[10]スタートは、今いるその場所から。